第8話 井戸の入り口

【遺書代筆・8】

「占いできるんですよ、わたし」

 知っている。よく外れると話題だ。

「失敬な。外してるんですよ」

 頬を膨らませ、雨傘制は怒る。大層なことだが、しかしその理屈には穴がある。

「貴女の占いが本当に当たるなら、もうとっくに網島修理に会っているはずでしょう」

「鋭いですねえ」

 褒める言葉と裏腹に、雨傘制の目は諫めるように固い。

 雨傘制と網島修理が初めて出会ったのは、彼がまだ中学生だった頃。

【何事か】があったらしい。

 けれどもその【何事か】を聞こうとすると、彼女はまるで子どものように意地を張る。宝物は自分だけの物にしたいんです、などと宣った時には張り倒してやろうかと思った。

 そしてそれ以降、奴と彼女は一度も出会っていない。

 そう、魔性の酒のように惹かれ焦がれている癖に、雨傘制は網島修理と目を合わせたことは一度しかない。

 たった一度しか会ったことのない人間に恋をした。

 これは恋だ。愛ではない。

 私とよりも齢を重ね、想いを重ね、しかしその少女性は今も瑞々しく頬を染めている。

「わたしの占いはね、悪いものばかり見えるんです」

 雨傘制は片手を挙げた。通りかかった同僚に挨拶したようだった。

 手の線は、細かく層を重ねている。

「知ってしまえばそれだけで嫌な気分になって、叫びたくなるようなこと。生きていれば、あるじゃないですか。そういう事」

【そんなのばっかり】

 呟いた彼女の目は濁っていた。見慣れた色に嗚呼と悟る。

 彼女もまた、雨傘制の占いによって心を腐らせている人間の一人なのだ。

「わたし思うんです。本当のことで人を傷つけるくらいなら、嘘でいいじゃんって。救ってくれるなら、伝承の奇跡でいいし、偶像でいいし虚像でいい。信じたいものをみんなで信じましょう。それでハッピーに──」

 彼女は何かを磨り潰すように両手を合わせる。手相は影の中へと消えた。

「エンドです」

 終わってる、ってやつですね。そう付け加えて相好を崩す。

 だから網島修理を好むとでも言うのだろうか。だから人は網島修理に近づきたいと願うとでも言うのだろうか。

 やはり私にはわからない。

 完璧な黒白に冴えた境界線、時間を引き延ばしてできた無数の空間の対岸で木偶と立つ。

 風を受け、指鉄砲を差し出し合った。

 対極では近すぎたから、お互いに目を逸らす。

 そんな幻覚は微かな首の角度で転がって、何処かへと消え去った。

「だからみーんな、しゅーくんのことが好きなんですよね」

 そして紅茶色の髪を嬉しそうに揺らし、雨傘制は一番の笑顔を惜しげもなく晒す。

 偶像でも虚像でもいい、などと言った人間の笑顔は、随分と白く、真だった。






【詐欺師・8】

 無限の星の放つ光の水勢が、覆う影の全てを雪いでゆく。そうして雑多な全ては銀河の風が連れ去って、此処に残るのはかつて海底に沈めた宝物。

 思い出すのは過去のこと。取り返しのつかない失敗のこと。

 星にだって知られたくはない生涯の輝かしい汚点。俺が俺であったということ以外の全てが美しく整っていた、感動に満ち溢れた光景。


 ナツメへの三度目の返金の際。彼女が引っ越したことを知り、じゃあこの金はどうすればいいんだろう、などと途方に暮れる俺を拾ったのはシングルマザーの女だった。名を秀子さんと言う。

 温かい飯をいただいて、娘さんと遊ばせていただいて、家事も教えていただいて。厄介なご近所付き合いだって万全にやろうと腕まくり。やることなすこと全部全部が、共に生きる人の生活へと繋がっている。ああ、心の底から幸せで、替えなど効かないほど楽しい日々だった。あまりに久しぶりな家族の温かさに、一人泣いた。

 何宿何飯の恩を返せばいいのか、わからない。

 ただ、当時の俺は高校生(休学中)という大層みすぼらしい身分だったので、出来ることなんて当たり前に少なくて、無駄に負担になることなどできなかった。

 共に背負うには幼く、脆く、弱すぎた。

 言えばきっと止めるだろう。優しい人だ。俺の為に嘘を吐くだろう。

 それは──駄目だ。

 だから金を置いて消えた。黙って消えた。

 塵と、霞と。


 今日から無一文である。さて何をしようと、炎天の真下早くも途方に暮れた俺は、まあとりあえず働いた。秀子さんに習った節約術は心得ていたし、それらは今でも生活の知恵となっている。せっせこ働いて明日の物資にも困っちまえば、余分な幸福なんて望む隙間は在りはしないのではなかろうか? 愚かな愚か者は愚かにもそんな愚考に脳髄を浸したのである。

 社員寮付きの肉体労働のバイトを見つけたので、そこでお世話になることにした。正直に言えば結構な地獄だった。此処に鬼がいれば地獄の底とも相違なかろう。しかして鬼どころか仏みたいな人たちが同僚だったもんだから、辞める気には中々ならなかったし、逆に言えば逃げられん。迷惑をかけたくないなと思えるほど、職場の人たちは好きだった。

 秀子さんたちのことを忘れようとして、けれども眠れば二人は必ず現れる。嫋やかな笑みと温かな風景。そしてそんな麗しき眺めに汚点が一つ、俺だった。

 夢の中、俺の存在が少しずつ消えてゆく。燃え残りの灰がほろほろ解けてゆくみたいに、少しずつ……

 そんな夢を見た次の寝覚めは、気持ち良くって仕方が無いのだから俺は弱くって甘ったれで──弱過ぎて甘え過ぎだった。

 そんな生活が二ヶ月ほど過ぎて、けれども頭の中身の整理は追いつかない。未だに同じ夢を見ていた。俺の中の秀子さんが日に日に美人になってゆく。

 自分の処理能力の悪さを恥じて、少しでも勉強しようと新聞を読み始めた。働き先の社長が読み終わったのをくれるのだ。秋冬は焼き芋に使うから春夏限定のおまけである。

 炎天下死ぬほど働いて、休憩時間に新聞を読む。何だろうな、自分が真人間みたいな気がしてきて、そんな甘ったれた自惚れに浸っていれば、少しだけ今までの辛いことも忘れられるような気がしていた。姉さんが死んだことも。親のことも。ナツメのことも。秀子さんたちと別れたことも。

 歪に円い日々を過ごし、少しずつ社会復帰的なあれこれを目指す最中。ある日いつものように社長が置いて行った新聞をめくっていた。

 とんでもないことが起きたならば、世間は大騒ぎするだろう。けれどどうにも世俗は穏やかに凪いでいたのだから、きっと大事は何も起きていない。今日も秀子さんの夢を見て、明日ガシガシ働いて、日常は延長してゆく。

 そうして何時しか立派な男になったならば──

【迎えに行きたい】

 だなんて

 大それたことを考えていた気がする。

 思い返せばあの日は時計の針すらうるさいくらいの静寂で、蝉の声だって落ち着いていた。カナカナと鳴って、遠投した声が弧を描き地に触れる。そんな心象が世界をふわふわ揺らしていた。

 だから予想なんてしなかったし、降ってくる槍を防げる人間は誰もいない。

 灰色の世界が、こんな薄っぺらい紙の束の中に詰まっていた。政治も経済もわからないけれども、何時か役に立つと信じて頭の体操。何も分かっちゃいないのに、意味ありげにふんふん頷いてみたりして、莫迦が一匹ページをめくった、そこに

 どうにも見覚えのある名前


 心中だった。

 消えなければよかったんだろうか。

 逃げなければよかったんだろうか。

 共に背負いましょう、頑張りましょうと、こんな汚れた口元を、しかし拭って隠して、謳えばよかったのだろうか。

 知らなければ、失う恐ろしさなど知らずにいられる。座っていれば疲れない。行かなければ、戻る苦労はずっと近い。

 出会わなければ別れなくていいのに、

 わかってる。わかっているよ姉さん。

 こんな腐った思考は、頭の中に閉じ込めなければ駄目なんだ。こんなものは、外の世界へと甘えた瞬間、嘔吐という形容があまりにも相応しい穢れた行為となって現出する。

 そんなのダサい。誰かの理想じゃない。キモチいいのは俺だけで、しかも俺がキモチよくなっても、代わりに誰かが幸せになる訳でもない。じゃあ意味が無い。

 わかってる。

 わかってるんだ、





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