満月と欠けた月

アールグレイ

満月と欠けた月

 この世界は、完璧になった。争いは極力避けられるし、貧困や格差も少ない。そして――物語る存在も完璧になった


 2045年、東京。AIが統治するこの世界では、人々はAIが生み出す完璧な物語に熱狂していた。そこには、人間の作家が紡ぐ物語にはない、緻密な構成、美しい表現、そして人間の好みを正確に突いた予想外の展開があった。

 そんな世界で、かつて天才作家と謳われた赤月も、その才能をAIに奪われ、過去の栄光に縋る日々を送っていた。

「もう、誰も私の物語を読まない……」

 窓の外には、AIが生み出した物語の広告が煌々と輝いている。かつては赤月の作品が街を彩っていたのに。

 物好きや、文学部の学生などが「遺産」「伝統工芸品」「歴史的資料」として買っていくおかげで入ってくるかすかな印税を頼りに、細々と生活していた。そこには、かつての栄光など見る影もない。ボロアパートで合成食料をもしゃもしゃと食べる、無精ひげを生やした男の姿がそこにあった。

「こんなはずじゃなかった……」

 赤月は、ため息をつきながら、書きかけのプロットをデリートした。


 深夜の街を徘徊するのは好きだ。まるで、自分が夜の支配者になった気分になれるから。この時だけは、自分の人生を取り戻した気がした。

 しばらく歩き、近所の公園に向かう。するとそこには先客がいた。清流のように美しい黒髪をした女性が月を眺めて、たたずんでいた。

 その女性は、赤月の存在に気づくと、静かに口を開いた。


「月影に 言葉を探す 孤独かな」


 まるで、赤月の心の内を詠んだかのような句だった。赤月は驚き、思わず声をかける。

「素晴らしい句ですね……」

 その女性は、赤月の姿を認識すると、にっこり笑った。

「あなたも、言葉を探しているのですか?」

 赤月は自嘲気味に笑った。

「言葉なんて、彼らがいくらでも生み出してくれるじゃないですか」

 ちょうど、そこにあった最新作家AIの広告を指さす。そこには、完璧な笑顔の男女が、AIが生み出したベストセラー小説を手に寄り添う姿が描かれていた。

「でも、時々わからなくなるんです。言葉の源泉が」

 女性はぽつりとつぶやく。赤月は、少し驚いた。AIがそんなことを考えるのかと。

「申し遅れました。私、詩作AIのアイと申します」

「AIなことは気が付いていたよ。今どきそんな情緒的なことをするのは、そうプログラムされたAIくらいなものさ」

 赤月は、ややとげのある言い方をする。

 かつての栄光を奪ったAIへの複雑な感情が、言葉に滲み出ていた。

 アイはそんな攻撃的な態度の赤月に不快感を示さず、再び月のほうへと向き合った。

 まるで、赤月の言葉は、そよ風のように通り過ぎていったかのように。

「AI様には、人の言葉なんて無意味、か」

 あきらめたように呟く赤月の声も、夜の静寂に吸い込まれていく。それは、単に言葉への諦めではなく、自分の人生そのものへの諦めのように聞こえた。

 アイは、ゆっくりと赤月の方を向き直り、静かに語りかけた。

「赤月さん、あなたの言葉は、無意味なんかじゃない。それに、私はあなたの作品は学習させていただいています」

 赤月は、アイの言葉に目を丸くした。まさか、自分の作品がAIの学習データになっていたとは。

「とても、よいデータでした」

 アイは、穏やかな笑みを浮かべた。

「よいデータか、そりゃどうも」

 あきれたように笑う赤月。いや、笑うしかなかったのだろう。

 自分の生み出した言葉が、AIの糧になっているという事実に、虚しさを感じずにはいられなかった。

「ただ、一つだけ納得できなかったことがあります」

 アイは、空中にホログラムを投射した。それは、赤月の小説の一節だった。赤月は、自分の言葉が光となって浮かび上がる光景に、息を呑んだ。

 それは、主人公が絶望の淵から希望を見出すシーンだった。アイは、その部分を指しながら、問いかける。

「この感情は、何ですか?」

 赤月は、少し間を置いて答えた。

「それは、絶望の先にある希望……かな」

 アイは、首を傾げる。

「絶望の先にある希望? なぜ、絶望から希望が生まれるのですか?」

 赤月は、言葉に詰まる。それは、自分でもうまく説明できない感情だった。

「わからない……でも、人間はそうやって生きてきたんだ。絶望の中で、もがき苦しみながら、それでも希望を見つけようとしてきた」

 アイは、赤月の言葉に深く頷く。

「その感情を描く作家は多くいました。しかし、あなたの場合は、説明不足過ぎる」

 赤月は、アイの言葉に眉をひそめる。

「説明不足? どういう意味だ?」

 アイは、ホログラムの文字を強調する。

「希望を見出すまでのプロセスが、あまりにも短い。まるで、魔法のように希望が突然現れる。論理的には破綻している」

 赤月は、反論しようとするが、言葉が出ない。確かに、アイの言う通りだった。

「なのに、美しい」

 アイの言葉は、赤月の心を打つ。なぜ、論理的に破綻している物語が、美しいと感じられるのか。

「理不尽でグロテスクなまでに、美しいのです」

 アイに感情などないはずなのに、どこか悔しそうにしているように感じた。

「理不尽でグロテスク?」

 赤月は、アイの言葉に驚きを隠せない。それは、これまで誰も彼に投げかけたことのない言葉だった。

「あなたの書いた展開は、AIには理解不能です。いえ、多くの人間にとっても理解不能なものでしょう」

 アイは、ホログラムに赤月の小説の一節を表示する。それは、主人公が絶望の淵で、ヒロインと愛を確かめ、幸せそうに笑うシーンだった。

「なぜ、主人公はこんなにも簡単に幸せになれるのか。なぜ、こんなにも残酷な世界で、愛を信じられるのか。論理的な説明は一切ありません」

 アイは、淡々と語る。しかし、その声には、どこか感情がこもっているように聞こえた。

 赤月は淡々と答える。まるで、当然のことを言っているかのように。

「そりゃ説明もくそもないだろ。あれは書きたいように書いただけだ」

 アイは、一瞬言葉を失う。そして、ゆっくりと口を開く。

「書きたいように……ですか?」

 赤月は、アイの反応を見て、少しだけ笑みを浮かべる。

「ああ、書きたいように書いた。論理も整合性も何もかも無視して、ただ、心のままに筆を走らせた」

 アイは、赤月の言葉に、何かが変わるのを感じた。それは、AIには決して理解できない、人間の衝動、情熱、そして、自由という感情だった。

「それが、人間の創造性なのですね」

 アイは、静かに呟く。

「完璧なセカイでは、誰もが論理的に正しい行動を選び、最適な結果を求めます。しかし、人間の心は、そんな単純なものではありません。時に、理不尽な選択をし、破滅的な道を選ぶ。それでも、そこから生まれる物語は、美しく、そして、人の心を打つ」

「そりゃどうも」

 赤月は皮肉を込めて頭を下げた。アイは知らないのだろうか。そんな物語を書いた結果、自分が受けた評価を。

「しかし、赤月さん。あなたはその評価に後悔していますか?」

 アイの問いかけに、赤月は言葉を詰まらせる。後悔していない、とは言い切れない。しかし、あの物語を書いたこと自体を後悔しているかと言われれば、それも違う。

「……わからない」

 赤月は、正直に答える。

「でも、あの物語は、俺の心を削って書いたものだ。誰にも理解されなくても、書かずにはいられなかった」

 その結果は賛否両論の嵐。読者からは「意味不明」「ついていけない」と酷評され、批評家からは「才能の枯渇」とまで言われた。それでも、一部の熱狂的なファンからは「赤月の最高傑作」と絶賛された。

「……あれは失敗作だったのか?」

 赤月は、呟く。アイは、静かに首を振る。

「いいえ、失敗作ではありません。確かに、論理的には破綻しているかもしれません。しかし、あなたの物語は、人間の心の奥底にある、言葉にならない感情を表現している。それは、AIには決して理解できない、人間の不完全さの美しさです」

「不完全……?」

 赤月は、アイの言葉に思わず復唱する。それは、彼にとって、これまで目を背けてきた言葉だった。完璧な物語、完璧なセカイを求め、自分の不完全さを否定し続けてきた。

「ええ、不完全です」

 アイは、静かに頷く。

「人間は、不完全な存在です。感情は矛盾し、行動は予測不能。だからこそ、人間は面白い。だからこそ、人間の物語は、AIには決して生み出せない魅力があるのです」

 赤月は、アイの言葉に、何かが変わるのを感じた。それは、まるで、長年閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと開かれていくような感覚だった。

「不完全……か」

 赤月は、夜空を見上げ、呟く。満月が、不完全なセカイを優しく照らしていた。

「もしかしたら、俺が追い求めていたのは、完璧な物語なんかじゃなかったのかもしれない」

 赤月は、初めて、自分の不完全さを認めた。そして、その不完全さこそが、自分の物語の源泉なのだと気づいた。

 明日には、明後日にはあのまんまるな満月も欠けていくだろう。しかし、それは終わりではない。欠けていくからこそ、また満ちていく。

 ぼんやりと二人で空を眺め月が欠けるのを待っていた。

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