第11話 機密資料

 さて、被害者が半年前に囚人に刺されたという事実と、今回の事件との関係性についてはおおいに興味を惹かれるが、その先に進みたくとも俺達は足踏みをすることになる。半年前、一体誰が被害者を刺したのか。そしてその囚人は現在どうなっているのか。まずは市警察に確認。昨夜、すでに彼女が調べた通り、被害者が刺されたという一件が通報されていないことを再度確認する。やはり記録はない。まったく、どうして刑務官の情報まで政府の機密情報なんだ。当然あの爬虫類に詳細を教えて下さいと申し出たところですんなりとことは運ばないだろう。では実験区画の管理委員会から知ることは可能だろうか。彼女の話では過去の実験区画の捜査では、D区画に入所する以前の公開情報以外、たとえ捜査に関連すると思われる情報であっても、その都度法務省に申請し許可される必要があるという。厄介だな、と俺がつぶやく横で、彼女はどこから用意してきたのか情報公開請求の申請書類にさっさと記入を始める。「要は加藤刑務官殺しに動機を持ち得る囚人をリストアップすればいいわけです。請求する資料は、過去一年間の刑務日誌と被害者が関与した事件・事故報告書のすべて、でいいですか?」まかせる。書類を書き終えると彼女は申請書類を法務省にFAXするなり、どこぞやに電話を一本。それから三時間後、俺達は中央管理棟の資料室に案内される。



「こちらです、東方刑事、水沼捜査官」

 振り返ると廊下の向こうに屈強そうな刑務官を従えた小柄な影が見える。爬虫類め、どこにでも現れるな。鰐男が俺達の方までやってきて言う。「資料室への立ち入りは職員以外禁止されています。申請されました書類はこちらで用意しましたので、お二人は別室の資料閲覧室へご案内します」そう言って鰐男は跳ねるように歩き出す。ぴょんぴょん。「それにしても刑事さん、捜査の進展はあれからいかがです?」「D区画が閉鎖されているのに進展があるはずがないだろう?」「おや、聞いた話では加藤君の自宅を捜索し医務室に押しかけたとか。何かわかりましたか?」すべて筒抜けらしい。前を歩く小柄な爬虫類の背中に俺は言う。「もちろんわかったよ、いろいろとな。独身、一人暮らし、仕事から帰って飯食ってビールを飲みながらテレビとポルノを見て寝て起きてまた仕事に行くだけの生活。もっと給料を上げてやるべきだな」「過去一年分の資料の閲覧申請なんて、一体何をお調べになるつもりなんです?」「何って。この事件の犯人はやはり囚人が疑わしいからな。被害者と囚人が揉めたような事実がないか、それを調べるのは当然だろ」なるほどなるほど、歩きながら鰐男がうなずく。「事情聴取の続きはいつになりそうですか?」彼女の問いに鰐男は「明日には再開出来ると思いますよ」と答える。しばらく歩くと、扉の前に刑務官が立っているのが見える。「資料は運び込んでいますのでごゆっくりどうぞ」

 扉の前に立つ刑務官が俺達に向かって箱を差し出す。「携帯電話をこちらに」D区画並みの厳しさだな。「あらゆる資料の撮影、持ち出しは禁じられています。入ったら扉は自動的に鍵が閉まります。部屋から出る際にはインターホンで連絡して下さい。ご不便とは思いますが、その都度身体検査で資料の違法な持ち出しがないかを確認させていただきます」

 部屋に入る俺達の背中に鰐男が声をかける。

「ご期待に添えていなければ悪しからず」

 嫌な予感に俺は無言で扉を閉じる。



 ばさり、ばさり、ばさり。

 机の上に、俺は箱から取り出したファイルを乱暴に並べていく。用意された部屋はコンクリートがむき出しの立方体で、中央の大きな机の上にダンボールの箱が無造作に積み重ねられ、さらにその中にはぎっしりとファイルが詰められている。その量に俺は眩暈がしてくる。「これは何かの冗談なのかよ?」「この一年間、加藤刑務官の名前が一カ所でも載っている事件、事故報告書、と依頼したんです。取りこぼしがあったら問題でしょう?」彼女は平然と言うが、俺はもうファイルを開く前からやる気が削がれている。まずは一箱分のファイルを机の上に山積みにし、俺達はそれぞれファイルに手を伸ばす。だがファイルの表紙をめくると、俺の気持ちはますます逆なでされる。ファイルの中の資料は一カ所が、あるいは半ページが、あるいはほぼ一ページ丸々が黒塗りされている。ファイルの表紙には特定刑務所実験区画管理委員会・機密というハンコが押されているが、まったく、やってくれる。

「参りましたね」これは予想していなかったのか彼女が思わず声を上げる。「他の実験区画でも資料請求をしたんだろう? こうではなかったのか」俺の問いに彼女はぶんぶんと大きく首を振る。「まさか、こんなんじゃ捜査になりませんよ」ずり下がった眼鏡を押し上げながら彼女はページをめくっていき、「まじで全部黒塗りじゃん」と十五歳らしい口調で感想を述べる。

 だが彼女の言葉は正しく、次の箱から取り出したファイルも同じような景色が続く。黒塗り、黒塗り、黒塗り、黒塗り、俺は苛ついてファイルを机の上に投げ捨てる。だが黒塗りの資料があるということは、修正前の資料の原本もどこかに存在するはずだ。

 俺は考える。彼女が書類の開示申請を出してからここに用意されるまで三時間。当然、法務省からここまで資料を輸送する時間はないし、すべての資料をFAXしファイリングする時間もない。とすると、この黒塗り資料は普段から刑務所内にあり、請求された資料のファイルを箱詰めする作業に三時間かかった、と考えるのが自然だ。

 黒塗りの複製資料が刑務所内に保管されているのはいいとして、では原本はどこにある? これは政府機関における社会実験だ。普通に考えれば法務省が保管しているはずだが、これまでの実験区画とは異なりD区画があるのは首都圏から遠いここ未未市だ。この国ではいまだに重要な書類は紙で残している。機密情報の中に刑務官の刑務日誌も含まれていることを考えれば、扱われる書類は膨大だ。頻回に機密情報を郵送するとなると安全性の確保は難しいかもしれない。だとすると、機密書類の原本もまたこの刑務所内で保管されていると考える方がしっくりくる。そして黒塗りの資料が中央管理棟に保管されているのなら、原本は当然D区画内にあるはずだが、この資料の量を考えると巨大な資料室が必要なはずだ。あのD区画にそんな部屋があっただろうか。

 俺は最初の日にあの猫の目をした法務省の役人から受け取った書類を引っ張り出し、D区画の見取り図を机の上に広げる。地下二階分の管理エリア、円筒状の地下部分は一番外周に廊下が置かれ、廊下に接するように内側に部屋が並んでいる。だがあの図書室にしても円筒の半径を十分に閉めるほどの奥行きがあるとは思えない。見取り図には、円筒の断面図の中央に構造体として円形の空間が描かれている。だが地上部分では吹き抜けになっている場所の地下に構造体が必要であるとは思えない。とすると、この場所に秘密の空間があったとしても不思議ではない。

 もちろんこれは俺の妄想に過ぎない。捜査に行き詰まり勝手に機密書類の保管庫をでっち上げているだけかもしれないがどうせこのまま他にやれることはない。「このまま二人で時間を無駄にしていても仕方がない。俺はここに残って、残りの資料に目を通す」それって、「それってまさか、わたしに法務省に掛け合ってこいって意味じゃないですよね」「よくわかっているじゃないか」「冗談ポイですよ。D区画に機密書類の原本が眠る保管庫があるかどうかもたしかじゃないのに、そこに入る許可を法務省から取ってこいと言うんですか? 保管庫が存在しなければ、わたしは頭がおかしくなったと思われますよ」「まあ気にするな」「気にしますよ。それに本当に保管庫が存在したとしても、お願いすればはいどうぞ、なんてすんなりいくわけないじゃないですか」「それを何とかするのがお前の仕事だろう?」「簡単に言わないで下さい」「やり方はまかせる」「まかせないで下さい」「何のためにこれまで法務省に尻尾振って管理委員会に丁稚奉公してきたんだ? 貸しがあるだろう?」「そんなものありません」「作っとけよ」「もういいです」

 俺と会話を続けることをあきらめて彼女は鼻息荒く立ち上がるとこちらに手を差しだす。

「何だ?」「未未市の担当部局と話してきます。車のキー、下さい」「バスがあるだろう?」「市役所まではバスを乗り換えなきゃなりませんし、外は大雨ですよ」「そうか。風邪をひくなよ」「本気で言っています?」「お前に運転させたら俺の愛車は廃車場行きだ」「運転は得意なんです」信じないね。「刑事部屋に明日の朝八時な」「ああ、もう」

 彼女はインターホンも押さずに扉を平手でばんばんと叩いて大声で言う。

「実験区画特別捜査官水沼警部、出ます」

 がちゃりと鍵が開く音がして扉が開く。「行ってらっしゃい」と振り返りもせずに言った俺の背中で、彼女は思いっきり音を立てて扉を閉じる。まったく、お行儀のいいことで。



 雨はますます激しくなっている。

 資料閲覧室の小さな部屋の壁の上方に設けられた窓の向こうから、雨の匂いがただよってくる。ふうと息をついたあと、手元のファイルに視線を落とす。机の上にはおびただしい量の黒塗りの資料が広げられている。かなりの資料に目を通したが、そのほとんどが黒塗りで結局何もわかりはしない。かろうじて残されていた日付や担当刑務官の名前から、半年前に被害者が刺されたとかいう事件の報告書は見当がついたが、中身が読めないのだから意味がない。

 俺はぎっとイスに背もたれると大きく息を吐く。これからどうする? 机の上の山積みの黒塗り資料を前に俺は行き詰っている。どれもこれも、そんなにまでして何を隠さなければならないんだ。特にこれなんて酷いものだ。俺は先程見つけた一冊のファイルを手に取る。表紙には日付だけが書かれた紙のファイル。中には何十枚もの資料が綴じられているが、すべてのページが大半黒塗りにつぶされている。徹底しているな、むかつくぜ。俺はぱらぱらと資料をめくるがふとその手が止まる。見覚えのある資料。この書式、市警察の書類か? 日付を見て俺は理解する。ああ、そうか。これはあの犬の散歩中の老人が用水路に浮かんでいた脱走犯の死体を発見した時に市警察が作成した捜査資料だ。なるほど、このファイルは脱走事件の関係書類か。それは他よりも黒塗りが多くなるはずだ。

 俺は乱暴にファイルを閉じると大きく伸びをして壁の時計を見る。二十一時が過ぎている。どうせ明日も続きをやるんだ。俺は資料をしまうこともせず立ち上がると、扉の脇のインターホンを押す。

「市警察の東方警部補です。退室します」



 ざあざあざあ。

 中央管理棟の外は空全体が分厚い灰色の雲で覆われ激しい雨の帳が周囲を覆っている。入口を出たところの天蓋の下で、傘立ての向こうにスタンド式の灰皿を見つけ俺はそこまで歩いていく。ああ、寒いな。タバコに火をつけるとコートのポケットに両手を突っ込む。

「火、もらえるかしら」

 振り向くと、灰色のくせっ毛の女性が扉の前に立っている。分厚い老眼鏡は体温で曇り、口からは白い息が漏れている。タバコをくわえた医者に俺はライターの火を差し出す。タバコの先端が橙色に輝くと、医者は大きく煙を吐き出す。

「こんなところで雨宿り?」

 医者の言葉に俺は肩をすくめて傘立てを見る。

「誰かが俺の傘を持って帰ったらしい」

 なるほどね。医者は俺の横に並んで立つと、ゆらりと煙をくぐらす。

「仕事、とっくに辞めたと思っていたわ」

 俺は設置された灰皿に灰を落としながら、ははっと笑う。だらしなく空いた口の端から煙がこぼれ出す。

「おりられないゲームをしているのはあんたも同じだろう」

「言っておくけど私には後悔の念も自責の念もない。この仕事を続けることに何の迷いもないわ」

「俺が迷っているかのような口ぶりだな」

「正義のための行いだと信じている人間を断罪するのは苦しいものよ。でも彼は違う。裁判で減刑を求めず控訴もしなかった。彼自身が自らの行いを悔い自らの非を認めているのなら、あなたは自分のしたことに胸を張ればいい」

「そんなに簡単な話じゃないが、」俺はタバコを灰皿に押し付けながら言う。「一応、礼は言っておくよ」

「あなたと一緒に私に手錠をかけた刑事。彼なら、あなたが人を殺せばためらいなくあなたに手錠をかける。あなたに必要なのは彼のようになることよ」

 まったく、一番言われたくないことをずけずけと言いやがる。二本目のタバコを咥えながら俺は言う。「あんた、友達いないだろう?」

 医者は答えない。俺は二本目のタバコに火をつけ、思いっきり煙を吸い込む。最近は滅多にタバコを吸わなくなっていたというのに、殺人事件の捜査に駆り出された途端にすっかりかつての依存症に逆戻りだ。指二本でタバコを挟んだまま、額に手を当てる。雨音が脳の奥にずしんと重く響いている。タバコのにおいに身をまかせながら、この感覚は久しぶりだなと思う。

「そういえば相棒を変えたのね」医者はふうと煙を吐く。「今回だけのお試しだ」「優秀そうな子ね」「頭は切れる」「そう」「口も達者だ」「将来有望ね」「だが運転は下手だ」医者は笑うように口を開いて煙を吐くと、ポケットから取り出した携帯灰皿に吸い殻をねじ込む。「あまり多くを望むものではないわ」そう言うと医者は傘立の黒い傘に手を伸ばす。「過ぎたことはともかく、今、隣にいてくれる子を大事にしなさい」それは、「余計なお世話だな」そうね。医者は傘をばさりと広げると再び俺が言われたくないことを言う。「自分で掘った穴に飛び込んだのなら、自力で這い上がるのね」

 それじゃあね、と医者は雨の中をバス停に向かって歩いていく。俺は二本目のタバコをしっかりと根本まで吸うと灰皿に投げ入れコートの襟を立てる。まったく。弱まる気配のない叩きつけるような雨音に舌打ちをすると、コートのポケットにねじ込まれていた新聞を広げ、傘代わりに頭から被ると車に向かって走り出す。



 運転席に飛び込むと濡れた新聞を助手席に投げ捨て、キーを回してエンジンをかける。エアコンから埃臭い風が流れる。まったく。俺は靴下までぐっしょりと濡れた足元にうんざりしながらハンドルに額を当て車内が温まるのを待つ。

 あの医者が余計なことを言うものだから俺は何故か一年前のことを思い出す。警官殺害事件。あの時、俺は事件を解決するべきではなかったのだろうか。あの事件さえ解決しなければ俺の横にはあいつがいて、俺はまだ殺人事件の捜査を続けていたはずだ。何も変わらず、俺は俺として生きることが出来ていたはずだ。

 なんて。ふざけるな。ごんごんと俺は二度、額をハンドルに打ちつける。何を馬鹿な。久々の殺人事件の捜査に俺はセンチメンタルになっているのか。しっかりしろよなと唸るようにつぶやき、迷いをかき消すように頭を振る。雨が天井を叩く音の中、エアコンが十分に仕事をするまでの間の暇つぶしにと俺は助手席の新聞に手を伸ばす。何だよ、びしょびしょじゃねえか。クロスワードパズル、まだ最後まで解いていなかったのに。と、俺はふと気付く。何かに気付く。だが、何が起きたのかわからず、そのことに思わず、え、と小さくつぶやく。

 何だ。今の。

 強烈な違和感。

 だがその正体が俺にはわからない。

 何だ。俺は今、何に気付いた?

 埃臭いエアコンが不快な音を立てている。

 いつまでたっても車は暖かくならないでいる。

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