第23話 推理

 水沼桐子の推理

 

 目が覚める。

 部屋は真っ暗で、まだ朝になっていないのかあるいは一日近く眠ってしまってもう次の日の夜なのかはわからないが、これ以上眠れる気もしないので、わたしは暗闇の中、天井をぼんやりと眺める。ふと、前髪の長い猫の目をした優男の笑顔が浮かんできてわたしは辟易とする。何が九局長の温情だ。懲戒解雇にすればやけくそになったわたしが制御不能になる、そんな可能性を恐れぎりぎりのところで首の皮一枚残して沈黙を買った。きっとあの男はけらけらと笑いながら、水沼さんはこれまで頑張ってくれたので情けをかけてあげましょうよとでも言ったのだろう。他人の人生を弄び支配して喜ぶなんて、ほんと悪趣味だ。あの男はこの二週間、わたしが翻弄される姿を見て心から楽しんでいたんだろう。

 だが、それにしても。

 わたしは仰向けになったまま暗闇の中でじっと目をこらす。

 わたしの中でずっと引っかかっていることがある。どうしてあの時、あの男はわたし達の捜査を打ち切らなかったのだろうか。違法賭博というD区画の秘密、禁忌の扉に手をかけたわたし達は、あの男にとっても排除すべき対象だったはずだ。それなのにそうしなかったのは、そう出来なかったからそうしなかったのではなく、あの男の意思でそうしなかったはずなのだ。わたしはあの男を信じている。他人をちゃんと駒として使える人間だ。目的の達成のためには誰かの人生をきちんと踏みにじることが出来る人間だ。あの男の城であるD区画にいる限り、わたし達は皆、等しくあの男の駒であるはずなのだ。だがわたし達が捜査を続けることがあの男の意思だったとすると、結果的にはわたし達は失敗したということになる。

 むくりと起き上がるとわたしはベッドから抜け出しパジャマを脱ぎ捨て浴室に入る。シャワーの蛇口をひねると熱いシャワーが降り注ぎ、ざあざあとお湯が体を叩く音を聞きながらわたしは考える。今回の事件の顛末。加藤刑務官殺害事件は自白した囚人が犯人として解決、七海圭吾殺害事件は正当防衛のままで違法賭博は不問にされた。すべてがD区画の望む通りの結末、わたし達は捜査を続けたが何も結末を変えることが出来なかった。つまりわたし達は失敗した。あの男の期待に応えられなかった。そしてだからこそわたしはこうして処分されたのだろう。

 きゅっと蛇口をひねる。ぽたぽたと髪の毛から水滴が落ちる。がしがしと頭をバスタオルで拭きながらわたしは考える。わたし達は失敗した。では、とわたしは思う。そもそもあの男が思い描いていた展開はどういうものだったのだろうか。あの男が期待した結末。当然、D区画の存続という観点から考えれば、最も忌避したかったのは囚人が犯人であるという結末だったはずだ。脱走事件に続いて今度は囚人が刑務官を殺したとなれば水曜日計画は終わり、それだけは回避する必要があったはずだ。たしかあの時、市警察上層部の命令は、今行われている取り調べをもって捜査を終了するというものだった。そこにあの男の意思が介在するのなら、当然するだろうが、重要なのはあの囚人への取り調べだったはずで、わたし達がするべきことは、あの取り調べで囚人の自白を引っくり返すことだったのだろうが、わたし達は奥田由紀子殺害事件という脇道に逸れてしまった。それがわたし達の失敗。

 頭にタオルを巻きつけたままソファにどっかりと腰をおろす。下着にTシャツだけの姿で、太ももにひんやりとした革の感触が伝わる。熱いシャワーで火照った体に眼鏡が曇る。お母さんにこんな姿見られたらはしたないと怒られそうだが、一人暮らしのこの部屋ではわたしが王様だ。懲戒解雇寸前の処分を受けたあとくらい、傍若無人に振舞っても許されるだろう。わたしは濡れた頭をうしろにあずける。ソファが濡れることくらい何だ。

 ちっちっちっ。掛け時計の秒針の音がわたしの耳をノックする。わたし達は失敗した。だが本当にあの時点で囚人の自白を引っくり返すことなんて可能だったのだろうか。たしかに、D区画内では全知全能の創造主たるあの男がわたし達に期待していたということは、そう出来るだけの状況にあったということだ。期待に応えられなかったということは、やり方を間違わなければ期待に応えられたということだ。だが、あの東方日明が何時間も相対して自白を撤回させられなかったのだ。仮に今、あの瞬間に戻れたとしてもあの男の望む結末を引き寄せることが出来るとはとても思えない。

 いや、そもそも、わたし達にそうさせる必要が本当にあったのか? 刑務官が犯人であるという結末にしたいのであれば、そう出来るだけの状況にあったのであれば、自分自身の手で結末を変えればいいだけの話だ。だがあの男はそうしなかった。法務省と市警察、東洲区重警備刑務所の三者の間で手打ちがされ、事件はなかったことになり、首の皮一枚でD区画が存続出来ることになったのは単なる幸運だったはずだ。あの男は何故、囚人が犯人であるという結末を黙って見ていたのだろうか。

 まさか、確信していたのか? わたし達が違法賭博という禁忌の扉に手をかけたことで、未未市にとってこの事件の見え方は百八十度変わったはずだ。市の職員である刑務官が法務省の社会実験の犠牲になったという被害者の立場から、政府機関における違法賭博の首謀者という立場になった時点で、未未市が事件を表沙汰にしないと決断することを確信していた。最早、囚人が犯人だろうが刑務官が犯人だろうが、あの男にとってはどちらでもよかった。だからこそ黙って見ていたのか。だがそうだとすると。あの男がわたし達にさせたかったこととは一体何なんだ?

 がちゃり。冷蔵庫を乱暴に開く。扉に収納されている牛乳パックが揺れる。数週間も放置していて飲めなくなった牛乳を流しに捨てると缶ビールを取り出す。ソファの上であぐらをかきながら喉に流し込む。わたしはもう一度、わたし達が捜査を続けたことの意味を考える。唯一、D区画の望んだシナリオの外にあったのは奥田由紀子殺害事件、そして松井の自殺だろう。わたし達が奥田由紀子の事件を掘り起こし、捜査の手が伸びたことで松井は死を選んだ。ここに何か意味がないだろうか。

 わたしは松井の死について考える。最後に見たブルーシートを掛けられた姿が思い浮かび、そういえばこいつに胸倉を掴まれたんだっけと思い出す。わたしは飲み終えた缶を床に置くとごろりとソファに横になる。松井刑務官。喉の奥でその名を反芻する。違法賭博に囚人の殺害、好き勝手やった挙句に最後は身勝手な自殺を図る。ほんと、やってくれる。そこでわたしは自分の言葉に引っかかる。身勝手な、自殺。松井の死因は溺死だった。検死では自殺かどうかの結論は出ていない。松井は姿を消した二、三日後に死亡している。その間、一体どこで何をしていたんだ? いや、ちょっと待て、そもそもどうして松井は自宅から姿を消したんだ? たしかに違法賭博と七海圭吾の一件についてわたし達は彼を追い詰めたが、そのあとD区画はすぐに手を打っている。犯人をでっち上げ、わたし達の捜査は中止寸前に追い込まれた。あの爬虫類によって松井は守られていた。松井が姿を消す理由があるとすれば奥田由紀子殺害事件の容疑をかけられたからとしか考えられないが、わたしが刑務所長室で奥田由紀子の一件を説明した直後に松井はすでに姿を消していた。あの場にいなかった松井はどうやってそのことを知ったんだ? 松井の車は駐車場に残されていた。松井の自宅近辺に駅はない。逃げるなら足が必要だ。誰かが松井を連れ出したのか。そしてその人物が松井に奥田由紀子の一件を教えたのか。だが、誰が、どうやって。

 むくり。思わずわたしは体を起こす。ばさりとタオルが床に落ちる。ああ、そうか。松井が容疑者になったことを知る方法があるじゃないか。わたしは刑務所に戻るまで誰にも話さなかった。それは事実だ。だが、だが、わたしは。わたしは、松井の逮捕状を請求したじゃないか。

 もし、奥田由紀子殺害の容疑で松井が逮捕状を請求されたことを知ることが出来る人物がいたなら、松井を逃がすことは可能だった。そして逃亡の果てに、逃げ切れないと絶望し松井は自ら命を絶った。あるいは。あるいは、その誰かに、奥田由紀子の一件で自殺したと見せかけて、「殺された?」

 わたしの中に、嫌な予感が生まれる。松井が殺されたとする。その結末こそが、あの男がわたし達に捜査を続けさせた理由だったということはないだろうか。松井が殺されるという結末、それこそが、水曜日計画が見たかった結末なのだとしたら。松井の死も重要な実験結果なのだとしたら。

 ぶるり。わたしは体を震わす。湯冷めしたのかわたしは床の空き缶をそのままにベッドへと向かう。布団にくるまりもう一度眠ることにする。わたしにはもっと休息が必要だ。ゆっくりと眠り、そして目が覚めたら、わたしのこの嫌な予感をたしかめよう。そのために力を借りるべき人間は一人しかいない。


 **********


 働かなくとも腹は減る。

 わたしは上下ジャージ姿にコートをひっかけて近所のカフェに行く。平日、真昼間の駅前のカフェは相変わらず混んでいて、わたしはのんびりとレジの列に並びながらブレンドとチェリーパイを注文する。あれからずっと頭の中がもやもやとした霧がかかった状態で、どこに行ったらいいかもわからず自分の進路も決められないでいる。わたしは自分自身の精神状態すら疑い始めている。だからチェリーパイを食べないと。自分を取り戻すにはそれしかない。

 店の一番奥の席についてお気にいるのチェリーパイをほおばっていると一口一口にわたしは落ち着きを取り戻す。自分を取り戻す。取り戻したはいいが何も解決されていないことに変わりない。あいにくわたしはまだあの事件について何も納得していない。わたしの中では何も終わっていない。わたしはあきらめが悪いのだ。わたしはお皿に残ったクリームをフォークですくってぺろりと舐める。さて、行かないと。こんな格好で外を出歩いているなんて知ったら、またまたお母さんに怒られそうだけど、多少の逸脱は目をつぶってほしい。わたしは殺人課刑事なのだから。

 バスに乗り三つ目のバス停で降りる。裏通りに入るとどこの国の出身かもわからないいかがわしい露天商から声をかけられるのをかわしながら右手の小さな路地に入る。路地を進むと開けた場所に出て、すぐ目の前に一件の本屋が現われる。

 扉を開けると備え付けられているベルが鳴る。一階は新品の本が並び、二階は希少本の古本屋になっている。一階には立ち読みをする客の姿が何人か見えるが、二階に人の気配はない。専門書や洋書ばかりが並び、これまで客がいるのを見たことがない。どこかから鳴るオルゴールの音を聞きながら階段を上がる。天井から巨大な海洋生物の骨格標本が吊り下げられている。背の高い本棚と本棚の間を通り過ぎて二階の一番奥に行く。そこには巨大な水槽があり、その中を髭のある大きな魚が優雅に泳いでいる。わたしが腰を曲げて水槽の中を覗き込んでいると、約束の時間の三分前にわたしの横に男が立つ。コートの襟を立てたその男はわたしに並んで水槽を覗き込む。

「楽しいか?」

「楽しいのとはちょっと違います。見とれている、が正しいでしょうね」

 体を起こすと頭二つは背が高い男を見上げながらわたしは言う。

「ご無沙汰しています。半年ぶり、ですね」

「聞いたよ、お前の席もなくなったらしいな」

「いろいろとありまして」

「お前から呼び出されるとは思っていなかった。それで何の用だ。昔話をしたいわけじゃないだろう?」

「水曜日計画とは一体何なんですか?」

「いきなり確信をついてきたな」

 かつての特別捜査官の同僚は困ったような笑みを浮かべる。わたしと同じく特別捜査官の任を解かれると同時に捜査二課からも追い出されることになった彼は今、首都警察の資料管理課で一日中、古い紙の資料を市警察のデータベースに打ち込む仕事をしているという。こうやって抜け出てきてもきっと誰も気付きもしないさ、と彼は自嘲気味に笑う。

「犯罪者がいかに生まれるのか、それを研究するのが水曜日計画だと最初の日に説明を受けただろう?」ええ、とわたしはうなずく。「研究自体が始まったのは戦時中、軍の特殊部隊による人体実験がその前身と言われている」

「軍の人体実験?」

「戦場の兵士にとって最も邪魔なものは人間性だ。人は人を殺す時にためらう。ためらいは腕を鈍らせる。無駄な銃弾も馬鹿にならないからな。人一人を殺すのに必要な銃弾数をどれだけ減らすことが出来るのか。どうすればためらわずに人を殺す兵士を作り上げることが出来るのか、そのための研究が行われていた」

「最低の研究ですね」

「戦時下においては、経済合理性は倫理観よりも優先される。敗戦が濃厚な時は尚更だ。結局研究が完成する前にこの国は敗戦国になった。だが不要になったその研究は戦後、治安維持を目的とする研究として形を変えて生き延びた」

「殺戮兵士を作る研究が治安維持に役立つとは思えませんが」

「人為的に殺人者を作ることが出来るのであれば、殺人者からその殺意を奪うことも出来るのではないかという安直な発想だったのだろう。当然、そんな研究は上手くいかなかったが、その後も人間の悪意や暴力性が芽生える研究は形を変えてずっと続けられてきた。そしてそれが今、」

「水曜日計画の前身となった」

「好奇心って奴は厄介だな。平和になった今の時代でも人は人を殺す。人が人である以上、人を殺すのであれば、その理由を知りたがるというのも人たる所以なのかもな」

「単なる好奇心ですか」

「どこまでいっても人を食ったような話さ。お前、水曜日計画の名前の由来を知っているか?」

「いいえ」

「二十年ほど前に犯罪先進国たるかの国が発表した論文からの引用と言われている。『Why do serial killers kill people on Wednesdays? 』 連続殺人犯はどうして水曜日に人を殺すのか。この論文では連続殺人犯の多くが水曜日に殺人を犯す傾向にあると結論づけられている」

「水曜日、一体どうしてですか?」

「連続殺人犯の多くは社会性が高く一般社会に溶け込んでいる。つまり多くの連続殺人犯は普通に仕事をしているんだ。連続殺人犯は明確な目的があって人を殺すんじゃない。殺さずにはいられないから殺すんだ。殺すことで精神が満たされる。重要なのは精神の安定だ。何故水曜日に殺すのか。月曜日は休日明けで精神状態が安定している。火曜日は翌日人を殺すことを思い精神が安定する。水曜日に人を殺して快楽を満たす。木曜日は殺人の翌日だから精神が安定している。金曜日は翌日からの休日で殺人の獲物を探すことを思い精神が安定する。そして土日で次の獲物を探す。水曜日に人を殺せば、毎日安定した精神状態で過ごすことが出来る。だから人を殺すには水曜日が一番いい、という論文だ」

「なるほど、」

「真に受けるんなよ。この論文はただの冗談だ。当時、かの国は経済成長に伴い誰もがあくせく働いていた時代だった。仕事に負われ精神を病む労働者の増加が社会問題になり、一部で水曜日休日論が唱えられるようになった。土日以外に水曜日を休日とすれば、月、火、木、金の働く四日間はすべて休日の翌日か前日になるから、より精神衛生上いい形で仕事をすることが出来る。この水曜日休日論を、同じく当時社会問題になっていた連続殺人犯に当てはめて、冗談で誰かがでっち上げたのがこの論文だ。パルプ雑誌のお遊びを、当時のこの国のお偉いさん方は何の疑いも持たずに本物の科学論文と信じて引用してしまったらしい」

「連続殺人犯は水曜日に人を殺す、だから水曜日計画」

「最初から最後までたちの悪い冗談みたいなものさ」

 そう言って小さく笑うと、男はわたしに封筒を渡す。

「これを何に使うつもりだ?」

 わたしはそれには答えず封筒を受け取る。

「悪いがこれ以上は協力出来ない。これで最後だ。特別捜査官を辞めてすぐの頃は、俺もいろいろと嗅ぎまわっていたんだが、いや、やめておこう。とにかくいろいろとあってな、俺はもう関わらないと決めたんだ」

「わたしが続けることにも反対ですか?」

「水沼。お前は上級国家公務員試験に受かったエリートだ。大人しくしていれば、まだこの先も出世の道はある。経歴が大事ならすべて忘れろ」

「わたしはただ、殺人課刑事であり続けたいんです」

 男は一瞬寂しそうな表情を浮かべたあと、コートの襟を立てる。

「来月俺は辞表を出す。首都警察に居続けるのも厳しくなったんでな。当然、資料管理課には空きが出来るから異動願いを出せばすぐに通る。あそこはみんな他人には無関心、お前が好き勝手に動き回っても誰も気にしないさ」

 そう言うと男は踵を返し歩いていく。その背中に、ありがとうございましたと声をかけると、礼なんか言うなと男は答える。わたしは無言で男の背中に深々と頭を下げる。


 **********


 本屋を出るとわたしは再びバスに乗る。窓に頭を預けて外の景色を見ながら車体の振動を感じていると、わたしは東洲区重警備刑務所からの帰り道を思い出す。捜査の最初の日、囚人の事情聴取を終えて彼と二人で刑務所から市警察までの道のりをバスに乗ったあの夜。わたし達は無言でただバスに揺られていた。そんなことをぼんやり思い出していると、ふいにわたしの頭にあの男の声が響く。

「東方刑事と仲直り出来たようですし、もう一度、彼と組むのも面白いんじゃありませんか?」

 ほんと、余計なお世話だ。大体、未未市警察をはじめとした四大政府直轄都市にある自治体警察は、首都警察や全国の県警察以下、警察庁を頂点とした警察組織からは独立した人事となっており、異動するには一度今の警察組織を完全に辞任し、それから別個に自治体警察の採用試験を受けて合格をする必要がある。唯一の例外が、首都警察と自治体警察の間で組まれている交換研修制度を利用した異動だが、それには警視以上の推薦が必要となる。あいにくわたしにそんな酔狂な知り合いはいない。わかっていてあんな嫌味を言ったのだろう。ほんと、嫌な奴。

 がたん、とバスが揺れてわたしはごつんと窓ガラスに頭をぶつける。痛った、とわたしは唇を尖らせる。その時、わたしはえっと小さくつぶやく。今、何て言った?

「東方刑事と仲直り出来たようですし、もう一度、彼と組むのも面白いんじゃありませんか?」

 仲直りが出来たとはどういう意味だ? そう言ったということは、あの男はわたし達が一度仲違いをしたと思っているということになる。思い当たる節があるとすれば、あの夜だ。D区画の機密情報を開示した日、わたしは彼とぶつかった。わたしがまるで少女のように涙を浮かべて感情的に振舞ったあの日。だが、どうしてそのことをあの男は知っているんだ? 機密情報の保管庫横にあるあの小さな部屋にはわたし達二人しかいなかった。わたしは誰にもあの夜のことを話していないし、彼もそんなことを話すタイプじゃない。だとしたら、どうしてあの男はあの夜のことを知っているんだ? 

 まさか、あるのか? 監視カメラが。

 D区画には刑務所側も知らない監視カメラが仕掛けられているのか。

「見てきたんじゃありませんよ。聞いたんです」

 あるいは盗聴器か。だが脱走事件の際に、刑務所内は市警察によって隅々調べられている。その際に見つかっていないとすると、建物自体に巧妙に隠されていることになる。つまり、D区画が始まった時から設置されていると考えるべきだ。だが何のために。

 あの場所が囚人の社会実験なら、刑務官達の報告書だけで正確な囚人達の振る舞いやデータをとるのは限界がある。囚人への人権配慮を理由に表向きは監視カメラを設置しないが、隠れて囚人達を監視していたとしてもわたしは驚かない。問題は、わたしと東方さんの会話を知っているということは、囚人達が決して立ち入らない機密資料の保管庫横にある資料閲覧室にまで設置されていることだ。何のためにそんな場所まで監視するのか。わたしは鞄の中から先程受け取った封筒を取り出す。まさか、当たっているのか、わたしの嫌な予感。

 家に戻ったわたしは、本屋で受け取った資料を床の上に広げる。精神鑑定および各種心理テストの結果の資料。被験者の名前と写真が写るその資料を見て、わたしはわたしの仮説が正しいことを理解する。東洲区重警備刑務所D区画には、囚人も刑務官も知らない監視カメラ(あるいは盗聴器)がたしかに存在する。そして管理委員会は、いやあの猫の目をした男は、脱走事件のことも、七海圭吾のことも、そして違法賭博のこともすべて最初から知っていた。知っていてなお、あれほどの大事件になった脱走事件の真相を闇に葬り、違法賭博を黙認していた。何のために? 簡単なことだ。秘密の監視カメラ。黙認されるD区画の禁忌。あの男の目的は一つしかない。わたしは目の前の資料を見る。これが答えだ。これが、これこそが、本当の水曜日計画。

 人は何故人を殺すのか。平和になった今の時代でも人は人を殺す。人が人である以上、人を殺すのであれば、その理由を知りたがるというのも人たる所以なのかもな。

 ただの好奇心。ただの、そして最悪の好奇心。法務省直轄特定刑務所特別実験区画管理委員会局長、九一桜。長い前髪に猫の目をした男。あいつ、何てことを思い付くんだ。


 **********


 一カ月後。首都警察資料管理課に正式に移動すると、かつての同僚の姿はすでになく、わたしは埃臭い地下室での仕事を開始する。資料管理課には他に四人の同僚がいたが、膨大な過去の資料をただただ入力するだけのゴールのない日々に、あらゆることに興味を失っているのかわたしに関心を持つ者はいなかった。わたしは昼は黙々とキーボードを叩き、夜間と休日を使い可能な限り水曜日計画について調べ上げ、そしてようやく決心を固めたある日、休暇をとって電車に乗り未未市を訪れる。

 未未市警察刑事部屋に足を踏み入れると、相変わらず刑事達は忙しそうに働いており、わたしは懐かしむように入り口からその様子を眺めながら、ダンボールを抱えて初めてこの部屋に来た日のことを思い出す。ふと、入り口横にかけられたホワイトボードが視界に入る。東方班の欄には相変わらず一つの名前しかなく、あの事件以来、彼が殺人事件の捜査をしていないことがわかる。きっとこれまでのように警察学校での授業や、異常死体の検分に時間を費やしているのだろう。そんなことを考えているとわたしは気付く。東方班の欄に書かれた唯一の名前、加藤貞夫。D区画刑務官殺害事件の被害者。だがその名前は、「赤字に、なってる?」あの日、彼はたしかに黒いペンで名前を書いたはずだ。それなのに。

 わたしは踵を返して刑事部屋を出ると階段を駆け下りる。かつてわたしがまだこの未未市警察捜査一課の研修生だった頃、彼が捜査に行き詰った時など自分だけの時間を過ごすのに使っていた場所。捜査一課の未解決事件のファイルが集められた地下の資料室の扉を開けると、埃臭いにおいに混じって、タバコのにおいが充満している。ビンゴ、ここが彼の棲み処だ。

 電灯をつける。青白い蛍光灯がつき、わたしは書類棚の間を部屋の奥へと歩いていく。書類棚の先には大きな机とぼろぼろのソファがあり、ソファの背後の壁には無数のメモや資料がテープで貼り付けられている。『殺意が高まる』『水曜日計画』『獲物の選び方は?』『連続殺人』『斉藤雅文は獲物だった』『獲物を奪われたことへの復讐』そうか。彼はあれからずっと一人で捜査を続けていたのだ。そして、彼はたった一人で、たった一人でここまで辿り着いたのか。

 机の上には膨大な資料が積み上げられている。ファイルを手に取るとそこにはD区画の囚人の資料が収められている。D区画で起きた囚人の死亡事故については、あの事件以来、管理委員会の作成した内部資料を市警察と共有することで決着がついている。この点については、捜査一課長が法務省に対して働きかけた結果だろう。あの男にしてみればたとえ一部でも自分達の機密情報を市警察と共有するのは本意ではないはずだ。捜査一課長の維持を垣間見た気がしてわたしは勇気づけられる。彼もまた、殺人課刑事に違いない。

 机について囚人の資料を一人で黙々と読んでいると、がちゃりと扉が開き、閉じると同時にライターの火をつける音がする。「未未市の条例で、公共機関ではすべて禁煙のはずですよ」わたしが言うと、資料棚の影から姿を現した咥えタバコの男は呆気にとられた顔でわたしを見たあと「ここで何をしている?」とたずねる。わたしは机の上にあった吸い殻が何本もねじ込まれた缶コーヒーの空き缶を掲げてみせて「捜査です」と答える。

 ソファにどっかりと腰を下ろすと彼はタバコの煙を吐き出し、受け取った空き缶に灰を落とす。「捜査だと? 何の話だ」

 わたしは壁に張られた無数のメモの前に立つ。彼はソファで煙をくぐらせながらじっとこちらを見ている。わたしはメモを見上げたまま「どうしてもお伝えしたいことがありまして」と告げる。

「だから、」タバコを空き缶にねじ込む音が聞こえる。「何の話だ?」

「東洲区重警備刑務所D区画。正式名称は法務省直轄特定刑務所第四実験区画です。そう、あそこで行われているのは実験なんです。様々な条件下で被験者がどのように振舞うのか、それを観察し記録することを目的とした場所です」

「そうだな」

「ですが、管理委員会は一度として、いいですか、一度としてわたし達にも被験者が囚人だけだなんて言ってないんです」

 振り返ると、彼はぎょっとした表情を浮かべてこちらを見ている。やはりそうだ。彼も気付いている。わたしと同じ結論に辿り着いている。

「東方さん。あそこでは囚人だけじゃありません。刑務官もまた、被験者なんです」

 そう、それこそが水曜日計画の正体。管理する側と管理される側。それぞれの立場でどのように人は振る舞い、どのように悪意と暴力が芽生えていくのか。

 今ならわかる。あの医者の言葉。

 囚人のみならず刑務官に関する情報もすべて法務省に帰属する、それがルールよ。

 当然だ。刑務官も被験者なのだから、その情報は機密に違いない。

「D区画に監視カメラあるいは盗聴器が設置されている可能性があります」

「何だと?」

「確証はありませんがその可能性は高いと思います。カメラの存在を知れば行動に影響を与えます。刑務官も被験者であるのなら、当然刑務所側にもその存在は隠さなければなりません」

「待て。お前の話が事実だとすると、管理委員会は刑務官の行動も監視していたことになる。つまり管理委員会は脱走事件の際に起きていたことも違法賭博もすべて知った上で黙認していることになるぞ」

「事実黙認したんです。何故なら、刑務官がどのような犯罪に手を染めるのか、それもD区画の重要な実験結果だからです」

「面白い話だがやはり無理がある。あの脱走事件では実験区画の存続その物が危機に陥った。それでもなお黙認していたと言うのか?」

「あれは完全に事故だったと思います。実際に死体がなくなってしまったなら、管理委員会側も脱走事件を覆すことは出来ません」

「そもそも、刑務官も被験者だという根拠はどこにある。監視カメラが実際にあったとしても、囚人の観察に用いられると言われればそれまでだ」

「もちろん根拠はあります」

 わたしはそう言うと、鞄から封筒を取り出し彼に渡す。

「何だこれは?」

「D区画刑務官採用試験結果です」

「刑務官の採用試験、だと」

「D区画に囚人が参加する際には遺伝子検査を始め、いくつもの心理テストや精神鑑定が行われています。そしてその検査内容とまったく同じ検査を、D区画に採用された刑務官達も受けているんです」

「どうやってこんな物を、」

 かつての同僚が必死の思いで探り出してくれた刑務官の採用に関する記録。

「D区画の刑務官は、未未市の複数の刑務所から募集され、各種検査や面接など長期間かけて選ばれています。法務省主導の社会実験であり適性を求められるのは当然ですが、参加を表明した時点で機密保持契約書にサインしているため、採用試験の内容はついては明らかにされていません。驚きましたよ。まさか囚人と同じ検査が行われているなんて」

「遺伝子検査まで行っているのか?」

「どう考えても刑務官の職務の適正には不要な検査です」

 彼がめくる資料には、多くの刑務官に交じって、加藤や松井の資料もある。

「D区画に採用された刑務官の心理テスト、精神鑑定から面白いことがわかりました。資料を見る限り、通常であれば明らかに不採用となるようなメンバーも選ばれているんです。幼い頃の小動物の虐待歴や反政府思想を持つ者、自殺傾向にある者、そして暴力性が高いと思われる者など、あきらかに法務省の社会実験には不適当な人物が採用されています。加藤や松井も間違いなく暴力傾向の高い人格の持ち主です。意図的に選ばれているのは間違いないと思います。一歩間違えばいつ犯罪を起こしてもおかしくないような刑務官と凶悪犯罪者とを共同生活させた時に一体何が起きるのか。あの男はほくそ笑みながら、それを観察しているんです」

 それからわたしは再び無数のメモが貼られた壁に向き直る。

「驚きました。東方さん、あなたはたった一人でわたしと同じ結論に辿り着いたんですね」

 わたしは彼の方を見る。

「一体どうやって知ったんです? 刑務官の中に、連続殺人犯が紛れ込んでいると」


 東方日明の推理


「あそこでは水曜日に人が死に過ぎている」

 彼は書類棚の間からがらがらと自立型のホワイトボードを引っ張り出してくる。そこには二年間のカレンダーが並べて貼られ、特定の日にちに赤い丸が打ってある。

「加藤が殺されたのは三月十三日の水曜日未明、松井の死亡推定時刻もそれからちょうど一週間後の水曜日だった。まったく、水曜日計画なんてふざけた名前をつけるから、こんな質の悪い冗談が起きるんだとあきれていたんだがな。先日、市警察に公開されたD区画の内部資料によると、昨年一年間、D区画での囚人の死亡事件は十八件。その内、囚人グループ同士の抗争で実行犯も明らかとなっているのが三件、十五件は殺人であると認定されているものの、内部調査では犯人は不詳の不審死として処理されている。その十五件のうち十二件が水曜日に殺害されている。ここまで続くと単なる偶然とは思えない。そしてその十二件の水曜日に起きた殺人事件は、同一犯による連続殺人事件ではないか、それが出発点だ」

「この論文では連続殺人犯の多くが水曜日に殺人を犯す傾向にあると結論づけられている」

 でもあの論文は出鱈目な偽書だったはず。

「雨の日には人を殺したくなる。3がつく日にちには殺人衝動が抑えられなくなる。ある条件が揃った時に犯行に及ぶタイプの連続殺人犯はめずらしくない。もし仮に、水曜日に殺意が高まる連続殺人犯があの刑務所の中にいるのなら、加藤もまた同じ連続殺人犯によって殺されたと考えるのが自然だ。そして、松井もまた死亡したのが水曜日であるならば、自殺したのではなく同じ犯人に殺害された可能性は否定出来ない。そしてもし、松井を殺害したのが同じ連続殺人犯だとすると、犯人は刑務官でしかあり得ない。松井は刑務所の外で殺されたからな」

 囚人は刑務所の外で人を殺すことは出来ない。

「東方さんは、松井が自殺ではないと思いますか?」

「奥田由紀子の事件。最初の捜査の時にすでに松井は一度容疑者に上げられている。D区画の刑務官が捜査線上に上がったからこそ圧力がかけられ捜査は潰されたが、松井自身はそんな理由で捜査が立ち消えになったことは知らないはずだ。容疑をかけられたがまったく問題とはならなかった、松井自身はそう思っていたはずだ。そういう成功体験があるあいつが、奥田由紀子事件の再捜査が行われたからといって自殺するとは思えない」

 その考えは正しいだろう。松井の性格から考えても、自分の犯した罪で自殺することからは最も遠い場所に生きているはずだ。そして松井が自殺ではなく他殺であるのなら、本当にいるのか、水曜日に人を殺す連続殺人犯。

「水曜日に人を殺す連続殺人犯、もしそんな犯人がいるのだとして、ですが毎週ではないですよね。毎週なら昨年五十人が殺されている計算になります」

「当然、犯人の殺人衝動の引き金は水曜日だけではないのだろう。水曜日と何かが重なった時に、犯人は衝動を抑えられなくなる。そしてその条件さえわかれば、ずっと疑問だった問題の謎が解ける」ずっと疑問だった問題?「もし加藤殺しの犯人が刑務官であるならば、どうして夜勤帯に加藤を殺害したのか。どうしてあの夜でなければならなかったのか」

 それから彼は机の上に重ねられた分厚いファイルの束の上に手を置く。

「犯人の殺人衝動の引き金はこの中にある。これまでの囚人の不審死についてもう一度調べ直し、水曜日以外の共通する条件を探る必要がある」

「ですが、いくら犯人にルールがあるといって、馬鹿正直に守りますかね。夜勤帯に殺すなんてリスクが高過ぎます。自分の定めたルールで自分の首を絞めるなんて、不自然です」

「いいか。この犯人は極度の強迫性障害だ。強迫性障害は一説には前頭部と眼窩皮質の間の伝達に異常、あるいは脳底神経節に問題があるとされている。あくまで生理学的な問題で自分ではコントロール出来ない。殺したいんじゃない、殺さずにはいられないんだ。ある条件が揃った時、こいつは自分が抑えられなくなる。見てみろ」彼はそう言うと、再びカレンダーの方に向き直る。「この一カ月間で新たに発生した水曜日の殺人だ」

 え、わたしは思わず声を上げる。まさか、そんな。まだ続いているのか?

「市警察が介入しあれだけの騒動が起きたあとだぞ。しかも刑務官なら囚人の死亡事件がこの先、市警察とも情報が共有されることは知っているはずだ。今、刑務所で殺人を続けることはきわめて危険な行為だ。そんな状況下でもまだこいつは殺人を続けている。やめられないんだ。殺さずにはいられない」

 そして彼は相貌を引き締めて言う。

「D区画の刑務官の中にシリアルキラーがいるんだ。そしてその連続殺人犯によって加藤と松井が殺害され、今もって殺人が続いているのだとすると、犯人はあの日の夜勤帯、死んだ加藤と松井を除いた四人の刑務官の中にいることになる。それが俺の結論だ」

 それから彼は、再びソファにどっかりと腰を下ろすとタバコをくわえ火をつける。煙を吐き出すとしばらく何かを考え込む様子を見せたあと、ふとわたしの方を見る。

「捜査をしにきたと言わなかったか?」

「はい。この事件の決着をつけましょう」

「決着って、お前は首都警察の刑事だろう?」

「実は捜査一課を追い出されまして」

 わたしの言葉に彼の表情が一瞬曇る。

「首都警察から自治体警察に異動は出来ないぞ」「ええ、ですから今は首都警察の資料管理課にいます」「暇そうでうらやましいな」「東方さん。首都警察と自治体警察の間の交換研修協定はご存知ですか?」「二年前、お前はそれでうちにやって来ただろう?」「その協定を利用すれば、わたしは正式にここに異動することが出来ます」「警視以上の推薦があれば、だろ。捜査一課を追い出されたお前のためにわざわざ骨を折ってくれる暇な奴なんているのか?」「わたしです」「何?」「大人しくしていれば、来年度からわたしは警視に昇進します。そうしたらここに移動することが出来ます」わたしの言葉に呆れたような表情を浮かべてこちらを見る。「この事件の捜査のためか?」「わたし、あきらめが悪い女なんです」

 彼は大きく煙を吐き出すと、「あっそ」と他人事のように言う。

 うれしいくせに。

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