第5話【何者の家族】

【詐欺師・6】

 瑠璃の部屋は異常だった。

 室内は水のような静寂に満たされていた。なに故か【冷蔵庫】という単語が頭に浮かんで消えやしない。そう、時間が停止しているのだ。もしくは死んでいる。生きている気配がまるでしない。机も無ければベッドも無い。照明も同じく見当たらす、屋根の下と思えない薄闇の最中目を凝らす。

 一般的な家具はと言えば、一脚の豪勢な椅子が部屋の隅で大人しくしているばかりだった。盲目には余計な家具を増やしても邪魔なのかもしれないけれども、それにしても生活感というものが欠片ほども落ちていない。

 そして女の部屋にはもう数えきれないほど入ったけれども、そのどれとも違う異質な物がそこにはあった。球体が水平の上で滑るような、掴めない吐き気が傾いた。

 タテヨコ五メートルはあろうかという巨大な箱庭。

 ミニチュアの町。

 指先ほどの樹木は葉の一枚から作り込まれ、柔らかな葉肉までもがつぶさに観察できた。電柱はマチ針のように等間隔に並び、電線は計算された配置を崩さない。そして夥しい数の人家は全て形と色が異なっていた。嗚呼バリエーションも豊かだ。個人の意匠を凝らしたかのように。

 坂の上のお化け屋敷、下った所の商店街。異常に膨れた既視感が、食道を逆流するようにボルテージを上げてゆく。

 そして一際目を惹いたのは、町の隅に建つ、他の人家の十倍はある洋風の豪邸。尖った屋根と洒落た庭園。日当たりは良好で、しかしなに故か薄暗い。お化け屋敷と揶揄されようがそこに幽霊はいない。

 此処に幽霊はいない。

 口元を抑える。抑えつける。

 自分の顔面の熱にしがみつく。

「この町……?」

 感触は吐き気だった。見てはならない埋葬された禁忌が目の前に剥き出しで横たわっているかのような、絶対に触れてはならない確信が、鋭利な爪となって瞼に触れる。

「よくわかりましたね。意外とわからないものですよ。住んでいる町の全景なんて」

 瑠璃はなんでもないように笑って、指先でくるくると遊ぶ。氷柱のような指が道をなぞる。

反射的に危険を叫んで、しかし声は出ない。身体を何かで縛られているかのような──いや、骨が何か別の存在にすり替えられてしまったかのように、微動だにだって出来やしない。

岸波瑠璃という青すぎる毒が、町を遥か上空から眺めて弄んでいる。そんな幻想の怖気が血に混ざり回転する。

 あんなにも細く、小さく見えた瑠璃が、今では影色の女神のように。

 彼女は眩しいくらいに白い素足を持ち上げる。

 ──そしてソッと、箱庭を踏む。一歩一歩、街を破壊しないように。家屋も木々も、一つだって例外は無い。目では捉えきれない塵ほどのナニモノかまでもを踏まぬように。その様は何処か演技的だった。六感に突きつける究極の境界が、目の前でゆっくりと音をたてずに崩壊してゆく。

 仮想の箱庭と現実が同じ層に在ることを知るように、彼女は満足げに道を踏む。

 そうして遥かな散歩を終えて、付き従う白い影と共に、彼女は箱庭の中央に立つ。

 首だけをこちらへ向けて、鈴の喉を鳴らした。

「わかったでしょう。これがわたしの歩ける理由。全部、覚えてるんです。町も、家も」

 瑠璃は小声で「流石に足元のゴミは見えませんけど」と付け加えた。そして

──こっちへ来い、と。

 手招きされて、心臓は割れるほど速く鳴る。

【今直ぐに踵を返せば】

 そんな悲鳴に近しい言葉は拍動と共に加速して、全身が後方への引力に支配されてゆく。

 脳内で燃えるのは、誰かが坂道を後ろ向きに下るイメージだった。

そいつはなに故、背後を見ないのか。考えるでもなく理解された。

そいつは──俺は。

目の前の猛獣から目を逸らすことが出来ないのだ。背を向ければ喰い殺されるのだと、社会に磨り潰されたはずの野生で理解していた。理屈ではない。常識でもない。人倫から遠く離れた領域で俺を操作するものは、ならば魂なのだろう。

 しかし退くことは許されなかった。

 足は。魂は。身勝手にも前方を選ぶ。

 最早後戻りできないところまで来てしまったのだと、臓器の軋む音で理解していた。恐怖が過ぎれば涙も出ない。ただ、しつこい吐き気で目玉は眩んでいた。

(いい子)と笑った岸波瑠璃は、光の塊みたいに眩しくて、これではまるで誘蛾灯。抗えぬ魅力に近しい──魔力のような青い風が、瑠璃に向かって吹いていた。

 何も踏み潰さぬように、自分が今踏みつけている物に酷く自覚的になりながら。足の裏の感覚を空ほども広く感じながら──狭く、しかし大きな町を歩く。

 近づいたその瞬間、彼女は詐欺師の腕を掴む。

 貧弱な握力、しかし堅い意志の力で離れない。近づいてはいけない、見てはいけない、そんな六感の叫びを、しかし瑠璃は掻き消すように不気味に笑う。

「ほら、見て」

 彼女は閉じられていた瞼を、彗と二本の指でこじ開けた。


 綺麗だった。

 異常だった。

 瞼の内側に瞳は無い。

 代わりに、代わりになるのかはわからないけれども、そこに広がっていたのは星空だった。

 暗黒の海に落ちる、砂粒程の青白い光が、幾星霜と距離を重ねてそこにいた。






【遺書代筆・6】 

 網島修理にコトの真相を訊くというならば、まずは奴の居場所を突き止めなければならない。電話帳に番号を載せている詐欺師がいたら私は腹抱えて笑う。

 手当たり次第、奴の知り合いを訪ねてみたが、網島修理の名前を出すと皆とてつもなく不機嫌になって、そのまま追いだされてしまう。

『あげないわよ』と叫ばれたので、取らないわよ、と小声で返す。

 自然首の骨がやる気を失くす。血の巡りはかったるく欠伸を促した。あんなものを好きになる人間がいることは不思議だった。

しかし事実としてアレは様々な人間に好かれている。彼の姉もそうだし、瑠璃嬢も結局網島修理を好きになってしまった。瑠璃嬢の弟で岸波家の長男である新葉くんも、奴に懐いていたと言う。

【でも、あの人はいい人でした】

 言った新葉くんの目は澄んでいた。

 意外だった。

 わたしが意外だと思ったのは、新葉君が網島修理を『いい人』と評価したことではない。網島修理は嘘を吐いて人に好かれようとする詐欺師なのだから、きっと新葉君にも適当な嘘を吐いたのだろう。それもまた癪に障るが。

 岸波新葉。

 あの少年が、岸波夫妻という仮面を付けた幽霊たちの息子だとは思えないほどに、真っ直ぐな少年だったからだ。

彼の星無き夜空のように少し青い瞳は、今も焼き付いて離れない。

 たしか九歳。九歳の子供。九歳? 嗚呼幼い。しかし九年、何も知らず何も纏わぬ姿の時からずっとあんな者たちと暮らしてきて、何故あれほど綺麗でいられたのか?

 人は一人、人を作る。俗に人間の構成要素は遺伝子と環境が半分ずつであると聴く。しかし私はそうは思わない。

 人を作るのは人であり、環境だ。

 成長につれて人は少しずつ環境に揉まれて変化してゆくのだから、その割合もまた少しずつ増えてゆくと考えるのが妥当だろう。あくまで私の一意見に過ぎないが、しかし私が思う以上は私の世界でこれ以上の解答は出ない。

 岸波新葉という少年は私が思っているよりもずっと、この案件の中心にいるのかもしれない。

 岸波真司は、岸波まどかは、本当に新葉くんの親なのだろうか。

 ──ああ、調べることが増えた。全くもって面倒くさい。こんな煩わしい仕事は、さっさと亡くなってしまえ。

 

 網島修理には人を惹きつける何かがある。

 考えてみれば私だって、今奴を追い求めていると言っても間違いではない。

 うん、鳥肌は立つが。

 この感覚を言語化することは大変難しく思われた。しかし、頭の中で奴の薄っぺらい笑顔と言葉を反芻していると、その背景に光景が見えた。

 古びた灯台。掠れた海図。消えかけの篝火。

 どれだけ信用できるかはわからない。その先に真に何が待ち受けているかは果たしてわからない。天への扉かもしれないし、魔物の口なのかもしれない。けれども──縋らずにはいられなかった。

 奴はそんな人間なのだ。





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