第8話 武器と暴力とタバコのニオイ

「刑事さん」と呼ぶ声に俺は振り返る。

 図書室の扉の所に鰐男を先頭に屈強な体格の刑務官達が並んで立っているのが見える。でっか、踏みつぶされちゃいそう。彼女がそうつぶやくのを聞いて、俺はまったくと首を振る。「それじゃあ、事情聴取を始めよう」

 鰐男が連れてきたのは五人の刑務官で、皆、一睡も出来なかったのか顔には疲れが浮かんでいる。俺達の方までやって来ると、鰐男は一人ずつ紹介する。

「こちらが松井君。亡くなった加藤のパートナーです。大きいでしょう?」

 見上げるほど身長が高く、首が埋まるくらいに盛り上がった僧帽筋と分厚い胸板の男がむっつりと一礼してみせる。窪んだ眼窩の奥の三白眼が粗暴な印象を与える頭が、鍛え上げられた体の上に乗っている。こんな男に睨みつけられたら凶悪犯でも歯向かう気は失せるだろう。

 鰐男は続いて松井の横に立つ四人の刑務官を順次紹介していく。「河西君に間宮君、そしてこちらの二人が田上君と山崎君です」

「死亡推定時刻、監房エリアの担当が河西刑務官と間宮刑務官、特別監房エリアの担当が田上刑務官と山崎刑務官でしたね」

 うなずいた刑務官達に彼女は改めて質問する。

「一部、先程の話と重複しますが、再度お話を聞かせて下さい。まず確認ですが、二十三時、被害者と松井刑務官は管理エリアに下り、松井刑務官は当直室に、被害者はシャワー室に向かった。そうでしたね?」ああ、と松井がうなずく。「続いて二十四時、被害者は監房エリアに現れ、図書室の返却BOXから本を持って地下に下りていった。その際に河西刑務官と間宮刑務官のお二人は被害者と話をしていますね?」はい、と河西が代表してうなずく。「監房エリアの本を図書室に戻すのは、夜勤帯で行うことになっているのですか?」そういうわけではありませんと河西は首を振る。「大抵は日勤帯の業務ですが、手が回らない時は夜勤帯で片付けることもあります。加藤は夜勤の休憩時間には、図書室のビデオライブラリーにある映画を見ることが多かったのですが、昨夜もそのついでに本を片付けようとしたのだと思います」

 なるほど。ちらりと彼女を見ると、手帳のページをめくり、とんとんとペンの後ろでこめかみを叩いている。

「次にお聞きしたいのは皆さんのカードキーについてです。カードキーを紛失したという事態はこれまでなかったそうですが、昨夜、皆さんはカードキーを一度も手放したりしていませんか?」どういう意味です、と怪訝そうに松井が眉をひそめる。「つまり、誰かがカードキーを置きっぱなしにしていて、それを囚人が手にしたという可能性はありませんか?」彼女の問いに、松井はあからさまに不服そうに答える。「あり得ませんよ。カードキーは肌身離さず持っているよう決まっていますからね」「ちなみに今は、」彼女の言葉に四人はそれぞれ上着の内ポケットの中や首から下げているパスの中からカードキーを取り出して見せる。「ありがとうございます。しまってもらって結構です」

 ふうむ。俺は考える。仮に被害者が夜勤の休憩時間に図書室で映画を見ることが習慣化していたとすると、それこそが昨夜被害者が狙われた理由にはならないだろうか。被害者が一人でいるなら犯人にとっては絶好の殺害の機会だ。ただ、被害者が図書室で過ごすことを刑務官は知り得ても囚人は知らないはずだ。監房エリアに本を片付けに来た姿を見ただけでは、相棒と二人で図書室にいる可能性を除外出来ない。囚人がそれを知るには刑務官からそれを聞かされるしかない。

「では、次に亡くなられた加藤刑務官ですが、昨夜、誰か囚人と揉めているというようなことはありませんでしたか?」彼女の問いに刑務官達は互いに顔を見合わせる。だがすぐに、いいやと全員が揃って首を振る。「囚人とは揉めていない、と」彼女はペンを走らせながら言う。「ちなみに昨夜、皆さんとは何か揉め事とかありませんでしたか?」

 ざわり。空気が音を立てて引き締まるのがわかる。

「俺達のことを疑っているんですか?」

 松井が敵意むき出しの口調ですごむ。

 彼女はきょとんとした顔で平然と答える。

「わたしはただ揉め事があったかどうかをおたずねしているだけです」

「主任、」松井が強い口調で抗議するが、鰐男は苦々しい口調でお答えして、とたしなめる。「揉め事なんてありませんよ。俺達はずっと上手くやってきた」まあ揉め事があったとしても認めるはずがない。彼女はくるりとペンを回すと、「了解です」とにこやかに笑い、では次の質問に行きましょうと告げる。

「被害者の死亡推定時刻は二十四時から一時の間です。その間に、何かいつもと違うこと、異変がありませんでしたか?」

 彼女は全員にそうたずねたあと、ペンの後ろでとんとんと唇を打ち、それから件の時間帯に特別監房を監視していた二人の刑務官にペンを向ける。「山崎刑務官、いかがです?」

 青白い顔をした白髪交じりの痩せた男は、横に立つ鼻の大きな男、名札に田上と書かれた刑務官と顔を見合わせ、それから答える。

「私達は特別監房の監視をしていました。監房エリアの一階とつながってはいますが、特別監房と一般監房の間には、廊下といいますか、一つ部屋を挟んでいますので何も聞こえないんです。ですから、私達は何も、」同僚が殺害され刑事に事情聴取されるという、経験したがことがないだろう異様な状況にどこか挙動不審に見える。「特別監房には現在五名が収監されています。懲罰房に四名、保護房に一名です。五人共その時間は眠っており、特にトラブルはありませんでした。私達は一度も特別監房エリアから席を外していません」

「俺達が保証しますよ。彼等は一度も監房エリアの方には出てきていませんでした」

 監房エリアの監視をしていた間宮が答え、横に立つ河西も同意するようにうなずく。

「わかりました。では次はお二人です。監房エリアに問題はありませんでしたか?」

 さあ、ここからが重要だ。監房エリアの監視に穴があったのか、囚人が監房エリアを抜け出すことは現実的に可能だったのか。

「問題と、言われましても、別にいつもと変わりませんでしたよ」

「いつもと、ですか」そう言うと彼女はずり下がった眼鏡の奥から相貌を引き締めて言う。「この事件、あなた達刑務官が犯人でないのなら、犯人は監房エリアから抜け出た囚人ということになります。囚人が監房エリアから抜け出すことが可能かどうか、それが最も重要な条件なんです。たしか、一時間に一度、すべての監房を確認し、それ以外の時間はお二人で一階から監房全体を監視していたんですよね」

「はい、その通りです」と河西がうなずく。

「消灯後の監房エリアは、監房前の廊下の常夜灯がついているだけとお聞きしました。囚人が監房から出入りしたとして、確実にそれに気付くと言い切れますか?」

「もちろんです」と言ったあと、自信なさげに間宮がつけ加える。「多分、」

「多分、ですか」彼女はふむと唇を尖らせたあと、再びペンの後ろで唇をノックする。「今朝、監房エリアを見せていただきました。事件後より監房エリアも現場が保存されています。詰め所には飲みかけのコーヒーカップがありましたが、二十三時から三時までの四時間、お二人は一度もトイレに立つことはありませんでしたか?」

「それは、」途端に河西は口ごもる。助け舟を出すように間宮が答える。「もちろんトイレに立つことはあっても、二人同時ということはありません」

「なるほど。では、居眠りをしたということは?」

 にこやかな口調でずけずけと尋ねる彼女に、俺は思わず小さく鼻を鳴らす。

「私達は仕事中に居眠りなんてしません」

「うーん、でも詰め所には新聞や雑誌がありました。それに夢中になっていれば、見逃した可能性ってありません?」

「あれは昨夜、囚人がラウンジに残した忘れ物ですよ。私達は勤務中にさぼったりしません。監視には問題ありません」強い口調で河西が言う。

「では、囚人が犯人であることはあり得ない、と?」

 彼女の問いに刑務官達は黙り込む。それを認めるということは自分達の中に犯人がいると主張することになる。不穏な空気の中、彼女はじっと彼等の表情を観察している。睨み合いのような膠着状態に、俺はやれやれと首を振り、一ついいかな、と口を挟む。彼女は俺をちらりと見ると、手帳で顔を半分隠しながらにんまり笑って、どうぞと答える。

 俺はゆらりと河西の方へと歩み寄ると、襟首を掴み、顔を近付けくんくんと鼻を鳴らす。

「何ですか?」

「いいにおいをさせているな」

 気味悪そうに後ずさる河西の顔に俺は人差し指を突き付ける。

「歯肉の黒ずみから見てかなりのヘビースモーカーだが詰め所には灰皿がなかった。ここでは刑務官の喫煙は禁止されているはずだが、おたくの制服にはにおいが染みついている。勤務中に喫煙しているのは明らかだ」

「囚人の煙の臭いが移っただけでしょう」

「本当に四時間もの間、一本も吸わずにいられるのか? 監視の途中にタバコを吸いに席を立ったんじゃないのか?」

 ええ、と彼女が驚いた声を上げる。やはり気付いていなかったか。まあ、タバコを吸わない人間なら仕方はない。

「俺も喫煙者でね、市警察も全館禁煙で肩身の狭い思いをしている。まあ、守っちゃいないが。監房エリアの一階には喫煙所があったな」

「あれは囚人のための、」

「まったく、ふざけた話だよな。ここは囚人の人権が最も優先される場所だ。刑務官は喫煙が禁止されているというのに囚人達には許可されている。やってられない、そうだろう?」河西は青白い顔をさらに青くして黙り込む。「日勤帯なら無理でも、夜勤帯なら囚人用の喫煙所は使い放題、」そう言って俺は河西の胸ポケットを叩く。ポケットはタバコの箱と同じくらいのふくらみがある。

「私は勤務中に喫煙したりしません」

「正直に言った方がいい。さっき彼女が言っただろう? 事件発覚後、監房エリアも現場は保存されている。つまり喫煙所のタバコの吸い殻も昨夜のまま残されている。唾液と指紋を調べればすぐにわかることだ。だから無駄な会話は省きましょう。昨夜、勤務中にタバコを吸いましたか?」河西は答えない。「日中は囚人達が使用するため喫煙室は使えない。使うなら夜勤帯しかないが、市の条例で夜勤勤務のあとは二十四時間の休息が義務付けられているため、昨夜以前のあなたの夜勤勤務は二日以上前ということになる。そんな昔の吸い殻が残っているなんて都合のいい言い訳はしませんよね?」

 俺が淡々と詰めるように言うと、観念したのか河西は下を向いたまま答える。

「昨夜、二度ほど持ち場を離れてタバコを吸いに行きました」

「何ということですか」

 鰐男が顔を真っ赤にして激怒の声を上げる。短い手を振り回しながら河西に向かって言う。「勤務中に喫煙するなんて甚だしい服務規程違反ですよ河西君。まさか君がそんなことをするなんて信じられない」

 たしか鰐男の話では夜勤帯勤務の最初と最後の一時間は日勤帯と勤務が重なる時間帯だ。そしてその時間帯は、囚人達は監房内にいるため、厳密には日勤帯勤務者でも喫煙所を使うことは可能だろう。つまり、河西の吸い殻が残っていたとしても、昨夜の物ではない可能性はあったが、引っかかってくれて何よりだ。

 河西は言い訳もせずうなだれる。喫煙所に行ったのは二回でも、一本吸ってすぐに持ち場に戻ったとは思えない。河西が喫煙所に入り浸っている間にもう一人がトイレに立てば監房エリアは刑務官が不在だった時間があったことになる。

 それが聞ければ十分だ。俺が彼女を見ると、彼女もぱたりとメモ帳を閉じる。鰐男は険しい顔で黙り込んでいる。

「あの、」鰐男に叱責され青色を通り越して土気色の顔色をした河西が彼女にたずねる。「もしかして加藤が殺されたのは、俺がタバコを吸ったからでしょうか?」

 そうとは限りません。彼女は白々しく言うが、仲間の死の責任の一端が自分達にあることを突きつけられ、刑務官達は皆、一様に肩を落としている。仲間意識が強いのは本当らしい。

「では、そろそろこの辺りにしましょう。遅くまで残っていただきありがとうございました。また聞きたいことが出来ましたらご連絡します。帰宅されてかまいませんが、連絡だけはつくようにしておいて下さい。何かご質問は?」

 彼女の言葉に刑務官達は誰も口を開かない。鰐男はいまだ怒りがおさまらないのか真っ赤な顔をして鼻息荒く彼等を睨みつけている。「では、行きましょう」鰐男の言葉に、刑務官達は失礼しますと口々に言いながら部屋から出ていこうとする。

「ああ、そうだ、もう一つだけよろしいですか?」

 唐突に彼女が呼び止める。

「確認なんですが、皆さんのその腰の装備品、普段からそのような物を装備しているんですか?」

「どういう意味です?」

 松井が怪訝そうに聞き返す。

「ああ、いえ。ほら、いくら凶悪犯相手とはいえ彼等は丸腰です。そんな物騒な物が必要なのかなと思いまして」

「水沼捜査官。これは法務省が定めたガイドラインによって規定された装備品ですよ」

 鰐男が言い終わる前に、松井は強い口調で彼女に威圧的に言う。

「あんた本当に管理委員会の捜査官か? ここがどういうところかわかっているだろう?」

「んー、わかりません」

「このD区画に収容されているのは凶悪犯ばかりだ。囚人達は徒党を組み、縄張り争いで囚人同士の暴力事件も日常茶飯事だ。あいつらと付き合うにはこちらも命懸けなんだ。これは身を守るための正当な装備品だ」

「なるほど。つまりその装備品はあなた達にとってはここで勤務するにあたって必要不可欠な物なのですね」

「そうだ」

「勤務中に装備品をおろすことなんてあり得ない」

「当たり前だ」

「だとしたらそんな大事な装備品を何故、被害者は殺害された時に所持していなかったのでしょうか?」

 何だと。俺は思わず彼女を見る。そして先程見たファイルの中の被害者の写真を思い出す。背中の傷、流れ出た血液、青白い顔、そしてそう、被害者は腰に武器を所持していなかった。

「遺体発見の報告後、管理委員会から現場の保存と写真の撮影を指示されましたよね。発見直後の写真では被害者の腰に装備品はありませんでした。身を守るために必要な武器を、彼は何故所持していなかったのでしょうか?」

「そんなこと、俺に聞かれても、」

「犯人が持ち去ったとは思えません。凶器のナイフすら残していった犯人が、そんな大きな武器を持ち去るのは現実的ではありません。それに刑務官の武器が奪われたとなると、とっくにD区画はロックダウンされ、今頃は武装した特殊部隊がここに押しかけているはずです。被害者の装備品はどこにありましたか?」

 彼女に問われて、鰐男は動揺した様子で宙空を見たあと、それから思い出したかのように両手を叩く。「そうでした、加藤君のロッカーに装備は残されていました」

「シャワーを浴びたのか、あるいは寝ようとして装備品をおろした可能性はあり得ます。ですが被害者はそのあと本を取りに監房エリアに向かっているんです。鍵のかからない格子のすぐ向こうには凶悪犯がいるんです。先程の言葉を信じるなら、そんな場所に装備品を持たずにいくとは思えません。彼が監房エリアに上がって来た時に装備品をしていたかどうか、覚えていらっしゃいますか?」

 彼女の問いに、監房エリア担当だった間宮と河西は再び顔を見合わせる。

「いえ、どうだったか、ちょっと覚えていません」

 彼女は鼻先までずり下がった眼鏡をくいっと押し上げる。

「わざわざ本を抱えて地下に下りて、装備品をロッカーにしまってから図書室に行くとは思えませんからもちろんその時点で装備品はおろしていたはずです」

 そうか。もし、被害者が丸腰で監房エリアに上がってきたところを目撃してきたのなら、それこそ殺害のチャンスと犯人は思ったのかもしれない。何故、昨夜でなければならなかったのか。それが答えなのか?

「それにしても犯人は幸運でしたね。被害者が武器を装備していれば、あるいは反撃をくらって致命傷になったのは犯人の方だったかもしれません」

「だから何だと言うんです。武器を持っていなかった加藤を責めるんですか?」

「問題は、あなた達がいい加減な仕事をしているということなんです。鍵がかからない監房エリアの監視中にタバコを吸うために席を立った。被害者にしても監房エリアに上がるのに装備品を外すのは法務省の定めるガイドライン違反です。正直あなた達の仕事ぶりは信用が出来ませんし、今、ここでお聞きした話もどこまで信用していいか迷っています」

 おい、もうよせ、俺は思わず口を挟むが彼女は自分の倍はある男達に一歩も引く気はないらしい。

「わたしはこれまでも首都圏の実験区画で様々な事件を担当してきました。そのいずれでも事件の背景にはルールの逸脱がありました。あなた達のいい加減な勤務態度が今回の悲劇を招いた、そうは思いませんか?」

「いい加減にしろよ」

 松井が彼女の胸倉を掴み、小柄な彼女の体はすぐ後ろの机に派手に乗り上げる。すぐに他の刑務官が松井に飛び掛かり、二人を引き離そうとする。

「何をやっているんだ、すぐに手を放しなさい」

 鰐男が叫び、刑務官によって松井は扉の方へと引きずり離される。俺はすぐに彼女の元に駆け寄るが、彼女は目を白黒させたまま、机の上に呆然と仰向けになっている。

「おい、大丈夫か?」

「ええっと、今日は何曜日でしたっけ?」

「水曜日だ。本当に大丈夫か?」

 俺は彼女の手を引いて起こす。

「水沼捜査官、謝罪します。暴力は絶対にあってはならないことですが、本当にちょっとした行き違いで、申し訳ありません、心から謝罪します。松井君、君も頭を下げるんだ」   

 鰐男が必死の形相で彼女に頭を下げる。

「ですが主任、こいつは遠回しに、俺達が加藤を殺したようなものだと言っているんですよ。許せるんですか?」

「謝るんだ」鰐男が有無を言わさぬ口調で一喝し、松井は離せよと刑務官達にすごむと、それから彼女の方に一歩近付く。彼女は机に座ったまま松井を見る。松井は何度か大きく息を吐くと、それから深々と頭を下げる。

「すいませんでした」

「もういい。君達は帰りなさい」鰐男が言い、図書室の外を指差す。「早く行きなさい」激しい口調で一喝され、刑務官達は図書室からぞろぞろと出ていく。

「水沼捜査官、本当にすいませんでした」

 鰐男は再び、地面につかんばかりに頭を下げ謝罪する。

「ああ、びっくりした」と彼女は机に腰掛けたままふうと息を吐き、失敗しましたとつぶやく。問題が起きるのが当たり前の実験区画で問題が起きるたびに駆り出される特別捜査官の身になれば、たしかに彼等の勤務態度は腹立たしいだろうが、「やり過ぎた、馬鹿」俺は彼女に言う。だが、

「だが、被害者が武器を装備していなかったという事実はかなり興味深い。たしかに単に杜撰な刑務官が休憩中に装備品を外したままにしていただけにも見えるが、これがもし仮に、意図的に装備品を外していたのだとしたら話は大きく変わってくる」

 俺の言葉に彼女は机の上に腰掛けたまま大きく目を見開いてこちらを見る。

「意図的って、何のためにです?」

「犯人がそれを望んだんだ」

 俺はそう言うと顔の前で両手を祈るように合わせる。両方の人差し指を唇に当て、俺は図書室の中をゆっくりと歩く。

「被害者は図書室の本を片付けていたところを背後から襲われた、たしかにそう考えるのが一番自然だ。だが、もし被害者が意図的に装備品を外し監房エリアに現れたのだとしたらどうだ?」

 俺の言葉に彼女は小さな鼻の頭にしわを寄せる。

「どういう意味です?」

「被害者は本を片付けるつもりなんかなかった、としたらどうだと言っているんだ」

「いやいや、でも、事実被害者は返却BOXの本を持って下りていますよ」

「本を持っていったのは事実だ。だが本の片付けのためじゃない。別の目的があったんだ。たとえば、これから図書室に丸腰で行くと犯人に伝えるためだったとしたら」

 あっと彼女が声を上げる。

「犯人と被害者は、示し合わせてここで会っていた?」

「そう考えるといろいろと説明がつく。図書室の扉は被害者が開けておけばいい。そして被害者が丸腰であることが密会の条件であるならば、それを要求するのは武器を持たざる者だ。この刑務所ではそれは囚人しかいない。昨夜、被害者と犯人はここで密会し、そして交渉が決裂したのか、あるいは最初から殺害するつもりだったのか、背中を向けた被害者に突然犯人は襲い掛かった」

 ですが、と彼女が言う。「夜勤刑務官の反応を見る限り、囚人をかばっているようには思えません。もし東方さんの推理が正しいのなら、被害者と囚人の密会は、相棒を含め他の刑務官は知らなかったことになります」

「知られてはいけない囚人との密会。つまり、被害者は囚人とつながった汚れた刑務官だったということになる」

 俺はそう言うと両の人差し指を唇につけたまま鰐男に言う。

「困りましたね。どう考えても、おたく達には最悪なシナリオしか出てこない」

「私は、私は部下を信じます」

 鰐男はそう言うと、扉に手をかける。

「彼等と話をしてきます」

 図書室から出ていこうとする鰐男の背中に俺は言う。

「悲劇、ですよ」

 ええっ、と鰐男は振り返る。

「『運命に拮抗して苦悩する人間の姿を描いた物語を三文字で』。答えは『悲劇』だ」

 俺はそう言うと、ポケットにねじ込んでいた新聞を手にしてみせる。

「クロスワードパズル。間違っているんです、ここのところ。縦の六番。答えは『悲劇』。運命に拮抗して苦悩する、それが囚人のことだとすると、刑務所は悲劇そのものということになる。どういう終わりを迎えるにせよ、覚悟が必要です」

 鰐男はその大きな目玉をぎょろぎょろと動かすと、それではと部屋から出ていく。

 扉が閉まると、彼女はようやく机からおりて俺の方へとやってくる。

「何です、今の?」

「爬虫類の気持ちなんてわかるかよ」

「そうじゃなくて、」彼女は俺を見る。「クロスワードパズル?」

「嫌いか? 頭の体操になる」

 俺はポケットに新聞をしまって言う。

「今わかっていることは、監房エリアの監視はざるだったということ。そしてここの連中が信用ならない連中だということだけだな。監房エリアの監視がいい加減なら、当然、特別監房の監視をしていた二人のアリバイもあってないようなものだ」

「というか、複数人の刑務官が口裏を合わせていればアリバイも何もありませんけどね」

「お前の言う通り、もし刑務官が犯人ならあいつらはかばい合うぞ。捜査の邪魔が入るのは覚悟しておく必要がある」

「うーん、刑務官といってもわたしが疑っているのはやっぱり相棒の松井しかいないんですけど」

 ああ、と俺が聞き返すと彼女は人差し指を立てて言う。

「ほら、ここの監房エリアって特殊な形しているでしょ? 円筒状で一階からすべての監房が見渡せる形になっていますが、それって逆に言えば囚人達からも刑務官の姿は丸見えってことです」俺は監房エリアの一階で感じた囚人達の視線を思い出す。「特別監房の刑務官も地下に行くには監房エリアを通る必要があります。つまりですね、地上にいる人間はお互いがお互いに監視している状態なんです。殺人を犯すには不確定要素が多過ぎます。被害者が殺された時、地下にいたのは松井だけです。だとしたら松井が元々良からぬ思考の持ち主で、どこかに囚人手製のナイフを隠し持っていて被害者を殺したと考える方がしっくりきます。元々仲が悪かったのかも」

「仮にナイフを持っていたとして、どうして、」

「どうして朝まで待たなかったのか? ですよね。だから知りたかったんです。あの男が、感情が抑えられない、激情に駆られたら見境がつかなくなるほどぶっ飛んだ人間かどうか」

 お前、まさか。「お前、まさか。さっきのわざとやったのか?」

「襲い掛かってきたら、てっきり東方さんが体を張って守ってくれるかと」

「期待に沿えず悪かったな」

 呆れた奴だ。あんな挑発をしてもし本当に危険な目にあったらどうするつもりだ。だが、と同時に俺は思う。これは、実験区画管理委員会の特別捜査官として刑務官や囚人達を相手にいくつもの事件を解決してきた彼女なりの戦い方なのだろう。だから俺は彼女を責めたりはしない。こいつはもう、いつまでも俺が手を引いてやらなければならない研修生じゃないんだ。

 さてと、彼女はくいっと首をかしげてみせると俺にたずねる。「これからどうします?」

「セオリー通りに行くさ。容疑者は囚人と刑務官。刑務官から話を聞いたんだ。次は囚人から聞く番だ」

「百一名、全員からですか?」

「他に方法があるか?」

 んーと考えたあと、ないですね、と彼女はうなずく。

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