◆ 2 ◆
それから三日ほどの間は特に変わったことも無く時が流れたように思えたが、よくよく考えてみると変なことも幾らかあったかも知れない。
冷蔵庫に入れた筈の物が無かったり、入れた記憶のない物があったり、極端に古い物があったり。やはり、首を傾げることはあったが、別段深く気にすることでも無いんじゃ無いかと思って、帰省した際、丁度良い笑い話とばかりに地元の友達に相談したら、心底気持ち悪がられた。
「お前それ、心霊現象だろ」
体感二度は周囲の気温が下がったような気がしたが、高校時代から通い慣れたこのファミレスの空調が相変わらず効き過ぎるだけのことだろう。その肌寒さに、どうもあの冷蔵庫のことが思い出された。
「ちょっとコーヒー入れてくるわ」
そう言って立ち上がると、ドリンクバーにコーヒーを淹れに行く。俺の分もと頼まれたので、ついでに友達のも淹れていくと「ホットかよ」と嗤われた。
彼は俺が適当に掴んできた砂糖とフレッシュを増し増しに全て投入した。甘いコーヒーをこよなく愛するので、この男のことは仮に『佐藤』としよう。佐藤は俺の話をうんうん言いながら聞いていた。
それが冷蔵庫のような低い唸りに変わるのにそう時間はかからなかった。
「お前、そうやってすぐ思考が冷蔵庫に流れていくけど、絶対気にしているだろ」
そうかも知れない。
ずばり言い当てられた俺は、佐藤に何か寒い物を感じた。
「お前、怒るぞ」
怒られた。
俺が肩を竦めると、佐藤の表情は水のように平らになっていた。
思えば昔から佐藤はこうしてよく俺の心の内を見読んでいたが、一体どのような仕組みなのだろうか? 皆目見当もつかない。
探るような俺の視線を嫌ってか、佐藤は顔を伏せていた。いや、コーヒーカップの底で溶け残っているスティックシュガーの細かな粒をスプーンですりつぶしているだけか。
「それで、お前どうすんの?」
甘い甘い半液体にスプーンを突き立てて、零すように言った。
「何が?」
「その冷蔵庫」
捨てる?
「……いや、けどなぁ」
不気味ではあるが、それが捨てるほどのことなのかと言うと、俺に判断がつかない。
「捨てる理由には十分だろ」
「でも、心霊なんて不確かな理由で処分して良いのか? もし冤罪だったらどうするんだよ」
佐藤は呆れたとばかりに、プリウスに抜き去られたランボルギーニのような顔をしていた。
「お前、冷蔵庫に温情掛けてどうするよ」
「だからって冷たい言葉を掛けて良いのかよ? お前はもういらないなんて俺の口からはとても……」
「そもそも、なんで冷蔵庫に話しかける必要があるんだよ」
黙って捨てりゃ良いじゃ無いか、とばかりに佐藤はスーパーカブにまで抜かれたような顔をした。それはもはや、路肩に止まっているのかも知れない顔だった。
「別にお前の家の冷蔵庫がどうなろうと、お前がどうなろうと知ったことでは無いけどさ、お前、なんか変わったぞ?」
屋根の上にひょこっと回転灯が飛び出したように、俺の身は震えていた。
そんなこと無いって。そう口にするだけの簡単なことが、俺には何故か出来なかった。代わりに俺は、トンネルの中のカプチーノみたいに神妙な顔をして冷めたコーヒーを啜り「実は髪切ったんだ」と言った。
佐藤は、そんなとぼけた台詞に露骨な苛立ちを見せ、もう良いと言って席を立った。
どうでもいいことだが、切ったのは本当だ。ただ、今の俺は最後に佐藤と分かれた頃とほとんど変わらない髪型をしている。だからといって何も変わっていないのかと言えば、そうでは無い。髪を切るというのは変化であり、髪が伸びるというのもまた変化である。髪型を維持することで、見かけ上は何も変わっていなくとも、佐藤と最後に会った時と同じ髪はもう俺の頭に残っていない。そういう意味では、あの頃とは全く変わっている。 髪を切り続けなければ同じ姿でいられず、髪を切り続ければ目に見えないところが変わっていく。人が変わらずにいると言うことは可能なのだろうか。
大体そんなことをぼんやりと考えていると、佐藤は戻ってきた。その片手にはグラスに入ったコーラ、片手にはガムシロップを持っていた。
まさかそんな筈はあるまいが、いれるのかと訊いても、お前には関係ないと言ってきかなかった。
果たしてそれは投入された。
夜の海とは違った黒さを持つ液体に、粘り気のあるそれが、水中に生じた歪みのように流れ込んでいく。佐藤はストローでカオスを作り出すと、何も言わずに一口飲んだ。
何か言えよと思ったが、食レポを期待していたわけでは無い。それに別段聞きたくもない。どうせ甘いのである。甘いに甘いを足しても甘いのだ。辛くなったり酸っぱくなったりするわけは無く、チャリンコに併走するランボルギーニのように、佐藤も物足りないといった表情をしている。
それからしばらくはお互いに何を言うことも無く時間が過ぎていった。
俺は、冷め切ったコーヒーの黒い液体に浮かぶ埃か油膜を液上で揺らし、佐藤は氷が僅かに溶ける度にストローでそれを吸い上げている。そして、幾らかの時間が過ぎて氷が全て溶けきると、佐藤はそれを飲み干した。
そして漸く、佐藤は再び口を開いた。
「なんか、思い入れでもあんのか」
その問いかけは、予想していなかった。
思い入れ? 冷蔵庫に対して自分が何を思うというのだろう。あの現象に対しての感情はあるが、冷蔵庫を思っているかなんて、考えてみても今ひとつ分からなかった。
無いことは無い。あるにはある。いや、あるのだろう。機能性だろうか、形だろうか、色だろうか、それとも、うーんというあのうなり声だろうか。
どれも嫌いでは無い。無い筈だ。そんな曖昧な愛着が頭の隅を走り去っていくばかりである。
「その話、なんか要領を得てないんだよ」
「何が?」
「なんか隠そうとしてないか」
お前。と、佐藤は伏し目がちに、或いはロービームのような目で睨みつけてきた。
「そういえばお前、去年帰ってこなかったよな」
「去年の帰省と冷蔵庫に、一体何の関係があるっていうんだよ佐藤」
佐藤は『佐藤』という俺の言葉に一瞬眉を動かしたが、後に続いた「入れすぎなんだよ砂糖」という苦しい台詞で、なんとか納得した様子だった。
「関係があるか、なんて知らねえけど、一昨年帰ってきた時は全然普通だっただろお前」
「普通……」
では無いのだろうか、今の俺は。少なくとも佐藤の目にはそう映っている。俺は髪型だってあの頃と同じで、何も変わっていない筈だ。それでも、佐藤は俺に向かってライトを浴びせた。
「お前、去年なんかあったんじゃ無いのか?」
真っ直ぐなハイビームから逃れるように、俺は思わず顔を伏せた。
その先で揺らぐコーヒーカップの中には、自分の顔が反射していた。それは、運転しているときにルームミラーに映った自分が目に入ったときのように、見ようとしていない自分という物がふと見えてしまうようなものだった。
取り繕い難い、しかし何かを誤魔化そうとする、ガムテープの貼られた事故車のような顔だった。
「なぁ、どうしてそういう話になる?」
きっと、空調が効き過ぎているせいだろう。流れた汗は冷たくなって、頬を滑る。
「一昨年さ、また来年って言って別れただろ。なんで帰ってこなかったんだよ」
佐藤は追い縋るように、いや追い詰めるように、問いを重ねた。
何故帰らなかったのか。そう問いかける佐藤の目は鋭く、嫌に光っていて、その怒りの強さが見て取れた。
違う、そうじゃない。
「心配してんだよ俺は」
佐藤は一つ瞬きをしたかと思うと、目線はそのままに瞼を開けること無く見ていた。その様子が、何だか仏のようで、見られていない筈なのに、見透かされているように思えて腹が立った。
しかし俺は何に腹を立てているのだろうか。
佐藤はゆっくりと目を開けて、俺を見た。それは随分とゆっくりした動きだったが、瞳の奥は細かく揺れていて、何かを考えていることが見て取れた。しばらくそれはぼんやりと膨らむように揺れ続けていたが、ふっと収束して、何か目的地を見定めたようだった。
「話してみろよ、その為に来たんだろ?」
その瞳の光は決して強くなかったが、フォグランプのように存在感のあるものだった。
佐藤は俺の言葉を待つように、じっと固まっていた。
気が緩んだのでも無い。しかし、俺の口は綻び、その言葉は流れ出た。
「冷蔵庫」
「何?」
「俺が、したかったのは、冷蔵庫の話だよ。冷蔵庫。変なことが起こる冷蔵庫なんだ。それ以外のことなんて、去年のことなんて……」
何があったかなんて、この男に話すつもりは無い。無い筈だった。けれど、もう何か言わなくてはならない気になっている。気になって仕方が無いのは、冷蔵庫では無いのだと、油断していると零してしまいそうだった。
佐藤は促すでも無く、じっと待っていた。ドアを開けて、分かっていると言うような顔で、一緒に話すのを待っていた。
潮時かも知れない。
一人で行くにはそろそろ限界だったんだ。
「俺はお前の話を聞いてやる」
「どうして……?」
どうしてこいつはこんなにも気が付くのだろうか。優しいのだろうか。一体どうしてなんだろう。
それに対する佐藤の答えはひどく簡潔だった。
「どうしてって、俺達」
友達だろ。
その言葉に俺は、耐えきれず去年に起きたことを洗いざらい吐いた。
それは、驚く程に気持ちよく、爽やかな朝のドライブのようだった。
全て語り終えた時の俺は、恥ずかしながら涙に濡れているどころか、溺れていて、店員さんが心配そうに窺うレベルで泣いていた。号泣である。
成人してから泣いたのは、これが初めてだった。
一年分の涙、なんだろう。
そんな俺を見ても佐藤は引くこと無く、自身も少し目を潤ませていた。
佐藤は気遣う様子で、飲み物はいるかと言って席を立ち、その間も俺は泣き続けていた。
なんていう様だ。
それでも、佐藤が戻ってくる頃には止めどない涙を意地で堰き止めて、平静を装った。そんな俺をからかったりはせず、両手にコーラを持った佐藤は慈しむように俺を見ていた。
「飲めよ」
そう言って差し出されたコーラの味はきっと一生忘れられないだろう。
アスファルトに塗り込められたタールのように重厚な砂糖が、ぐずぐすに腐って液体になった大蛇のように舌へと絡みつき、喉を犯し、歯という歯の隙間を蹂躙した。飲み下した後に残ったのは、猛烈な歯の軋みとやけにぼやけた現実感だった。
俺は、猛烈な吐き気に襲われたが、もう既に洗いざらい吐いていたおかげで助かったのかも知れない。
佐藤は眉一つ動かさずにそれを飲み干すと、虫歯一つ無い健全で綺麗に並んだグリルのような歯を見せて微笑んだ。
「元気、出たか?」
俺は、頷けなかった。
グラスの中では、溶けきれなかったシロップが蠢いて見えた。
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