第12話 作家の遺言

【SIX】


 シャンプーハットはその日の朝、情報屋スヌーピーから受け取った鍵を手に、急いでモーテルに戻るとまだベッドの中で毛布を被り丸まっているサムに言った。

「サム、やったぜ、話はついた。試合が終われば俺達はすぐにでも街から出られる」

 サムは毛布から鼻の上だけのぞかせるとシャンプーハットを見た。濃い眉毛の下で目はらんらんと輝きすでに覚悟は決まっているかのようだった。

「シャンプー、本気なのかい?」

 サムは怯えているようだった。シャンプーハットはサムを奮い立たせるように握った拳を彼の鼻先に突き付けて言った。

「サム、ボクシングの由来を知っているか?」

「ボクシング?」

「箱だよサム、ボックス、箱だ。握った拳を箱と呼んだんだ。だからボクシングだ。俺達は生まれてからずっと箱の中に閉じ込められてきた」

「箱って何のことだいシャンプー」

「この街だ、この暮らしだよサム。いつまでもこんなところにいたら駄目だ。次の試合が終われば俺はグローブを脱ぐ。拳を握るのはもう終わりだ」

 それからダニーボーイは握った拳をサムの目の前でゆっくりと開いた。そこには一年かけて築き上げた信頼の証である鈍い鉛色の鍵が乗っていた。

「箱を開けるんだ、サム。俺達は箱の中から出ていくんだ」

 それからシャンプーハットは鍵を財布のコイン入れの中にしまうと、確かめるように何度か拳を握る。箱を開けるんだ。そうつぶやいたシャンプーハットの横顔は、十八年間もこの悪意がひしめく薄汚れた箱の中に閉じ込められてきた悲壮感などなく、未来への希望にあふれていた。

(ヒロ・イシグロ『ボクサア』第四章より抜粋)


 **********


 1996/3/15 Friday 捜査第三日目

 第二回特定刑務所第四実験区画囚人事情聴取


 それじゃあ最後に確認だ。何も見ていないし何も聞いていない。あの夜は看守達が騒ぎ出し点呼が始まるまでぐっすりと眠り込んでいて何も気付かなかった、そういうことでいいんだな?

 俺の言葉に髭面の大男は、囚人服の袖がはち切れそうな太い腕を組んだまま、ああそうだなと低い声で答える。俺はペンで調書をとんとんと叩くと、もう行っていいよと優しく言う。囚人はふんと鼻を鳴らすとずいっと立ち上がり、刑務官に連れられ部屋から出ていく。鉄格子の扉が閉じられると横に座る彼女を見る。

「今ので最後か?」「ええ。特別監房の囚人はまだですが、一般監房はこれで全員ですね」「特別監房の扉は事件当日も施錠されていたし、特別監房から一般監房までには刑務官のカードキーが必要な扉が二枚ある。元々容疑者には入っていない」「ですが、特別監房の担当刑務官が本当に持ち場を離れなかったのかたしかめるには、特別監房の囚人に話を聞くのが一番です」「お前はまだ刑務官犯人説を追っているのんだな」彼女は尖らせた唇と鼻の間にペンを挟んでしばらく考え込んだ様子を見せていたが、突然、「あ、そういえば、」とこちらを向く。途端にペンがこぼれ落ちるが気にした様子はない。「例のノート、あれって何かわかりました?」「被害者の自宅から見つかったノートか?」それそれとうなずきながら転がったペンを手にする。「まだ何も。一応数字に強そうな奴に見てもらっているが、何しろ字が汚い。0と6を判別するのにも苦労するくらいだ。あのノートの中に殺人の動機になりそうなものでもあればいいがな」

 それから俺はぎっとイスに背もたれる。前足が一瞬浮いたあと、がくんと元に戻ったところでイスがきしむ音を上げる。それにしても、頬杖をついて彼女がこちらを見ながら言う。「見事なまでにすべての囚人が何も見ていない、何も聞いていない、何も知らないと証言しましたね」「D区画が閉鎖されていた二十四時間、口裏を合わせるには十分だったんだろうな」「でもロックダウンの前に行った第一回目の事情聴取の証言も含めて齟齬や矛盾はないんですよ。あまりに証言が揃っていて気持ち悪いです」

 まあ、そうだよな。適当に相槌を打つつもりが、俺は彼女の言葉に引っかかる。たしかにそうだ。囚人達は皆、口を揃えて、何も見ていない何も聞いていない何も知らないと証言している。百人余りの囚人がだ。全員が同じ答え、通常そんなことがあり得ると思うか? 俺は知っている。通常あり得ないことはやっぱりあり得ない。だから俺はこの点をもっと考えなければならないはずだ。

 黙り込んだ俺を、頬杖をついたまま彼女はじっと見ている。

「どうかしました?」「D区画はいくつかの囚人グループが存在し対立している。自分のグループ内で口裏を合わせることは可能でも、対立グループと協力するなんてことが可能だと思うか?」うーん、彼女は眉間にしわを寄せる。「まあ刑務官が殺されましたからね。D区画が閉鎖される可能性もありますし、そんな危機的状況であれば協力する可能性も、」「そんな理性的な連中かよ。檻の中の動物が動物園全体のことなんて考えると思うか? 普通ならこれを機に敵対勢力の誰かに罪をなすりつけようとするのが普通だ」「それはそうかもしれませんが、」

 そして俺はやっと理解する。

「馬鹿だぜ、俺達は。あの監房から囚人が夜間に抜け出すことが可能かどうか、刑務官の目をかいくぐることが可能かどうか、そんなことばかり考えていた。まったく。問題は刑務官の監視の目じゃない。あの監房棟、円筒形をしたあの形がこの問題の本質だ。吹き抜けを介して対岸の監房が見渡せるあの構造。あの監房棟で本当に重要なのは、囚人同士の監視の目だ」んん、と彼女の肩眉が吊り上げる。「自分が監房を抜け出して地下に下りることを考えてみろ。いくら刑務官の監視をかいくぐったとしても、自分が敵対するグループの囚人に見られていればすぐに密告されてしまう。囚人の入っている監房はグループごとに固まっているわけじゃない、ばらばらに配置されている以上、敵対グループの囚人すべての監視の目をあざむくことは事実上不可能だ。自分が誰かに見られているという可能性は常につきまとう」「そうかもしれませんね、」おかしいんだよ、俺は声を落として言う。「そんな状況であれば、仮に誰一人監房から抜け出していなかったとしても、誰かを陥れるための偽証、流言飛語が飛び交うのが普通だ。それなのにたった一つも目撃証言が出ていない」これは異常だ。俺は唇を鳴らすと、頬杖をつき眉間にしわを寄せたままこちらを見ている彼女に言う。「利害が衝突する集団が口を揃えて同じ嘘をつくのはどういう時だと思う?」しばらく考え込み、それからはっと顔を上げた彼女は、こちらに身を乗り出すようにして言う。「全員がもっと大きな嘘を隠そうとしている時?」「そういうことだ。どのグループの囚人も敵対グループを陥れようとしないのは、全員が安全圏の外にいるからだ。結論。あの事件の夜、不特定多数の囚人が監房を出入りしていた。誰かを陥れようとすると自分達も告発される恐れがある。だから誰もが口を閉ざし、結果的にただの一つも目撃証言が上がらなかった」

 彼女は両手の平で眼鏡の外側を挟み込むように持つと正面を向いてじっと何かを考える。やがて小さくうなずくと再びこちらを見る。

「つまり東方さんの考えでは、夜間、D区画では囚人達の誰もが自由に監房を出入りしているということですか?」「少なくとも事件当夜もあらゆるグループの囚人が監房を出入りしていたんだろう。互いにやましいことがあるから相手を告発出来ない。だが、殺人事件が起きた夜だけ偶然、多くの囚人が監房を抜け出していたとは考えにくい。D区画では日常的に夜間に囚人が自由に監房を出入りしていると考えるべきだ。当然刑務官はそのことを知っており黙認していた。あの監房棟では最初から誰もまともに監視なんてしていない。あまりにも多くの囚人が当たり前のように監房を出入りしているからこそ、誰が出歩いていたかをいちいち覚えている者はいない」「同房の囚人が監房から出ても気にもとめない、か」監視に穴があるどころの話じゃないじゃないと彼女はつぶやく。「夜中に廊下で囚人がキャッチボールしていても、俺は驚かないぜ」

 D区画。あそこは無法地帯だ。

「そうなると、東方さんが最初におっしゃっていた囚人と被害者が図書室で夜中に密会していたというのは当たりかもしれませんね。夜勤の他の刑務官達は本当に犯人に心当たりはないようでした。監房棟の刑務官を抱き込まずに囚人が夜中に管理エリアで密会するのはハードルが高いと思っていましたが、監房を自由に出入り出来るのなら現実的なシナリオです」でも、と彼女は唇の端を歪める。「そうなると犯人を絞り込むのはかなり難しいことになります。囚人なら誰でも犯行可能なことになりますし、被害者が囚人達に対して時に暴力的であったという証言から考えて、囚人達がいい感情を持っていないことは事実でしょうから動機からも絞り込むことは難しい」「だったらなおさら被害者と直接トラブルがあった奴について知りたかったというのに、」そう言うと俺はぎろりと彼女を見る。「法務省との交渉に失敗したなんて報告は聞きたくなかったぜ」

 ああ、とつぶやいて彼女は机の上に突っ伏す。「馬鹿正直に資料の閲覧許可を出したら正式な手続きを通せと突っぱねられたんだろう? まったく」「たしかにわたしは門前払いされました。でも、収穫はありました」「と言うと?」「まさかとは思いましたけど、D区画管理エリアには本当に機密書類の保管庫があります」そう言うと彼女は顔を上げ、顎を机の上に乗せたまま相貌を引き締める。「保管庫がないのならそんなものはないと一蹴するはずですが、法務省からの返答は正式な手続きを通せ、です」「正しいやり方をすれば扉は開く。つまり扉が存在することを彼等が認めたのか」「褒めてくれます?」「扉が開かなきゃ意味がない」あのですねえ、彼女がむっとしたように鼻の頭にしわを寄せる。「正式な手続きというのは、市警察からの要請書に刑務所長がサインし、それを法務省が受理することを言います。ですがこれは市警察の公式の捜査ではありません。先日の様子ではあの捜査一課長、わたし達が頭を下げたくらいで協力してくれる様子でもありませんしね」まあその通りだろうな。「だからわたしに保管庫をどうにかしろというのは元々無理筋なんですって」ああ、そうかよ。俺はふんと鼻を鳴らす。「そもそもわたしって机の上の勉強は得意なんですけど、人を説得し懐柔するのは専門じゃないんですよ」両手で頬杖をついて駄々をこねるように言うと、「あ、でもそれが得意な人、いましたよね?」彼女はちらりと俺を見る。「おい、ふざけるな。そんな目で俺を見るな」「じゃ、あきらめます? 資料、見たくありません?」こいつ。だが彼女の挑発にやすやすと乗るほど俺は若くも青くもない。「無駄だ。お前の想像以上に俺とあの男との関係はこじれている。俺が何を言おうがあの男が首を縦に振ることはない。正攻法はあきらめろ。他に保管庫の扉を開く方法を考え出すしかない」ざーんねん、と彼女は唇を尖らせる。だから、そんな目で俺を見るな。



 事情聴取が終わるとD区画でやるべきことはいったん終わり、俺達は実験区画をあとにする。中央管理棟一階の自動販売機の前に立つと俺は彼女に言う。「何がいい?」え、と彼女が信じられない物を見るような目で俺を見る。「初めてです。ジュース本当におごってもらうの」あっそ。俺は勝手に一番安い炭酸を買うと彼女に手渡す。自分は安かろうまずかろうの缶コーヒーを買うと、誰もいない玄関ホールのイスに並んで座る。

「そういえば、昨夜、ヒロ・イシグロが亡くなったって聞きました?」彼女が両手で缶を持ちながら言う。俺は不味い缶コーヒーを喉に流し込みながら無言でうなずく。「監房で眠るように亡くなったそうですね。何か持病でもあったのでしょうか?」「何だよ、また殺人事件とでも言うのか?」「いいえ。たしかもう八十歳を過ぎていましたし、」俺はずずとコーヒーをすする。「認知症もあったみたいですし、ほら、事情聴取の時だって、何か変な様子でした」ああ、と俺は思い出す。拳を握った老人の姿が脳裏に浮かぶ。「暴動騒ぎで封鎖された刑務所が最期の場所になるなんて、いたたまれませんね」「『ボクサア』、だ」「ああ、そういえばボクシングがどうとか、」「拳がどうとか、箱がどうとか言っていただろう? あれは彼の晩年の作品の引用だ。俺が読者だと知ってした、ちょっとした遊びだったんだろう」あるいは本当に認知症で、小説の世界と現実の世界が入り混じってしまっていたのかもしれないが。

「『ボクサア』って、どんな話なんですか?」「八百長を持ちかけられた十八歳のボクサーが、誤って相手をリング上で殺してしまい、胴元のギャングに追われる逃亡劇だ。十年程前の作品だがもうその頃は七十を過ぎていただろうし、内容はどこかで聞いたような展開でセリフにも力がない。伏線の回収もお粗末で老いたなというのが率直な印象だったよ」だがそれでも、当時の俺はページをめくる手を止められなかったのを覚えている。「もし全盛期の筆で書かれていたらとか思います?」「まあ、青春小説を書くには年をとり過ぎていたのかもしれないな」

 本当にそうだろうか? 俺が勝手にそう思っているだけで、遅過ぎたということはないのではないか、むしろ、何かに間に合ったという可能性はないだろうか? 彼は人生をかけて多くの物語を作り上げてきた。その積み重ねた日々の先に、あの年になったからこそ書けた作品だとは言えないだろうか。おろそかに生きることを拒み、懸命に日々を積み重ねた末に辿り着いた今日が、遅過ぎるなんてことがあるだろうか? なんて俺はセンチメンタルなことを考えてしまう。俺は愛する作家の死に傷ついているのだろうか?

 そういえば、と彼女が飲み終えた空き缶をゴミ箱に投げ込みながら言う。「八百長で思い出しましたけど、海外のサッカークラブが犯罪組織の八百長賭博に関わっていたとか何とか、そんなニュースもありましたね。一昨日、違うか、火曜日でしたっけ?」八百長? 唐突に聞こえた彼女の言葉に俺は一瞬眉をひそめるが、すぐに会話の流れを思い出す。ああ、『ボクサア』の話をしていたんだったな。「ボクシングはわかりませんが、サッカーの八百長の小説だったら、ちょっと読んでみたいかもしれませんね」ふーん。「でも何でばれるんですかね。犯罪するならもっと上手くやればいいのに」警官のセリフとはとても思えないな。俺は残りのコーヒーをぐいっとあおると空き缶をゴミ箱に投げ入れる。「たしかクラブのオーナーの妻と看板選手が絡んでたんだろ。昼ドラよろしく愛憎劇が繰り広げられているようだぞ」「よく知ってますね」「新聞で読んだ」

 え? 俺は自分で自分の言葉に撃ち抜かれる。

 何だ、今のは。俺の思考が一瞬止まると同時に、すぐさま無数の声の荒波が頭の中を押し寄せてくる。ぶるりと俺は体を震わせ、それから声を絞り出すように彼女に問いただす。

「何曜日だって?」彼女が怪訝そうに俺を見る。「火曜日だって言ったな」「何です、何の話です?」「サッカークラブの八百長事件だ。火曜日だと言ったな」「ええっと、はい、そう。それこそ今回の事件の前日ですよ。夜のニュースで速報が流れて、そのあと気持ちよく寝ていたところを夜中に叩き起こされたんですから。ほんと、人を殺すなら昼間にやってほしいですよね。夜中の電話ってほんと最悪」くそったれ。俺はそう言い捨てると走り出す。「ちょっと、東方さん」背中で声がするが俺は立ち止まることなく、正面玄関の扉を押し開くと、敷地の端に停めてあるぼろぼろの2CVまで、心臓が止まりそうになりながら全力疾走する。

 乱暴に扉を開くと、運転席に馬乗りになるように膝立ちで、助手席の間から後部座席に身を乗り出す。2ドアはこういう時、本当に腹が立つ。わけもわからず追いかけてきた彼女が大声で俺に呼びかける。「東方さん、一体何なんですか?」俺は物が散乱する後部座席から、雨に打たれてぼろぼろになり無造作に投げ捨てられていた新聞を掴むと運転席にどっかりと座り込む。ハンドルの上で新聞を広げ、そして確信する。これまでずっと続いていた違和感、何度かその兆しが訪れていたのに掴み取ることが出来なかったものの正体、それがこれだ。

「東方さん、」助手席に乗り込んできた説明を求める口調の彼女に、俺は広げた新聞を突き付ける。「え、ちょっと、何です」彼女は新聞を受け取ると、鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ紙面に目を通す。「ああ、サッカークラブの八百長事件の記事、これがどうかしたんですか?」「第一報が火曜日の夜のニュースだったとすると、当然これは水曜日の朝刊ということになる」「みたいですね」彼女は新聞の日付を見ながら言う。「最終面を見てみろ」彼女は言われた通りに新聞を閉じる。「クロスワードパズル? これってたしか初日に刑務所から持ってきた新聞ですよね」クロスワードパズルの縦の六番。俺の手癖で書かれた『ヒゲキ』の三文字。「こんな新聞まだ持っていたんですか? 捨てればいいのに」とつぶやいた彼女に俺はずいっと体を乗り出して言う。「わからないのか? これは水曜日の朝刊なんだぞ」

 要はタイミングだ。ヒロ・イシグロが晩年に『ボクサア』を書いたことが何かにぎりぎり間に合ったのであるなら、俺が今、遅過ぎたと感じているこのことだって、何かに間に合ったということはないだろうか。仮に何かに間に合ったのだとすると、一体何に間に合ったのか。それはあまりに明白だ。

 俺は彼女の手から新聞を奪い取ると後部座席に投げ捨てる。「シートベルトをしろ」キーを差し込みギアをローに入れるとアクセルを強く踏み込む。唐突に動き出した車に、座席に押し付けられた彼女が慌ててシートベルトを締めながら非難の声を上げる。「殺す気ですか? それでどうやったら人の運転に文句つけられるんです」俺は間に合った。そういう結論にするために俺がこれからするべきことは一つだ。「保管庫の扉を開けるぞ」俺は低い声でそう言うと唇を鳴らす。「開けるって、どうするんです?」彼女の問いに、俺はきっぱりと答える。「正攻法って奴を試してやるのさ」



「何の用だ?」

 課長室の机の向こうから冷たい目をした男が言う。未未市警察捜査一課長、却園警視は俺の顔を見るといつも不機嫌になり、そのことを隠そうともしない。正攻法であのD区画の秘密の保管庫の扉を開かせるなら方法は一つ、この事件を公式に捜査一課の事件にすること、そして市警察から東洲区重警備刑務所長に保管庫の資料の閲覧請求書面にサインをさせること、これはそのための儀式だ。

「単刀直入に言います。力を貸して下さい。あなたにとって俺が面白くない部下だということは重々承知していますが、それでも俺には頭を下げてあなたにお願いする必要がある。この事件を捜査一課の公式な捜査にすることを認めて下さい」

「唐突にノックもせずに部屋に入ってきて力を貸せだと? お前は先程から何を言っているんだ」

「無礼なことは今に始まったことじゃないでしょう? 気分を損ねたのなら謝罪しますが要点はそこじゃない。問題が起きているんです。未未市警察の面子をかけた問題が」

 ぴくりと課長のこめかみが動く。やはり届く。この言葉ならこの男に届くと俺は確信する。

「俺が昨日提出した報告書は読みましたか?」

 答えない課長に、俺は事件発生からこれまでの経緯をかいつまんで話す。そしてD区画にあるだろう機密書類保管庫の扉を開く必要があることまで聞き終えた課長は、腕組みをしてイスに背もたれたまま俺をじろりと睨みつける。

「経緯はわかったがお前の意図はいまだ理解出来ない。捜査に行き詰ったことと未未市警察の面子は関係ない。仮にこの事件が迷宮入りになったとしてもそれは法務省と東洲区重警備刑務所、そして貴様達二人の責任でありわれわれは無関係だ」

 俺は机の上に手にしていた新聞をばさりと置く。

「何だ?」「捜査最初の日、監房棟の刑務官詰め所の机の上にあった新聞です。日付を見て下さい」「三月十三日、」「水曜日です」「それが何だ?」「これは、事件の起きた日の朝刊なんです」俺の言葉に課長は眉をひそめ、彼女はそうかと小さくつぶやく。「この新聞を最初に見た時、俺は夜勤者の監視はいい加減だと思いました。ですが、この新聞が発行されたのは、死体が見つかったあとなんです。事件後に発行された朝刊を、夜勤帯の刑務官が持ち込んだはずがありません。事件発覚から囚人達は監房の中で、売店に行くことも出来ません。必然的にこの新聞は事件が発覚したあとに出勤してきた誰かが置いたことになりますが、その朝、すでにD区画は厳戒態勢でした。そんな状況下でのんびり職場に新聞を持ち込んだはずがありません。意図的でない限り」「お前に見せるために、そう言いたいのか?」「あるいは法務省から来た捜査官に見せるために」俺はそういうとちらりと彼女を見る。彼女は無言で何やら考え込んでいる。「偶然、という可能性はないのか? 別に誰かが新聞を小脇に出勤してきたとしても不思議はない。そういう一般常識から外れた人間が組織の中に紛れ込むことはめずらしくないだろう」遠回しに俺への皮肉を言っているのだろうが今はいちいちそれに反応している暇はない。「意図的であった根拠は他にもあります。俺がこの新聞を手にしたのは捜査の最初の段階です。俺は監房エリアに行き、この新聞を手にしました。ですが、外部からD区画への連絡通路は地下二階とつながっています。そして犯行現場は地下の管理エリアにあります。普通に考えれば事件現場に直接向かう方が早いのに何故俺は最初に監房エリアに行ったのか。簡単です、行くように誘導されたからです。監房エリアで暴動が起きつつある。そうなる前に捜査出来るところは捜査しておいた方がいい、そう促され俺は真っ先に監房エリアに向かいました」「事実、その夜に暴動は起きた」「結果的には。ですが、事情聴取の際に囚人達からそれほどの緊張感は感じ取れませんでした。四分の三の囚人に話を聞いて、彼等が監房に閉じ込められていること自体には比較的無頓着であったことは無視出来ません。俺がD区画に着いた時点で暴動の恐れがあるという話が嘘であるなら、俺が監房エリアに行くよう仕向けられたことには何か意図があったと考えるべきです。そして不自然に置かれたこの新聞。大慌てで用意したのかクロスワードパズルは間違いだらけ。俺にこの新聞を見せたいという意思が見え隠れしています」「お前に監房の監視はいい加減で、囚人達が監房から自由に抜け出すことが出来た、そう思い込ませるための工作だと言いたいのか?」そうです、と俺は答える。「弱過ぎるな。想像、いや妄想として一蹴されるだけだ」そう言うと課長は新聞を手に取り近くのゴミ箱に投げ入れる。「わざわざ二人で乗り込んできて、こんなくだらない話をしに来たのか? 彼等が何らかの偽装工作をしたと言いたいのなら、もっと明確な証拠を示せ?」「証拠を示せ? 証拠なら最初から目の前にあったじゃないですか」俺は唸るように言う。「証拠は俺自身ですよ」「お前自身?」「俺がこの捜査に関わることになったのは法務省からの申し出をあなたが承諾したから、そうですよね」「ああ」「ですが俺を選んだのは法務省の意思じゃない、D区画なんです。彼等が俺を捜査官にと法務省に働きかけたです。ですが本来、彼等が俺を推薦するなんてことはあり得ないんですよ。俺は良くも悪くも有名人です。そんな俺を、世間的には公にしたくない事件の捜査に関わらせるのはリスクが大き過ぎます。何より俺はもう一年近く、まともに殺人事件の捜査をしていないんです。同じ市の職員ならその辺りの事情は当然知っているはずです。それでもなお俺に事件を担当させようとした理由は一つ、」そんなのは決まっている。俺はぎっと奥歯を噛む。「俺が、仲間に手錠をかけた警官だからですよ」

 俺が選ばれたこと、それ自体が証拠だ。裏切者と呼ばれ、仲間を逮捕したことですべてを失いそれでもなお刑事の仕事にしがみついている。だからこそ俺は選ばれた。もう二度と仲間を疑うことが出来ない刑事であることを期待されて。

 私達刑務官はあなたと同じ市の職員です。同じ正義のために命を懸けて戦う仲間、いえ、言ってみれば私達は家族です。どうか、どうか家族の仇をうって下さい。

「俺なら刑務官は疑わない。疑うことが出来ない。そう期待されたからこそ、俺は選ばれたんです。あの新聞は駄目押しに過ぎません。そうやって俺を、囚人が犯人であるという結論に誘導していったんです」

 くそったれあの鰐男。俺を操ろうとしやがった。

「つまりお前は、向こうの目論見通り派手に踊ったというわけか?」

「否定はしませんがね、」俺はそう言うと、顔の前で祈るように両手を合わせる。

「もちろん彼等が仲間の犯行を隠すためにやっているとまでは言いません。実際のところ、彼等だって犯人が囚人か刑務官か確信はないはずです。刑務官が犯人である可能性を否定出来ない、だからこそ自分達の仲間を守るために動いているのだと思います。実際のところ、彼等のやったことは俺を捜査官に推薦し、新聞を職場に置いただけです。罪に問われるようなことは何もしていません。ですが、彼等が捜査妨害を行い、自分達の都合のいいように捜査を誘導しているということは間違いありません。この意味がわかりますか? あいつらは、捜査一課を操ろうとしているんです。馬鹿にしているんですよ、未未市警察捜査一課を」

 これが俺のカード。目の前の男は、単に俺が憎いわけでも性格が悪いだけでも前任者にコンプレックスを抱いているわけでもない。この男は未未市警察に、この国で最初の自治体警察であるこの未未市警察に誇りを持っている。だからこそ、未未市警察の汚名となった警官汚職事件を憎み、その事件の中心にいた俺に対しては、事件を解決したことへの感謝と同時に仲間の堕落を世間に露呈させたことへの怒りという複雑な感情を抱いている。俺を排除しようとするのは、俺が近くにいると彼の感情がかき乱されるからだろう。否が応でもあの汚職事件を思い出し、彼の未未市警察捜査一課長であることへの自尊心が傷つけられる。そんなことはとっくにわかっていた。だがそうであるならば、俺のカードは彼に届くはずだ。はぐれ物とはいえ捜査一課の一員である俺を操ろうとしたということは、未未市警察捜査一課を愚弄することに等しい。この男が、そんな事実を受け入れるはずがない。

 しばらくの沈黙のあと、課長は俺に言う。

「この事件を捜査一課の公式の事件とするならば、その瞬間からお前のスタンドプレーは許されない。すべてを逐一報告し私の命令に従え。それが最低限の条件だ」

「今までだってそうしてきたし、そうさせてきたはずです」

「答えろ。従うつもりがあるのか、どうなんだ?」

「従いますよ。これでも俺は、未未市警察捜査一課の刑事なんです」

 課長はそれから彼女に向かって言う。

「捜査一課の公式の捜査となれば、いくら君が法務省から命を受けているとはいえ、こちらの指揮下に入ってもらう。異存はないか?」

「仰せのままに」

 いいだろう。課長は彼女に向かって強い口調で言う。

「書類を準備しろ」

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