第18話 試練

【NINE】


 これは試練だ。

 何かを得ようと思ったのなら何かを差し出さなければならない。

 犠牲を払わなければならない。

 ずっと覚悟をしていたはずなのに、わたしは今になって怖気づいている。

 水曜日計画なるふざけた名前を聞いたのは、法務省の管理施設内に初めて招集された時だった。公表されていないその施設に集められたのは十三名の首都警察の捜査官だった。それまでの経歴だけでなく、心理テスト、身辺状況を厳しく審査され選ばれた十三名の捜査官。後に特別捜査官の活動拠点となる名前のない施設で丸二日間、わたし達は計二十二時間をかけて特定刑務所特別実験区画についてのレクチャーを受けた。レクチャーのために配られた資料の最終頁、実験に関与する数々の引用論文の索引に続いて、その一文はあった。

 This study was designed based on Project Wednesday.

 わたしがその一文を思わずつぶやくのと同時に、その男は会議室に入ってきた。前髪の長い猫のような目をした優男。絵に描いたような笑顔を貼り付けた男はわたし達をぐるりと見回したあと、にこにこと軽薄な笑顔を浮かべてこう言った。

「水曜日計画にようこそ」

 そして彼の口からこの計画の本懐が語られる。

 曰く。かつて、犯罪学の初期の課題は犯罪現場からいかに犯人の痕跡を見つけ出し、犯人に辿り着くかだった。犯罪捜査の手法の進歩に伴い、やがて様々な証拠や犯人の行動様式から犯人像をあぶりだすという概念が追加され、科学捜査の発展と合わせて、犯罪捜査学は劇的に進歩した。特にこの国の殺人事件の捜査に関しては、犯人の検挙率が九割を超え成熟の時を迎えていた。そして次なる課題は、犯罪を抑止する手法の確立であった。起きてしまった犯罪の捜査ではなく、犯罪その物が起きないようにするにはどうすればいいか。犯罪者はいかにして生まれるのか。先天的要因と後天的要因がいかに組み合わさることで犯罪は生成されるのか。それを紐解くことで犯罪を予防する、それが現在の犯罪学の最重要課題である。

 しかし、犯罪者がいかに生まれるのかという研究は優性思想にも似た危険性を孕んでいる。誰が犯罪者になり得るのか、それがわかることで犯罪者予備軍と思われる人物が迫害される恐れがある。まだ起きてもいない犯罪を理由に罰を受ける可能性がある。それゆえにこの研究は慎重に進めなければならない。そして水曜日計画は、決して表舞台に出ることはなく、様々な社会実験に形を変えてひっそりと進められてきた。

「この特別実験区画は、公的には囚人虐待事件を背景に、囚人の人権保護を目的とした社会実験の場とされています。しかし本当の目的は、犯罪者同士の共同生活がいかに犯罪者に影響を与えるかを知ることにあります。この社会実験に参加する囚人達は事前に肉体的、精神的にいくつもテストがなされています。当然、遺伝的な検査も行われています。それらの事前条件にどのような環境因子が加わることで、どのような振る舞いがなされるのか。それこそが水曜日計画の最重要課題です」

 猫目の男の言葉を借りるなら、一般社会のあらゆる環境因子を可能な限り再現するために、囚人には最大限の自由を与えるということか。

「しかし当然ながらこの実験にはリスクがつきまといます。犯罪歴のない人物が最初の犯罪に手を染めるよりも、犯罪歴のある人物が再度犯罪に手を染める確率の方が高いことは周知の事実です。事実、首都圏に最初の実験区画が設置されてから一年半が経過し、現在では三つの実験区画が稼働していますが、一般社会と比べてはるかに高い発生率で重大事案が起きています。これまでは各刑務所内の警備部に対処してもらっていましたが、今年中には四番目の実験区画も設置される計画になっています。各刑務所を横断して問題対処にあたる専門部署が必要になったため、実験区画管理委員会直属の特別捜査室を設置することとしました。皆さんのご活躍を期待していますよ」

 言っている意味がわからなかった。

 犯罪が起きやすい環境をわざわざ作るなんて。作るべきではないというのが普通の、あまりにも当然の感覚だろう。社会的意義なんておべんちゃらは到底納得出来るものではない。何のためにこんなことをしているのか。何のために。

「犯罪をわざと起こさせ、その原因を研究する。そして俺達はその尻拭い要因、ってことだな」

 法務省の役人がいなくなった会議室で、捜査官の誰かがつぶやく。わたしはちらりと他の十二人の捜査官達を見る。首都警察の捜査一課はかなり大きな組織であり、他の班の刑事とは一緒に捜査をすることも滅多にないため、同じ捜査一課でも互い顔の知らない刑事が多数いる。捜査一課を名乗った刑事がわたしを除いて全部で六名、あとの六名は生活安全課、経済犯罪課、盗犯課など様々な専門分野の刑事が集められている。どんな種類の犯罪が起きても対応出来るように、ということか。

 水曜日計画。その名前と実態を知ったあの日に、わたしは部屋を出ていくべきだったのだ。こんなふざけたお遊戯に付き合うべきではなかったのだ。だがわたしは、法務省の極秘任務に任命され舞い上がっていたのか。あるいは立ち去れば自分のキャリアを失うことになることを恐れたのだろうか。わたしはあの部屋を出て行かなかったし、特別捜査官としてその後、次々と起きる実験区画での事件の捜査を担当した。抗わなかった。大きな流れにわたしは身をまかせた。そして後悔することになった。

 首都圏に設置された最初の三つの実験区画は窃盗犯や知能犯を対象としており、重大な暴力を伴う事件の発生率は実社会と大差はなかった。大差ないということは、異常だということだ。暴力行為を伴う犯罪に関わったことのない者だけを集めた実験区画ですら、通常と同程度の暴力事件が起きるというのなら、それはつまり、暴力を誘発しているということにならないだろうか。悪意は醸成され、暴力が生成される。わたしにはあの実験区画はそんな装置に見えたのだ。そして四つ目の実験区画、D区画は暴力を伴う重罪犯が多く集められるという話を聞いた時から、わたしには嫌な予感があった。とんでもないことになる。元々、暴力傾向の強い犯罪者ばかりを集めたら、あの暴力生成装置の中では、一体どんな事態になるかわからない。そしてその予感は当たる。そう、いつだってわたしの嫌な予感は当たって当たって当たるのだ。ほんと、最悪。

 水曜日計画が最初に明らかにしたのは、囚人達をある程度の自由な環境下に置くと、自ずとコミュニティーを形成しそれぞれの集団が実験区画という閉鎖空間の覇権を争うようになるということだった。刑務所に閉じ込められてなお、人はその中を支配したがる動物だ。争う手段はそれぞれの集団の特性が現れる。首都圏の実験区画では暴力犯罪とは無縁の犯罪者が被験者で、最初に横行したのは詐欺や騙しだった。それがやがて暴力を伴うようになり、やがてそれが殺人まで至った時、わたし達は実験区画に派遣された。何故なら、首都圏の三つの実験区画は、詐欺や知能犯罪がいかにして起こるのかを解明することを目的とした社会実験の場だったからだ。それを大きく逸脱した犯罪は、社会実験そのものの破綻を招きかねない。そのために一定の水準を超えた暴力犯罪には外部からの介入が必要となるという理屈だった。だがD区画は暴力的な凶悪犯を集めて作られた。つまりD区画とは、凶悪暴力事件や殺人事件がいかにして起こるのか、それを解明するための装置なのだ。つまりあそこでは囚人同士が殺し合うことこそが重要な実験結果であり、そこに外部の介入は必要としない。むしろ介入してはならない。必要なのはただ観察すること。だから、D区画では囚人が殺されても捜査もされなければ通報もされない。わたしはこのD区画に来て、ようやく水曜日計画の理念を理解する。身をもって体感する。

 水沼、気をつけろ。あそこは普通じゃない。

 脱走事件でD区画に関わった捜査官はそう言い残し特別捜査官を辞めた。首都圏の実験区画は準備段階に過ぎない。きっとD区画こそが水曜日計画の本体。特別捜査官すら通常、立ち入ることの出来ない禁足地。わたしはその中に、足を踏み入れたのだ。そう、最初からわかっていた。後悔することになるのはわかっていた。それでもわたしはあの日、窓から差し込む日差しの中で、埃がきらきらとかがやいていたあの図書室で彼と再会した日、わたしはきっと希望を見出したのだ。彼と再会したことの意味を。一人では決して触れるべきではない禁忌の扉も、彼と二人なら開くことが出来るのではないかと。彼との再会があの人生で最も美しい季節にわたしを引き戻し、わたしはきっと、このエナメルを分厚く塗ったローファーで、空まで踊れる気分だったのだ。まったく、センチメンタルにもほどがある。これじゃあまるで、彼の言う通り、わたしは十五歳の少女だ。だが、彼となら。彼とならもう一度。

 これは試練だ。何かを得ようと思ったのなら何かを差し出さねばならない。犠牲を払わなければならない。その覚悟は出来ている。


 **********

 

 ちん。エレベーターが停まる。中央管理棟八階、刑務所長室にわたし達は連行される。D区画が水曜日計画の最重要施設である以上、ここでのわたしの行動にはすべて監視がついていると考えるべきだろう。あの猫の目のように大きな目をした優男はすべてを見ている。今、この瞬間も。顔を上げる。前を歩く彼の大きな背中からはびりびりと張り詰めた気配が漏れ出ている。彼も理解しているのだろう。犯人をでっち上げようとまでしている以上、相手はありとあらゆる手を使いわたし達をここから締め出そうとしてくるはずだ。最悪、捜査その物の中止もあり得ると覚悟するべきだ。

 所長室の重厚な扉を刑務官がノックする。部屋に入ると、床にはモザイクタイルが敷き詰められ、重厚な木製家具が並べられた部屋の奥に、大柄なスーツ姿の男が机についているのが見える。最初の日に会った時と同じ景色、違うのは軍人のような姿勢で座る刑務所長以外にも、見慣れた顔が何人か見えるということだ。

「課長、それに、大島さんと杉本さん?」

 つぶやいたわたしをぐいっと後ろから刑務官が部屋に押し込む。わたしは思わずつんのめり、背負っていたリュックサックの中身をぶちまけてしまう。どこかで見たなこの光景。わたしは慌てて床に散らばったノートやら化粧ポーチやら文庫本を鞄に押し込む。まったく、どうしてこんな大事な場面で鞄を閉め忘れているんだ。これだから子供扱いされるというのに。

 しゃがみ込んであたふたしている背中で扉が閉じる音がする。ちらりと振り返ると、彼は後ろ手でノブを掴んだまま扉に寄りかかっている。すでに部屋にいる面々と距離を保ちながら彼はゆっくりと部屋を見回し、ふん、と鼻で笑う。

「全員お揃いで一体何の用です? 取り調べの真っ最中なんですがね」

 薄暗い部屋にひしめき合う男達の視線がじっと彼に注がれる。彼は小さく首を振る。「どうやら皆さん、ご機嫌斜めらしい」

「状況を説明しろ」

 口火を切ったのは捜査一課長だった。その口調には事態が複雑かつ収拾困難な様相を呈していることへの苛立ちがこもっている。こんな辺鄙な場所に市警察の捜査一課長がわざわざ出張ってくる状況は異常だ。最悪のシナリオは刻々と進んでいると考えるべきだろう。

 荷物を鞄にしまい終えたわたしは、彼の邪魔をしないようにそっと部屋の左端へと移動する。ちょうどいい具合に置かれていたアンティークのイスに鞄を背負ったまま音も立てずに腰掛ける。誰もわたしには注意を払っていない。わたしは両膝に手を置くとその場所からじっと全員の動向を注視する。

「加藤刑務官はあの夜、囚人と密会し殺害されたと予想されます。その動機には半年前の七海圭吾の死が関与していると考えられ、松井刑務官から事情聴取を行いましたが黙秘権を行使されました。そして事情聴取が終わって間もなくして、捜査妨害とも思えるタイミングで一人の囚人が犯行を自白、D区画側が捜査の終了を要請してきました。現在、その囚人の偽証を証明するための取り調べを行っている最中です」

「この調子ですよ」爬虫類がいつになく強い口調で捜査一課長に噛みつく。「一体、部下にどのような教育をされているのですか?」

「また、事件の捜査の過程でD区画内という政府機関にも関わらず、刑務官による違法賭博が日常的に行われている疑いが発覚し事情を聞きましたが、そちらについても彼等は黙秘しています」

「違法賭博、例のノートか」課長が難しい顔で唸り声を上げる。

「またその言いがかりですか? 何の証拠もないでしょう」

「どうなんだ、東方?」課長が探るように彼を見る。

「今はまだありません。ですが、刑務官全員の口座を確認出来れば、」

「不可能だ」課長が一蹴する。「D区画に関与することはあらゆる情報が機密情報として扱われる。当然、D区画の刑務官の給与と紐づけられている口座情報もだ。死亡した加藤刑務官の口座の捜査には正当性があるが、松井刑務官の口座を捜査したことでD区画側から正式に越権行為だと苦情が入っている。囚人が犯人だという捜査方針である以上、容疑者でもない刑務官の口座を調べる権限はわれわれにはない」

「だ、そうですよ」

 爬虫類は我が意を得たりと彼に向かって小さな体をのけぞらせる。

「証拠もないのに、私の部下が違法賭博をしているなんて立派な名誉棄損です。事件が終われば正式に警察委員会に抗議させていただきます」

 鰐男が調子に乗って。わたしは小さく唇を噛む。だが、今のところ課長の言葉が正しい。違法賭博についても、そして半年前の事件についても刑務所側から新たな証言が得られなければ、それ以上の捜査は現実的じゃない。

 鰐男は彼の方へと歩いていくと、その大きな目を動かして彼を見上げる。

「謝罪、してもらえますか?」

 彼は後ろ手でドアノブを掴んだまま、鰐男を睨みつける。

「謝罪、だと?」

「あなたは捜査妨害と言ったんですよ。私達が囚人に証言させた、あなたはそう言ったじゃないですか?」

 芝居がかったセリフ、両手を大きく振り回しながら爬虫類は部屋の奥にいる軍人然とした短髪で深いしわが顔じゅうに刻まれた男に目配せする。強烈な威圧感をまとった男は、わたし達に向かってたずねる。

「三神の言葉は本当かね? 君は、われわれ刑務所側が加藤刑務官殺害事件の犯人をでっち上げていると主張しているのか?」

「ええ、そうです」彼は間髪入れずに答える。

「捜査一課長、」刑務所長は厳しい表情を浮かべて告げる。「われわれはこの国の最初の政府直轄都市である未未市および未未市議会に、法を順守することを誓いそれぞれの職務についているはずだ。われわれが殺人事件の犯人をでっち上げる、そのような重罪を犯しているというのは、捜査一課としての正式な見解かね?」

「私個人の見解ですよ」彼は悪びれずに言う。「ですが、違法賭博と半年前のD区画刑務官による囚人殺しについてたずねた途端に、都合がいいことに犯行を自白した囚人が現われたんです。疑われても仕方ないとは思いませんかね」

「囚人殺し、だと?」所長の表情が一気に険しくなる。刑務官による囚人の虐待問題は全国の刑務所に等しく大きな打撃を与えた。所長の中にもその忌まわしき記憶がしっかりと刻まれているのは当然だろう。「D区画はその性質上、刑務官は武器を所持しているし、囚人と刑務官の間で時にその武器が使用されていることは事実だが、いずれの場合もきちんと調査され人権的配慮に問題なかったか評価されている。少なくとも私は刑務官による違法な囚人の殺害の報告などは受けていない」

「半年前、松井刑務官と今回の事件の被害者である加藤刑務官は、七海圭吾という囚人を殺害しています。たしかに正当防衛として管理委員会からはお咎めなしになったようですが、やられた方がそれをどう受け取るかは別問題です。しかも殺害場所は他の囚人が立ち入れない特別監房エリアと監房エリアの間にある密室で行われました。今回の加藤刑務官殺しの動機としては十分あり得る話ですよ」

 刑務所長は探るように彼を見たあと、ぎっとイスに背もたれる。それからしばし考えを巡らして改めて捜査一課長の方に視線を向ける。

「違法賭博にしても刑務官による囚人への暴力行為にしても、そこに違法性があれば当然私は厳正に彼等を処分する。だが今のところは何の証拠もなく、捜査を担当する一捜査官が主張しているだけ、という理解で間違っていないかな?」

 捜査一課長はちらりと彼を見たあと、ええ、とうなずく。

「とすれば、いささか暴論が過ぎるのではないか? 君達がわれわれに対して思うところがあることは理解しているつもりだが、私は最大限、捜査に協力をしているし、市警察の方針に意見も妨害もしていない。君達にそのような言いがかりをつけられるいわれはないはずだがな」

「言いがかり?」彼が呆れ果てたような口調で言う。「たしかにね、あの自白した囚人には被害者を殺害するチャンスも動機もありました。何しろD区画の夜間の監房の監視はざるに等しいですからね。殺害方法や現場の状況、証言にも矛盾は特に認められていません。現場のことを良く知る誰かが教え込んだセリフを必死に暗唱してくれました。ですがね、あの囚人には殺すことは出来ても監房エリアに事件当日の新聞を置くことは出来ませんよ」

「新聞とは何の話だ?」

「誰かが私の目のつくところに、事件が起きたあとに発行された朝刊を置いていったんです。ご丁寧にクロスワーパズルを途中まで解いて、夜間の監房エリアの監視に穴があったと捜査を誘導する目的で偽装工作した人物がいるんです。事件発覚後、囚人達は監房に隔離されています。とすると新聞を置いたのは刑務官でしかあり得ません。少なくともD区画側に俺達の捜査を誘導する意思があったことは間違いありません。捜査の誘導は立派な捜査妨害ですよ」

「三神、彼の言っていることは事実か?」

 刑務所長に問われ、爬虫類は白々しく短い手を振り回しながら答える。

「何のことだかさっぱりです。日勤帯の刑務官が出勤時に持っていた新聞をたまたま監房エリアに置いただけでしょう。それを、夜勤帯の刑務官が持ち込んだものと彼が勝手に誤解しただけですよ」

「あんたは本気で言うのか? 仲間が殺され厳戒態勢の職場に、朝刊を小脇に抱えて呑気に出勤してきた刑務官がいたと」

「事実、新聞が監房エリアにあったのなら、そういうことになりますね」

 物は言いようだな。思った以上に饒舌に語る爬虫類にわたしは小さく唇を鳴らす。

「どうやら彼には少々妄想癖があるようですね。いえ、実際彼をこの捜査に推薦したのは私ですが、すいません所長、どうやら人選を誤ったようです。彼が脱走した囚人を発見したからこそ信用したのですが、見込み違いだったようですね」そして爬虫類はその牙を彼に向ける。「もっとあなたのことを良く調べてから推薦すべきでした。あなた、どうやら最近は殺人事件の捜査から干されているようですね。この事件を解決すれば名誉挽回出来る、そう思って必死に捜査をするのはわかりますが、手柄を焦るばかりに自分の思い通りの結論に事件を歪めるのはやめていただきたい」

 ああ、そうか。わたしはようやく腑に落ちる。この時のためだったのだ。爬虫類が彼を推薦したのは、彼が仲間を疑うことが出来ない刑事だという理由だけではなかったんだ。仮に自分達の思い通りの結論に辿り着かなかった場合は、手柄を焦った刑事が事件を歪めていると主張することが出来る、そんな保険までかけていたのか。

 彼も同じ結論に思い至ったのか黙り込んでしまう。このまま爬虫類に黙って丸め込まれるつもりか。彼が黙り込んだことをいいことに、爬虫類はぐいっと胸を張って捜査一課長に宣告する。

「皆さんの捜査にケチをつけるのは本意ではありませんが、仲間を殺された私達を責め立てようとする姿勢は、到底、受け入れられるものではありませんね」

 爬虫類の言葉に刑務所長もうなずいてみせる。

「捜査一課長。ここではっきりさせよう。君の部下は、現在取り調べを受けている囚人は刑務所側がでっち上げた犯人であると主張している。それを捜査一課長として、捜査一課として支持するかね?」

 最後通告だ。未未市警察と東洲区重警備刑務所が真正面から対峙するつもりかと相手はたずねている。元々、あの脱走事件以降両者の関係はこじれにこじれている。「少し協議してもかまいませんかな?」捜査一課長は刑務所長にたずねる。好きにしたまえ。所長の言葉に課長は彼に向かって顎をくいっと動かし、彼は彼でため息交じりに首を振ると課長の方へと歩いていく。わたしもイスからおりると課長と刑事達が待つ方へと歩く。

「東方。状況は理解しているだろう?」

「あなたがこんな場所にまで出張ってきているんです。理解しているつもりですよ。上は何と言ってきているんです?」

「D区画は法務省の管轄する政府機関だ。未未市であって未未市ではない。厳密な意味では捜査権限はわれわれにはない。あくまで法務省から委託され成立している。彼等が拒めば捜査は即終了だ」

「だから、上は何と言ってきているんです?」

「捜査の中止命令が出た」

 何ですって。彼は顔面を歪めると課長に問い直す。

「手を引けと言うんですか?」

 ちょっと待って下さい。わたしは思わず口を挟む。「法務省から市警察にそう命令が下りてきたんですか? 管理委員会からわたしには、何も指示は出ていません」

 わたしを一瞥すると課長は不快そうな表情を浮かべる。どうやらわたしのことは気に入ってもらえていないらしい。

「むろん、法務省から直接圧力があったわけではない。だが刑務所長を通してD区画におけるお前の捜査活動が彼等の業務に支障をきたしていると警察委員会に陳情があった。警察委員会には法務省のOBが大勢いる。厄介ごとを恐れた上層部は、現在行われている取り調べを持って捜査を終了するようにと私に通達してきた」

「これは殺人事件の捜査ですよ。そんな政治に付き合えと言うんですか?」

「当たり前だ。上に忖度するのが組織にいる人間の役割だ」

「はっきりと言う」彼は苦々しく口元を歪める。

「東方。捜査一課の公式の捜査である以上、捜査一課の名前に泥を塗るわけにはいかない。捜査を続けるだけの納得出来る材料を示せないのなら、黙って撤退するしかない」


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