原風景。

音佐りんご。

◇ ◇ ◇

 親友のレトが死んだ。

 ソルテはそのことを別段、悲しむことはなかった。ただ、自身を包む世界が、歳を経たマーテナの木の虚の様にすかすかになった気がしていた。

 幼い頃に――今をもってまだ幼くはあるが――よく忍び込んだポトポ爺さんの酒蔵に入っても、レトの家の近くにある村一番のマーテナの木に登っても、川のほとりの絵描き小屋で眠っても、ソルテただ一人では、かつての二人が日の沈むまで耽っていたような愉快な事など、何一つできはしないのだと気がつくばかりだった。

 何を見ても喜びを、怒りを、楽しみを、また哀しみを覚えることがない。

 それでもしばらくの間は、かつての思い出をなぞるように村はずれまで飛び出して、朝日の登るケロの丘から夕日の沈む標の森まで、記憶にあるその全てを訪ね歩いた。そのせいか顔はいつも泥だらけで、髪は日に焼けて次第に色あせた。足はマメやら切り傷やらにまみれていたが、その都度薬草で乱雑に塗り重ねてはごまかした。

 ソルテのあり様を見て村長などは「かわいそうに」と時を堆積させた皺を深めてこぼしていた。母は何も言わずソルテが帰ってくると静かに抱きしめて、そして出かける度に弁当を持たせてやった。靴職人を親友に持つ父は村に上等な革が入ったと聞くや丈夫な靴を作らせて与えた。

 新しい靴はソルテの足によく馴染んだのか、それまでより格段に怪我も減った。歩き慣れたことも相まって、よりも長く、遅い時間まで村を回れるようになった。

 そして、ソルテは今日も家を出た。明日も、明後日も、当て処も無く、拠り所もなく。歩く。


 何度も何度も村を巡るうち、ソルテは誰よりも村や村人のことを知るようになっていった。また、ただの村の子供に過ぎなかったソルテを、誰もが知るようになった。けれども、ソルテが歩く理由を知る者は、誰もいない。天涯孤独だったレトを知る者など、誰もいなかった。

 歩き回って体力を使い果たしては死んだように眠る。そんな日々を続けていたソルテは体調を壊し、熱を出すことも多かった。雨の降る日も、風の吹く日も、雪の舞う日でさえ、朝から晩まで歩き回っていたソルテの体は幾度となく倒れ、打ち負かされた。しかし倒れては立ち上がり、また歩き出す頑なさが、ソルテを強くした。

 季節は巡り風が過ぎた。

 やがて過ぎゆく時の中で、ポトポ爺さんが死に、それから間もなくして村長が死んだ。長い長い時間を生きた長老が抜けて、長がまだ歳若い息子に代替わりしても、緩慢な村はほとんど姿を変えることがなかった。

 その土地に植わった家々は多少傷んでも、気がつくと時間の中に埋もれて元通り。子が親を継ぐだけで変わり映えのしない村を、つまらないとこぼす村人も多いには多いが、不思議と外をその目で見ようとする者は少なかった。数年に一度、代替わりが重なる時期、田畑をもらい損ねた次男坊のいくらかが、職と生存を求めて当て処の無い、半ば死出の旅路へと立つくらいだ。彼らが旅に出たまま帰ることは無い。生きているのか死んでいるのか、成功したのか失敗したのか。戻る者の無いこの村は、時間の中でひっそりと消極的な後退を続けている。

 降り積もる日々に埋もれていく中で、ソルテはいくつかのことを消極的に呑み込んでいった。いつからか家の仕事を覚えたこと。先例通り押し出されるようにして、或いは村人の掟のように父母が死んだこと。

 流行病だった。

 どこからか訪れた享楽の熱に冒されて村の人々は斃れていった。閉じられた無垢の世界に一滴の酢が落とされると、瞬くうちに昨日笑っていたあの人は、明日死に、今日笑っている人の顔はいつ死ぬのかと曇っていく。やがて時が来て、選ばれた者を風が丘の向こうへ導く。父母がそこに紛れてもソルテは生きた。ソルテが病を退けたのか、病がソルテを避けたのか、ソルテは病をもらうことができなかった。

 あるいは――。

 取り残されたソルテは、誰が死んでも歩き続けた。その顔は決して綻ぶことも無く。

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