第19話 天啓
彼はしかめっ面をして黙り込む。囚人が殺人を自白している以上、捜査を継続するにはその自白がでっち上げであることを証明する必要があるが、それには時間がなさすぎる。大体、わたし達は自白した囚人のことをろくに知りもしないのだ。事件直後の事情聴取をあの囚人に対しても行ったはずだが記憶にすら残っていない。どうやって自白がでっち上げだと証明するというのだ。
いや、違う。
違う。問題はそこじゃない。
わたしが考えるべき問題はそこじゃないだろ。
今、課長は、これはただの忖度だと言った。法務省から直接捜査の終了を命じられたわけではないと言った。何故だ。何故、法務省は介入してこないんだ?
強烈な違和感が押し寄せ、わたしの脳裏にあの猫の目をした優男の顔が浮かぶ。どうしてあの男が介入してこない。ここは水曜日計画の本体。機密情報の開示請求までしたわたしの行動を放置しているはずがない。今起きているこの事態を当然、九尾の猫は把握しているはずだ。それなのにどうして。わたし達は違法賭博を告発しようとまでしているんだ。何故、あの男はわたし達をここから締め出そうとしないんだ?
足踏みを続けるわたし達に、刑務所長が厳しい口調で告げる。
「捜査一課長。これが捜査一課としての総意ではなく、現場の一刑事の単なるスタンドプレーであるのなら、彼の謝罪をもってわれわれはこれまでの非礼には目をつぶろう」
刑務所長の言葉に彼はひるむことなく言い返す。
「まだ取り調べの最中ですよ」
「はねっ返りが。君の意見など最早関係ない。私は今、捜査一課長と話をしているのだ」
「課長、」彼は課長に詰め寄る。「本気でこのまま引き下がるんですか? 市警察をコケにされたままで」
「そもそもお前のやり方がまずかったんだ。捜査を続けたければ証拠を示せ。囚人の証言が偽証であるという証拠、違法賭博の証拠、半年前の囚人殺しの違法性、何でもいい、現状を変えたければたった一つでも根拠を示せ」
考えろ。このままでは時間切れになる。わたしが今するべきことは何だ? わたしに出来ること、わたしにしか出来ないことを考えるんだ。
「証拠はありませんよ」
「だったらわれわれの負けだ、東方」
「ですが課長、上からの指示は、加藤刑務官殺害事件の捜査の中止、ですよね?」
えっ。わたしは思わず彼の顔を覗き込む。
「この事件の捜査が続けられないというのなら、半年前の斉藤殺しの捜査を行うまでです」
「言ったはずだ。あの事件を蒸し返すことは出来ない」
「やってみなければわからんでしょう?」
そう言うと、彼は刑務所長とそれに付き従っている小柄な鰐男に向かって言い放つ。
「半年前の斉藤雅文脱走事件。あれは脱走事件ではありません。あれは、D区画の刑務官による斉藤雅文の殺害事件です」
まったく予想していなかった言葉に、爬虫類は文字通り言葉を失い大きく口を開いたまま固まっている。困惑した表情で刑務所長が彼に向かって言う。
「貴様は何の話をしている。脱走した斉藤雅文が逃走中に事故で死亡したと結論付けたのは市警察だろう」
「ええ。市警察は誤った結論を下しました。斉藤雅文は刑務所から出た時点ですでに死んでいたんです。死体が下水管を通ってあの工業用水路まで流れ着いたんです」
「彼は何を言っているんだ?」
どう返答すべきか迷っているのか捜査一課長は答えない。
「所長。聞きましたか今の。彼は妄想に取り憑かれた狂人と言ってもいい。さっさとここから追い出して下さい。これ以上、好き勝手な真似は許されません」
きいきいとがなり立てる爬虫類を意に介すことなく彼は言い返す。
「まああんた達にも同情すべき点はある。隠した死体を回収するつもりだったが、B級映画的リアリティって奴のおかげで死体は下水管を流れ行方不明となり、脱走事件はこじれにこじれて社会問題にまで発展した。だが、すでに死んでいた斉藤雅文を責めても始まらない。あんた達はただただ運が悪かった」
「あなた、完璧にイカれていますよ」
「一体何なんだ、この茶番は」
突然、刑務所長が大声を上げる。その声に誰もがびくりと体を震わせ、部屋の空気が張り詰める。そんな中、彼は眉をひそめ、それからゆっくりと顔を歪めるといつもの甲高い下品な声で笑い出す。
「そうか、あなたは知らなかったのか?」
それから彼は捜査一課長にぐいっと歩み寄ると押し殺すような唸り声を上げる。
「課長。刑務所長を説得して下さい。彼はD区画とはつながっていませんよ。彼を説得することが出来れば、捜査を続けることが出来ます」
「東方。何度も言わせるな。説得するには材料が必要なんだ。半年前の脱走事件に触れると言うなら尚更だ」
「もうやめないか」刑務所長の声は一段と厳しい気配を増している。「これ以上は聞くに堪えない。捜査一課長、即刻この刑務所から出て行っていただきたい」
手は尽きたのか。これで終わりか。せっかくここまでたどり着いたというのに。法務省が介入してきていない今がチャンスのはずなのに。
ざわり。わたしの背中の毛が逆立つ。
そう、法務省が介入してきていない。あの男が介入してきていない。そのことの意味をわたしはもっと考えるべきだ。D区画は水曜日計画の中心だ。その秘密を暴こうとしているわたし達を排除しないのは、排除出来ないからそうしないのではなく、排除する必要がないからそうしないのでもなく、排除すべきではないからそうしているんだ。あの男は意味のないことなど絶対にしない。あの男がわたし達の捜査に介入してこないのは、そうする必要があるからそうしているんだ。あの男はあの男の意思で何かしらの思惑を持って、わたし達に捜査を続けさせようとしているのだ。
でもどうして、一体何のために。いやそれは問題じゃない。あの男の真意は問題じゃない。あの男がわたし達に捜査を続けさせたいと思っている、それ自体が重要なんだ。捜査を続けさせたいということは、続けることが出来るということだ。この状況を突破する鍵をわたし達は持っているということだ。わたし達はもうすでに、答えを手に入れているということだ。わたしが気付いていないだけ。そうは見えていないだけ。でもわたし達はもう答えを持っている。それじゃあまるで、
「クロスワードパズルだ、」
わたしは思わずつぶやく。
彼が怪訝そうな顔でちらりとこちらを見る。
そう、まるでクロスワードパズルだ。まったく関係のない顔をした様々な鍵を組み合わせることで、意味のある言葉が浮かび上がってくる。それと同じことをするべきだ。わたし達はすでに、様々な鍵を手にしている。一見、無関係に見える鍵をどう組み合わせるかだ。考えろ。この数日間、D区画で見たこと、聞いたこと、知ったことを組み合わせろ。何だ。一体わたしは何を見て何を聞いて何を知ったのだ。無関係なそれらを組み合わせろ。ばらばらのピースを組み合わせるんだ。
ばらばら?
わたしは再び自分の頭に響いた声に引っかかる。ばらばら。その響きに頭の中である映像が唐突に浮かぶ。あれはたしかわたしが初めて彼と出会った日。あの日、あの刑事部屋に初めて足を踏み入れた日。わたしは、わたしは鞄の中身をぶちまけた。鞄の中身が背中から刑事部屋の床にばらばらと散らばる映像が唐突にわたしの頭に浮かぶ。手帳やペンがちらばる場面がスローモーションで浮かんでは消える。ばらばらと。そして先程も同じことが起きた。この所長室に入った時、わたしは再び鞄の中身をぶちまけた。ばらばらと宙に舞うノートに資料に文庫本、その映像が頭の中に浮かぶと同時にわたしは理解する。完璧に理解する。そうかそうかそうかそうかそうか。これが鍵だ。最初からわたしは鍵を手にしていたんだ。
斉藤雅文は夜勤帯で殺害されが、死体の隠蔽や脱走事件のでっち上げなどの偽装工作は、翌朝以降に行われている。これはつまり、夜勤帯だけでなくD区画の刑務官全員が関わっているということだ。仮に、加藤と松井によって斉藤雅文が殺害されたとして、どうしてD区画はこの二人を生贄に差し出すという選択をしなかったのだろうか。粗野で向こう見ずで愚かな刑務官が二人いた。彼等を告発すればいいだけなのに、どうして他の刑務官まで巻き込んでの偽装工作が行われたのだろうか。事実、それから二週間後に起きた七海圭吾の殺害は、管理委員会に報告されている。だとしたら答えは一つだ。斉藤雅文の死には最初から複数の刑務官が関わっていた。D区画の刑務官全員が関わっていた。斉藤雅文の死の経緯が明るみになると全員の刑務官がまずい立場に追いやられる可能性があった。だとするとこう考えるのが一番自然だ。斉藤雅文の死には、D区画で行われている違法賭博が関係していた。
正解、正解、正解、正解、正解。
だから監房には鍵がかけられず、防犯カメラが設置されていないんだ。夜間帯に囚人が自由に監房を出入りする環境を作りその記録が残らないようにする、その状況をD区画が求めているということはつまり、夜間、囚人が関わる違法賭博が行われているということだ。囚人が関わる違法賭博。それこそが、脱走事件をでっち上げてでも隠そうとしたD区画の秘密なんだ。
「茶番は終わりにしましょう。囚人を取調室から監房に戻しますよ」
爬虫類の言葉に、捜査一課長も仕方あるまいと首を振る。
「いいえ。残念ながら茶番はまだ続きます。だってわたし達はもう、答えを知っているじゃないですか」
わたしの言葉に、部屋にいる全員の視線が一斉にこちらに集まる。わたしは鞄を開くとその中に右手を突っ込む。怪訝そうにこちらを見る彼の目の前にわたしは差し出す。古ぼけた手書きの値札のシールが貼られた一冊の文庫本。
「ボクサア?」
そう。ヒロ・イシグロの遺作。
「事情聴取での彼の言葉。あれは小説の話でも認知症の迷いごとでもなかったんです。きっと彼は東方さんの言葉がうれしかったんです。自分のことを覚えていてくれて、しかも自分の書いたものをきちんと受け取ってくれている読者に出会い、だから彼は教えてくれたんです。答えを。D区画で行われている秘密をわたし達に教えてくれていたんです。わたし達は最初から答えを手にしていたんです」
そう。捜査の初日から、答えはわたし達の目の前にあった。
「ボクシングです」これが正解のはずだ。「ここでは囚人によるボクシングの違法賭博が行われているんです」
わたしをじっと見つめ、それから彼は、そうかと何度もうなずく。わたしが見えたのであれば彼にもこの景色が見えたはずだ。理解したはずだ。「斉藤雅文が死亡した翌日、七海圭吾は全身打撲で医務室を受診していたな」
「どういうことだ。わかるように言え」
苛立つ課長に彼は言う。
「七海圭吾が斉藤雅文を殺害したんですよ」
そう。だがそれは囚人同士の単なる喧嘩ではない。D区画では囚人の不審死は日常的に起きている。何も隠すようなことではない。だがもし、その背景に刑務官の違法賭博があるとすると話が変ってくる。
「あのD区画では囚人を使ったボクシングの違法賭博が行われているんです。そしてあの夜、斉藤雅文と七海圭吾が試合を行い、七海は斉藤を殺害してしまった」
そして斉藤雅文の死は隠蔽され、口封じのために七海圭吾も殺害された。囚人の人権を守るために作られた法務省直轄の特別実験区画で、囚人の命を使った違法賭博が行われているとすると、それは人を殺すだけの秘密になる。
ちらりと見ると、彼の言葉に刑務所長は明らかに困惑し、鰐男の顔面には大量の脂汗が浮かんでいる。
「君達は一体何の話を、」
「あんた、そこの爬虫類に騙されているんですよ」彼は刑務所長に強い口調で告げる。「D区画にはあなたの知らない秘密がいっぱいだ。彼等は囚人の命を使ってギャンブルをしているんです」
「言いがかりだ。見当違いも甚だしい。ボクシング? どこで何を聞いたか知りませんがまたもや妄想ですか? よろしいですか。D区画では以前、スポーツによる囚人への心理状態を研究するために、試験的にボクシング大会を行っていました。社会復帰プログラムの一環です。ですが、一年前に重大な負傷者が出て以降、ボクシング大会は中止となり、以後は行われておりません」
爬虫類の悲鳴にも似た言葉はわたし達に向けてではなく、刑務所長への必死の弁解に聞こえる。
「所長。これは捜査の継続を認めさせるための卑劣な出まかせです」それから爬虫類はわたしに標的を定めたのか、まるで食い殺さんばかりの勢いでわたしに詰め寄ると唾を吐き散らしながらわめく。「いいですか。ここでは囚人達が青痣を作ることは珍しくもありません。彼等が勝手に殴り合うことはあっても、私達が彼等に殴り合いをさせるなんてことはあり得ません。馬鹿馬鹿しい、ひどいでっち上げだ」そして爬虫類は刑務所長にきっぱりと言い放つ。「所長。彼等がどんな妄想を抱くのも自由ですが、これ以上の侮辱は我慢出来ません。即刻、彼等をここから追い出して下さい」
刑務所長は困惑を隠し切れずにいる。D区画で起きた刑務官殺害事件、その犯人だと名乗り出た囚人が刑務所側のでっち上げだと刑事が騒いでいる、彼はきっとその程度の認識だったのだろう。だがこのわずかな時間で、次々と飛び出してきた自分の想定していなかった事態に、明らかに迷いが生じている。しかも、もしここでの話がすべて事実であれば、自分の進退にも関わる重大な事態だ。刑事の言葉を信じるならば捜査に協力し、自らD区画の状況を正すことこそが最善の策、そういう迷いが生じている。攻めるなら今だ。ここで引き下がるわけにはいかない。わたしは刑務所長に狙いを定めると一歩前に出る。
「刑務所長。これは妄想でもでっち上げでもありません。D区画では囚人の命を使った賭けボクシングが行われている可能性が高いと思います」
「君は管理委員会の特別捜査官だったな。それを証明出来るのか? 囚人から賭けボクシングの証言でもあれば信じるに足るが、君達はD区画の囚人全員を事情聴取しているのだろう。賭けボクシングについての証言はあったのかね?」
「いいえ」わたしは首を振る。だが、証明は出来る。「ですが証明は出来ます」
わたしはそれから彼の方を見ながらもう一度言う。
「東方さん、大丈夫です。証明出来ますよ」
わたしははっきりとそう告げる。彼はわたしをじっと見たあと、わかったとうなずく。
「水沼、証明しろ」
はい。わたしは彼と捜査一課長に向かって深々と一礼すると部屋から出ていこうとする。わたしに向かって爬虫類が大声を上げる。
「ちょっと待ちなさい。どこに行こうと言うんです。君達にはもう捜査権限はない。捜査一課長がそう言ったではありませんか。刑務所内を勝手に動かれては困りますよ」
「課長。上からの命令は、現在行われている取り調べをもって捜査を終了しろ、そうでしたね?」彼の問いに、課長はああ、とうなずく。「つまり、取り調べが終わらない限り、捜査は続く、そうですよね?」
彼の言葉に爬虫類の顔色がさっと変わる。捜査一課長は一度眉間にしわを寄せたあと、無論だ、と彼に答える。彼は不敵に笑うと刑務所長と爬虫類の二人に向かって言い放つ。
「俺は、取り調べを中断する、そう宣言してあの部屋を出ました。一度も取り調べの終了は宣言していません」それから彼はわたしに向かってたずねる。「特定刑務所特別実験区画において、囚人の取り調べにおける拘束時間に規定はあるのか?」
「いいえ、ありません」わたしははっきりと答える。
「つまり、俺が取り調べの終了を宣言しない限り、捜査は続く」
「どうあっても、君達は引き下がるつもりはないようだな」
刑務所長の言葉に、捜査一課長は慇懃にうなずいて応える。
「刑務所長。私の部下のあなた達に対する非礼についてはお詫びします。ですが、これは殺人事件の捜査なんです。権限がこちらにある限りにおいて、われわれに捜査を諦めるという選択肢はありません。二人共、」課長はわたし達に鋭い声で命令する。「捜査しろ」
はい。わたし達は同時に答え、そして一緒に部屋を出る。
部屋を出ると彼がわたしに言う。
「時間は俺が作る。お前は何が何でも証拠を持ってこい」ええ、とうなずくわたしに彼は問う。「確信はあるんだよな?」
「東方さんはわたしを信じますか?」
その問いに彼はわたしが一番聞きたかった言葉を口にする。
俺は背中を信じる。
そう言ったあと、彼はわたしに何かを投げてよこす。思わずキャッチすると彼はわたしに告げる。「必要になるかもしれない。使え」そう言ったあと、彼は念を押すようにたずねてくる。「運転免許は持っているんだよな?」「わたし、二十六ですよ」「十五歳にしか見えない」
そして彼は踵を返すと取調室に向かって歩き出す。わたしは手の中の車のキーを握りしめ廊下の反対側を走り出す。時間はない。わたしはこれからD区画で起きていることを証明しなければならない。
秘密を暴け。
秘密を、暴け。
**********
わたしはエレベーターをおりると足早に廊下を進む。
D区画で賭けボクシングが行われていることを証明するのに、わたしには一つのアイデアがある。加藤の残したノートを信じるならD区画における違法賭博の胴元は加藤と松井だ。夜間に違法賭博が開催されているのだとすると、加藤と松井が夜勤帯の日付に一致して、ボクシングの試合が行われていたはずだ。現時点で彼等の勤務記録を見ることは出来ない。だが。
医務室の前に立つ刑務官が止めるのを無視してわたしは扉を開ける。突然の来訪者に医者は驚いた顔でわたしを見が、あいにく今は礼儀に気を配っている余裕はない。
「すいません先生、止めたのですが」
いいのよと医者は刑務官に答える。「ちょうど休憩しようと思っていたところだから」
医者の言葉に、刑務官はそうですかと不服そうに部屋から出る。わたしは足早に医者の元へと歩み寄る。
「それで、何が知りたいの?」
わたしの切羽詰まっている気配が伝わったのか、医者は分厚いレンズの眼鏡の奥からわたしをじっと見る。
「一年前までD区画ではボクシング大会が開かれていたんですよね」
「ええ。青痣を作った囚人が山のように来て、とんだ迷惑だったわね。まあ、くだらない大会がなくなったとしても、囚人達の喧嘩は絶えないけど」
「つまり先生はこれまで、ボクシングで殴られた囚人と、喧嘩で殴られた囚人の両方を治療してきた、そうですね」まあ、そうねと医者は答える。「では、医学的に区別がつきますか? ボクシンググローブで殴られた傷と、素手で殴られた傷の違いが」
もし仮に、違法賭博が開催された日付とボクシンググローブで殴られた傷を持つ囚人が医務室を受診した日付に相関性があると証明出来れば、加藤と松井がボクシング賭博を開催している証拠になるはずだ。だがわたしのこのアイデアは早々に医者によって否定される。
「グローブで殴った傷は打撲痕、主に皮下出血、内出血が多いけど、素手で殴れば皮膚が切れやすい、ということは言えるかもしれないわね。あるいは素手で殴れば指や拳の骨のあとが残ることもある。でも、そんな典型的な傷はそれほど多くはないわ。グローブであっても目の周囲など皮膚の薄いところに当たれば皮膚は切れる。それに素手で殴った場合は自分が骨折するリスクがあるため彼等は喧嘩の際に手に何かを巻いて殴り合う。おまけに顔の傷は刑務官に目立つから彼等は体を殴る。服の上から殴ればますます判別は難しくなる。傷だけで判定することは容易じゃないわね」
当てが外れたか。わたしは自分の浅はかさに失望する。あれだけ大見えを切って勇んであの部屋から出てきたが、早速わたしは足元をすくわれる。だが、当然物語はこんなところで終わりはしない。動き出した物語は、ちょっとしたつまずいたくらいでひるむことはない。物語は、もう止まらない。
「そう言えば、同じことを彼女が言っていたわね」
え、どういう意味。わたしは思わず医者を見る。
「昔、ここにいた看護師が何かしきりに調べていたことがあって、一度、あなたと同じことをたずねてきたことがあったわ。同じように答えたけど、夜遅くまで毎日カルテを引っくり返していたわね」
以前はボランティアの看護師がいたのだけど、半年前に不幸な事件があってね。
わたしはわたしが決定的な最後の鍵を手に入れたことに気付く。クロスワードパズルの最後のマスを埋めたことを自覚する。
「それって、前に言っていた半年前に不幸な事件があった、という看護師のことですか?」
「え、ああ、そうね」
「不幸な事故、ではなく不幸な事件とあなたはおっしゃった。一体何があったんですか?」
**********
東方日明は仲間の堕落を目の当たりにした。
背中を信じる。そう誓った男が、仲間に手錠をかけることになった。それがどれほどの絶望だったかわたしにはわからない。だが彼はそんな絶望の淵に立たされながら、それでもなお、もう一度殺人課刑事として生きていく覚悟を決めたのだ。さっきの言葉が本心だったのかはわからない。自分に言い聞かせようとしただけなのかもしれない。必死に殺人課刑事であろうとしているだけなのかもしれない。それでも彼がもう一度、背中を信じると言ったことに、わたしはわたしのなすべきことを理解する。あの美しい季節を思い、これからどうすべきなのかを心の奥の奥でちゃんと理解する。ちゃんと受け止める。
わたしは殺人課刑事にならなければならない。それが、背中を信じると言った彼に応えるということだ。彼の相棒になるということだ。わたしは今、本物の殺人課刑事にならなければならない。この、エナメルを分厚く塗ったローファーで、空まで踊らなければならない。
中央管理棟を出ると駐車場にわたしは走る。行き先は決まっている。
**********
埋立地のダイナーで、対峙する男に東方は言う。
「たった一つ、たった一つだ」
**********
七海圭吾は死の直前に手紙を書いていた。それはあの医務室の看護師で、時を同じくして、その看護師が不幸な事件にあっている。不幸な事故ではなく不幸な事件。わたしの問いに、火のついていないタバコをくわえた医者は、疲れ切ったような口調で答える。
「半年前に亡くなったのよ。彼女、殺されたの」
「殺された?」
「自宅に押し入った強盗に、襲われたのよ」
もう一つの事件。
半年前、三人の被害者、三つの殺人事件。
わたしは震える声で、医者の言葉を反芻する。
半年前、奥田由紀子は殺された。
**********
東方は男に向かって告げる。
「クロスワードパズルさ。たった一つのピースで、すべてが変ることがある」
**********
「とてもいい子だったわ。ボランティアに来て、人間のクズのような囚人相手にも献身的に対応していた。それが、ちょうどあの脱走事件の頃よ。まさか殺されるなんて」
「自宅に押し入った強盗に殺されたんですか?」
「当時、警察からはそう聞かされたわ。ただね、気になることがあったの。彼女が亡くなる少し前、ある囚人が何度か医務室に彼女を訪ねてきたことがあったの。彼女もその囚人のことを気にかけていたけど、その囚人はそれからほどなくして亡くなってね」
「加藤と松井の二人に殺された七海圭吾ですね」
「そう、先日、あなた達がその件についてたずねてきて、あれからいろいろと思い出したわ。思えば、あの囚人が亡くなってからの彼女の様子は変だった。いつもそわそわして、何かを気にしているようだった」
「手紙のことを聞いたことはありませんか?」
「手紙? ああ、そうね、その亡くなった囚人から手紙が届いたと彼女は言っていたわ。そういえば、彼女はその頃から何かしきりに調べていたわね」
わたしは確信する。やはり七海圭吾から彼女にあてられた手紙、あれには意味がある。
「あの頃、脱走事件がなかなか解決せず、刑務所内は常に厳戒態勢だったわね。そんな最中に彼女は殺された」
それから彼女はタバコを耳に挟むと、パソコンのキーボードを叩き、何やらメモに書き込みわたしに手渡す。
「彼女の住所よ。持っていきなさい」
「わたしに協力して大丈夫ですか?」
「彼女はD区画とは直接関係ないし、彼女の住所は機密情報にはあたらないわ。もう死んでいるしね」
わたしはメモを握りしめると一礼する。
「ご協力、ありがとうございます」
深々と頭を下げたわたしに医者は言う。「彼女の死について何かわかったら教えて」
はい。わたしははっきりとそう答える。
それからわたしは中央管理棟から外に出る。駐車場に向かうと、ぼろぼろの2CVの前に二人の男の姿がある。
「大島さん、杉本さん、どうして、」
「課長に言われたのさ。お前のお守をしろってな」
大島刑事はそう言うと肩をすくめてみせる。ほんと、どこまでもわたしに甘い先輩達だ。
運転席に乗り込みキーを差し込むとエンジンをかける。「お前、運転大丈夫だよな」助手席で大島刑事が言い、「シートベルトして下さいね」とわたしは答える。後部座席で杉本刑事が慌ててシートベルトを締める音を聞いたあと、わたしはぐいっとアクセルを踏み込む。がろろろろろろ。車は激しく車体を揺らしながら走り出す。
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