第15話 死亡診断書

 1996/3/16 Saturday 捜査第四日目


「水沼警部」

 名前を呼ぶ声にはっとしてわたしは顔を上げる。いつの間にか眠っていたらしい。机に突っ伏したままで固まってしまった首と背中が悲鳴を上げる中、わたしは声をした方を振り返る。背後の扉が半分ほど開き、制服警官が顔を覗かせている。

「すいません。ノックをしたんですがお返事がなかったので」

「お早うございます。今、何時ですか?」わたしは何度か強く瞬きをしながらたずねる。

「八時十五分です。課長がお呼びです」

「捜査一課長が?」

「すぐに課長室に出頭するようにとのことです。東方刑事もお待ちです」

 何かあったのか。

 わたしは跳ね起きると机の上に散らばった資料をかき集め鞄に押し込み、ありがとうございますと頭を下げるなり取調室から飛び出して走り出す。昨夜遅く、未未市警察の刑事部屋に戻り、空いていた取調室に資料を持ち込んで読み始めたものの、連日の捜査の疲れと緊張で寝落ちしてしまっていたらしい。乱れた髪の毛を足早に歩きながら手でなでつける。寝癖なんて、ほんと、最悪。寝る前にシャワーを浴びていただけましだけど。刑事部屋ではすでに刑事達が忙しそうに働いている。わたしは刑事達に挨拶をしながら刑事部屋を突っ切り、課長室の扉の前で立ち止まり大きく深呼吸をしてから扉をノックする。

「水沼警部です」

「入れ」威圧感のある鋭い声がして、わたしは扉を開く。

 部屋には目の下に黒々とした分厚い隈をたたえる男が課長の机の前に立っている。いつD区画から戻ったのだろうか。わたしの姿に、捜査一課長は揃ったな、と低い声で言う。わたしは彼に何かあったんですかと小声でたずねる。むすっとした表情でこちらを見た彼の相貌の下には、いつもに増して分厚い隈が浮かんでいる。眠っていないのか。「涎を垂らして寝ていたお前のために親切な俺がもう一度説明してやるとだな、」わたしは思わず口元を拳の背で拭う。「例のノートの解析が終わった」ノート?「加藤刑務官の自宅から見つかったノートですか?」彼はああ、と机の上に広げられていた資料の一部をわたしに手渡す。数字や表が並んでいるが、あいにく書かれている内容はさっぱりわからない。「結局、何だったんですかこのノート」「ギャンブルのオッズ表だ」「ギャンブル?」「こっちのアルファベット、表に二つずつのアルファベットの組み合わせがいくつか並んでいるだろう? このアルファベットの組み合わせは、すべてD区画に勤務する刑務官の氏名のイニシャルと一致している。こちらの数字は金額だろう。つまり、」彼はふんと鼻を鳴らすと吐き捨てるように言う。「D区画では刑務官達による違法賭博が横行している。加藤はその胴元をやっていたようだ」

 まさか。政府機関で違法賭博が行われているのか? だがこれでわたしの疑問の一つは説明がつく。わたしはごそごそと鞄をまさぐると、皺だらけのコピー用紙を何枚か机の上に広げる。

「加藤刑務官と松井刑務官両者の銀行口座の動きです。こちらを見て下さい。二人の口座には給料以外に不定期ですが月に二度ほど入金があります。ATMからの現金振り込みで出所は不明ですが、二人には副収入があったようです」

 一致するな、課長は不機嫌そうに言う。政府機関で組織ぐるみの違法賭博が行われていたとなると、事態がややこしくなるのは目に見えている。公式な捜査に切り替えた途端、彼がまた厄介ごとを持ち込んだ、とでも思っているのだろうか。

「この違法賭博という彼等にとっては必死に守らなければならない秘密を考えると、あの監房エリアにあった新聞も説明がつきます。捜査が刑務官の方を向けば、当然、動機を探るために加藤と他の刑務官の関係性が洗われることになります。そうなれば違法賭博が明るみになるのは時間の問題でしょうからね。彼等としては何としても捜査の目を囚人に向ける必要があった」

 それには納得だ。単に仲間意識が高いだけで市警察の捜査妨害をしたと考えるよりは、余程理にかなっている。だが、

「政府機関内における違法賭博の横行については、本来、われわれの捜査の範疇を超えている。特定刑務所実験区画管理委員会に一任するべき事態だ。われわれが介入するか否かの判断基準は、今回の事件と直接関係性が認められるかどうかだが、その点はどうなんだ?」

「金銭のもつれが殺人の動機になるのは別にめずらしいことじゃないでしょうがね、」そう言うと彼はしばし考え込む素振りを見せたあと、わたし達に向かって言う。

「最初から整理しましょう。まず事実。夜勤帯にD区画勤務の刑務官が殺害されました。背部を複数回刺されており事故の線は却下、明確な殺人です。地下に下りた二人の刑務官が大げんかをして一方が一方を刺したなんて単純な結論でない限り、犯人は監房エリアから管理エリアに向かったことになります。夜間の監房エリアは不特定多数の囚人が自由に出入りしており、監視は機能していません。特別監房の刑務官を含め、誰であれ犯行は可能だったと考えるべきですが、刑務官が犯人であるならば、勤務が終わるまで待たずに夜間に殺人を犯すだけの理由が必要です。一方、囚人が犯人である場合、たしかに自由に監房を出入り出来るなら、被害者が単独行動をしている夜間の管理エリアを犯行現場に選ぶのは理にかなっていますが、普段から武器を装備している刑務官を囚人がナイフ一本で襲うのは無理があります」

「だが、実際には被害者は武器を装備していなかった」

「はい。ですから一番現実的なシナリオは、自らの意思で装備品を外した被害者と囚人が密会中に、ナイフを所持していた囚人に殺害されたというものです。では刑務官と囚人が夜中に密会する理由とは何でしょうか」

 彼は両手を腰に当て首を振ると、それから唇を鳴らす。

「松井と加藤の銀行口座が同じように動いているのなら松井も賭博の胴元と考えられます。加藤が松井を出し抜こうとして囚人と接触した可能性もあり得ますが、市警察の捜査妨害をしてまで守りたい秘密を、囚人と共有するのはリスクが高過ぎます。囚人との密会に違法賭博が関与している可能性はまずあり得ません」

「違法賭博の秘密がばれて、囚人に脅されていたとしたらどうですか?」わたしの問いに彼は首を振る。

「そちらも考えにくい。自分を脅す囚人と密会するのに装備品を外すとは思えないし、何よりも違法賭博の秘密を守りたいのなら、加藤一人ではなく松井も一緒に会うはずだ」

 それはそうだろう。

「結論から言うと、違法賭博と殺人事件とは無関係ということか」課長の口ぶりはどこかほっとしたようにも聞こえる。無関係であれば、違法賭博にわたし達が関わる必要はなくなる。

「違法賭博が関係ないのであれば、加藤と犯人は何故、夜中に密会していたのでしょうか」彼はそれから部屋の隅にあるイスにどっかりと腰をおろす。顔の前で祈るように両手を合わせ、立てた親指に顎を乗せると人差し指を唇に当ててぶつぶつと何かをつぶやいている。見慣れていないのか課長はその様子に怪訝そうに眉をひそめているが、わたしは知っている。彼は今、知恵の王宮にいる。そしてそこに立つ彼には、わたし達の見えない景色が見えている。

 しばらくして彼は顔を上げると、課長の方に合わせた人差し指を向ける。「動機。動機は重要です。過去一年間、加藤の名前があり医務室が関与する事件・事故報告書の中で気になった事件が二つありました」二つ? 囚人に刺された事件以外にも何か見つけたのか。「半年前、加藤と松井の二人は囚人を懲罰房に連行中に襲われ、加藤が囚人に刺されるという事件が起きました。その際に警棒で対抗し二人は囚人を殺害しています。殺害された囚人の名前は七海圭吾。報告書によると監房に隠し持っていたナイフが見つかり懲罰房に移送中だったとされていますが、額面通りには受け取れません」昨夜もそんなことを言っていた。ナイフがベッドから見つかったはずがないと。「七海圭吾の事件は、あの脱走事件の二週間後に起きています。脱走事件の際には一度、監房エリアはくまなく捜査されています。つまり、二週間前には一度、監房内に武器がないことは確認されています。いまだ脱走事件が解決されずD区画内の厳戒態勢が続く中、監房内に武器を、しかも刑務官に簡単に発見されるような場所に新たに隠し持っていたとは思えません」

「お前は懲罰房への移送自体が正当ではなかったと言うのか?」

「そもそも脱走事件が解決するまで、管理エリアへの立ち入りや面会も禁止されていたんです。とても新たに武器を作れる環境があったとは思えません。懲罰房への移送が正当でなかったのだとしたら、二人が七海に襲われたという話自体が怪しくなります。そしてこの報告書には、もう一つ大きな違和感があります」彼は身を乗り出すと唇を鳴らす。「D区画の監房は通常二人部屋です。監房内から凶器が発見されれば、普通は連帯責任です。どちらが隠したかわかりませんからね。では、懲罰房に連行されたのは何故、七海圭吾一人だったのか」

 ああ、そうか。完全に見逃していた。彼はそこに引っかかっていたのか。

「理由は意外なところから手に入れることが出来ました。七海圭吾の診療記録です。看護師との面談記録に、監房を一人で使用していると気が滅入ると話していました。そしてここからが面白いんですがね、」そう言うと、彼はにいと唇の端を歪める。「七海圭吾の話では、一人で監房を使うようになったのは、彼が亡くなる二週間前からなんですよ」

 二週間前。ぶるっ。わたしは思わず体を震わす。まさか、まさかその同房だった囚人は、「まさか、七海圭吾と同房だったのは、斉藤雅文ですか?」

 わたしの言葉に、課長も思わず、何だと、と聞き返す。「脱走犯の斉藤雅文が同房だったのか?」

「そうなんです。七海圭吾は脱走犯、斉藤雅文と同房でした。そしてもう一つ奇妙なことがありました。われわれが開示請求を出し、許可が下りたのは二十四冊のファイルのはずでしたが、実際に開示されたのは二十三冊のファイルでした。単純ミスだった可能性もありますが、刑務官にも確認したところ、指示通りすべてのファイルを用意したとのことでした。ミスでないのだとすると、こう考えるべきです。その一冊は欠番で、D区画の機密書類保管庫に置かれていない資料。法務省で直接厳重に管理されている資料ではないか。そんな資料が存在するとすれば、あの、D区画の存在を揺るがした脱走事件の報告書しか考えられません」だから一冊足りなかったのか。「そして脱走事件の資料が俺達の申請した二十四冊の中に含まれているということは、あの脱走事件にも加藤が関わっていたということになります。念のため、市警察に保管されている脱走事件の捜査資料を確認しました。当時の事情聴取記録を読むと、たしかに脱走事件が起きた夜勤帯の刑務官の中に加藤と松井の名前がありました。斉藤雅文の脱走事件、そしてその二週間後に起きた斉藤と同房だった七海圭吾の殺害事件、その両方の事件に加藤と松井の二人が関与しているのだとしたら、偶然にしては出来過ぎています」

「それが何だというのだ?」課長はイスにもたれかかると眉間にしわを寄せる。「その二つの事件、たしかに同じ房にいた二人の囚人が問題を起こし、その両方に被害者が関与していた。だがそれ自体に大きな問題があるとは思わん」

「問題は、あの脱走事件がまだ解決していないということですよ」

 ああ? 課長が明らかにそれまでとは違うトーンの声を上げる。身を乗り出すと彼を睨みつけて言う。「お前、何を言っているんだ? あの脱走事件について、市警察の捜査はすでに終わり結論が出ている」

「ええ。市警察の出したその結論が、間違いだと言っているんです」

 ばん。課長が思いっきり机の天板を叩き、わたしはびくっと背筋が延びる。「口に気をつけろ。あの脱走事件は法務省の歴史上、最大汚点の一つも言える事件だぞ。貴様は一度解決されたその事件を、もう一度蒸し返そうと言うのか」

「市警察の捜査自体に問題はありませんよ。脱走事件としては手順通りに捜査がなされ、脱走犯の死体が見つかり事件は解決しています。ですが、そもそも前提が間違っていたとしたら、どんなに正しい捜査をしても無意味です」

「前提、だと?」

「あの事件がそもそも脱走事件ではないとしたら?」

 ぞくり。わたしの首筋を冷たい汗がつたう。何を、言っている?

 彼はのっそりと立ち上がるとゆっくりと部屋の中を歩き回る。部屋の真ん中に立つわたしの周囲を回るように、ゆっくりと歩いていく。

「現存する脱走事件に関する資料は二種類です。まずは市警察が保管している捜査資料、そしてそれらを含めたすべての関係書類をまとめた法務省の保管するファイルです。後者は黒塗りの複製しか読むことが出来ません。ですが、一見、何も情報がないと思われるその黒塗りのファイルからもわかることがあります」

 あの黒塗りのファイルから、わかること?

「市警察の捜査資料によると、あの脱走事件の時系列はこうです。朝の点呼の際、一人の囚人が監房から行方不明となっていた。同房の囚人は寝ていて気付かなかったと証言。監房は夜間でも施錠されないため、この時点ではD区画内のどこかにいるだろうと捜索が開始されましたが結局発見することが出来ませんでした。事件発覚から十二時間後、ボイラー室の壁が破られていることが発覚し刑務所側は管理委員会に報告、その後、速やかに市警察に通報されました」そうだな、と課長がうなずく。「問題はその空白の十二時間です。以前にも囚人がD区画内で身を隠していた事件があったため、同様の事態を疑い捜索していたというのが法務省側の説明でしたが、それではあの黒塗りの報告書と矛盾しています」あんな黒塗りの報告書から一体何がわかったというのか。

「あのファイル、斉藤雅文の死亡診断書が、二枚あるんです」

 死亡診断書?

「たしかに書類はほとんどが黒塗りになっていますが、あくまで記入された内容が黒塗りにされているだけで、書類の書式はわかります。そしてファイルの中には、二枚の死亡診断書がありました。一枚は俺達が良く知る市警察の監察医務医院で使用されている書式、そしてもう一枚は今回の情報開示で見ることが出来た七海圭吾の死亡診断書と同じ書式の物でした。つまり、東洲区重警備刑務所の医務室で作成された物です」

 どういうこと? わたしは混乱する。

「監察医務医院の死亡診断書は、東方さんが斉藤雅文の死体を発見した時のものですよね?」わたしの問いに、犬の散歩の老人だと律儀に訂正するがそんなことはどうでもいい。「ですが脱走事件で死んだのは斉藤雅文一人だけです。それがどうして、刑務所内医務室の死亡診断書があるんですか?」

「死んだのが一人だけならこう考えるしかない。斉藤雅文は二度死んだ」

 二度、死んだ? わたしを強烈な不快感が襲う。嫌な感じ。とんでもない禁忌に足を踏み入れたかのような嫌な感覚が襲ってくる。この先は聞いてはいけないのではないか、そんな予感の中、わたしは彼の言葉に耳を傾ける。

「考えるべきは、この死亡診断書は誰が、いつ、何のために作成したかだ」

「誰がって、刑務所内医務室で発行されているんですよね」わたしの脳裏に、あのカーリーヘアの老眼鏡の白衣の女性の姿が浮かぶ。

「いや、残念ながらこれは誰かが偽造した物だ。医者が作成した正式な書類じゃない」

「何故、そう言い切れる?」課長が苛つくようにたずねる。

「死亡診断書と一緒にあるべき物がファイルには収められていなかったからです」

 あるべき物?

「診療記録、医者のカルテです。死亡診断書は死亡した日時、場所、そして死因が記録された行政書類に過ぎません。死亡の診断に至る経過は医師カルテに記録されます。七海圭吾が殺害された事件ファイルには死亡診断書と診療記録とが一緒に綴じられており、監察医務医院が作成した方の二枚目の死亡診断書にも、検死記録が一緒に綴じられていました。資料作成のルールが一定であるならば、斉藤雅文の一枚目の死亡診断書に診療記録がついていないのは不自然です」

「それだけの理由で、その死亡診断書が偽造だと言い切れるものか」

「考えてもみて下さい。もし仮に脱走事件の捜査前に医者が死亡診断書を作成したのであれば、少なくとも作成しなければならないような事態が生じたのであればそれを市警察に報告しないと思いますか?」

 たしかに彼女には市警察と対立し裁判にかけられた過去がある。市警察の捜査に協力的ではない可能性は否定出来ないが、あれだけ脱走事件がおおごとになってなお、そんな重大な情報を黙っていたとも思えない。

「刑務所に確認したところ、D区画で囚人の死体が見つかった場合、医務室から医者がD区画までやって来て死亡を確認します。死亡診断書がないと政府機関であるD区画から死体を運び出すことが出来ない都合上、その場で死亡診断書を作成し、死体と一緒にD区画から運び出す仕組みになっています。そのためD区画には刑務所内の書式の未記入の死亡診断書が保管されており、刑務官なら偽造は容易です」 

 ここまではたしかに筋は通っている。だが。

「では次に、いつ偽造されたかです。当然、脱走事件の捜査が始まったあと死亡診断書を偽造する理由はありません。つまり、市警察に通報されるまでの空白の十二時間で作成された物です。そして、最後、何のために、ですが」

「あの、ちょっと待って下さい」わたしは思わず口を挟む。「一ついいですか。それが医者によって正式に作成された物でないとすると、単純な話かもしれません。ご存知の通りD区画では囚人同士の暴力事件や不審死が数多く発生しています。夜間も自由に監房を出入り出来る状況であるならば、朝、囚人が行方不明になっていると発覚した時、どこかに身を隠しているよりもどこかで殺されている、そう考える方が自然です。囚人の所在がわからなくなったにもかかわらず十二時間も手を打たないというのはやはり不自然です。刑務官達は囚人がもうすでに死んでいると決めつけていた。しかも囚人の不審死自体は日常的なことでありさほど大きな問題ではない。だからこそ管理委員会への報告もせず呑気に死体を探していたのではないでしょうか。市警察にはそもそも通報する気はなかったはずですが、壁が破られていることが発覚し、慌てて通報してきた、それが真相の気がします。そして斉藤雅文が死んでいると決めつけていたからこそ、死亡診断書が前もって用意されていたのではないでしょうか?」

「死体を見つける前に刑務官が作成したと言うのか?」課長がわたしにたずねる。

「当然、医者以外が死亡診断書を作成することは違法ですが、通常、病院で作成される死亡診断書でも発行元の病院名や住所の記入欄は、住所が書かれたハンコで代用されることがあります。刑務官がD区画の名前や住所を時間短縮で前もって書いていたとしても問題があるとは思えません。そして脱走が発覚したあと不要になった死亡診断書が破棄されずファイルに残ってしまった、それだけのことではありませんか?」

「当然、俺もその線は考えたが、」話の腰を折られて若干むっとした表情で彼は言う。「却下だ」

「何故です?」

「死亡診断書の【死因】の欄が黒塗りにされていたからだ」【死因】の欄?「死亡診断書には死亡した日時のあと、【死因】の欄があり、それに続いて【その原因】、そしてさらに【上記の原因】と欄が続く。【その原因】や【上記の原因】は空欄のままだが、【死因】の欄だけは黒塗りがされている。つまり【死因】の欄は、空欄ではなく何かしらが書かれていたということだ。だがこれが勝手に斉藤雅文の死を決めつけて作られた物であれば、【死因】の欄が埋まるはずがない。撲殺と書いたあと絞殺死体が見つかれば無駄になるからな。【死因】が書かれているということは、死亡診断書が作成された時点で、斉藤雅文の死体が目の前にあった、ということだ」

 あのファイルの中にあった黒塗りの死亡診断書。たったそれだけで、たったそれだけの証拠で彼は、特定刑務所実験区画史上最大とも言える事件の真相を描いてみせる。脱走事件ではなく殺人事件。斉藤雅文は脱走事件の捜査が始まる前に、一度死亡していた。つまり、斉藤雅文は、二度死んだのだと。

 もちろん今、手元にあの黒塗りのファイルがあるわけではないし、実際、黒塗りが外れれば【死因】の欄も実は空白だということは十分あり得る話だ。これは彼の妄想に過ぎないのかもしれない。それなのに、わたしは彼の言葉の引力に抗えなくなっている。だがこのまま彼の言葉をすんなりと受け入れていいのか。考えろ。あらゆる可能性を考えろ。

「あの、一つだけいいですか?」

「さっきもそう言った」

「じゃあ、もう一ついいですか? こういう可能性はありませんか。刑務所にとって脱走事件はあまりにも大きな事件です。それを隠すために、行方不明になった斉藤雅文を死亡したと処理しようとしたんじゃないでしょうか?」

「却下だ。脱走事件をなかったことにするのは不可能だ。たしかに刑務所は巨大な箱、密室だ。密室で起こる限り、どんな事態も隠蔽することは可能だろうが、脱走事件だけは隠蔽することは不可能だ」

 事件が密室の外に出るから。自分達の手の届かないところに出てしまった事件をなかったことにすることは出来ない。だからこそ。「途中でそのことに気付いて通報してきた。そして不要になった死亡診断書が残されたんじゃないでしょうか?」

 わたしの言葉をしかし彼はあっさりと却下する。

「いいか。脱走事件が発生した場合、それを隠蔽することは最大の悪手だ。好むと好まざるに関わらず、脱走事件に対する最良の手は市警察に直ちに協力を求め、事件が表沙汰になる前に人海戦術で速やかに囚人を逮捕することだ。事実、報告を受けた管理委員会はすぐに市警察に通報している。およそ刑務所で働く人間ならそれが常識だ。脱走事件を隠蔽するという発想は通常あり得ない」

 通常あり得ないことは、やっぱりあり得ない。

 それは研修時代に、彼からことあるごとに言われ続けた言葉だ。だが、脱走事件を隠蔽することがあり得ないのと同様に、斉藤雅文の殺人事件を脱走事件として偽造するなんてこともまたあり得ないのではないだろうか。事実、市警察を巻き込み世間を巻き込みあれだけの騒動になった、それが予想出来なかったはずがない。架空の脱走事件を作ることこそ荒唐無稽じゃないだろうか。

「駄目だ」それまで黙って聞いていた課長がしかめ面で首を振る。「お前の話には無理がある。実際に斉藤雅文が死亡したとして、どうしてそれを隠す必要がある? 水沼の言うことが正しければ、あそこでは囚人の不審死はめずらしい話ではないのだろう。どうして斉藤雅文の死を、脱走事件に仕立て上げる必要があるというんだ?」

「まさにそこが、この話の最も重要な点ですよ」

 彼はそう言うと、再び顔の前で祈るように両手を合わせる。

「彼等が望んで脱走事件をでっち上げたはずがありません。だとすると、そうせざるを得なかったと考えるべきです。課長、脱走事件が起きた時、マスコミへのリークがあったことを覚えていますか?」

 ああ、と課長が渋い顔でうなずく。一人蚊帳の外のわたしは、何のことですかと彼にたずねる。

「脱走事件を最初に報じたのは東洲区の地方局のチャンネル13だった。ドラマの再放送中にテロップで、東洲区刑務所から脱走事件と流したのが最初だったが、市警察に脱走事件が通報された時刻よりも早かったため、刑務所側の誰かがマスコミにリークしたと当時問題になったんだ。通報までに時間がかかり捜査が出遅れたこともあり、最初から市警察の刑務所側への不信感は相当なものだった」

 今でも市警察とD区画との関係性がこじれていると聞くが、そんな背景があったのか。

「もう一度時系列を整理するとこうなります。斉藤雅文が行方不明になる。斉藤雅文の死亡診断書が作成される。誰かがマスコミに脱走事件だとリークする。そして市警察に通報が入り脱走事件の捜査が始まる。つまりこうは考えられませんか? 脱走事件だと誰かがリークしたため、そのまま脱走事件だということにせざるを得なくなった」

「馬鹿馬鹿しい。どうしてそうなるんだ? 誰かがマスコミにリークしたとしても誤報だった、囚人の死亡事件だと否定すれば終わりだろう? どうしてそれにのって実際に脱走事件をでっち上げることになるんだ?」

 課長の指摘はもっともだろう。誰かのリークにどうして踊らされる必要がある?

「問題はマスコミにリークしたのが誰だということです。死亡診断書まで作った刑務官側のはずがありません。だとするとリークしたのは囚人です。では何故、その囚人は斉藤雅文の死を脱走事件と誤解したのでしょうか。決まっています。そう聞かされたからです。誰から? もちろん刑務官からです。刑務官から斉藤雅文は脱走したと説明を受けたんです。そして誤解した。重要なのはここです。何故、刑務官は囚人達に、斉藤雅文が脱走したと説明したのでしょうか?」

 刑務官が囚人に斉藤雅文が脱走したと説明した理由? あそこでは囚人の不審死がめずらしくないのに、何故、斉藤雅文が死んだことを告げることが出来なかったのか?

「彼等は斉藤雅文の死を隠す必要があったんですよ。その理由は七海圭吾の診療記録を見ればわかります。七海圭吾は脱走事件から二週間後、加藤と松井によって撲殺されています。彼の全身には無数の痣があり、当初、刑務官側の過剰防衛の疑いが持たれましたが、内部調査で七海圭吾の体中の痣の過去の診療記録が確認され、加藤と松井は正当防衛と判断されました。七海圭吾は殺害されるよりも前に、全身の打撲で医務室を受診していたんです。では、七海圭吾は一体いつ受傷したのか、」そこで言葉を切ると、突然彼はわたしの方を向く。「どうなんだ、研修生?」

 思わずわたしはえっと声を上げる。彼は自分が口にしたことに気付いていないらしい。まるで二年前に戻ったかのような錯覚の中、わたしは鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ、それから答える。「脱走事件の日、ですか?」

「そう。七海圭吾は斉藤雅文が消えた日に、医務室を全身打撲で受診しているんです。つまり、同房の二人の囚人のうち、斉藤雅文は死亡し七海圭吾は全身に打撲を負った。ここから描き出される背景は、どうなんだ?」

 当然わたしに聞いているのだろう。「七海圭吾と斉藤雅文が殴り合い、その結果として斎藤雅文が死亡した、」いや、違う。それならば刑務官が斉藤雅文の死を隠す理由がない。とすると、これしか答えはない。「七海圭吾と斉藤雅文の二人は刑務官から暴力を受け、その結果斉藤雅文は死亡した」いい子だ。彼は満足そうにうなずく。

「過去一年間、刑務官による囚人殺害は半年前の七海圭吾の一件だけです。その事件自体は現場を誰も見ていないこと、七海圭吾が武器を所持していたこと、内部調査で正当防衛だと正式に認定されたことで大きな問題にはなりませんでしたが、あの実験区画が出来た経緯を考えても、刑務官による囚人の殺害は禁忌です。斉藤雅文の死を囚人に隠さなければならなかった理由はこれしか思い当たりません。斉藤雅文は正当ではない理由で刑務官から暴力を受け、そして死亡したのではないか」

 課長は彼の言葉に抗うように、むっつりと口元を引き締め沈黙している。わたしは課長に代わって彼に指摘する。

「それでもやはり、脱走事件と説明するのは不自然です。あそこは夜間でも監房は施錠されません。囚人同士のいざこざで殺害されたとでっち上げる方が、余程合理的です」

「それが出来なかったんだ。刑務官は死体を隠す必要があったんだ」

 死体を隠す必要があった? どういう意味だ。

「斉藤雅文の死体があったら困るんだよ。D区画では、死体は医者が診察し、死亡診断書と一緒に運び出されるルールだと言っただろう。つまり、死体があれば医者を呼ばなければならなくなる。仮に、斉藤雅文の死体に、明らかに刑務官の装備する武器で殺害された痕跡が残っていたとしたらどうだ?」

 わたしの脳裏に、あの刑務官達の物騒な装備品が浮かぶ。

「死体を検死されれば、刑務官によって殺害されたことが確定する。あの実験区画の最大の禁忌は刑務官による囚人殺しです。だから、何としても斉藤雅文の死体を隠す必要があった。そして、死体を隠すには脱走事件をでっち上げるしかなかったんだ」

 厳格な社会実験であるため、夜間に急遽、別の刑務所に囚人が移送されるなんてことは起き得ないことを囚人達は知っている。死体があってはならないのであれば、脱走したと説明するしかないというのはたしかに説得力がある。

 彼は課長の机に両手をつくと何度か大きく首を振る。

「刑務所内に死体を隠せる場所はそうそうありません。だからD区画の青写真を引っ張り出し、ボイラー室の壁の裏の排水管に一時的に死体を隠したんでしょう。囚人達には脱走事件と説明したが、それは単なる一時しのぎで、しばらく経ったあとに斉藤は逮捕されたとでも説明する予定だったのでしょう。そうやって囚人達を納得させ、その間に死亡診断書を偽造し、死体をD区画から運び出す予定だった。死体の搬出は書類さえあれば医者が同行するわけではありませんからね。それですべてが終わるはずだった。だが、脱走事件と聞かされた囚人の誰かがマスコミにリークしたことですべてが狂うことになったんです」

 そんな、そんなこと。

「マスコミから問い合わせの連絡が来た時、彼等は絶望したはずです。遅かれ早かれ管理委員会の耳にも入る。そうなると選択肢は二つです。刑務官の虐待死と認定される恐れがあっても斉藤雅文を医者に診断させ正式に死亡と認定するか、あるいは脱走事件として押し通すかです。どう考えても選ぶべきは前者ですし彼等もそうしようとしたはずです。ですがそこで、もう一つの想定外のことが起きた」

 わたしははっとして足が震え出す。まさか。そんなことが。

「まさか、斉藤雅文の死体が排水管を流れていったんですか?」

 脱走事件の捜査では、ボイラー室の奥の排水管から斉藤雅文の衣服の線維や毛髪も発見されている。死体が排水管の中にあったのは間違いない。そしてその後、斉藤雅文の死体が排水管とつながっている工業用水路で発見されたのであれば、答えは一つしかない。脱走事件がリークされ、彼等が慌てて死体を排水管から引き上げようとした時、斉藤雅文の死体は排水管の中から姿を消していた。

「実際のところはわかりませんが、彼等が死体を引き上げようとした時点で死体が消えていたのなら、彼等にはもう選択肢はありません。脱走事件として押し通すしかなくなったんです。結論、」彼はそこで言葉を切ると、課長の方をじっと見る。「あれは脱走事件ではありません。刑務官による斉藤雅文殺人事件です」

 わたしは彼の話の穴を必死に探すが見つけられないでいる。状況証拠だけとはいえ、話の筋は通っている。整合性は保たれている。だがどこまでいっても仮説に過ぎないこの話をどこまで信じられる。彼はまるで手品のようにばらばらだったピースを集め、大きな絵を描いてみせたが、これが単なる妄想ではないとどうして言い切れる?

「斉藤雅文が夜勤帯に死亡したとしてそれから十二時間、日勤帯も巻き込んで偽装工作が行われています。夜勤帯だけではなくD区画の刑務官全員が関わっているはずです。彼等は協力し窮地を切り抜けた。結果的には脱走事件としておおごとになりましたが、少なくとも囚人の虐待死という汚名は避けることが出来ました。七海圭吾の診療記録では明らかに警棒に殴られたような傷跡はありません。彼が斉藤雅文同様に刑務官から暴力を受けたかどうかは不明ですが、同じ夜に同房の二人が受傷しているのなら、斉藤雅文の死について何か知っていることは間違いありません。診療記録によると七海圭吾は傷を負った経緯を証言していません。脅されていたのか自ら沈黙を選んだのかはわかりませんが、刑務官達にとって時限爆弾であることには変わりありません。脱走事件はおおごとになり彼等は最早引き返すことが出来ませんし、七海圭吾の口を塞ぐ必要があったのは想像に難くありません。事実、斉藤雅文が消えた二週間後、七海圭吾は加藤と松井によって殺害されました。斉藤雅文の死にも加藤と松井が関わっており、それが正当ではなかったと囚人に知られたならば、二人が命を狙われるだけの理由になります」

 長い話を終えた彼は、それから体を起こすとゆっくりと部屋の隅に歩いていき、イスにどっかりと腰を下ろすとふうと大きく息を吐く。

「話は以上です」

 じっと目をつぶって話を聞いていた課長は、何度かうなずくと彼を見る。

「お前の要求は何だ、東方?」

「もちろんあの脱走事件の再捜査です」

「無理だ。お前の話に一定の説得力があることは認めよう。だがお前の話はすべて、今、ここには存在しない機密書類を前提としている。その機密書類は証拠として使用出来ないばかりか、お前が機密情報を恣意的に歪めて作り上げた妄想だと言われれば、反論の仕様がない。そんな状況下で、あれだけの大事件の再捜査を行うことは不可能だ」

「まあ、そうでしょうね」彼は疲れ切った顔でぎっとイスに背もたれる。

「お前の推理が正しければ、これは市警察だけじゃない、法務省にまで影響が及びかねない事態だ。再捜査したければ確実な証拠が必要だ。だが脱走事件の機密情報の原本を法務省が管理しているのであれば、私達が手を出せるものではない」

 課長はここまでの話がすべて無駄であったかのように言う。

 仕方がない。

 課長の言葉は正しい。

 わたし達には出来ることと出来ないことがある。それは事実だ。

「まあ、証拠を手に入れるのは無理でしょうね。だったら、」彼は淡々とした口調で言う。「証言を得るしかありません」

 わたしと目が合うと彼はうなずいてみせる。半年前に起きた脱走事件とその二週間後に起きた囚人殺害事件、そして今回の警官殺害事件。そのすべての事件に関係し、現在話が聞けるのは一人しかいない。

 彼は一度大きく息を吐くと、のっそりと立ち上がる。

「結局最後に物を言うのは、取り調べってことですよ」

 取調室。

 鉄の立方体。

 通称BOXと呼ばれる鉄方体こそが、わたし達殺人課刑事の聖域。

 今日の彼の話の中で、その部分にはわたしは迷いなく同意する。

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