藍よりとおく、青よりちかく。
音佐りんご。
◇ 1 ◇
その時は、それを大した問題とは思っていなかった。
「あれ、この牛乳きのう飲まなかったっけ……?」
冷蔵庫を開いた俺は、ぼんやりとしたオレンジ色の室内灯に照らされたドアポケットに収まった、白い紙パックを手に取った。
八月八日。
そこに書かれた賞味期限は一昨日、より正確には更にもう一日前のものであったが、そんなことはどうでも良くて、ここにある筈のない物であることが気がかりだった。
いや、まさかそんなわけもあるまい。喉の渇きから、ベッドを抜け出してきたせいということもあるのだろう。きっと寝ぼけていて記憶違いをしているのだ。
目の前にあるパックにはなみなみと牛乳が残っているらしく、振るとそれなりに重い音がする。
一日はセーフ。でも二日過ぎると何か良くないように思えて捨ててしまう。昨日までは飲み物だったそれが、途端に得体の知れない何かに変わるのだ。
俺はパックの口を開けると、自らの口に流し込むことも無く、そのまま銀の流し台へと白い河を作った。排水口がごくごくと音を立てて、かつて牛乳だった(或いは今も牛乳なのかも知れない)何かを飲み干す。へばりついていたらしい黒ずんだ人参の屑をどこからか浚って溺れさせるその流れは、薄暗がりの中でも不気味に白く光って見えた。
人参を残して全て流れた後に残る、白濁とした粘り気と絡みつくような生臭さを、蛇口を捻って押し流した俺は、手を柄杓にして水を口にした。
口で水を、鼻で空気をかわりばんこに飲み下す。
カルキと鉄の混ざった、図工の後の手洗い場のような臭いが胸一杯に満ちる不快感を伴ったまま、水が身体に廻ったせいか少しはっきりとした意識を連れて再びベッドに横臥した。
まだ熱帯夜が続いているらしく、それからしばらくは、生ぬるい扇風機の風に当たっても、なかなか眠ることが出来なかった。
漸くうとうとし出したと思えば、隣人がトイレを流す音でまた覚醒し、更に水圧の影響で締めの甘かった蛇口から雫が滴り始めた。
初めのうちは鬱陶しく止めに行こうかとも思ったが、これが案外呼吸のリズムに嵌まったらしく、気が付くと意識は次第に混濁し、冷蔵庫の明かりに似たぼんやりとした色に染まっていった。
先程起きたことを思い返してみたが、眠気に包まれた意識の中ではしっかりとピースが嵌まった状態で流れていき、どうやら勘違いらしいということで納得していた。
昨日、いや正確には日を跨いで一昨日に、俺は八月八日の牛乳を飲み干したと思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、それとは別に牛乳はもう一本あって、それを飲み干したのでは無いだろうか。
そう考えると辻褄が合う。
つまり、八月八日の牛乳と同時に、それ以外の牛乳、例えば、八月九日か八月七日の牛乳がドアポケットには収まっていて、八月九日に飲んだのは、本来飲むべき八月八日のものではなく、八月八日のものと間違えて飲んだ八月九日乃至八月七日の牛乳を飲んでいるということもあり得て、可能性の話をするならば、日付は必ずしもその二つでは無く、八月八日が二本あったかも知れないし、八月十日や八月六日のものということも考えられて、いやしかし、だとすれば、八月九日に八月七日以前のものを間違えて飲んでいたのであれば、そう考えると、少し、腹が痛くなってきたように思えて、色々思考を混線させるうちに、気が付くと俺は眠っていたらしい。
確か、最後に考えていたのは、流し終えた後の牛乳パックをどのように処分したのかということだが、翌朝には八月八日の紙パックは流し台のどこにも無かったが、しっかりと洗って開いて干してレンジの横にまとめられていた。
俺は不思議に思いながら、しかし寝ぼけた状態でよくここまでやったなと、ただ自分を褒めた。
この冷蔵庫は昨年の八月半ばに、ある事情でうちに来た。
狭いワンルームの一角でうんうんと唸りながら、ちんまりと納められた食品及び目薬や湿布薬を冷やしている。こいつは俺と同じで常にハングリーで、十全に機能を活かされること無く、飼い殺される運命なのかも知れない。
しかし幾ら常にハングリーと言っても、月に一度くらいは満腹になる日がある。
俺は習慣として、月の中頃には大量に食材を買い込んで、冷蔵庫に押し込むということをやっている。これは買い溜めであると同時に、冷蔵庫にひもじい思いをさせないための儀式であり、或いは供養のようなものである。
それを昨日俺は完遂した。完遂した筈であるのだが。
「おいおい、いくらハングリーだからって、いくら何でも本当に食べちゃうのは――」
無いだろ。
いや、無い。何が無いと言うと中身が無い。
昨日買い込んだ筈の牛乳も、ハムも、チーズも、ベーコンも、豆腐も、ソーセージも、ほうれん草も、鯖も、玉葱も、蒲鉾も、マーガリンも、味噌も、醤油も、うどんも、卵も、鶏胸肉も、もずくも、チオビタドリンクも、餃子も、豆板醤も、味覇も、なめこも、大根も、生姜も、ニンニクも、Vロートプレミアムも、めんつゆも、フェイタスZαも、ツナ缶も、カルピスも、沢庵も、脱臭炭も、カフェオレも、鮭フレークも、ごはんですよも、きくらげも、中にあるべき何もかもが無かった。
ともすれば俺以上に中身が無い。
「おいおい、誰の中身が無いって?」
そんな雑なセルフノリツッコミをして、更にしらけたことが冷静さを取り戻す切っ掛けになったのか、或いは、開けっ放しの冷蔵庫から漏れ出してくる冷気が物理的に頭を冷やしたおかげなのかは知らないが、とにかく、落ち着いて冷蔵庫の中身を検めてみたが、そこには、何も無く空っぽの冷蔵庫が寒々と口を開いているだけだった。
「冷蔵庫だけに、寒々と」
そこで、ピーッピーッ! と音が鳴り、すわ爆発の警告かと身構えたが、何のことは無い。冷却機能の低下を防ぐために扉を閉めろということだった。
俺はその音に急かされるまま、慌てて扉を閉めてみたが、果たして腐る物も、そうでない物も何も入っていない冷蔵庫の扉が開きっぱなしで何が困るというのだろうか。
困っているのは、だから、何故その中身が無いのかということだが、理解不能だ。
冷蔵庫が肉や魚や野菜を食べるだろうか。フェイタスZαを食べるだろうか。ツナ缶を缶ごと食べるだろうか。
答えは否だ。
であれば、自ずと空き巣に入られたというような結論に至るものだが、どこに脱臭炭を盗んでいく泥棒が居るものか。
「お前、電気だけじゃ腹膨れねぇなら言ってくれよ」
語りかけた冷蔵庫は、額を当てると妙にじんわりと暖かかった。
それから何度かドアを開けてみたが、食材が戻るようなことは無く、冷蔵庫の中はやはりがらんどうのままだった。
その日は諦めて米を炊き、振りかける筈だった鮭フレークを想いながら、おかずも無く、寂しい晩餐を終えた。
翌日、気を取り直して買い溜めをして、るんるん気分で冷蔵庫のドアを開けると同時、言葉を失った。
「かッ……!」
空っぽの筈の冷蔵庫。誰かさんの頭蓋骨もかくやと言うほどの冷蔵庫にはしかし、どういうことか、食材がぎちぎちに詰まっていたのだ。
つまり、一昨日買い込んだ筈の牛乳も、ハムも、チーズも、ベーコンも、豆腐も、ソーセージも、ほうれん草も、鯖も、玉葱も、蒲鉾も、マーガリンも、味噌も、醤油も、うどんも、卵も、鶏胸肉も、もずくも、チオビタドリンクも、餃子も、豆板醤も、味覇も、なめこも、大根も、生姜も、ニンニクも、Vロートプレミアムも、めんつゆも、フェイタスZαも、ツナ缶も、カルピスも、沢庵も、脱臭炭も、カフェオレも、鮭フレークも、ごはんですよも、きくらげも、中にあるべき何もかもが所狭しと詰め込まれていたのだ。
「かかかか、かみ、かみ神かか隠しだったのか!」
俺は、冷蔵庫とほとんど同じ内容の食材+フェイタスZα他の入った袋を、思わず取り落とした。
しばらくぼんやりと、食材の壁に遮られて弱々しくなったオレンジの光を眺めていた。
やがて、ピーッピーッ! と音が鳴り、すわ爆発の警告かと身構えたが、何のことは無い。冷却機能の低下を防ぐために扉を早く閉めろということだった。
俺はその音に急かされるまま、慌てて扉を閉めてみたが、果たして腐る物も、そうでない物も何もかもしっかり入っている冷蔵庫の扉を前にしてみて、自分は今、一体何に困っているというのだろうか。
困っているのは、だから、何故その中身が入っているのかということだが、それ以上に、過剰に買ってしまった食材をどうするのかということだった。
「お前、戻してんじゃねぇよ、謙虚か」
語りかけた冷蔵庫は、額を当てるとやはり妙にじんわりと暖かかったが、蓋を開けてみれば、腹の中は冷たいということを俺はよく知っていた。
それから何度かドアを開けてみたが、やはり中身は増えもせず消えもせず、嘘みたいに食材がどうにかなるようなことは無く、冷蔵庫の中はやはり嘘みたいにぎっちぎちのままだった。後から食材を詰めようにも、結局、ハムとチーズや細々とした食材+フェイタスZαその他が隙間にめり込んだくらいで、大部分の食材は行き場を失って、比較的空いていた冷凍庫に、通勤ラッシュのごとく雪崩れ込むに終わった。
その日はご米を炊くのを諦めるくらいに、食材が溢れ、振りかける筈だった鮭フレークを、これでもかと振りかけて、おかずも鯖と唐揚げ、野菜もりもりという、普段の二倍以上豪勢な晩餐を迎えることとなった。
今宵の俺達は、ハングリーと呼ぶには程遠く、心なしかいつもより鈍い唸りを上げていた。
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