◆ ◇ ◇

 嵐がごとき災禍は見る間に村を削いだが、暮らす人々の息遣いは減るばかりではなく、その分、新しく次代を征けるような強かな子供の声が目立つようになった。ソルテも例に漏れず子ができ、名はレトと名付けた。誰も覚えていないレトの名を我が子につけようとも、誰も、何も言わなかった。そのことに何かを感じたが、ソルテはあえてそれを無視し、生のため踏みつけた土のように黙殺した。

 更に時が経つ。村が災いを忘れて歌を思い出す頃には、ある程度のものがすっかり元の姿となっていた。暮らす人間が変われども送られる日々は変わらない。刷新された世界で、役割が新たに割り振られるとそれは問題なく機能した。

 ソルテもそれを受け入れた。少なくとも拒みはしなかった。

 レトが自分の足で歩けるようになり、ソルテは無闇に歩き回ることがなくなった。よく晴れた日に時折、二人で村を巡ることはあるものの、それはかつてのような記憶を訪ねる作業としての側面はない。純粋に幼きレトのためのものだった。レトは「冒険」をしなければ必ず機嫌を損なった。

 レトは、かつての親友の生き写しとは言わないまでも同様に活発な子供だった。家の中にいることを非常に嫌がり、仕事の合間には必ず姿を消してしまう癖もある。ソルテは、そんな我が子を鏡として見ていた。

 村をよく知るソルテは、レトがどこか見えないところに行っても、すぐさま見つけることができたが、レトにはそのことがお気に召さないらしい。新たな隠れ家を開拓してはソルテに曝かれる日々が続いた。

 そんなこともあって、ソルテは暇ができると、レトの知らない村のことを教え歩いた。少しずつ二人で歩いて広げたその道々は、獣道が街道と成り行くように、丹念になぞりあげられた。


「ソルテ」

 親であるソルテの事をレトはそう呼ぶ。そのことをソルテは別段気にすることも無かったが、かつての親友は短く「ソル」と呼んでいた。

「どうしたの?」

 レト。

 と、ソルテは親友をさすのと同じ呼び名で、或いは呼び方で我が子を呼ぶ。

「あれ、なに」

 小さなレトの手が指す先にあったのは、ひどく陰気な『てるてるぼうず』だった。頭から足の先まで、すっぽりと覆い尽くして余りのあるローブを着た何か。誰に憚るでもなく着込んだ小柄なそれが、窺い知れぬフードの虚を向けて、木々の隙間に食い込むように立っていた。

 ソルテはレトを体の後ろに隠す。そのことに『てるてるぼうず』は気分を害する様子も、また何かを釈明する様子も見られない。ただ静かに、憂いを帯びた上体を朽ち木のように傾げさせると、夜更けの風のような足取りでもって、ソルテとレトに向かって歩き出した。

 身構えるソルテをよそに、しかし二歩ほどの距離だけを空けてそれは静止した。

 それほど近い位置にいても、フードの下は陰になっていて、ソルテからは口元だけが微かに覗いて見えるばかり。表情の一部分は泥か何かで塗り固められた仮面で、常に微笑を浮かべて見えた。

 標の森に漂う葉擦れの音が、緊張を急き立てるかのように『好奇』と『動揺』の二色の風を送る。ローブを前に、ソルテの全身は硬直していたが、吹き浚うような風がしかしレトを唆した。

 ソルテの硬化した腕の隙間から、レトは隠されたものを見ようと首を伸ばす。その時、覗かれることを拒んでいたローブの奥で、食指が動くのをソルテは見た。そして、それは確かにソルテを突き抜けて、レトに絡みついた。

 ソルテは思わず目蓋をきつく貼り合わせた。

 森の中とはいえ、真昼の光源の下である。目を閉じたくらいでは、視覚の光刺激はそう簡単に消えるはずが無いにも関わらず、ソルテは無明の中に放り出されたように感じていた。

 何も無く、色も、光も、自身のあるべき体でさえも、存在しない中に、やけに鋭敏な聴覚だけが、むき出しになって浮かんでいた。そして、遠い音は近く、近い音は遠くへと響いた。

「ソルテ」

 どこかで、レトが呼ぶ。

「ソルテ」

 どこかで呼ぶ。

「ソルテ」

 レトが呼ぶ。レトが呼ぶ。レトが呼ぶ。レトが呼ぶ。レトが呼ぶ。呼ぶ。呼ぶ。呼ぶ。そして――

「ソル」

 低いとも高いともつかない、しかしすぐにそうだと分かる聞き知らぬ男の声が、体外にまで拡張されたソルテの鼓膜を打った。波及する歪な衝撃が体中を蹂躙し、内臓を震わせて、苦痛を伝播させる。そして、流入する異物がソルテを成す根幹へと繋がる戸を叩く。

 ひどい吐き気に咽ぶソルテは、苦痛に喘ぐというよりもしかし、なんらかの欺きに呑まれた時に似た感覚に苛まれた。ボタンを掛け違えたような居心地の悪さが、嘆くように変形していく常夜の精神を、すんでの所で押しとどめた。

「大丈夫、ソルテ。大丈夫」

 袖を引くレトにソルテは彫像のように振り返る。レトは泣き出しそうな顔をして、声を出した。ソルテは鈍い汗を溢しながら、皮膚から赤を抜き、歯の根をならして体は震わせながらにレトを再び抱くように庇った。

 レトが温かな血潮でもって、ソルテの細い枝のような指を胸に抱く。凝結していたソルテは砕けたように、咽せて、空気を求めた。その背中へレトは手を伸ばそうとするが届かないで、ただ宙を掻いた。

 強く抱かれて苦しげなレトの息吹が響き渡ると、心は頑なな硬度をうち捨て、ソルテはようやく腕を緩めることができるようになった。解けた耳へと、天に捧ぐマーテナの歌声が響く。ソルテの鼓動は調律されたように次第に整った。

「ソルテ、あれ」

 小さなレトの手がソルテの背後を突き抜けて、指す。

 ソルテは、胃を締め付ける異物を押し殺し、意を決して背後を振り返った。

 あに図らんや、そこにローブの男の姿はなかった。

 代わりに少し離れた草地に、二人を見つめる獣が、毛玉から太い根が生えた様な格好の獣がいるだけだった。境目の曖昧な首を傾げるその生物に安堵したソルテは、マリテット。と、獣の名を告げるとも無くレトに告げた。

 レトはにわかに歌う如くはしゃぎながら、マリテット。マリテット。と名前を確認するように声を上げた。

 踊りだそうとするレトを静かに抱きしめるソルテ。

「レト」

 その小さな響きは、我が子の無邪気な振動と、マーテナの木々の波に飲まれてひっそりと消えていった。

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