第13話 開かれた扉

 事態は慌ただしく動き出す。

 未未市警察捜査一課長御厨警視は法務省直轄特定刑務所第四実験区画で起きた加藤刑務官殺害事件を公式な捜査一課の事件と認定。御厨警視はD区画の機密情報の開示を刑務所長と共に法務省に要請した。手続きが進む中、俺達を乗せた2CVは再び砂漠のような広大な埋め立て地を突っ切る国道を走る。この道を何度も何度も行ったり来たりしている。悪夢は繰り返し起こるというが、どうやら俺はその中に確実に足を踏み入れているらしい。

「刑務所長は機密情報開示の書類にすんなりサインしたようですね」雨上がりの冷たい風が、半分開けた窓から吹き込み助手席の彼女の髪の毛は激しくたなびいている。「一種の政治的策謀の結果とは言え、自分の縄張りの一画に自らの管理が及ばない区画がある事態を面白くは思っていないはずだしな」ふうむ、と彼女は唇を尖らせる。「東方さんを推薦したのは刑務所長ではなくD区画なんですよね」「直接聞いたわけじゃないが、あの鰐男が俺を呼んだのは間違いないだろうな」だが、と俺は思う。

「そもそも、D区画の背後には法務省がいて、D区画自体が踊らされている可能性はないのか?」俺はあの猫目の男を思い出す。すべてあいつが描くシナリオだという可能性は否定出来ないだろう。だが彼女は片手で髪の毛を押さえながらいいえと首を振る。「ないと思います。法務省側からしたら犯人は囚人よりも刑務官であってほしいはずです」まあ、そうだろうな。半年前の脱走事件以降、世論から厳しい視線にさらされている実験区画で、今度は囚人が刑務官を殺害したとなると致命的だ。刑務官同士のいざこざで殺人事件が起きたというシナリオを描くことはあっても、その逆はないだろう。あの新聞と法務省は無関係、D区画が単独で行った偽装工作と考えるべきだろう。

 だがそう考えると彼女が当初、刑務官を第一に疑っていた理由もわかる気がする。本人は認めないだろうが、実験区画の特別捜査官として二年間も捜査に専従していれば、法務省の望む結論に多かれ少なかれ影響を受けてきたはずだ。彼女は、名前は他人から一方的に与えられたものであってもその人間のアイデンティティに深く根差すと言った。もちろん彼女が過去の捜査に手心を加えたとは思わないが、実験区画の特別捜査官という名前が彼女の振る舞いにある種の哲学を植えつけていても不思議はない。D区画側はそれをよく知っていた。刑務官を疑うように条件付けされている特別捜査官にあてがうには、囚人を疑う刑事がうってつけだ。くそったれ、そして俺はまんまとあいつらの期待に応えていたというわけだ。

 2CVは砂埃を上げながら走っていく。

 ぴこんと音がして彼女が携帯電話を手にする。

「管理委員会からです。機密情報開示請求が通ったようです。限定的ですが資料の開示が認められました」

「限定的?」

「あの黒塗りの資料の山をすべて開示してくれるはずはありませんからね。この一年間で起きた被害者と囚人とのトラブルで、医務室が関与した事件・事故に限定して開示請求を出しました。それ以外にもトラブルはあるのでしょうが、まずは囚人に刺されたとかいう事件を調べる必要がありますから」



 携帯電話と財布と鍵を箱の中に投げ入れ身体検査を受ける。「D区画への立ち入りを許可します」鉄格子の扉が開かれると俺達は廊下を歩いていく。再び現れた鉄格子を通り抜け、D区画の円筒状の建物の地下部分、管理エリアに俺達は入る。刑務官達が俺達をじろじろと見ながら通り過ぎていく。「嫌な感じですね」「この事件は市警察捜査一課の公式な捜査になったからな。今頃は警官隊が、彼等の当直室からロッカールームまで引っくり返している。歓迎されるはずがないさ」凶器は現場に残されていたが、犯行まで犯人は凶器をどこかに隠し持っていたはずだ。他にも武器をどこかに隠し持っている可能性がある。D区画を捜索する口実としては上出来だ。何か面白いものが出てくればいいがな。

 俺達の元に鰐男が刑務官達を引き連れやって来る。どう見ても不満げな表情を隠そうともしない小さな爬虫類に俺は小さくうなずく。

「資料をご用意しました」

 そう言うと、こちらへどうぞと鰐男は踵を返し歩き出す。円筒の外周に当たるゆるやかに曲がる廊下を歩いていき、一つの扉の前で立ち止まる。電子キーに鰐男は自分のカードを押し当てると扉を開く。扉の先には建物の中心に向かって延びる廊下が見える。どうやら俺達の読み通り、円筒部分の中心に秘密の保管庫は隠されているらしい。機密情報であるが故に資料を持ち出すことが出来ず、結果的に俺達を保管庫に案内せざるを得ないという状況は皮肉だと思うが、俺はすました顔で爬虫類のあとについていく。

 部屋二つ分ほど廊下を進むと、突き当りに大きなガラスの扉が現われる。ガラス戸の前には銃を携帯した刑務官が扉のこちら側と向こう側の両方に立ち、扉の奥にはずらりと巨大な棚が並んでいるのが見える。「保管庫の中には入れません。こちらにどうぞ」ガラス戸の手前、右手に小さな扉があり鰐男は再びカードキーで扉を開く。部屋に入ると扉の向こうは木のモザイク調のタイルが敷き詰められた床とボタニカル柄の壁紙が四方の壁に貼られている狭い部屋で、中央に机が置かれている。またもや資料閲覧室に缶詰めということらしい。資料閲覧室に入ってしばらく待っていると、ワゴンを押した刑務官が入ってくる。ワゴンから机の上に資料が移される。

「開示が許可された資料は以上です。先日と同様、この資料はすべて政府に属する機密情報であり、いかなる理由でも資料の撮影、持ち出しは機密情報の漏洩として重罪に問われる可能性があります」ああ、と俺は答える。「この部屋の扉は外から施錠されますので、部屋から出る際にはそこのインターホンでお知らせ下さい。なお、都度都度の身体検査につきましてもご了承下さい」

 刑務官はそう言うと、鰐男と目を合わせ、俺達を残して部屋から出ていく。

 俺達は扉の閉まる音と同時に、資料を机の上に並べていく。



 この一年間、加藤刑務官の名前がありかつ医務室が関わった事件・事故報告書。管理委員会による内部調査資料、刑務官の管理日誌、医務室の診療記録、定期的に行われる臨床心理士によるカウンセリング記録などがぎっしりとファイルの中に収められている。

「一冊、足りませんね」彼女が怪訝そうに俺に声をかける。「何だ?」「いえ、資料開示請求を出した時、該当資料は全部で二十四冊のファイルだったはずなんですが、ここには二十三冊しかありません」「二十四冊もあるのか?」「ですがここには、」「俺はこれから二十四冊もファイルに目を通さなければならないのか?」気が遠くなる。「ですが一冊ここには足りません」「あれだけ杜撰な監視体制を敷いている連中にミスはつきものだろ。それよりも二十四冊も読まなければならないのか?」「結果的には二十三冊です」「どっちでもいい」

 案の定、作業は思った以上に時間がかかる。黒塗りなら飛ぶようにページがめくれるのにな、と俺は本末転倒なことを思う。膨大な資料の山を切り崩す作業のうち、俺は段々気が滅入ってくる。

「あきれたものだな。ここは囚人の社会復帰を目指す崇高な場所じゃなかったのか?」俺は彼女にたずね、彼女は神妙な面持ちでええ、と答える。「D区画はこれまでの三つの実験区画とは異なり重罪犯が集められていますからね。開設からわずか二年で、」「最も治安の悪い動物園に成り下がった、か?」重罪犯を自由にさせた以上、こうなることは最初から時間の問題だった。ここで働く刑務官にとっては恐怖の日々だろうが同情は出来ない。あの医者は正しい。自分で掘った穴に飛び込んだのなら、自力で這い上がるしかない。

 俺は悪意に満ちた新たな資料に手を伸ばす。このD区画で日常的に行われる暴力行為。ページをめくるたびに俺の中の嫌悪感は肥大する。暴力、暴力、暴力。どの資料にも暴力の痕跡が色濃く残っている。

 暴力とは何だろう。悪意と暴力は切り離せない。どんなお題目を掲げても、どんな尊大な理念を口にしても、悪意がそこにある以上、暴力は醸成され連鎖していく。ここが悲劇の箱であるならば、そこにはこの街中の悪意が煮詰められており、ぐつぐつと暴力の泡が生まれては弾け広がっていく。まったく。ろくでもない場所だな、ここは。

 時間だけが過ぎていく。

 時計の長い針がすでに何周もしたころ、ようやく俺達は目当ての資料に突き当たる。

「一九九五年九月二十八日、加藤刑務官は懲罰房に移送中の囚人に襲われ、足を刺されたようです。加藤刑務官は大事には至りませんでしたが、その場で制圧された囚人は、」彼女の言葉が止まる。嫌な予感が当たったらしい。「死んだのか?」「はい。制圧された際に受傷し、医務室に搬送されましたが死亡が確認されました」「診療記録と死亡診断書、管理委員会への死亡報告書もあるな」「囚人を制圧したのは加藤刑務官一人ではありませんでした。一緒にいたのは、」「当てようか? 松井だな」「その通りです」俺はぎっとイスをきしませると両肘をついて顔の前で祈るように両手を合わせる。「偶然にしては出来過ぎているよな」

 D区画では、夜勤帯の刑務官は二人一組で行動している。それがある程度、固定された組み合わせで勤務しているのか、あるいはまったくのバラバラで毎回異なる組み合わせなのかは改めて確認する必要があるが、仮に日勤、夜勤のいずれもある程度固定した組み合わせで行動しているのであれば、半年前の加藤の事件に松井の名前が出て来ても不思議はない。

「囚人の死因ですが、診療記録によると刑務官の装備品である警棒で殴打されたことによる脳挫傷となっています」つまり加藤と松井の二人に警棒で殴り殺されたのか。「囚人の死亡後、D区画内の内務調査結果を受けて管理委員会は正当防衛と結論づけています。二人は懲戒処分されることもなく、そのまま現場に復帰しているようですね」

 ふうむ。概要はわかったが疑問は残る。「囚人が懲罰房に移送されていた理由は?」「武器の不法所持、とありますね」武器の不法所持?「監房内のベッドの下に手製のナイフを隠し持っていたようです。懲罰房に連行中、その凶器を囚人が奪い、加藤刑務官を刺したようです」何だと? 俺は資料を覗き込む。報告書には彼女が言った通りのことが書かれている。そして事件発生日。俺は眉をひそめる。「それはおかしいな」思わずつぶやいた俺に彼女も首肯する。「ええ。たしかに囚人の危険性を熟知し、武器まで携帯している刑務官達が、移送中の囚人に不用意に回収した凶器を奪われるのは無理があるように思えます」「違う、違う、そうじゃない。ベッドの下からナイフが出てきた、そのこと自体が問題だって言っているんだ」

 どういうことですか、と彼女が怪訝そうな表情を浮かべてたずねるが俺は答えない。俺は混乱している。どういうことだ。半年前、一体何があったんだ?

「刑務所の見取り図、持っているか?」俺の問いに彼女はええ、と答えるとごそごそと鞄の中から資料を引っ張り出す。俺はD区画の一階からつながる直方体の建物、特別監房の見取り図を確認する。監房エリアと特別監房は直接つながっておらず、二つの建物の間に小さな一つの部屋を挟んでいる。監房エリア側から扉を開けるとまず何もない部屋があり、その奥の扉を開けると特別監房棟に入る構造になっている。資料によると、囚人が加藤を刺したのはその小さな空間の中だとわかる。

「どうしてこんな部屋が存在するんだ?」「あれと同じですよ。宇宙船のエアロック」エアロック?「二つのエリアを自由に出入り出来ないようにするための一種の緩衝材です。暴動の際に囚人達が隣のエリアになだれ込めないように、片方の扉が閉じない限り、もう片方の扉が開かないようになっているんです。この構造は多くの刑務所で採用されています」片方の扉が開いている間は、もう片方の扉は開かない。「つまり、加藤と松井が囚人とその空間に入り、特別監房側の扉をほんの少しでも開いておけば、監房エリア側の扉は決して開かない」「まあ、そうなりますね」「特別監房側の囚人は独房の中だ。仲間の刑務官しかそこにはいない。つまり、監房エリア側の扉が閉じられていれば、何をやっても囚人に見られることも邪魔されることもない」何が言いたいんですか? 彼女はやや強張った表情で俺に聞く。「まさか、加藤と松井によって囚人は意図的に殺害されたと言うんですか?」

 ぐるぐると頭の中で不可解なパーツが駆け巡る。この事件の報告書にはいくつも引っかかる箇所がある。ここで語られるストーリーは矛盾と欺瞞に満ちている。悪意。そう、ここにはどうしようもない悪意が織り込まれている。暴力を呼び起こす悪意。その結果、奪われる命。今回の事件と半年前の事件には関連性があるという根拠のない確信が俺の中に芽生える。俺はむっつりと黙り込むと自分の頭の中、深い深い海の底にある知恵の王宮に意識を沈めていく。何があった。半年前、一体何があった?

 がちゃりという音に俺はふと顔を上げる。扉の方を振り向くと、彼女が両手に湯気の出るカップを持って立っている。「コーヒー、買ってきましたよ」そう答えると彼女は机の上にカップを置く。俺はぼんやりとした頭のまま、茶色い液体を眺める。飲まないんですか、と問われ、ああとおもむろに喉に流し込む。「刑事課のコーヒーより不味い飲み物が存在するとはな」「それがわざわざ管理棟の自動販売機まで買いに行ってきた相手への第一声?」俺はふうむと鼻息を吹きながら、再びずずずとコーヒーをすする。鼻先までずれた眼鏡で彼女が大丈夫ですか、とたずねる。「何が?」「話しかけても何にも答えないし、」彼女は壁の時計をちらりと見て、「五十分も固まっていましたよ」五十分もか。俺は

 ゆらゆらと揺れるコーヒーの水面を眺める。「そっちは何かわかったか?」いいえ。と彼女はファイルを俺の方に投げてよこす。「事件報告書をすみからすみまで読みましたが、少なくとも内容に齟齬はありませんし、例えば囚人が懲罰房に送られる過程に明らかな違法性は見つかりませんでした。囚人を懲罰房に移送したこと自体が、あのエアロックで殺害するためだった、そしてその結果殺された囚人の復讐で加藤が殺害された、あるいはその殺害をめぐって加藤と松井の二人が対立し今回の殺害につながった、想像はいろいろ出来ますが、それを裏付ける状況証拠はこの中にはありません」

 俺は答えない。俺の中にはぼんやりとしたシナリオが浮かんでいるが、まだその姿をはっきりと掴み切れてはいない。悪意が生み出した殺人事件の全貌はまだ見えてこない。彼等の悪意をもっと理解する必要がある。もっともっと深く深く悪意の海に潜る必要がある。俺が再び黙り込む気配を感じたのが、彼女が俺に話しかけてくる。

「どうして市警察に通報されなかったのでしょうか?」

 その言葉に俺の思考は遮られる。

「半年前のこの事件、刑務官が刺され囚人の一人が死亡しているのに、例によってわたし達に捜査命令も出ていませんし、市警察に通報もされていません。刑務官が刺されただけでも普通の囚人同士の暴行とは桁違いの問題です」

 俺は彼女の方を見る。

「この時にきちんと捜査していれば、あの二人には何らかの法的な罰が下ったかもしれません。そうしていれば今回の事件は未然に塞がれていた可能性だってあります」

「半年前のこの事件と、今回の事件と関連性があるとはまだ言い切れない」

「東方さんもそう思っているでしょう?」

「どうした。お前、ずいぶんと感情的だな?」

 俺の言葉に、彼女ははっとしたあと、それから眼鏡を押し上げ、いいえと首を振る。黙り込んだ彼女に俺はイスにぎっと背もたれてつぶやく。

「D区画か。人間の悪意についての実験の場としてはなかなか面白いが、」

「面白くありませんよ」

「お前の苛立ちはわかる。そもそも法務省が目指した本来の姿からこの場所が逸脱してしまっていることも同意する。お前の言う通りだ。ここは異常だ。だがこの半年前の事件が、市警察に通報されないのは当たり前だ」

「何故です? 人が死んでいるんですよ。本来は通報義務があるはずです」

「時期が悪過ぎる」俺はそう言うと資料を手に取り、事件報告書の日付を指差す。

「一九九五年九月二十八日だ。その二週間前、九月十三日には何があった?」

 俺の言葉にはっとして彼女が唸るように言う。「脱走事件?」

「加藤が刺されたこの一件は、脱走事件からたった二週間後のことだ。つまりまだ、俺が脱走した囚人の死体を発見していない時期だ。まあ、実際に発見したのは犬の散歩中の老人だが。マスコミが連日報道し、この実験区画への批判が日に日に大きくなる最中、新たな問題が表沙汰になることは何があっても避けたかったはずだ」

「今であれば市警察に通報したと言うんですか?」

「時期だけじゃない。刑務官が囚人を殺したんだぞ。元々この実験区画が囚人の人権保護を目的に作られたのに、囚人の虐待死だと騒がれれば致命的だ。表沙汰には出来ない」

「随分物分かりがいいんですね」

 彼女の顔が、机の上の橙色のランプの灯りに照らされている。俺は彼女の言葉には答えず資料の上に手を置くと、それから彼女を見る。

「加藤と松井が関わった事件はこれだけじゃない。俺はここに残って他の資料に目を通しておく。お前は加藤と松井の携帯電話、メールの履歴に銀行口座、プライベートの関係性について当たってくれ」

「わたしを追い出すんですか?」

「今のお前は本筋を見失っている。歪んだ先入観で証拠を見れば必ず捜査方針を見誤る」

 ほら、行けよ。俺はそう言うと、他のファイルの山を自分の方へと引き寄せる。彼女はしばらく何か言いたげに俺を見ていたが、やがて黙って立ち上がると扉の方へと歩いていく。扉の前で俺とは背中合わせに立つ彼女の気配を感じるが、いつまでたっても退室を知らせるインターホンを押す音は聞こえない。

「七海圭吾です」

 彼女が低い声でつぶやくように言う。

「誰?」

「半年前、加藤に殺害された囚人の名前です。名前があるんです」

「それがどうかしたのか?」

 彼女はそれには答えない。しばらくして押し殺したような声で彼女は言う。

「ここでは人が死に過ぎています」

「そうだな」俺は答える。市役所の死亡届がどうとか言っていたな。

「十八人です。昨年だけで、十八人の囚人が死亡しています。そのどれもが市警察には通報されていません。時期は関係ありません。今回の事件が通報されたのは殺されたのが刑務官だからです。囚人の死は、ここでは無視されています」

 彼女の声はくぐもっている。扉の方を向いたまま、一言一言、噛みしめるようにしゃべっている。

「それで、お前はその十八件の不審死をすべて掘り起こして捜査しろと言うのか?」

 俺は静かにたずねるが、彼女は何も答えない。

「ここが異常であることに異論はないがな、その十八人の不審死と今回の事件に何か関係があるのか?」

 沈黙のあと、「いいえ」と彼女は絞り出すように答える。

「だったら、」俺は有無を言わせぬ口調で彼女に告げる。「だったら目の前の事件の捜査に集中しろ。お前が今考えるべきは刑務官殺しであって名前も知らない囚人の死じゃない」

 みしっと部屋の空気が音を立てる。

 それから。 

 そうですね。

 彼女は一言だけそう言うと、インターホンを押す。

「特別捜査官水沼警部、出ます」

 俺の背中で扉が開く音、そして彼女が出ていき扉が閉まる音が聞こえる。

「水沼、桐子」

 俺はつぶやく。その名前をたしかめるように口にする。

 彼女には、この事件の捜査以外に別の目的があるようにも思える。一体何を隠している。お前は何をしようとしている?



 机の上の橙色のランプに照らされる中、俺は黙々とページをめくる。

 部屋の時計はすでに二十一時を回っている。

 さすがに疲れが回ってきたのか、俺はふうと息を吐きイスに背もたれる。ほとんどの資料には目を通し終えた。加藤が関わった囚人との暴力事件は半年前の事件以外にもいくつかあったが、少なくとも殺人の原因になるとは思えない小競り合いばかりだ。やはり、半年前のこの事件、七海圭吾が殺害された事件が今回の事件の始まりなのだろうか。

 何を馬鹿な。

 俺は自分に苛立つ。

 悪意は醸成され暴力に至るがそのきっかけが些細なことはめずらしくない。くだらない動機で起きた殺人事件なんて、これまでにいくらでも見てきたはずだろう。勝手に決めつけるな。物語を作り上げるな。容易い方に流されるな。俺は自分で自分に呆れ果てる。まったく、わずか一年現場を離れただけでこの体たらくだ。ちゃんと疑え。すべてを疑え。細部をおろそかにするな。悪意の萌芽を見逃すな。ピースに気付け。この半年前の事件だって、もっと気に留めるべきことはあるはずだ。もっと。

 その時、強烈な違和感が俺を襲う。

 ちょっと待て。

 そもそもどうして懲罰房に運ばれたのが七海圭吾、一人だったんだ?

 俺は半年前の事件の資料をめくるが、なかなか欲しい答えは得られない。だが、七海圭吾の医療記録を呼んでいるうちに、看護師との面談記録の中にその答えを見つけ出す。そしてその以外な答えに俺は言葉を失う。まさか、まさか、まさか。関係があるのか?

 俺は立ち上がると扉の横のインターホンを押す。

「市警察東方警部補、出ます」



 はっはっはっ、中央管理棟への連絡通路を俺は走る。

 息が上がり心臓が早鐘を打つ。くそったれ、もっと運動をしておくんだった。だが俺の足は止まらない。止められない。俺はもう一度、あの資料を手にする必要がある。あそこには必ず答えがある。俺の知りたい答えは必ずあの中にある。中央管理棟に戻ると、受付で資料室の閲覧申請を出す。昨日と同じように再び俺は小さな部屋に案内され、指定した資料が目の前に置かれる。怪訝そうに俺を見ながら刑務官は部屋から出ていく。

 俺の目の前には分厚いファイルがある。その表紙には極秘というハンコが押され、表紙をめくるとほぼ全面が黒塗りされた書類がびっしりと収められている。禁忌の書。この黒塗りの表面から悪意が滲み出ている。黒塗りのページを俺は黙々とめくる。考えろ。この黒塗りの資料の中に、俺の欲しい答えがあるはずなんだ。ちゃんと疑え。すべてを疑え。細部をおろそかにするな。悪意の萌芽を見逃すな。ピースに気付け。そして俺はちゃんと気付く。

「死亡、診断書?」

 枠組みのある書類、それぞれの枠の欄には氏名、死亡した時、死因という項目が並んでいる。書き込まれた内容はすべて黒塗りだがこれは死亡診断書に違いない。そして俺はこの書式を見たことがある。これは市警察の検視局で作成される死亡診断書の書式。だが問題はそこじゃない。問題は、「どうして死亡診断書が二枚あるんだ?」

 俺はそうつぶやくとファイルの最初の方のページを開く。そこには先程見たのとは違う書式の死亡診断書らしき書類が収められている。いずれにせよ黒塗りだが、項目を見る限りこれは死亡診断書。どうして死亡診断書が二枚もあるんだ?

 俺はイスにぎっと背もたれると、顔の前で祈るように両手を合わせ、人差し指を唇に当てる。二枚の死亡診断書。作成された書類が時系列順にファイルに収められているのだとしたら、おかしなことになる。ファイルの後半にあった死亡診断書が市警察で作成された物であるなら、それは脱走から一カ月後に脱走犯の死体が用水路から揚げられた時に作成された診断書ということになる。それなのに、どうして死体が見つかるよりも前に、死亡診断書が作られているんだ?

 ぎしり。俺の頭の奥の方で何かがきしむ。じんわりと目の奥が熱くなり、足元の床が崩れ落ちていくのを感じる。ふわっと浮かび上がる感覚のあと、ずっしりと重力がのしかかり俺は目を覚ます。

 俺は理解する。

 まったく。

 すべてがつながっていたというのか。

 何ておぞましい。

 何てくだらない。

 俺は目を閉じ、それ以上考えるのをやめる。


 そして語り部は沈黙し、新たな語り部が現われる。


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