第9話 囚人への取り調べ

【FOUR】


 東洲区重警備刑務所は戦前に建築されたこの国に現存する三番目に古い刑務所で、未未市東洲区の東の端にある。未未市が政府直轄都市に制定後、大規模に改築されたセキュリティレベル最上位の重警備刑務所である。多くの凶悪犯が収監されたことでも有名で、過去には稀代の連続殺人犯、希一希も収監されている。高さ6メートル、全長1.8キロメートルの巨大な壁に囲まれた14万平方メートルの敷地は、この国で五番目の敷地面積を誇っている。定員1210名であるが、収容人数の増加に伴い現在では定員を上回る1400名以上が収監されている。組織構成は刑務所長の下に総務部、処遇部、教育部、医務部、分類審議室の4部1室を持つ5部制となっている。

 敷地の中央には刑務所全体を管理するレンガ造りの巨大な建物がそびえ立ち、左右に二つの建物、一般男性囚人棟と一般女性囚人棟が寄り添うように建っている。敷地の外れにはかつて戦争犯罪者収容棟として使用された円筒状の建物があるが、数十年前に役目を終えてからは封鎖され、それ以後、東洲区重警備刑務所は二監房棟制で管理されてきた。二年前、法務省直轄特定刑務所の四番目の実験区画に、首都圏から離れた刑務所として初めて東洲区重警備刑務所の封鎖された監房棟が採用された。東洲区重警備刑務所は政府直轄都市法に基づき未未市の管轄に置かれているが、特定刑務所第四実験区画については、法務省の特定刑務所管理委員会によって管理・運営されている。

 実験区画参加者は東洲区重警備刑務所内だけでなく、広く未未市の他刑務所からも志願者を募っており、精神鑑定等各種検査にて選別された男性重罪犯百余名が実験に参加登録している。実験期間は最長四年間とされ、随時、一部の囚人が入れ替わっている。実験区画内での待遇は一切機密とされるも、囚人の人権に最大限に配慮したという謳い文句に、現在も囚人の参加応募は絶えない状況が続いている。


 **********


 管理エリアに用意された事情聴取のための部屋には、手錠をつなぐことの出来る机とクッションのない金属製のイスが並べられている。並んでイスに座ると俺は言う。「正直言ってこの取り調べは気が乗らない」俺の言葉に彼女がええ? と聞き返す。「犯罪者は苦手だ。俺は気が弱いからな」「取り調べこそが殺人課刑事の最も重要な仕事だと東方さんに教わりましたけど」「市警察ならまだしも身の安全が保障されない場所で殺人犯と会話なんて出来るか。お前が話せ。俺は離れたところで聞いている」「わたしの身の安全はいいんですか?」「俺じゃないからな」「それはどうも」「重要な証言を引き出せたら、あとでジュースを買ってやる」「そう言って買ってもらったこと一度もありません」あっそ。

 俺は机の上に実験区画管理委員会が作成したD区画被験者ファイルを開く。現在、一般監房に収容される百一名と特別監房に収容される五名の被験者の計百六名が実験対象となっている。人権保護の名目である程度の自由を許せば気の合う連中、利害の一致する連中で集まり徒党を組むのが人間の本質で、百余名も凶悪犯を一カ所に集めれば当然いくつもの囚人グループが形成され、D区画の覇権をめぐって睨み合いを続けるようになる。

 彼女が現在のD区画の囚人グループの勢力図を説明する。「D区画の最大勢力は黄桜一家です。指定暴力団黄桜組の四代目組長、貴桜鳴戸の弟である貴桜時生を中心に三十名ほどの構成員からなります」貴桜組? そんな奴等は知らん。写真を見ると、貴桜時生は額に横一文字の傷が走る白髪の男で、まるで古き良きやくざ映画の登場人物だなと俺は思う。「貴桜一家の対抗勢力と呼べるのが大陸系マフィアの赤報会です。青龍刀でも振り回しそうな物騒な連中の中心人物がこの男、トン・ローです」こちらは神経質そうな眼鏡の男で、赤報会は彼を中心に二十名ほどの集団だという。刑務所の外で行われている組織同士の抗争を塀の中にも持ち込むなよと俺は呆れてしまう。この二つの組織の睨み合いがもたらす囚人同士の暴力事件は日常茶飯事らしい。「D区画内の支配的なグループは貴桜一家と赤報会ですが、その他、いくつかの囚人グループが存在します。この実験区画の成立に関与した人権保護団体と強いつながりのある宗教『暁の塔』の信徒グループ、外国人排斥主義者グループ、同性愛者グループなどなどです」「ほとんどの囚人は何かしらの囚人グループに所属しているのか?」「無所属が数名ほどいるようですが、基本的には何かしらのグループに所属しているはずです」だとしたら厄介だな。事件発覚後、囚人達は監房から出ることは許可されていないが、近い監房同士なら意思疎通は可能だろう。グループの仲間同士が口裏を合わせてかばい合うと考えた方がいいだろうな。まったく。取り調べ前から先が思いやられる。

 鉄格子が開く音がして俺達は顔を上げる。刑務官に連れられてオレンジ色の囚人服に身を包んだ男が連れられてくる。それでは席について下さい。物怖じすることなく彼女はにっこりと笑う。囚人は俺達を警戒するように睨みつけながら見ながらゆっくりと席につき、机に固定されている手錠につながれる。そして、事情聴取が始まる。


 第一回特定刑務所第四実験区画囚人事情聴取


 水沼 「昨夜、発生した刑務官殺害事件についての事情聴取を行います」

 水沼 「ここでの発言はすべて記録、録音されます」

 水沼 「お聞きしたいのは事前にお伝えした三点です。一、昨夜、監房から出入りする人物を見聞きしましたか?」

 水沼 「二、加藤刑務官と揉めている囚人に心当たりはありませんか?」

 水沼 「三、犯人に心当たりはありませんか?」


 囚人番号342-F 貴桜時生、武装強盗で懲役20年、仮釈放まで12年


 貴桜 「俺は何も見ていないし何も聞いていない。何も知らない」

 貴桜 「夜? 寝ていたさ。夜は寝るものだろう?」

 貴桜 「その質問にはもう答えたよ、お嬢ちゃん」

 貴桜 「捜査に協力したいのはやまやまだが、俺は何も知らない。聞きたければうちの連中にも順番に話を聞けばいいが、答えは同じだ。今回の事件に俺達は関係ない。俺の部下の誰も手を出しちゃあいねえよ」

 貴桜 「お嬢ちゃん。質問にはもう答えた。そう言っただろう。(刑務官に)おい、戻るぞ」


 囚人番号392-D トン・ロー、違法薬物不法所持及び売買で懲役12年、仮釈放まで8年


 トン・ロー 「監房を出入りした人物は見かけませんでした」

 トン・ロー 「彼はかなり暴力的な刑務官でしてね、私の同士の中には彼に殴られた者が何人もいますがここは刑務所ですからね。ルールを破れば罰を受けることは必然、彼を恨み殺害しようなんて思う者は私の同士にはいませんよ」

 トン・ロー 「ここは特別な場所です。刑務官を殺せば楽園は終わる。刑務官一人の命と天秤にかければ、どんな馬鹿でも刑務所を守る方を選びます」


 囚人番号300-A 堀部伴、信徒への違法な献金強要および監禁で懲役8年、仮釈放まで4年


 堀部 「一、何も見ていないし聞いていない、二、誰も知らない、三、心当たりはない」

 堀部 「私達、暁の塔は暴力を憎んでいます。貴桜組も赤報会も好きに争えばいい。私達とは関係ありません」

 堀部 「私はたしかに罪を犯しましたが、すでに悔い改めています。二度と暴力的な行為をしないことを神に誓っています。私がここにいるのは同じように迷い苦しむ兄弟達を導くためです」

 堀部 「兄弟達に主の教えを説き、魂の救済に導くのが私の使命です。私は常日頃から兄弟達に憎しみを捨てるように説いています」

 堀部 「昨夜の事件を見るに、救いを求めている仲間がまだいるようですね。犯人がわかったら教えて下さい。私は彼に手を差し伸べねばなりません」


 百余名の凶悪犯。百余名の悪意。

 どす黒い空気が立ち込める鉄方体の中で悪夢のような事情聴取が続く。


「いいえ」「知らねえ」「俺は何も見ていねえし、何も聞いてねえよ」「いいや」「いや、何も変わりなかったな」「刑事さんは誤解されているようですね。この実験区画は作ったのは私達、暁の塔です」「いいえ、何も見ていません」「殺された看守の名前なんて知らねえよ」「気が付かなかったな」「名前も知らねえのにそんなこと知るわけねえだろう?」「俺には関係ねえよ。俺は何も知らねえ。話すことなんて何もねえ。もういいだろう?」「なあ、あんたどこから来たんだ? 市警察、おいおい本当かよ。それならあんた、俺をここにぶち込んだ奴のことを知っているか?」


 事情聴取は続く。


「たしかに俺は加藤と揉めることはあったが、殺したのは俺じゃんねぇゼ。誰かが俺を嵌めようとしているんだ」「私達が人権保護団体を動かし、この実験区画を実現させたんです。次の市長選挙には私達も働きかけ、ここをもっと良くするつもりです。今、刑務官を殺しては本末転倒です。今が一番重要な時期なんです」「囚人グループ? ああ、それなら一番危ないのは愛国者党の連中だろうな」「ここは血の気の多い刑務官が揃っていますからね。一番、揉めていたのは大陸系の奴等でしょう」「一番目障りなのはあのいんちき宗教のくそ野郎共だ。図書室で毎日集会を開きやがって鬱陶しい」「刑務官と一番揉めているのは貴桜会の連中だぜ。ナンバー2がほら、今、懲罰房に入れられているからな。緊張状態だ」


 事情聴取は続く。


「あんたにそれを話して何の得があるんだ? いいか、俺がここにいるのは政府に仕組まれたからだ。いいか、どんなことにも誰かの思惑って奴がある。陰謀だ。この事件も政府の陰謀の一つさ。俺達はいつも監視されている。気をつけろ。お前もずっと監視されている。チップだよ、チップだ。ここのところさ。頭の中にマイクロチップが埋め込まれているんだ。裁判が終わったあと、あいつらは健康診断と称して注射器を俺の腕に刺したんだ。その時にマイクロチップを埋め込まれたんだ。誰だってそうだ。ここにいる囚人はみんなチップが埋め込まれていて、頭の中を覗かれているんだ。違う、違う、腕の中じゃない、頭の中にあるんだ。いか、気をつけろ。今、この瞬間も俺達の会話をずっと聞き耳を立てている。誰も信じるんじゃないぞ、いいな」


 事情聴取は続く。


「必要なのは力だ。最後に頼ることが出来るのは暴力だけだ。ここの連中はみんなそれがわかっている。いいか、ここは外とは違う。外のルールは通用しない」「暴力? それはここでは日常茶飯事、挨拶みたいなものですよ」「これはすべて政府の陰謀だ。あの刑務官は政府の秘密を知ってしまったから殺されたんだ。しっ、大きい声を出すな。あいつらはどこにでもいるんだ。どこにでもだ」「時代は変わります。ここはもっと良くなります。犯罪者を罰するために隔離し社会から遠ざける時代は終わりました。犯罪者が更生し社会復帰出来るように促すアプローチこそが必要なんです。われわれは死刑撤廃のみならず、終身刑の撤廃も訴えていくつもりです」「ここでの行動は筒抜けだ。いいか、全部見られている、全部聞かれているんだ。これは俺の妄想じゃない。みんな気付いていないんだ」「ようこそ刑事さん。ようこそ東洲区重警備刑務所D区画へ。石の箱、灰色の迷宮、ここは心の写し鏡だ」


「ヒロ・イシグロって、あの作家のヒロ・イシグロか?」

 俺の言葉に、資料をめくりながら彼女はうなずく。

「はい。クォンタムボーイシリーズのあのヒロ・イシグロです」「妻を殺した、」「はい。末期がんの妻を知り合いの医者から手に入れた薬物で殺害しました」「大ファンだった。小説なんてくだらないがな、彼だけは特別だ。初めて読んだのは十五の時だった」「ええ、」「まだ生きてた?」「元気みたいですね」「彼がこの実験区画にいるのか」


 東方 「お会い出来て光栄です。あなたの本はほとんど読んでいます」

 イシグロ 「ここの連中は看守も含めて誰一人本など読みはしない」

 東方 「こんなところでというのは皮肉な話ですが、十五の時、初めて読んだのは『宇宙(そら)まで踊る』でした。主人公が刑務所から脱獄するシーンに夢中になった。陳腐な言葉ですが感動しました。自由を掴んだダニーは、俺には憧れだった」

 イシグロ 「あれはサクセスストーリーじゃない。彼は三日後に仮釈放が決まっていた。それなのに脱獄をして二日後に捕まり銃殺された。愚か者の話さ」

 東方 「十代で投獄されてからの三十年間、彼は過酷な刑務所で耐え続けた。あと三日、たった三日待てば彼は塀の外に出ることが出来た。ですが彼には計画があった。三十年間、毎日毎日考え続け綿密に立てた脱獄計画。それをどうしても試さずにはいられなかった」

 イシグロ 「愚かな男の悲劇の物語だ」

 東方 「悲劇? 冗談じゃない。刑務所に三十年間です。永遠とも思えるような悪夢の日々に彼が耐えてこられたのは希望があったからです。脱獄こそが彼の希望だった。彼はそのチャンスをずっと待っていた。自由を掴むことを夢見て、そんな希望一つを頼りに絶望的な毎日に耐えていたんです。そしてあの夜、嵐が来て刑務所の外の川が氾濫した時、彼の夢がかなう三十年に一度のチャンスが巡ってきたんです。だから、彼はやらずにはいられなかった。あの嵐の夜、世界は彼の物だった。そのあとにどんな人生が待っていたとしても、あの夜だけは誰も彼から奪うことは出来ない。あれはそういう物語だ。決して悲劇じゃない。希望の物語です」


 しばしの沈黙


 イシグロ 「君は、ボクシングの由来を知っているか?」

 東方 「ボクシング?」

 イシグロ 「ボックス、箱だ。握り込んだ拳を箱と呼んだんだ。だからボクシング。刑務所もまた箱と言える」

 東方 「箱?」

 イシグロ 「東洲区重警備刑務所という箱、D区画という箱、そしてこの部屋もまた箱だ。幾重にも重なった箱の中に私達は捕らえられている。石の箱、灰色の迷宮、心の写し鏡、そしてここにも、」


 ヒロ・イシグロが震える手で拳を握り、東方の方に向ける


 イシグロ 「箱の中で拳を握る。箱の中で箱を作る。この意味が、君にわかるか?」

 東方 「ボクシングに興味はありません」

 イシグロ 「握った拳の中に、一体何が入っていると思う? 君に、この箱を開けて中を覗く勇気があるかな?」


 ヒロ・イシグロがゆっくりと拳を開く


 特定刑務所第四実験区画囚人事情聴取一日目終了。

 所要時間:八時間十六分

 聴取人数:七十六名


 **********


 悪意は底知れない。

 囚人が口から吐き散らかすどす黒い吐息が充満した鉄方体の中に八時間も閉じ込められているととても正気じゃいられなくなる。結局わかったことはほとんどの囚人が何らかのグループに所属しているということ、各グループは大小関わらず他グループに悪感情を抱いているということ。緊張状態が常にあり各グループ内での結束が固いことは容易に想像出来るが、幸運だったのは監房の並びがグループごとにはなっておらずランダムであることだろう。監房から出ることが許可されていない現在は意思疎通を図ることは容易ではないだろうが、解放されればすぐにグループ同士で口裏を合わせかばい合うのは目に見えている。そうなればアリバイなんていくらでもでっち上げらるだろう。彼等が監房から出られない今が勝負だ、とは言え本日の取り調べで何か収穫があったかと言われれば残念ながら何の手がかりも得られていない。まったく。もううんざりだ。

 やめだと俺はイスの前足が浮くぐらいぐっと背もたれると背伸びをする。事情聴取を翌朝九時に再開すると告げ俺達はD区画をあとにする。再び厳しい身体検査を受け、地下の連絡通路を通る間、彼女は俺の横を歩きながら一言もしゃべらない。顔には疲れが浮かんでいる。連絡通路の中央管理棟側の鉄格子を出て預けていた携帯電話や財布を受け取る。金を抜いていないだろうなと毒づくが、刑務官は表情一つ変えずにいいえ、と答える。

「ご苦労様でした。出口までお送りします」

 中央管理棟から外に出るとすでに日は沈み肌寒い空気に俺は白い息を吐く。取り出したタバコに火もつけずに唇で挟んだまま足元の地面を見る。ぬかるんだ地面にいくつもの足跡が並んでいる。雨でも降ったのか。最終のバスは22時台ですという刑務官の言葉を思い出し腕時計を見る。バスは一時間に一本だったな。俺は足元の濡れた地面を蹴る。真っ黒い濡れた地面に街灯の灯りが点々と反射している。正門をくぐり、背中で扉が閉じる音を聞いたところで俺はタバコに火をつける。思いっきり煙を吸い込む自傷行為のあと、煙を吐き出しながら俺は横に立つ頭一つ分は背の低い少女にたずねる。「お前、これからどうするんだ? どこかホテルでもとっているのか」「市警察に泊れるように手配しています。車があれば東方さんをお送りするんですが」「冗談はよせ、俺を殺す気か?」「あれからもう二年ですよ。これでも運転は得意なんです」「誰が信じるんだそんなこと」「二年前のこと、まだ根に持っています?」「お前の運転で俺は死にかけたんだぞ」

 正門から百メートルほど離れたところにバス停を見つけ、俺達は屋根のついた待合所に並んで座る。俺は口から煙を吐きながら、人気のない道路と、延々と続いている街灯をぼんやりと眺める。「東方さんの名前ってヒガシガタヒアキじゃないですか」と彼女が唐突に言い、俺は無言で答える。「でもみんなアキラって呼んでましたよね。首都警察に戻って初めて本名を知りましたよ」「嫌いなんだよ」俺はつぶやくように言う。「いい名前じゃないですか」「明日に背を向けているから日明、たしかに俺にぴったりな名前だな」「女の子みたいな名前で子供の頃いじめられたとか?」こいつはデリカシーを首都警に置いてきたらしい。「理由はない。ただ響きが嫌いなだけだ」「そうやって自分の名前を軽んじるから他人の名前にも無頓着になるんですよ」そう言うと彼女はぐいっとこちらに体を向けて強い口調で言う。「東方さん。言っておきますけど名前というものは他人から一方的に与えられたものだとしてもその名前で生きているうちにその人の人格形成やアイデンティティと深く結びついているものなんです。名前を覚えないということはその人の人格を軽んじていることになります」「言っている意味がわからん」「要するに名前を覚えないということはその人に興味がないということです」「正解だな。水沼キリコ」「トウコです。わざと言っているでしょう?」二年前からずっと、と彼女は唇を尖らせる。さあ、どうだかな。

 バスに揺られる間、俺達は無言でいた。四十五分間の沈黙のあと、俺達は市警察近くのバス停で降りる。刑務所前の不気味なまでの静寂と異なり、歩道にはたくさんの人が行き交い、その横を絶え間なく車が走り抜けていく。クラクションを鳴らされながら俺達は道路を横断し市警察のレンガ造りの建物に入る。彼女は懐かしむようにあたりをきょろきょろと見回しながら俺のあとに続く。

 市警察の正面玄関からまっすぐ進むと大きな階段があり、小走りで上がると捜査一課刑事部屋に続く廊下が現れる。もうすでに二十二時が過ぎようとしているのに仕事が終わるめどのたたない疲れ果てた刑事達があちこちでせわしなく動き回っている。刑事部屋に入ると二年前に十五歳の少女が迷い込んだ日のことを覚えていた連中が、懐かしい声を上げながら彼女の元に集まってくる。こいつ、そんなに人気者だったか?

「首都警察では随分出世したと聞いたぜ」大島が嬉しそうに言うと、その横で相棒の杉本も顔をほころばせている。都会に出て行った姪っ子が二年ぶりに田舎に帰ってきた気にでもなっているのかよ。「それにしてもお前、どうしてここにいるんだ?」

 え、と俺は思う。彼女を取り囲む連中から一歩、二歩離れたところでその言葉の意味を考える。D区画の事件のことをこいつらは知らないのか? 俺への捜査協力依頼は法務省から捜査一課に正式になされ、捜査一課長が承諾したとあの優男は言っていた。捜査一課長が了承したのはあくまで俺を生贄として差し出すことで、捜査一課その物は関わらせたくないということか。だが、D区画の事件を捜査一課の公式な捜査とすることを嫌うのは何故だ。

「何を騒がしくしている。仕事に戻れ」

 背の高い灰色のスーツの男が俺達の背後から現れ連中を一喝する。

 未未市警察捜査一課長、却園警視がぎろりと睨みをきかせると、刑事達は雲散霧消する。

「二人共、私の部屋に来い」

 どうやら答えを教えてくれるらしい。彼女と目が合うと俺は行くぞと顎で課長室を指し示す。「御厨課長のことは残念でした」と歩きながら彼女が言う。こいつがここにいた頃はまだ親父は健在だったな。「あれが新しい上司ですか?」「楽しくお話出来る相手じゃない」「上手くいってないんですね」「あいつと上手くいく奴はいない」そう告げると俺は扉をノックする。入れ、という短い言葉に扉を開けると机の向こうで腕組みをした課長が険しい顔でこちらを見ている。「扉を閉めろ」慌てて彼女が扉を閉じると、課長は俺達に向かって告げる。

「水沼警部、遠いところをご苦労。法務省からは、捜査中のこちらでの生活をサポートするよう依頼されている。市警察内に宿直室は用意しているが、捜査が長引くようであれば寮の一室を手配する」「お気遣いありがとうございます。ですが、実家もありますので」「そうか、君はこの街の出身だったな。ここで研修したのなら市警察の勝手もわかっているだろう。ロッカーと机は用意する。好きに使いたまえ」「ありがとうございます」「君の行動を制限するつもりはないが、事件については捜査一課の面々には他言無用だ」ようやく本題か。俺は扉にもたれ掛かり腕組みをしたまま課長にたずねる。「どうして連中には事件のことを伏せているんです?」「D区画は政府機関だ。捜査に関する情報はすべて機密であり、元より捜査情報を共有する権限はわれわれにはない」「とはいえ、捜査一課に対する正式な捜査協力でしょう?」「正式だが、公式ではない」何の言葉遊びだ? 「事件そのものが公式でない以上、捜査一課への捜査協力も非公式、ということですね」彼女が言うと課長は表情を変えずに、そういうことだと答える。非公式であるということは事件そのものが存在していないということだ。それが法務省の意向であり、法務省が警察委員会に入り込んでいる以上、市警察本部もその方針に従うしかない。D区画の刑務官殺害事件など起きてはいないし、そんな事件の捜査など行われてはいない。それが捜査一課の見解だ。

 課長は当直室の鍵を机の上に置くと自由に使え、と告げる。「話は以上だ。質問はあるか? あってもするな。二人共、さっさと出ていけ」

 彼女はぐいっとずり下がった眼鏡を押し上げにっこりと笑う。

「手厚いご対応、心から感謝いたします、却園警視」

 一礼すると彼女は部屋から出ていき、俺も小さく頭を振るとそのあとに続く。扉を閉じようとした俺の背中に課長が追い打ちをかけるように言う。「非公式な捜査とはいえ、捜査一課の名前にこれ以上泥を塗るようなことがあれば、貴様の居場所はないと思え」「心得ていますよ」俺は唇を鳴らすと、扉を閉じる。

 課長室から出た俺に、彼女がくるくると指で鍵を回しながら言う。

「それじゃあ、東方さん。明日の朝、八時にここで会いましょう」

 背筋を伸ばして敬礼してみせ、それじゃあ失礼しまーすと彼女は軽やかな足取りで刑事部屋から出ていく。阿呆が。そんな風にはしゃいで見せても不安は隠し切れていない。この捜査が非公式だということは、援軍は期待出来ないということだ。俺達に突きつけられたのは、刑務官達の協力も捜査一課の支援もない中で、あの悪意の渦を泳ぎ続けなければならないということだ。悪意に抗うために必死に笑ってみせる十五歳の少女の背中を見送りながら、俺は無性にタバコが吸いたくなる。

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