第21話 真実

【TEN】


 わたしは小さい頃からミステリー小説が好きで、いつか小説の中の主人公のようになりたいと警察官を志し、未未市警察の殺人課の刑事達に出会い彼等に憧れ、紆余曲折を経て今、東洲区重警備刑務所の所長室にいる。ミステリーといえば、最後に関係者が一堂に会して謎解きを披露するのが見せ場だが、ようやく降ってわいてきたその機会に舞い上がるほどわたしは子供ではない。今、この殺伐とした空気が充満した所長室でこれから話をしなければならないのは気が重いし、何より自分の組み立てた理論に少しでもほころびがあれば大恥をかくだけではすまないだろう。刑務所長、D区画刑務主任、市警察捜査一課長、そして尊敬すべき三名の未未市警察捜査一課の刑事達。彼等を前に、わたしは大きく深呼吸すると、それでは始めます、と宣言する。

「最初にこれを刑務所長に提出いたします」

 わたしは一枚の書類を刑務所長の机の上に置く。

「何だね、これは?」

「未未市中央裁判所が発行した逮捕状です。松井刑務官を逮捕します」

 わたしの言葉に、爬虫類が飛び跳ねながらわたしに牙をむく。

「どういうつもりですか。あなたはまさか、松井が加藤を殺したとおっしゃるのですか?」

「誤解なさらないで下さい。加藤刑務官殺しではありませんよ。わたしが請求した逮捕状は、奥田由紀子殺害事件の容疑です」

「奥田由紀子? 一体、誰だ」

 刑務所長がわたしにたずねる。

「以前、ここの医務室にいたボランティアの看護師です。彼女は半年前に自宅で押し込み強盗によって殺害されています」

「半年前だと。一体、何人が死んでいるんだ?」

 刑務所長が困惑した声を上げる。

「半年前。それがすべての始まりです。脱走、いえ、ここでは行方不明という言い方がふさわしいでしょう。行方不明になった斉藤雅文、彼と同房でその後に加藤と松井に殺害された七海圭吾、そしてそれからほどなくして押し込み強盗にあった奥田由紀子。三人が相次いで殺害された半年前の一連の事件。そのすべての原因に、加藤と松井がD区画で開催していたボクシングの違法賭博がありました」

「見てきたようなことを。何の証拠があるんです?」

 爬虫類が必死の形相でわたしに食ってかかる。

「見てきたんじゃありませんよ。聞いたんです」

 わたしはそう言うと、ポケットから小さなカセットテープを取り出す。

「これが証拠です」

「当ててやろうか」わたしの背後で壁にもたれかかって腕組みをしている男が言う。「留守番電話だな」

 彼の言葉にわたしは大きくうなずく。「その通りです。これは七海圭吾が残した証言です。D区画内で行われているボクシング賭博の実態、そして行方不明になった斉藤雅文について彼がすべて証言しています。加藤と松井は証人の口を塞いだと思っていたはずです。でも残っていたんです。証言が残されていました」

「留守番電話とは何だ。順を追って説明しろ」

 捜査一課長の言葉に、わたしははい、と答えると顔の前で祈るように両手を合わせる。わたしが知恵の王宮の住人になるための儀式。殺人課刑事になるための儀式。話すべきことを一度頭の中で反芻し、それからぐるりと部屋の中を見回す。

「法務省直轄特定刑務所第四実験区画、通称D区画では違法賭博が行われています。胴元は加藤と松井の二人の刑務官。違法賭博には複数の刑務官が参加していると思われます。賭博の実態は囚人を使ったボクシングです。試合は加藤と松井の二人が勤務につく夜勤帯に開催されていたようです。D区画監房エリアは防犯カメラもなく夜間も監房は施錠されません。これは法務省の定める規定ではなく、D区画側から申請した仕様です。囚人達を監房エリアから連れ出しボクシングをさせるにはもってこいの環境だということはおわかりになると思います」わたしはそこまで言うと、一度小さく唇を鳴らす。「では、次に具体的に何が行われていたかを説明します。加藤と松井は何か違反をした囚人に、余興としてボクシングを行い、試合に勝てば懲罰房行きを免除してやると持ちかけます。普段から自由を満喫している囚人達にとって懲罰房に閉じ込められることがかなりの苦痛であることは想像に難くありません。暴力犯罪で収監されている血気盛んな囚人達にとっては願ってもない救済措置です、断る理由はないでしょう。そうやって夜間に秘密のボクシング大会が開かれていました。もちろんあくまで単なる余興で賭博の件は囚人達にはひた隠しにしていたはずです。囚人の命を使った賭博なんて、人権侵害も甚だしいですからね。一方で余興である限り、囚人達からボクシング大会の秘密が漏れる可能性は低いと踏んでいたはずです。ボクシング大会の存在が外に漏れれば、夜間の監房は施錠され監視カメラが設置されることになる、囚人達はそのことをよくわかっています。人間は一度、与えられた自由を奪われることを極端に嫌います。夜間の自由を確保するためにも、囚人達からボクシング大会の存在が漏れる心配はないと考えていたはずですし、事実そうでした」

「だがそんなに都合よく、加藤と松井の夜勤帯に合わせて囚人が懲罰房行きになるとは限らないだろう」

 課長の指摘にわたしはええ、とうなずく。通常あり得ないことはやっぱりあり得ない。偶然でないとすると答えは一つしかない。

「当然、濡れ衣をかけたんです。賭博の開催が決まりターゲットを選ぶと、その囚人に冤罪で懲罰房行きを宣告したんです」あるはずのないナイフが七海圭吾のベッドから見つかったように。「囚人達にとっては寝耳に水。きっと彼等は対立する囚人グループによって仕組まれたと思ったはずです。とすればなおさら、試合に勝てば懲罰房を免れるという提案は願ってもないチャンスです。刑務官には感謝こそすれ恨みを抱くことはない。そうして何も知らない囚人達の裏で、刑務官達はその試合の勝敗に賭けていました」

「出鱈目です」爬虫類が全身を震わせながら抗議するが、当然わたしは無視。

「それでは半年前のあの日、一体何が起きたのでしょうか。生贄として選ばれたのは、日中に刑務官と揉め事を起こした斉藤雅文と七海圭吾でした。彼等は決められた時間に監房から抜け出し地下のジムへと向かいました。ここまでは予定通りでした。いつも通り二人はグローブをはめリングに立った。そして悲劇が起きたんです」

「七海圭吾が斉藤雅文を殺した。二人は元々、憎み合っていたのか」

 課長の言葉に、わたしはいいえと大きく首を振る。

「最初はそう思っていました。ですが実際は違いました。二人は仲違いしていたわけでも憎しみあっていたわけでもありません。その逆です。だからこそ、この悲劇は起きたんです。七海圭吾の証言によれば、試合は七海が勝ったようです。試合に負けた斉藤雅文は、加藤と松井によって懲罰房に連行されて行った。懲罰房に向かう斉藤は自分の足で歩いていったそうです。そして監房エリアと懲罰房に間にあるエアロックに入り、悲劇は起きた」

 わたしは手を下ろすと爬虫類を睨みつけて言う。

「七海圭吾の証言によると、試合が終わり懲罰房に連行される際に、斉藤は七海に目配せをしてきたそうです。七海は斉藤と比べて体格は小柄で性格も比較的大人しいタイプです。真正面から殴り合えば七海が斉藤に勝つことは難しい。斉藤と七海は同房で仲良くやっていました。だから、どちらかが大怪我をする前に、斉藤はわざと負けて試合を終わらせた、斉藤は八百長をしたんです」

 八百長ボクシング、それこそがヒロ・イシグロの遺言。

「斉藤の優しさ、それが命取りでした。加藤と松井は斉藤が勝つ方に賭けていたんです。試合中、加藤と松井は斉藤に向かって、俺達に損をさせるつもりかとはっぱをかけるのを七海は聞いたと証言しています。あの試合が賭博対象だということは知らなかった七海と斉藤です。だからこそ、ただの余興だと思っていたからこそ無邪気に八百長を演じ、そして加藤と松井は賭けに負けた」

「まさか、賭けに負けた腹いせに斎藤を殺害したのか?」課長が唸るように言う。

「あるいは八百長を見抜かれたかです。普通に考えれば斉藤が勝つに決まっていますから。そして懲罰房へと連行された斉藤はその後、二度と帰ってくることはありませんでした。七海は自分の監房に戻ってしばらくして、監房エリアの刑務官が慌てて特別監房の方に走っていったところを見ています。何か不測の事態が起きたことは間違いないでしょう」

「七海圭吾の証言を信じるならば、斉藤雅文は脱走ではなく殺害されたと考えるべきだろうな」課長が神妙な面持ちで言う。市警察の捜査が誤った結果であることを受け入れるのは彼には耐えがたいことであろうが、真実には誠実に向き合おうとする姿は、彼もまた警察官であることを示している。

「もちろん彼等に最初から斉藤への殺意があったとは思えません。斉藤を殺せば、最早ただの余興ではなくなってしまう。違法賭博の実態が明るみに出ることは、加藤と松井にとって最も恐れることです。もし仮に違法賭博の秘密が主要な囚人グループに知られることとなれば、D区画内での力関係は一変します。弱みを握られた刑務官が囚人に支配される恐れがある。だからこそ違法賭博は絶対に守らなければならない秘密です。彼等にとって斉藤雅文を殺すことは悪手以外の何者でもありません。故殺ではなかったはずです。ですが、それでも過剰な暴行によって斉藤を死亡させたのは紛れもない事実です。誰か囚人に罪をなすりつけることが出来れば問題はなかったのでしょう。例の如く囚人の不審死として扱えばいい。ですが彼等は警棒など腰に下げている武器を使用しました。医者により死体の検分がなされれば刑務官による虐待死であることが確定します。そして何よりも、彼等は監房エリアと特別監房エリアの間のエアロック内で斉藤雅文を殺害してしまった。囚人が入ることの出来ない場所で殺害した以上、殺したのは刑務官でしかあり得ません。だから彼等は斉藤雅文の死体を隠す必要があったんです。エアロックにある斉藤雅文の死体を、絶対に誰にも見られるわけにはいかなかった。彼等はパニックになったはずです。すべてが終わる。違法賭博に関わったすべての刑務官の人生が終わる。そして彼等は最悪の決断をしたんです」

「ありもしない脱走事件を作り上げたのか」

 課長の言葉に爬虫類が悲鳴を上げる。「違う、それこそすべてでっち上げだ。いい加減なことを言うのはやめるんだ」

「いいえ、やめません。わたしは刑事です」

 わたしは一喝し、部屋に静寂が戻ったところで話を再開する。

「死体をいつまでもあのエアロックに置いておくわけにはいきません。ですが監房エリアに運び込めば囚人に斉藤雅文の死体が見られます。七海圭吾の話では、監房エリアにあった図書室の本の返却用ボックスがエアロックに運び込まれ、しばらくして出てきたとのことでした。きっとボックスの中に死体を隠し、荷物搬送用エレベーターで地下に死体を下ろしたのでしょう。しかし管理エリアにも死体を放置出来る場所などそうそうありません。彼等はボイラー室の壁を破り、その奥の排水管の中に斉藤雅文の死体を隠しました。彼等は必死に知恵を絞ったはずです。とにかく、斉藤雅文が死亡したことを七海圭吾には知られるわけにいきません。知られれば彼の口から刑務官が斉藤雅文を殺害したこと、そしてそれがボクシングの試合のあとだと証言されれば、そこから違法賭博の秘密が暴かれる恐れがある。囚人達、特に七海圭吾には斉藤雅文がまだ生きていると思わせ、その上で死体を隠れて処分しなければならない」

 こうしてあまりにおぞましい私利私欲のためだけの偽装工作が始まった。

「D区画で殺人が発生した時、医者が死亡確認をした後、死亡診断書と共に死体はD区画から搬出されます。その際に医者が同行は必須ではなく、書類と死体袋に入った遺体さえあれば運び出すことは可能です。彼等は斉藤雅文がいなくなった理由を囚人達には脱走したと説明し、死体を運び出すことにしたんです」

 だがそこでさらなる悲劇が起こる。

「ボイラー室は地下二階、通常囚人が立ち入るところではありません。囚人に見られることなく管理エリアから安全に斉藤雅文の死体を運び出す、それが彼等のシナリオでしたが、運命のいたずらか、斉藤雅文の死体が下水管から流れて行ってしまったんです。意図せず、斉藤雅文の死体は刑務所から脱走することになった」

 そして存在しないはずの脱走事件が現実になった。

「斉藤雅文が脱走したなんて話は信じられなかったと七海圭吾は証言しています。脱走事件が起きた場合、普通はすぐに市警察に通報されるはずですが、いつまで経っても市警察はD区画にやってこない。それどころか、彼等も監房に閉じ込められるわけでもなくいつもと同じく行動することが出来た。刑務官にとってはやらせの脱走事件ですから厳戒態勢を敷くまではしなかったのでしょう。それがさらなる悲劇を引き起こしたんです。マスコミにリークしたことについての証言は残されていませんでしたが、あの時点で脱走をマスコミにリークする必然性があるのは七海だけでしょう。彼は脱走事件が実際に起きているか確認するために外部にリークしたんです。マスコミにリークすれば必ず刑務所側に確認が入る、そして脱走事件でなければその嘘は暴かれる、そう期待したのでしょう。ですがその時にはすでに、斉藤雅文の死体は本当にD区画から脱走した後だった」

 事態は最早収拾不可能な状況に陥っていた。

「マスコミに漏れ、死体もなくなった。でっち上げの脱走事件が本当の脱走事件となった。不運続きの彼等の唯一の幸運は、市警察を挙げた捜査でも斉藤雅文の死体が発見されなかったことです。死体が流れてもう何時間も経過していた。網の目のように張り巡らされた用水路に死体は流れてしまった。時間が経てば経つほど、彼等の暴行の痕跡は失われていきます。脱走事件にはなったが刑務官による虐待死という事実も違法賭博の秘密も隠し通すことが出来る。一週間経っても死体が見つからなかったことで、彼等は胸をなでおろしたことでしょう。そして、加藤と松井にとって残された心配は七海圭吾だけになりました。市警察に正式に脱走事件と認定された以上、七海圭吾に出来ることはなく、彼はただただ沈黙を守っていました。加藤と松井はそれで満足すべきだったんです。ですが七海が生きている限り自分達の脅威になると考えた二人は、七海の存在を無視することが出来ませんでした。彼の行動をずっと監視していた。そしてそれに気付いた七海は自分の命が危険だと考えるようになった。このテープには自分も殺されるかもしれないという彼の恐怖が記録されています。そして事実、そうなった」

 わたしは再び顔の前で両手を合わせると、両方の人差し指を唇に当てる。

「七海は逃げ場のないD区画の中で、日々、命の危険を感じていました。沈黙を貫くことが彼の命を守る唯一の方法でしたが、一方で彼は忘れられなかったんです。わざと負けて自分の代わりに懲罰房へと向かう斉藤雅文が、自分に向かって目配せした顔を。自分を守るためにわざと負け、そのために殺された斉藤雅文。彼の最後の姿を七海圭吾は忘れられなかったんです」

 悲劇とは、運命に抵抗して苦悩する人間の姿を描いた物語だ。 

「七海圭吾は疑問に思いました。懲罰房に連れていかれた斉藤雅文が脱走なんて出来たはずがない。特別監房エリアから地下に行くには監房エリアを通らなければならないが、斉藤雅文の姿を誰も見ていない。誰にも知られずに特別監房エリアから地下に行く方法などあるのか。そして思い出したんです。あの晩、エアロックに運び込まれた図書室の本の返却ボックスを。特別監房の囚人は読書を許可されていません。あのカートによって斉藤雅文が運び出されたと七海圭吾は気付きます。そしてそうであるならば斉藤雅文は刑務官によって殺害されたことになる。だけど理由がわかりませんでした。彼は必死に考え、そして一つの答えに辿り着いたんです。ボクシング賭博には囚人が二人必要です。二人同時に懲罰房行きとするには、監房から違法な物が見つかった、そしてその部屋の囚人二人を連帯責任で懲罰房行きにするのがもっとも簡単な方法です。七海と斉藤の時も、二人の監房から違法薬物が出たとして懲罰房行きを宣告されたようです。ですが当然二人は身に覚えがありませんでした。しかも、普通なら敵対グループの罠と考えるところですが、生憎二人共どの囚人グループにも属していませんでした。普段から他の囚人とのトラブルもなかった二人にしてみれば、あまりにも不可解な状況です。加えて試合中の加藤と松井の、損をさせるつもりかという発言、そして試合の直後に斉藤雅文が殺されたという事実、そこから七海圭吾は二人が刑務官に嵌められて試合をさせられたこと、そしてそれがボクシング賭博の可能性があることに思い当たったんです」

 斉藤雅文は、刑務官によって仕組まれた違法賭博のせいで殺された。

「一歩間違えれば同じことが自分に起きていた。斉藤雅文は自分の身代わりに死んだ。七海圭吾は斉藤雅文の死に報いるために、違法賭博の一件を告発することを決意しました。もちろん違法賭博の証拠はありません。普通に告発するのは無謀です。囚人グループに属さない彼に頼れる者はいません。脱走事件がマスコミにリークされたことで、外部への連絡はきわめて厳しく制限されていましたし、何より彼は監視されていた。彼には告発する手段がありませんでした」

 わたしは一枚の資料を課長に手渡す。

「死の直前、七海圭吾は手紙を出しています。手紙の送り先は奥田由紀子。例の看護師です。七海からの手紙は彼女の部屋に残されていました。手紙にはお世話になった看護師への礼が書かれていますが、この本文に意味はありません。東方さん、」

 わたしは振り返って、壁にもたれ掛かっている彼を見る。

「どうして留守番電話だとわかったんですか?」

 彼は小さく首を振ると、気付くのが遅すぎたよなとつぶやく。

「手紙は検閲されるから本文にメッセージをしのばせるのは難しい。事実、書かれているのも無味乾燥な定型文。メッセージを残すなら、一見して手紙には問題がなく、それでいて受け取った相手だけがメッセージを読み取れなければならない。検閲する刑務官が読んでも違和感を持たないが、受け取り手だけが一目見てメッセージに気付くことが出来るにはどうすればいいか。結論。宛先に受け取り手の物ではない電話番号を書いておけばいい」

 そう、それこそが七海圭吾の考え出した告発の方法だった。

「宛先に電話番号は不要ですが、仮に書いてあったとしても検閲官は気にも留めないでしょう。ですが、奥田由紀子だけはこの番号に違和感を覚えました。何故なら、そこに書かれていたのは彼女の電話番号じゃなかったからです」

「では、誰の番号だったのだ?」課長がわたしにたずねる。

「七海圭吾の生家でした。七海圭吾から奥田由紀子へのメッセージは、彼の生家を訪ねろ、です。そして彼女は彼の家に行き、留守番電話に吹き込まれた彼の遺言を見つけたんです」

 七海圭吾は知っていた。自分自身の命が危険なことを。彼は死の直前、奥田由紀子を何度か訪ねてきたと医者は言っていた。だが監視されている以上、医務室であったとしても重大な話は出来ないだろうし、下手に話せば彼女の命も危険にさらされる。だから誰にも気付かれない方法で、メッセージを送る必要があった。

「七海圭吾から手紙を受け取った彼女は、当初困惑したはずです。別に礼を言いたいだけなら何故医務室で言わないのか。ですがその直後、七海圭吾が殺害され、彼女は手紙の意味に気付いたんです。彼女は手紙にあった電話番号にかけ、それが七海圭吾の生家だと知り、彼のメッセージを正しく理解したんです。頭のいい女性です。そして七海圭吾の遺言を聞いた彼女は、D区画で起きている恐ろしい事実を知ります。ですが下手に騒ぎ立てれば今度は自分の身が危なくなります。そのため彼女は確実な証拠を手に入れる必要があると考えました。七海圭吾の証言を裏付ける決定的な証拠。ボクシングの試合が行われているという物的証拠。彼女は定期的に顔を腫らしたD区画の囚人が医務室を訪れていることに気付き、それが証拠になると考えたんです。そして医務室からD区画の囚人のカルテを調べ、データを集めました。しかしそれが彼女の命取りになりました。D区画の囚人の情報は機密情報です。彼女が診療と関係のない囚人のカルテに何度もアクセスをすればその痕跡が残ります。そして、加藤と松井は彼女の行動に気付いたんです」

 わたしが振り返ると大島刑事が一冊の捜査資料を課長に手渡す。

「東洲区分署で作成された奥田由紀子殺害事件の捜査資料です。当時、市警察にも捜査協力依頼が出されています」

「捜査協力依頼?」

「担当は東方、お前だよ」

 大島刑事の言葉に、彼は目を閉じたまま小さく首を振る。

「当時、東方が推理した犯人像は、被害者の身近にいる身長一八〇センチ以上の男性、行動力はあるが行き当たりばったりで綿密に計画を立てるのは苦手、感情的になり冷静さを失うタイプ、心当たりがあるだろう?」

 杉本刑事の言葉に彼は大きく息を吐くとうなずく。

「あいつだ」

「当たっていたんですよ、東方さん」わたしは彼に告げる。「大正解です。夜な夜な医務室でカルテを調べていた彼女を怪しんだ松井は、彼女が何を掴んだのかを知るために彼女の自宅に忍び込みました。そして彼女のパソコン内のファイルを探している最中に、帰宅してきた彼女と鉢合わせることになり、三つ目の殺人事件が起きたんです」

「そこまで犯人像が当たっているのなら、どうして当時の東洲区分署の捜査で松井は逮捕されていないんだ?」

 課長の問いにわたしは首を振る。

「脱走事件です。すべてはあの脱走事件のせいなんです。脱走事件が未解決のまま特別実験区画が大きなバッシングを受けていたため、捜査に圧力がかかったんです」

 東洲区分署の刑事は、上からの圧力と言ったがそれは市警察からの圧力とは限らない。きっとD区画の刑務官が捜査線上に浮上した時点で、法務省が手を回したのだろう。

「ですが、外圧で捜査が中止になったことを、東洲区分署の刑事達だって納得はしていません。彼等はいつ捜査が再開になってもいいように、ちゃんと証拠品を揃え、当時の被害者宅から採取したDNAサンプルも保管しています。現在DNAは照合中ですが、現場から採取された部分指紋とは一致しました」

「だがそれでは、松井が奥田由紀子の部屋に行ったことがあるという証明に過ぎない」

「それでも、DNAが一致しこの七海圭吾の告白のテープがあれば、少なくとも半年前の斉藤雅文脱走事件、七海圭吾殺害事件、奥田由紀子殺害事件を再捜査する根拠にはなります。そして、この三つの事件すべてに加藤と松井が関わっているのなら、今回の加藤殺害事件と松井が無関係というのは無理があります」

 課長は一度天井を仰ぐと、それから眉間にしわを寄せわたしにたずねる。

「だが、斉藤雅文を監房エリアと特別監房エリアの間の密室で殺したことで大変な目に遭ったというのに、何故、七海圭吾の時に加藤と松井は同じことを繰り返したんだ? それこそ誰か囚人によって殺されたことにした方が簡単だったはずだ」

「推測でしかありませんが、七海圭吾が模範囚で他の囚人から狙われるような存在ではなかったことが大きかったのではないでしょうか」

「あるいは、七海圭吾が誰かに刑務官に狙われていると話している可能性を恐れたんでしょうね」彼がわたしの言葉に続けて答える。「七海圭吾の死体が見つかれば刑務官に殺されたと騒ぐ連中が出てくるかもしれない。それならば、最初から正当な形で刑務官の手によって殺害する方が安全だと考えたのかもしれません」

 課長は小さく首を振ると、改めてわたし達にたずねる。

「加藤を殺害したのも松井か?」

 課長の問いに、わたしはしばし考え込む。

「わかりません。ですが、もう一度、本人を取り調べてそれを聞く必要はありますね」

「まったく」声の方を向くと、彼が寄りかかっていた壁からのっそりと体を起こす。「お前が帰ってくるまで、俺はあの囚人に、何百回も同じ質問を繰り返したんだぞ。お前が本当に殺したのかって」

「遅れてすいませんでした。でも、ちゃんと証拠は持ち帰りましたよ」

「あと三十分待っても帰ってこなければ、七海圭吾の自宅に向かえと言うつもりだった」

 ああ、やっぱり彼はとっくに気付いていたのだ。「いつから留守番電話のことを?」

「取り調べ中だ。七海圭吾は知能犯じゃない。他人の電話番号を覚えているタイプとは思えないからな」

「どうしてすぐに教えてくれなかったんです? わたしの携帯番号は変わっていませんよ」

「お前なら気付くだろう?」

 彼は背中を信じてくれた。それが一番大事なことだ。

 そしてわたしは七海圭吾の自宅の電話機から押収したカセットテープを課長に手渡す。

「再捜査をするだけの証拠、たしかに渡しましたよ」

 わたしはぐるりと周りを見回すと、それからはっきりと告げる。

「話は以上です」

「そんな話を信じろと言うのか?」

 この悪夢のような時間をひたすら耐えていた刑務所長の声はかすかにふるえている。

「あなたが何を信じるのかは関係ありませんよ」彼が口元を歪めながら言う。「ここにあるのは、あなたの管理する刑務所で、そして法務省直轄の政府機関で囚人の命を使った違法賭博が行われ、それにより複数の殺人事件が起きたという純然たる事実です」

 それから彼は爬虫類に向かって言う。

「反論はあるかよ?」

 爬虫類は顔中に脂汗を浮かべ、顔色は青ざめ、大きな目玉をぎょろぎょろと動かしているが最早言葉を発する余裕はないらしい。彼の沈黙を確認したのち、捜査一課長はわたし達に向かって命令する。

「いいだろう。松井を逮捕し、市警察に連行しろ」

「ここはわたしの城だ。好き勝手にはさせない」

 最早虚勢に過ぎない刑務所長の言葉を捜査一課長は冷ややかに切り捨てる。

「奥田由紀子殺害事件は刑務所の外で起きた事件です。あなた方には一切の権限はありませんよ」

 それから改めてわたし達に命令する

「松井を逮捕しろ」

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