第5話 瑠璃の瞳

【遺書代筆・5】

 網島修理は、最後に岸波瑠璃嬢と交流してから消息を絶っている。

 そして岸波瑠璃は亡くなった。

「けれども僕を好きになった人は、みんな僕の前からいなくなる」

 なるほどそれは真実なのかもしれない。

 しかし真実だからと言って、それが綺麗で美しいかと問われれば、首を横に振るのは容易い。

 岸波瑠璃は目が見えなかった。

 しかし彼女は走れたし、道に沿って曲がることができた。ただ、足元の些細な段差だとか、石ころだとかは避けられなかったし、この町から出ることもできなかった。

「籠の中の鳥だなんて単純に言ってしまっていいものだろうか?」

 持て余した指先がペンを回す。

 瑠璃嬢の瞳について『何故だ』と訊いても誰も答えない。何時光を失ったのだ、どうして彼女を目は閉じたのだ。どれだけ誰に聞いたって答えやしない。──いや、答えられない。本当にわからないようだった。まるでそこに関する記憶だけ、すっぽりと抜けているように。

 地図の中央に火を落としたように、彼女の記憶はおぼろの模様に透けている。

 私は高く天を眺めた。一番星が薄弱に灯る。そう、丁度あんな感じだ。

 目に透けて指先も触れられず、その実際は未知数にして虚数。

 岸波瑠璃。

「本当にいたのだろうか?」

 そんな思考は──溜息と共に捨てる。

 妄言は遊びの範疇に控えておかなければならない。現実を侵食しかねないからだ。私たちの世界は、思っているよりもずっと曖昧だ。

 譲れない物を芯に据えなければ、物事を水平に見つめることだってできやしない。

 岸波瑠璃の父である岸波真司は権力と財力を持ち、何事が起きようと天下泰平とにこやかに微笑む。実に薄気味悪い男である。そしてそんな夫に付き従う妻、岸波まどかは意見を何も有さない。ただ岸波真司の言葉に頷くばかりである。物静かな風貌はまるで、マネキンに電池を入れたようだった。

 彼らは普通ではない。何処か一般から逸脱している。そう何処か──嘘くさいのだ。

 だから網島修理という詐欺師に、瑠璃嬢の介錯を依頼した?

 首が曲がる。通らない理屈は妄想と何ら変わらない。

「わからない。何もかも」

 額に汗が浮いていた。ガスを抜くようにもたれ掛かる。

 あの家は異常だ。

 瑠璃嬢の部屋にあった【模型?】【箱庭?】【装置?】は、とにかく異常だ。

 果たして盲目の娘の為に、あんなことをするだろうか。

 ──いいや、するのだろう。岸波という家庭はするのだろう。

 彼らは一見穏やかそうに話すけれども、しかし何処にも心が見当たらない。鏡に映った波のように威力は無い。魂を刳り貫いた人形のように宙ぶらりんだ。

 誰に似ているのだろうと考えてみれば、網島修理だった。

「……いや、」

 似ていない。

 やっぱり、アレと岸波真司は似てなどいない。むしろ真逆と言っていい。

 わたしは網島修理のことが心の底から嫌いだし、見つけ次第殴って真相を聞き出したいとは考えている。

 しかし、やっぱり違うのだ。

 だって人の心がわからないのに、人を騙せるわけが無い。

 だからやっぱり奴は自覚的で、明確に屑なのだ。






【詐欺師・5】

 見上げた空は今にも泣き崩れそうなほどに低かった。ぶくぶくと膨れて、まるで腐れた餅である。

 して、その黒雲から少し視線を下げてやれば否応なく視界を埋め尽くすのは【岸波邸】。

 西洋風の尖った屋根からは、家というより城を思わせる荘厳な雰囲気が醸し出されていた。閉ざされた鉄扉の上には鼠返しに針が見下ろし、何人たりとも侵入も──介入だって許さない。

 しかしこの魔城が紫煙のようにフォークロアの渦巻く廃墟であったのは今は昔。

 この城は数十年ほど前に主を失い、長らく空き家だった。しかし丁度十年ほど前にとある一家が住み着いてからは、恐ろしい噂も息を潜めている。家主の職業が愚弄しづらいものだからだ。外面が良ければ大概のことは許される。俺みたいに。自分が許すかは別の問題として。

 溜め込んだ息を吐き出して、肩を回す。勇めよ男児。進めい進めい。

 滲んでいた手汗を払ってインターフォンに指を添える。

 (かちり)と控えめな音が鳴って、錠前が開いた。

 ぬるい風が喉を撫でる。

「まだ押してねえんだけど……」

 誤魔化すように独り言ちて、しかし不本意にもトーンは震えていた。

 あーとかうーとか首を振って、頬をはたく。

 進まなきゃ、駄目っすか。

 ──重い扉を押し開けると、岸波邸の全景が現れた。

 貫く針を搔き集めて山にした姿は天を衝いた。影に染まる様はこのアキレス腱に針金を通して、後退の意を植え付ける。

 魔城は豊かな木々に囲まれて、しかし命の気配はない。生唾があふれ出す。

 しかし困惑もぬるい唾も、その全てを呑み下し歩を紡ぐ。足裏が踏む音は、厚い肉を断つように雑音を打った。

 鉄扉の鍵は閂の形をしていた。

 しかしどうにも、電子的機械が付属しているようには見えなかった。



 瑠璃です。

 そう名乗り、俺を出迎えた少女はまだ随分と幼く見えた。

 西洋人形が喋っていると疑いもなく錯覚した。

 それ程に瑠璃の肌は温度から遠く、閉じた瞼は石膏のように白く、しかし何物も透かさない。岸波の家が大きな洋館であることも起因して、彼女は箱庭に収められた宝物のように輝いて見えた。紅いカーペットの上に音も無く立つ。シャイニング、なんて愚考が耳から零れる。

 長く伸ばした髪は、真珠貝の内側の光沢のように、虹をも超えた万象の美しさに染まっていた。束ねずに流した髪は薄く波を打ち、天の川を纏うように煌めいた。

 その美しさに数舜呆けてから、しかし顔面を整え直す。そして中学生かと訊くと、「一応高校生です、一応」と返された。なるほど深い詮索は止めておこう、とりあえずそう決めた。

 瑠璃の両目は、冬の終わりの蕾のように固く閉ざされていた。

 盲目と聞いていたが、しかし何か車いすだとか杖だとか、そういったものは何も携えていなかった。しかも案外すらすらと澱みなく歩いていく。本当に見えていないのだろうか、などと訝しんだ瞬間、すってんころりん瑠璃はこけた。

「なっ、おい! あ、大丈夫ですか⁉」

 瑠璃の足元には段ボールが積んであった。宅配便の荷物がそのまま置いてあったのだ。

「大丈夫です、慣れていますので」

 言ってふらふら立ち上がる。いや大丈夫じゃねえよと叫びそうになるのをぐっとこらえて、可憐な花に手を添える。

 述べる言葉は翼のように、添える笑顔は星のように。基本の基本。喉をしっかりと持ち上げて、女を口説くときの声を使った。

「僕が支えるよ」

「結構です」

 おやぁあんまり反応が芳しくない。

「僕があなたの瞳になりますよ」

「結構です」

 おっとっと、お兄さん自信失くしちゃいそうだよ。

 内心舌を噛むと瑠璃嬢はじっと(多分)俺を見た。

「覚えていますか?」

 主語が無いからわかんないよー。とかお茶らけられる余裕は無かった。背筋が滝のように湿る。覚えてるってなんの話だどの話だ。どっかで会いましたっけ私達。

「あー、あの、ね。あの時の芋煮会で……」

「もういいです」

 緩やかに、しかしはっきりと隔絶の意を以て振りほどかれた手のひらに残る温度は、海水から引き揚げたビンのように冷たく、息を吹き返さない。

「因みにですが」

 膝を突いたまま立ち上がる気力を失った俺を見下して、瑠璃は氷の息を吹く。

「わたしを篭絡しようとしても無駄ですよ」

 そして瑠璃は力ない目元をキッと締め付けた。綺麗な顔が、しかしやっぱり綺麗に歪む。

「ン? 何の話ですかさっぱりわからん」

「嘘なんて吐いても意味はありませんよ」

 吐き捨てるように呟いて

 静電気の火花が散る。甘い仮面が微かにズレる。

 俺はその場に立ち上がり、膝を払う。どうも背丈は頭二つ分くらい違って、瑠璃の細さが際立った。

 嘘なんて吐いても意味がない。

 そりゃあ、そうね。意味なんて無い。だから意味を持たせたいんだよ。コインの裏しか見たことの無い人間にとっては、裏も表も同じ柄だしどっちも表だ。だったらコイントスは最強だし、その人は世界で一番運ゲーに左右されない幸せ者だ。

「嘘でいいんだよ、小娘。偽物でも幸せを売れるなら、そこから先は個人の受け取り方次第だ」

「不当な値段で売り付けることが結構なことだとでも?」

「正規だよ」

 不毛な口喧嘩は切り捨てて靴を揃えると、瑠璃は諦めたようにまた歩き出す。その小さな背中を追いながら、今度はこけるなよーとか心中笑っていると、振り向いて睨みつけられた。ごめんなさい。

 元来幸福などというものは値段の付けようのないものだ。

『世界は実際のところ物質的に深い領域にあるわけではなくって、だから個々人の心の持ちようで見え方は千差万別の万華鏡と色を変えるのだ』

 こんな呪文はかつての彼女の言葉。

 今も頭の真中に刺さったまま、弛まぬ歩みで深度を増してゆく銀の剣。こんな煌めきを錆びさせることができるほど、俺は硬派に生きてない。

 そう例えば、俺は詐欺師。しょうもない詐欺師。

 偽物の花で道を彩る。星無き世界に金貨を撒き散らし星河を掛けよう。

 俺にはそれしか出来ないのだから。





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