◇ 3 ◇

 佐藤に悩みを打ち明けることで、抱えていた物は解消されたが、問題はまだ何も解決されていなかった。

 冷蔵庫は相変わらず超常現象を起こしている。

 帰省から戻り、冷蔵庫のドアを開けると、見覚えのあるような無いような、去年販売停止になったマーガリンがあった。その他の食品も賞味期限は半年以上前の十月だったりで、牛乳などはチーズになっていてもおかしくない数字だった。しかし俺は飲みさしのそれをおもむろに掴んで開けると、躊躇無く、……いや、躊躇はしつつも一息に飲み干した。

「……大丈夫だ」

 なんともない。

 飲んですぐに影響は無いだろうとか、そういうレベルの話では無いくらいに致命的で、筈常識的に考えれば、腹痛必至のその自殺行為は特に俺の身体に異変を起こさなかった。

 何も無い。それは半分予想通りだった

 佐藤の仮説では、賞味期限という意味では恐らく問題無く飲めるだろうということで、それは予想通りだった。しかし、超常現象としての方は、未知数。

 結果として、何の影響もなさそうだが、これから先のことはどうなるか分からない。何かあるかも知れないし、何も無いかも知れない。しかし、これで立証出来た。

 この冷蔵庫は、食材を食べて消している訳では無い。また、食べたものを戻したりするのでは無く、寧ろこれは……。

「時間を、戻している」

 佐藤の仮説では、この冷蔵庫は何らかの理由で、或いは理由も無く過去と繋がっている。

 今という時間から見れば賞味期限を優に過ぎた食べ物でも、たった今、今に来たばかりの食べ物の賞味期限は過ぎていない。

 これでもう冷蔵庫は怖くない。理屈はさっぱりだが、概ね心霊現象の類いで無いということだけは分かった。問題は何一つ解決されていなくとも、対処は出来るということだ。

 しかしこれからは、特に賞味期限だけを気にするのでは無く、見極めて食品を選ぶ必要がある。かつての自分が賞味期限切れの物をそのまま放置していたとすれば、やや面倒なことになるからだ。

 しかし、世の中には不思議なこともある物だ。だから、捨てたものではないのかも知れない。

 そんなことを考えるとも無く考えていると、開けっ放しにしていた冷蔵庫がピーッピーッ!と苦情を訴えだした。

 俺は冷蔵庫の扉を閉めると、しかしすぐに開けた。

「やっぱり」

 そこにはなんと、つい先刻飲んだばかりの牛乳があった。

 傷、凹み、汚れ。ほとんど同じ賞味期限が刻印されたその牛乳パックは、並べてみるとよりはっきりとこの現象の異様さを醸していた。

 同一の牛乳パックが並んではいるが、それは全く同じでは無いようで、そのことは、口が開けられていないことからも分かった。また、冷蔵庫に起きた変化はその牛乳だけでは無く、先程開けたときには無かった食材や、あった物が無かったりした。

 それからというもの、この冷蔵庫の引き起こす現象に馴れていった俺は、次第に違和感を薄れさせていった。これを当たり前の物として受け止め、生活の一部にすることは、案外難しいものではなかった。

 ただ、その中で一つの疑問が浮かんだ。

 冷蔵庫から何かを取り出すことに関する仮説は概ね実証し終えているが、物を入れたときのことは正直よく分かっていない。

 以前に、買い溜めが消えて戻ってきたのは、空っぽの過去と繋がったことによる現象だったが、その間、中身の方は一体どうなっていたのか。その仮説を佐藤は立て忘れていた。

 中に入れた物は一体どうなるのだろう。

 それを考えたとき、何か寒気がしたのは漏れ出した冷気のせいかもしれないが、何かそれとは別の感覚が生じた気がしたのは何のせいなのだろう。


 九月に入った。

 今という時間が九月であるし、冷蔵庫の中もまた昨年の九月に差し掛かっていた。

 今月は冷蔵庫の中身が以前よりも少ないため、時々買い物に行く必要があった。

 買い物袋を冷蔵庫の前に下ろすと、ドアを掴んだ。すぐには開けず、少し息を吸ってから開ける。

「よし、当たり」

 俺はそこに販売停止のマーガリンが無いことを確認すると、袋の中身を詰め込んでいった。

 どういう理屈なのかは相変わらず不明だが、開けるタイミングによって現在の冷蔵庫と、過去の冷蔵庫とが入れ替わることが分かった。最近では、なんとなく感覚を掴み、七割の確率で狙った方を開けることが出来る。

 これもなんとなくではあるのだが、過去の冷蔵庫の時間が少しずつ短くなっていっているらしい。あの日が、終わりが近いからなのかも知れない。

 この冷蔵庫は、時を遡っているが、そこには明確な果てがある。この冷蔵庫が動き出した日。それが明確な最後の日であることは言うまでもない。

 その時を迎えたら、果たしてこの冷蔵庫はどうなるのだろう。普通の冷蔵庫に戻るのかも知れないし、今度は未来の冷蔵庫になるのかも知れない。或いはそれ以外のことが起こるのかも知れないが、それは俺にとって楽しみでもあり、不安でもある。

 何に対しての不安であるのかは、分かっている。

 きっと俺は、この不思議な現象に期待を抱いているのだ。でも、そんな馬鹿げたことを実践する勇気は、今の俺には無かった。

 過去の俺、未来の俺にはあるのだろうか。


「決めた」

 九月も半ばになり、冷蔵庫は恐らく八月に入っている。賞味期限を見るに八月二十三日前後だろうか。

 ここのところ冷蔵庫の中身は殆ど空っぽで、この頃の俺がどんな生活をしていたのか、嫌でも分かってしまう。

 そして思い出されるのは、あの日のこと。

 俺は佐藤の立ててくれた仮説の上に、幾つか仮説を重ね、大凡のところでこの現象を理解し始めていた。と言っても、相変わらず理屈は分からない。或いは分かる必要も無い。そう思い始めている。

 そして確信している。

 あと数回で、この不思議で奇妙な日々も終わるのだと。

 俺は最近、冷蔵庫の前で過ごす時間が長くなった。過去の冷蔵庫の間隔が短くなり、いつその時が来るのか分からないからだ。

 今日は違う、明日も違うかも知れない。明後日はどうだろう。そうやって過ごしているうちに、その時は来た。

 ドアに触れていて、はっきりと分かった。

「来た」

 俺はドアを引いた。感覚が少し重いような気がする。

 この日もドアポケットには何も無く軽い筈だったが、なかなか開かない。気持ちに引き摺られてせいだろう。力を込めて一気に開いた。

 中身はやはり殆ど空だったが、上から二段目、そこにだけは、ある物が置かれていた。

 月のように淡い色味のスポンジを、雪のように白く滑らかなクリームが包み、炎と氷を混ぜ合わせた結晶のような苺が色を添える、簡素だがしっかりとしたケーキ。そこにはチョコレートで出来たメッセージプレートが、墓標のように刺さっていた。

「誕生日、おめでとう」

 その文字を見た瞬間、涙が零れた。

 書かれている名前は俺のものではない。そしてもう、誰のものでもない名前だ。

 俺はケーキを取り出すと静かに外に置いた。

 思ったよりも時間が経っていたのか、早くも閉めろとばかりにピーッピーッ!と音が鳴り始めた。しかし俺はドアを開け放ったまま、冷蔵庫の棚を外し始めた。

 異常事態とばかりに泣き叫ぶ冷蔵庫を無視して、一段目、二段目、三段目、チルド室の板を、外せるだけ外し、ついでにドアポケットのプラスチックも外した。

 これで良い。

 何も無くなった冷蔵庫の中には、人が一人入れそうなスペースがあった。

 未だ鳴り響く冷蔵庫の警告音に、心臓の拍動が重なる。

 後悔、するかも知れない。いや、自分が今何をしようと、きっと後悔することになるのだ。ならば、この瞬間にやりたいと思ったことをすれば良いのだ。

 俺は冷蔵庫に片足を踏み入れた。

 ふと、ケーキを置き忘れていたことを思い出し、取りに戻る。

 先程まで、侵入を拒むようにさえ聞こえた警告音やオレンジの光が、何だか「早く入れ」と言っているように思えてくると、自分の限界を微かに悟った。

 俺はケーキを抱えたまま冷蔵庫の中に身体を納め、そっと扉を閉めた。

 中は真っ暗で、不気味に静かだった。どこか遠くから「うーん」という音が響いてくるばかりである。

「これで良いんだ」

 誰に言うとも無く呟いた声が、この小さな箱の中で幾つも反響して自分の耳に折り重なって戻ってくる。いつ発した物かさえ分からないそれは、正しく自分に語りかける声だ。

「これで良いんだ」

 冷気がしんしんと手足を冷やし始め、少しずつ空気も薄くなっていく。

 頭がぼんやりとするのは、あまり眠れていなかったせいなのだろうか。

 少しお腹が空いたような気がするが、このケーキはまだ食べられない。

 目を開けていても瞑っていても、目の前には闇が広がっていた。手も足もケーキも、何も見えず、闇さえ或いは見えていないのかも知れない。

 一体どれくらい時間が経ったのか。

 一時間ほどのような気もするし、一年ほどのような気もする。一年、経っていたらどんなに素晴らしいだろう。そんなことばかり考えていた。瞼の裏には宇宙が広がり、耳の奥では誰かが歌っている。この声を俺は知っている。きっと、この声は――。

 俺はあの扉を開ける夢を見る。

「誕生日、おめでとう」

 この声がいつ響いたものなのか、どこに響いたものなのか、俺は知らない。

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