第16話 囚人殺し

【EIGHT】


 がろろろろろろ。

 砂漠のような埋め立て地を、ぼろぼろの2CVが走っている。

 半分ほど開けた窓から入る涼しい風に、わたしの髪の毛がばさばさと音を立てて踊る。

 あれは白昼夢だったのだろうか。

 2CVに揺られながらわたしは先程の魔法のような時間について考える。東洲区重警備刑務所に向かう道をがたがたと揺れながら車は走っている。あいかわらず彼は自分で運転し、わたしにハンドルを握らせない。研修生の頃、自分が刑事として一人前になるのと運転が許可されるのとではどちらが早いのだろうと考えたこともあったけど、二年経ってもまだその呪いは解けていないらしい。

 あの半年前の事件は、斉藤雅文の脱走事件ではなく殺人事件だ。東方日明のこの言葉が真実であるならば、今回の刑務官殺しどころの問題じゃない。刑務官が違法に囚人を殺害したのなら、もう、この実験区画が存在することは許されないだろう。すべてが終わる。だがそうであるならば、仮に管理委員会が半年前の脱走事件の真相を知っていたとしても、黙認する、そんな恐ろしい決断をしてもおかしくはない。あの男なら。あの、猫の目をしたあの長い男なら。

 沈黙の車内でわたしはちらりと運転席を見る。彼は黙ってハンドルを握り、砂ぼこりで汚れたフロントガラスの先に真っ直続く道路を睨みつけている。昨夜わたしは、東方日明はもう死んだのだと思った。この街の守護天使であることへの情熱はすでに失われたという失望感と喪失感にさいなまれた。だが少なくとも今朝の彼の姿に、知恵の王宮に住むかつての東方日明の片鱗をわたしは見た。

 がたん。車体が大きく揺れる。ルームミラーから吊り下げられた骸骨の人形のストラップが踊る。砂漠のような埋め立て地にたくさんの送電塔が連なり、空には迷路のように送電線が幾重にも張り巡らされている。まるで世界の果てのような景色ね。もし東方日明の中に、まだかつての彼の一部が残っているのなら、わたしはもう少しこのお伽噺のような禍々しい景色を一緒に旅してもいいと思う。二年前みたいに。



 二年前。当時の未未市警察捜査一課は、劣悪な労働環境により赴任希望者が減る一方で、退職者は年々増加するという悪循環が続いていた。いつか破綻する砂上の楼閣でありながら、それでもこの国最初の自治体警察の犯罪検挙率が有数の大都市と遜色ないのは、ひとえに刑事達の自己犠牲による部分が大きかった。

 政府直轄都市の治安を一手に担う自治体警察の存続のため、法務省は四大政府直轄都市のすべての自治体警察と首都警察の間で研修交流を開始した。これは自治体警察ごとの捜査能力や人員の格差是正が目的であったが、皮肉なことに未未市警察捜査一課で研修した若い警官達は口を揃えて訴えた。あそこだけは二度と御免だと。結果的に悪評ばかりが定着することになった未未市警察捜査一課にわたしが研修生として赴任することになったのは、単なる偶然に過ぎなかった。

 上級国家公務員試験を経て、わたしが最初に配属された首都警察はこの国最大の警察組織で、警察官は常に組織の歯車の一部であることを求められた。事件の捜査は所轄と連携した組織戦で、刑事も制服警官も皆、割り振られた役割に徹し、粛々と任務を遂行することのみが求められた。わたしはそんな世界しか知らなかった。

 わたしはわたしでその仕組みの中で必死に立派な歯車であろうとしていたが、いかんせん経歴だけは立派な若くて世間知らずのしかも女であるわたしは期待もされず、偶然欠員していた災厄の街に送り込まれることになる。

 未未市警察捜査一課。そこで出会った刑事達は、首都警察なら何十人、何百人の捜査員が動員されるだろう大事件を少人数で、一人で何役もこなし、しかも数日間であっという間に解決していた。時に慣例や手続きを省略したやり方に疑問がないわけではないが、それでも彼等の八面六腑の活躍にわたしは呆気に取られ、そして見とれたのだ。まるで幼い頃に観た映画や小説の主人公のように、わたしにはあまりにもまぶしく感じられたのだ。そしてそれは、憧れを抱くには十分過ぎる出会いだったのだ。

 未未市警察の捜査一課の刑事達の足元はいつもローファーだった。スーツにローファーなんてマナー違反だと首都警察では眉をひそめられるだろうが、自らの足で街を歩き、踵をすり減らす彼等にとっては歩きやすさこそが何よりも優先される。安物のスーツ、センスの悪いネクタイ、そして傷だらけのローファーが未未市という災厄の街の守護天使達の制服だった。そんな彼等の元で殺人課刑事としての産声を上げたわたしは、街と共に生きる彼等の姿に、いつかわたしもこうなりたい、そう夢見たのだ。傷だらけのローファーにわたしは夢を見たのだ。

 それから風が吹けば桶屋が儲かる的な寓話を経て、三カ月はあっという間に過ぎていき、わたしは首都警察に戻った。あの三カ月間が幻だったかのように、わたしは首都警察の強固な組織論にあっという間に飲み込まれていった。靴を履き替えるように言われ、リュックサックは肩掛け鞄に持ち替えさせられた。刑事として配属されたあとも回ってくる仕事は電話番に資料整理。当たり前だ。何の経験もない経歴だけが立派な若くてついでに女となれば誰からも期待されず一年経っても足元を見れば靴はきれいなままだった。

 それでも腐ることなくわたしは自分に与えられた仕事を積み上げていき、歯車をびかびかに磨き続け、そして法務省からの仕事に関わるようになった。ただ黙々と仕事をこなす日々を続け、ある程度の信頼を勝ち取った頃、わたしの耳に悲劇の報せが届いた。あの災厄の街で、一人の警官が犯罪組織に利用され与したことで、多くの警官が犠牲になるという痛ましい事件が発生した。警官の血が流れたことに、法務省も非常事態として事件を注視する中、その汚職警官を逮捕し刑務所に送り込んだのは、かつてのわたしの指導教官の刑事だった。それはあまりにも残酷な報せだった。わたしは思い出す。あの三カ月間で彼等が口癖のように言っていた言葉。

 背中を信じろ。

 殺人課刑事の仕事は時に命が危険にさらされる。自分の背後は相棒が必ず見ていてくれる。そう盲目的に信じることが出来なければ凶悪犯を追うことなど出来ない。背中を信じろ。それがこの仕事を生き抜くために最も重要なことだ。彼は何度も何度もわたしにそう言った。誰よりも仲間を信じることを重んじた彼が、そんな彼が、仲間を捜査し、そして手錠をかけたというのか。しかも新聞で知らされる限り、そこにはわたしのもう一人の指導教官、彼の相棒の名前は出てこない。彼は一人でやったのか。一人で仲間に手錠をかけたのか。

 何が起きている。あの場所、守護天使達が住むわたしの夢の世界が壊されてしまう。それでも大きな歯車の一部に組み込まれていたわたしは、目の前の仕事を放りだすことも出来ず、結局一度も災厄の街を訪れることもなく時間だけが過ぎていった。しばらくしてあの災厄の街の四つ目の特別実験区画で脱走事件という最悪の事態が起き、動揺と混乱がようやく落ち着きを取り戻した頃、わたしの携帯電話が鳴った。いつだって物語は携帯電話から始まる。未未市の東洲区重警備刑務所に設置された特別実験区画で発生した刑務官殺害事件の捜査を命じられたわたしは、すぐに部屋のクローゼットの扉を開いた。電話口で管理委員会の使者は言っていた。未未市警察捜査一課の刑事と捜査を共にすることになると。いつかの日のために用意していた新品のローファーを引っ張り出してくる。エナメルが分厚く塗られたこのダンスシューズが傷だらけになることを夢見て、わたしはこの街に舞い戻ってきた。

 そして、わたしは思いもしなかった人物と邂逅を果たす。

「水沼、桐子」

 かつての指導教官であったその男は呆気に取られたようにわたしを見る。背は小柄な私と頭一つくらいしか変わらない。分厚い胸板と太い首と短い手足、そして黒々とした分厚い隈と三白眼はあの頃とまったく変わらない。見かけは凶暴な霊長類だが知恵の王宮に住む男。誰よりも頭が切れ、誰よりも性格の悪い男。かつて未未市警察捜査一課の暴君と呼ばれた男がわたしの名前を口にする。

「東方さん」

 呆気に取られ、そして不機嫌そうにわたしを見た彼は、あの頃と寸分違わない。なんてそれはわたしの一方的な祈りであり願いであることは自分でもよくわかっている。勝手に期待して裏切られれば腹を立てるのだろう。ほんと、わたしって身勝手だ。仮に彼がかつてと変っていたとしてもあんな事件を経験したんだ。どうしてそれを責めることが出来る?

 がたん、がたん、と車が揺れる。運転席の彼は何かをつぶやいている。かつての東方日明はもう死んだ。わたしはそれを否定しない。だがそれでも彼が、かつてわたしが憧れわたしが愛したこの街の守護天使の一人であることは紛れもない事実だ。わたしは足元のローファーを見る。傷一つないエナメルが分厚く塗られたびかびかのダンスシューズ。わたしはこの靴で彼と踊ってみせる。



 東洲区重警備刑務所に戻ってきたわたし達は、中央管理棟に一室を用意してもらう。用意されたのは四方を漆喰の壁に囲まれた小さな部屋で市警察の取調室を思い起こさせる。東方日明がかつて捜査一課の怪物、暴君と呼ばれたのはその鉄方体の中で数限りない殺人犯達を自白させてきたからだ。

「ここがわたし達のBOXですか」

 板張りの床の中央に置かれた机には、対峙するように二つのイスが並べられている。彼は部屋の入り口に背中を向ける形でイスにどっかりと腰をおろす。目を閉じてむっつりと黙り込む彼の前には加藤が残した件の黒いノートが置かれている。しばらくして複数の乱暴な足音が近付くのが聞こえると、続いて扉をノックする音が響き大柄な刑務官と小柄な爬虫類が部屋に入ってくる。

「お待ちしておりました」

 わたしは慇懃に頭を下げる。

「何です、ここは?」

 腰に物々しい装備品をぶら下げた加藤刑務官の相棒は、わたし達に向かって威圧的な視線を向ける。わたしは座ったまま振り向きもせずじっとしている彼をちらりと見る。彼は机の上に両肘をついたまま微動だにしない。

「お忙しい中、ご足労いただき感謝いたします。ちょっとお伺いしたことがありますので、こちらに座っていただけますか?」

「何故、中央管理棟に呼びつけたんです? 話ならD区画でも出来るはずですが」

 明らかに警戒している。まあ予想通りの反応。

「捜査のことで、内密で確認したいことがありまして」

「よせ。あんたは最初から俺達を疑っていた。まだ俺達の誰かが加藤を殺したと思っているのか?」

「松井君、やめなさい」松井の横に立つ小柄な爬虫類が諫めるように言うが、完全に頭に血が上っているらしい大柄な刑務官はわたしに向かってずいっと歩み寄る。

「囚人達を全員事情聴取したというのに、まだ犯人は見つからないのか? 本当に無能で役に立たないお嬢ちゃんだな」

「力及ばず申し訳ございません。お時間は取らせませんので、さ、こちらにどうぞ」

 低姿勢なわたしの態度が逆に癇に障るのか、松井は威圧的に睨みつけるのをやめない。油断ならぬという面持ちを崩さず、わたし達から距離をとって部屋の壁沿いに歩くようにして、彼と対面する机の反対側の席までやってくる。

「ここに座れと?」

 ようやく重い瞼を開いた彼は、どうぞ、と低い声で言う。

 睨み合う中、松井はゆっくりとイスを引き、それから腰をおろす。松井が座るなり、彼は机の上の分厚い黒い表紙のノートを松井の方へと押し出す。加藤の遺したノートと認識したのか、松井の表情が強張る。

「何だ、これは?」

 彼は答えない。

「話が聞きたいって? あの夜のことならとっくに話は済んだはずだ」

 松井はぎっとイスの背もたれに左腕を回すと、半身になって彼のことを睨みつける。それは逃避にも防御の姿勢のようにも見える。

「それで何だ? 囚人について聞きたいのか? 犯人の目星でもついたのか」

 松井の問いに、彼はふむと一度うなずいたあとようやく重い口を開く。

「松井刑務官。あなたは加藤刑務官殺害事件の重要参考人であり、これから市警察捜査一課による正式な取り調べを行います」

「おい、ちょっと待て。何だ、取り調べ? 重要参考人とはどういう意味だ。犯人は囚人だと言っていただろう?」

「今でもそう思っています。ですが囚人が犯人であるならば、それ相応の理由があるはずです。その答えは、彼と長く組んでいるあなたから聞くのが一番早く確実です。そろそろ教えてもらえませんか。何故、あなた達は囚人から命を狙われているんですか?」

「あなた達? 俺も狙われていると言うのか?」

「二人がかりで囚人を警棒で殴り殺せばそういうこともあります」

 半年前の事件が脳裏に浮かんだのか、松井はわたし達の背後、部屋の扉脇に立ち尽くしている鰐男に向かって言う。

「主任、やめさせて下さい」

 松井の言葉に、爬虫類は苦々しい顔で首を振る。

「市警察からの正式な取り調べ要請を刑務所長も承認している。松井君、大人しく協力すればすぐに終わるから。協力するんだ」

 彼は振り返り一度、爬虫類を見たあと松井の方に再び体を向き直る。この部屋に、自分を庇護する者はいない。覚悟を決めたのか、松井は姿勢を正すとあえて前に身を乗り出して彼に告げる。

「俺から話すことは何もない」

 そう言った松井の視線がちらりと机の上の黒いノートを一瞥するのをわたしは見逃さない。自分達にとって脅威となり得る領域まで捜査が及んでいることを理解しているはずだ。空気がきりきりと張り詰める中、彼はわたしに向かって、水沼、と鋭い声で告げる。はい。わたしは二人が対峙する机の横に立つ。さあ、ここからはわたしのターンだ。

「加藤刑務官についていろいろと調べていて面白いことがわかりました」わたしはそう言いながら机の上に資料を並べる。「加藤刑務官の銀行口座の出入金記録です」「ちょっと待て、どうして加藤の銀行口座を」「殺人事件の動機として金銭的な揉め事はめずらしくありませんから」わたしは淡々と答える。「こちらをご覧下さい。給与以外に定期的な入金があるのがわかります。理由をご存知ですか?」「そんなこと知るわけがない」当然、そう答えるしかないだろう。

「このノートをご存知ですか?」わたしは机の上の黒い表紙のノートを手にとり松井にたずねる。さあな、と松井は視線を外す。わかりやす過ぎる。わたしはぱらぱらとページをめくりながらゆっくりと机の周りを歩く。「加藤刑務官の自宅から見つかったノートです」松井によく見えるよう、先程の銀行口座の資料の上にノートを開いた状態で置く。「アルファベットと数字が並んでいる表があります。アルファベットはD区画刑務官のイニシャルと一致、続く数字が日付、金額と考えれば、これは刑務官同士の金銭のやりとりの記録に見えます。そして加藤刑務官の銀行口座の出入金記録と一致している個所がいくつも確認出来ています」松井は答えない。「ノートの中身を専門家に分析してもらったところ、このノートはギャンブルの帳簿で加藤刑務官がその胴元だった可能性が高いと結論付けています。何か心当たりはおありですか?」

「さあな、スポーツにでも賭けていたんだろ。褒められたことじゃないが、誰だって遊びでやるだろう」

「先日の海外のサッカークラブの賭博の一件をご存じないんですか? 公営じゃないスポーツ賭博はこの国では重罪ですよ」

「だがあいつはもう死んだ。今更もう終わった話だろう?」

「もちろんです。加藤刑務官を違法賭博でどうこうするつもりはありません。ですが分析官によると、違法賭博の胴元はもう一人いるとのことです。松井刑務官。あなたの口座でも、加藤刑務官と同じお金の流れが確認出来ています」

 がたん、と音を立てて松井が立ち上がる。「俺の口座を調べたのか?」松井の顔色は明らかに青ざめている。「一体、何の権限があって、」

「うるせえなあ、大人しく座ってろよ」

 突然、野太い声が響き渡る。ちらりと見ると、彼はわたしに向かってひゅっと唇を鳴らしながら人差し指を回してみせる。気にせず続けろという合図。ええ、わかってます。立ち上がったままこちらを睨みつけている松井に向かってわたしは質問を再開する。

「あなたと加藤刑務官は、D区画内で違法賭博を開催していた。それはお認めになりますか?」

「俺達がそんな遊びの金の貸し借りが原因で、殺し合ったとでも言うのか?」

 怒気のこもった声。握った拳を震わしながら松井は言う。目が血走り今にもこちらに掴みかからんばかりの威圧感をまとう松井にわたしは警告する。

「言っておきますが、もう一度法務省から任命されている特別捜査官の胸倉を掴もうものなら、この事情聴取は即刻中止、捜査妨害と暴行で手錠をかけますよ」

「刑事さん。D区画で違法賭博が行われているなんて、さすがにそれは言い過ぎではありませんか?」小柄なぎょろ目の鰐男がここで割り込んでくる。部下思いなことだ。「加藤君のノートだけで、私達が法を犯していると決めつけるのは言いがかりもいいところです。イニシャルが何だというんです? そんなもので、」

「はい。たしかにこのノートだけで断罪するのは行き過ぎです。だから質問しているんです。違法賭博をしていましたかと。あ、別にお答え出来ないならそれはそれでかまいません。今度は裁判所命令をとってきて、D区画の刑務官、全員の口座を調べさせていただきます。それとノートの記載が一致していれば、言い逃れは難しいとは思いますが」

「好きにしろ。だが俺は何も認めん。違法賭博なんて知るものか」

「ちなみにノートにあった賭博が開催されたと考えられる日付とあなたと加藤刑務官の勤務日も調べさせていただきます。賭博が行われていたと思われる日に限って、偶然お二人が勤務していた、なんてことがないといいですね」

「刑事さん」あまりの大声にわたしが驚いて振り返ると、小柄な鰐顔の男がぷるぷると全身を震わせているのが見える。「殺人事件についての取り調べではなかったのですか? ろくな証拠もなく私の部下を愚弄するつもりでやっているのですか」

「このノートに書かれていることが本当なら、賭けていた金額はとても遊びなんて金額じゃありません。あなた自身が関わっていようがいまいが、政府機関であるD区画で違法賭博が行われていたとしたら、あなたの責任は重大です」

「私を脅すつもりですか?」

「脅す? まさかまさか、そんなつもりはありません」わたしは肩をすくめ、ずり落ちた眼鏡を押し上げる。「ただ、あなたは今や崖っぷちです」

「ど、どういう意味ですか?」

「加藤刑務官殺害事件の犯人を囚人だと仮定しましょう。そのためには犯人は監房の出入りを誰にも気付かれずに行うことが必要です。ここまでは同意していただけますか?」鰐男が口を開く前に、わたしはありがとうございます、と答える。「それにしてもD区画は面白い形をしていますよね。円筒状の建物。監房エリアは壁面に沿ってぐるりと監房が並んでいます。監房の配置から考えて犯人は上下左右、あらゆる監房の囚人から見られている可能性がありますが、事情聴取ではすべての囚人が口を揃えたように何も見ていないと証言しています。可能性は二つ。一つ、本当に誰も監房から出ていなかった。二つ、監房から囚人が出歩くことが常態化しており、誰もが自分が犯人にされたくなくてそう証言した。前者なら犯人は刑務官。後者なら監房の監視は行われていないに等しい無法地帯です。その結果、刑務官が殺害されたのであれば、どちらにしてもあなたの首は飛ぶ。ほんと、崖っぷち」

 鰐男は言葉を失ったまま目をぱちぱちと何度も瞬きする。

「本当にあなたが違法賭博に関わっておらず、殺人事件にも無関係とおっしゃるならわたし達に協力する方が利口かと思いますよ。こちらから法務省にあなたには寛大な処置をと上申することも出来ますし」

 そう、わたし達の狙いは松井ではなくこの鰐男。さて、どう出るか。鰐男はきょろきょろと両目を忙しなく動かしながら何かを考え込んでいる。それからふうむと大きく鼻から息を吐くと、わかりました、と一歩後ろに下がる。不穏な空気を察知したのか、松井が思わず鰐男にすがりつくような声を上げる。

「主任、」

「松井君。君達には心底がっかりしているよ。君達が本当にギャンブルをしているのなら、それは極めて由々しき事態だ。違うというなら、堂々と刑事さんに、身の潔白を証明するんだ」

 突き放すような声に、松井の表情は強張る。

「だ、そうですよ」わたしは立ち尽くしたままの松井に向かって、とりあえず座りませんかと答えをかける。松井は何か言いたげにこちらを睨みつけたまましぶしぶと座る。

「違法賭博の件は、まあゆっくりと調べるとして、」わたしはずいっとノートを机のわきに寄せる。「もちろん刑務官が犯人であるならば賭博は殺人の動機になり得ますが、事件当夜の夜勤帯勤務者である胴元のあなたと残りの四人は、ノートを信じるならば勝ち星に恵まれています。違法賭博があなた達の殺人の動機になるとは思えません」

「当然だ、」

「ということは違法賭博についてはお認めになると、いえ、答えなくて結構です。話を進めたいので。もちろん大損をした刑務官が囚人を使って殺した可能性はありますが、その場合も皆さんの口座を追えば解決です」

「主任。俺にもこの取り調べを拒否する権利があるでしょう」

 鰐男は気まずそうに黙り込んでいる。

「だったら所長をここに呼んでくれ。今すぐだ」

 松井は悲鳴にも似た声を上げるがわたしは容赦なく獲物を責め立てる。

「ちょっと勘弁して下さいよ。身長は一体いくつです? 一八〇? 一八五? そんなでかい図体をしてパパのお守が必要なんですか?」

「この小娘が」

 思わずわたしに掴みかかろうと立ち上がった松井の前で、わたしは顔の前で祈るように両手を合わせると、両手の人差し指を唇に当て、それから彼に問う。

「七海圭吾って知っていますか?」


 **********


 市警察から東洲区重警備刑務所に戻ったわたし達は、その足で中央管理棟の資料閲覧室に向かう。半年前の脱走事件、件の黒塗りのファイルを机の上に広げる。まさか本当に。

「二枚の死亡診断書、本当にあったんだ」

「疑っていたのかよ」

「それにしてもどうして。この最初の死亡診断書が偽造なら、どうしてここに残っているのでしょうか。脱走事件となった時点で破棄すべきだったのに」

「しかも、このファイル自体は管理委員会が作成している。二枚も死亡診断書が入っていれば当然状況の確認をしたはずだが、」

「脱走事件でそれどころじゃなくなった。彼等にしてみれば最悪の不運ですが、わたし達には幸運でした。悪いことはするもんじゃないですね」

「そんなまともな忠告を聞き入れる連中じゃない。D区画に行くぞ。もう一度、機密書類の閲覧申請を出す」

 それからわたし達は地下の機密資料保管庫横の閲覧室に向かう。同じ手続き、同じ手順を経て机の上に資料が並べられる。二十三冊、一冊だけ足りない資料の山から目当ての資料はすぐに見つかる。半年前、七海圭吾が殺害された事件。

 囚人番号301-F、七海圭吾。武装強盗で刑期は十年。罪状は重いが服役態度は良好で懲罰房に入った記録もない。ページをめくる。明らかな囚人間のトラブルも記録されていない。ページをめくる。特定の囚人グループにも所属していない。ページをめくる。セラピーやプログラミング訓練にも熱心に通っている。一般刑務所なら模範囚とも言える態度だ。次の資料。七海圭吾の死亡診断書。あの医者、灰色のカーリーヘアに分厚い老眼鏡、タバコが似合う女性だったな。七海圭吾の遺体の写真。死因は頭部打撲による脳挫傷と脳出血。全身に打撲痕があるが、こちらは過去に負ったものと記載がある。補足資料として過去の受診記録が添付されている。殺害される約二週間前に全身の打撲で医務室を受診。本人は階段で転んだと主張。囚人同士の殴り合いの喧嘩と考えるのが普通だろうが、あくまで本人は否認。全身の青痣が写真に取られているがあまりに痛々しい。右手第二指および肋骨骨折。派手にやられたものだ。


 **********


「七海圭吾って知っていますか?」

 わたしが口にした名前に、部屋の空気が明らかに張り詰める。

「何故、今、そんな話をするんだ?」

「半年前、このD区画ではいろいろなことが起きています。まずは囚人脱走事件。そしてその二週間後、あなたと加藤刑務官によってある囚人が殺害されています。その囚人の名前は七海圭吾」

「半年前の話なんてするつもりはない」

 松井は、爪が食い込み、血が流れるほど強く拳を握っている。

「あなた達は加藤刑務官殺害犯が囚人だと主張しているのでしょう? だとしたら加藤刑務官が囚人に恨みを抱かれているかは重要です」

「あれはれっきとした正当防衛だ」

「そうでなければ困ります。刑務官が囚人を殺害したなんて、この実験区画では絶対に起きてはならないことですよね」

「刑事さん、」鰐男が口を挟む。「おっしゃる通りここでは囚人の人権問題は何よりも重要視されます。管理委員会による内部調査は厳格に行われました。その上で正当防衛であると結論付けられているんです」

「とはいえ、脱走事件の直後ですからね。これ以上のスキャンダルを嫌う管理委員会の追及が甘くなったとしても不思議はありません。それに、」わたしはくいっと眼鏡を押し上げる。「そもそも管理委員会がどう判断したかは問題ではありません。問題は、囚人達がどう思ったかです。彼等があなた達を殺したいと思うほど憎んでいれば事件は起き得ます。つけ加えるなら、もしあなたと加藤刑務官による七海圭吾の殺害が正当なものでなければ、その危険はさらに高まります」

「言いがかりはよして下さい。加藤君も松井君も、あの囚人に襲われて大怪我を負ったんですよ」鰐男が激しく抗議する。

「二人共じゃありませんよ。刺されたのは加藤刑務官で、彼は無傷だった。そうですよね、松井刑務官」

「それがどうしたというんだ」松井は声を荒げる。「俺達がナイフを持った囚人に襲われたのは事実だ」

「そのナイフが問題なんですよ。脱走事件直後、厳戒態勢が続く中、囚人が監房内にナイフを隠し持っていたとはとても思えません」

「あいつらは頭のおかしい犯罪者だぞ。まともじゃないことでも平気でやるものだ」

「では七海圭吾がナイフを不法所持していたとしましょう。あなたと加藤刑務官は監房からその凶器を見つけ、二人で懲罰房に移送していた。そうですね?」

「ああ、そうだ」

「普通の刑務所なら押収した凶器は、囚人を連行するのとは別の刑務官が証拠品保管室に運ぶことになっています。ですがあなた達は押収した証拠品を所持したまま七海圭吾を懲罰房へと移送しています。何故です?」

「ここは慢性的な人手不足でな。人手がなければそういうこともある」

「なるほど。それで押収したナイフはどちらが持っていましたか?」

「俺だ」

「報告書にもそうありました。そしてあなた達は七海圭吾と共に、監房エリアと特別監房エリアの間のエアロックに入った。監房エリア側の扉が閉じた途端に七海圭吾が暴れ出したんですよね。だから誰もその場を見ていない。都合のいい話ですよね」

「知ったことか」

「あなた達は二人がかりで七海圭吾を抑えつけようとした。揉み合いになった時に七海圭吾があなたの所持する証拠品袋を奪い取り、その中に入っていたナイフを手に取り、押さえつける加藤刑務官の足を刺した。あなた達は警棒で反撃し、そして七海圭吾は殺された」

「だから言っているんだ。正当防衛だと」

「七海圭吾の死体には全身に痣がありましたが、実際には体にあった痣は古い物で、あなた達から受けたのは頭部だけです。必要以上の暴力は振るわれていない。それが正当防衛だと判断した内部調査の根拠です」

「その通りだ」

「間違いです」

「何だと?」

「間違いです。必要以上の暴力は振るわれていない。その判断は間違いです」

「どういうことです。実際にその囚人が彼等から受けたのは、頭部の打撲だけのはずです」

 鰐男が再び口を挟んでくる。

「そこが問題なんです。だって考えてもみて下さい。ナイフを振り回す相手を制圧するなら普通はまず手足を殴りますよ。どう考えてもナイフを持つ手よりも遠くにある頭部をいきなり殴りつけるなんてことはあり得ません」

「狙ってやったことじゃない。偶然、頭に当たったんだ」

「通常あり得ないことはやっぱりあり得ません。賢人から何度も教えられてきた言葉です」知恵の王宮に住む賢人、この街の守護天使。「実際はナイフを振り回す七海圭吾を殴ったのではなく、無抵抗の状態の七海圭吾を殴ったんじゃありませんか?」

「違う」

「そもそも、七海圭吾はナイフなんて持っていなかったんじゃありませんか?」

「何度も言わせるな。あいつは俺からナイフを奪ったんだ」

「頭のおかしい犯罪者、あなたはさっきそう言いました。当然、警戒していたはずなのに、どうしてナイフを奪われたんです?」

「揉み合いの最中だった。突然のことだったんだ」

「あなたはそんなに体が大きいんですよ。七海圭吾より十センチ以上も背が高い。丸腰の七海圭吾があなたから、自分よりも上背があり、腰に物々しい装備品を下げているあなたから、ナイフを奪い取ったと言うんですか?」

「そうだ」

「信じられませんよ。武器の不法所持なんてせいぜい数日間、懲罰房に入るだけですよ。ですが武器を装備する刑務官をナイフで刺せば、殺されても文句は言えません。それなのに七海圭吾はあなたからナイフを奪い襲い掛かった。そうおっしゃるんですか?」

「そうだ」

「本気でそう証言されるんですか?」

「そうだ」

「あり得ません。七海圭吾はあの時、右手の人差し指を骨折していたんですよ」

 何だと。ぎょっとした顔で松井がわたしを見る。

「二週間前に、七海圭吾は全身打撲で医務室を受診しています。その時に、右手の人差し指の骨折と診断されています。利き手がそんな状態で、ナイフであなた達を襲った、本気でそう証言されるんですか?」

 わたしは手を下ろすと、静かに言う。

「あなた達が七海圭吾を殺害した理由はわかりません。ただその殺害は正当ではなかったとわたしは考えています。そしてその秘密が囚人の誰かにばれたのだとしたら、あなた達が狙われても不思議はありません。七海圭吾は特定の囚人グループに所属はしていません。七海圭吾に友情を感じる囚人はそれほど多くはないかもしれません。犯人は案外すぐに見つかるのかもしれませんね」

「すべてあんたの妄想だ」必死に絞り出すように松井は言う。

「そうであってほしいというあなたの祈りはわかります」

 松井は突然両手で激しく机を打つと身を乗り出して叫ぶ。

「あの囚人のせいで、加藤は死んだと言うのか?」

「七海圭吾を殺害した日、何があったんです? あなたが証言して下さればわたし達はあなたを守ることが出来ます」

「俺を守るだと?」

「犯人はまだあのD区画の中にいます。あなたと加藤刑務官に恨みを抱いている囚人。鍵のかからない監房、囚人達が自由に歩き回っている逃げ場のない密室。次はあなたが狙われる番です。あなたが証言さえして下されば、今すぐにあなたを保護します」

「証言することなんて何もない」

 松井がきっぱりと答えた直後、部屋に獰猛な声が響き渡る。

「それはつまり、俺達と本気で喧嘩するということか?」

 沈黙を守っていたその男は、分厚い隈の奥の相貌を引き締めながら刑務官に告げる。

「政府機関で違法賭博が横行、それを組織ぐるみで隠蔽し、二人の刑務官が囚人を計画的に殺害した疑惑があり、そのうちの一人が不審死を遂げた。その中の一つでも世間に漏れればおたくら全員終わりだ。誰か一人が負える責任をはるかに超えている。警告しておいてやる。さっさと七海圭吾の事件について証言し、犯人になり得る囚人についての情報をこちらに渡せ。そうすれば少なくとも違法賭博についてはこれ以上詮索しないでおいてやる」それから彼は冷酷な口調で松井に告げる。「七海圭吾を計画的に殺したと証言しろ。これ以上、痛い腹を探られたくなければな」

 松井からは、部屋に入った時の憮然とした表情はとっくに消え失せ、恐怖すら浮かんでいるように見える。鰐男も同じように青白い顔で立ち尽くしている。

「まあ、これからどうするかはよく二人で話し合うんですね」

 彼はおもむろに立ち上がるとわたしに目配せをする。

 それを合図に、わたし達二人は、部屋から出ていく。

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