第7話 水沼桐子

【THREE】


 未未市はこの国の東の果ての半島部に位置している。東側の千間川、西側の五月川、南側の末末湾によって囲まれ、周辺都市とは東西の一級河川をまたぐ複数の橋によって繋がっている。未未市は戦後に人工的に設計された四大政府直轄都市の一つであり、市の中央には巨大な人工的な公園の中に、市庁舎、中央裁判所、市警察本部、消防本部などの公共機関が集められた地区が設置され、そこから東西、南北に直線をひいて四つの行政区に分けられている。十字によって区切られた四つの行政区(右上から時計回りに東洲区、高白区、水王区、彩楼区)は二度に渡る政府主導の再開発計画により機能が振り分けられており、東洲区には主に工業団地や機械工場が誘致され、高白区には証券会社や銀行が並ぶ金融街が作られ、水王区には巨大な劇場や美術館などの文化的施設が集められ、彩楼区は高級住宅地と大学、研究所の中心地となっている。

 政府主導の再開発計画のたびに未未市は大きく発展してきたが、約十年前に行われた第二次再開発計画ではその途中で計画が凍結される憂き目にあう。再開発事業を巡る巨額の裏金と不正入札に関与したことで当時の市長が告発され、政府が謝罪する事態にまで発展した第二次再開発計画は現在も無期限の凍結中となっている。

 第二次再開発計画は数年間かけて全部で四つの工期にわけられていたが、計画の凍結は最終の第四期、すなわち東洲区の再開発中に起こり、東洲区のあちこちで大規模な工事が行われている途中での計画中断は、取り壊し途中の廃墟や、テナントや企業が撤退し放棄された無人のビル群を産み出すことになり、経済状況の悪化と犯罪件数の増加から東洲区では人口の流出が続き、忘れられた街と呼称されるようになる。

 一連の市長の汚職事件と再開発計画の頓挫は未未市に暗い影を落とし、地図上はまるで巨大な十字架が描かれる宗教的意匠になぞらえて、××市が転じて罰罰市と揶揄されることも少なくない。


 **********


 まさか、そんな。

 水沼、桐子?

 彼女の姿を見た瞬間、俺は二年前に立ち返る。

 自分がまだ殺人課刑事という仕事を盲目的に信じることが出来た若く美しい季節。刑事部屋の喧騒の中で分厚い前髪に光の輪が浮かんだおかっぱ頭の少女がダンボール箱を抱えてやってきたあの日。あの頃とまったく変わらない彼女の姿に俺は否応なく忘れたはずの時間に立ち返る。

「水沼、桐子」

「東方さん」

 あの日の続きをしようというのか? 俺は思わず彼女の方へと歩み寄ろうとして立ち止まる。彼女の足元に広がる黒々とした血痕に、俺は現実に引き戻される。ここは殺人事件現場。そして俺はその捜査をするためにここに来た。俺はここが現実の続きだと確認するように足元の古びたローファーを見る。大丈夫、俺はちゃんと自分の足で立っている。それから彼女をもう一度見る。目が合うと、彼女はじっと俺の方を向いたままにっこりと笑い一礼する。

「法務省直轄特定刑務所管理委員会より派遣されました特別捜査官の水沼桐子警部です」

「未未市警察捜査一課東方警部補です」

 恭しく慇懃に頭を下げたあと、彼女はわざとらしく敬礼をしてみせ、それから小声で「よろしくでーす」とふざけた調子で言うものだから俺は何だか妙にいらついて盛大に舌打ちをする。

「お二人はお知合いですか?」

 鰐男がたずねるが俺達はほぼ同時にいいえと否定する。それから彼女は、それでは早速事件の話をしましょうと手帳をめくる。困惑を隠すように俺は頭を振る。とにかく今は事件、事件だ。集中しろ。

「殺害されたのは加藤貞夫四十二歳、昨日D区画の夜勤勤務者でした」それはもう聞いた。「D区画での夜勤者は全部で六名、通常は二人一組で勤務に当たります」それはもう聞いた。「D区画の三カ所のエリアを三組が交代で担当します」「それはもう聞いた。被害者と相棒が管理エリアにいたのが二十三時から翌三時までの間ということも、交代時刻になっても姿を現さず全員で捜索してこの図書室で殺害されていた被害者を発見したということも、もう聞いた。続き」俺は指を回しながら本題まで早回しを要求する。おっけーです、と彼女は言い、手帳をめくる。「被害者の死亡推定時刻は二十四時から一時の間、背部に複数カ所の刺創を認めました。死因は多臓器損傷による失血死です」複数カ所の刺殺、余程恨みを買ったらしい。「凶器は?」「現場に残されていました」彼女は近くの机の上に置かれていたファイルを手に取る。同じ机の上には何冊かの本が積み上げられている。俺は手渡されたファイルをめくる。ここに来るまでに見た捜査資料に追加するように、様々な証拠写真や現場写真が収められており、その中の一枚に、生々しい血液が付着したナイフの写真がある。

「手製、か?」「はい。金属板を削って作った粗雑な物です」「凶器から手がかりは?」俺の問いに鰐男がこれはですね、と口を挟む。「囚人達が喧嘩で使用する手製のナイフによく似ています」手製のナイフか。「刑務作業でナイフを作れるような器具を扱っているのか?」鰐男はぶんぶんと首を振り否定する。「いいえ。D区画ではプログラミングなどの出所後の社会復帰支援のための職業訓練が主であり、一般囚人監房区画で行われているような木工作業や金属加工などの刑務作業はありません」だとすると、手に入れた金属片をそれこそコンクリ―トの壁か何かで手作業で削って作ったのだろうか。「凶器から犯人を絞り込むのは難しいでしょうね」と彼女が言う。「先端が折れているな」俺が写真を指差すと、彼女は俺の方へとやって来て、背伸びしてページを覗き込む。「気付いてなかったのか?」「まさか。ここを見て下さい」そう言って彼女は別のページに印刷された写真を指差す。「遺体のCT写真です。折れた先端が脊椎に刺さったまま残っています。ナイフの出来は良くないですね」「近い」「近い、何がです?」「お前だ。近寄るな」「もしかして照れてます?」俺は彼女の鼻先でファイルを乱暴に閉じると、片眉を吊り上げながら彼女にたずねる。「凶器から指紋は?」「犯行後に拭き取ったあとがありました。ほんと、」そう言うと彼女は唇を尖らせる。「ざーんねん」

 戸惑いを隠すように俺はゆっくりと歩き出す。失ってしまったはずの美しい季節に迷い込んでしまったかのような錯覚を振り払うように、俺は事件について考える。

「遺体発見時、被害者の背中にはナイフが刺さっていた。犯人はわざわざ凶器を現場に残していったのか?」血痕の横に立ち尽くしたまま彼女は答える。「はい。ここは刑務所ですから凶器の処分は難しいと思います。監房内の捜索や身体検査で凶器が出れば犯人だと自供するようなものですし、罪を着せるために誰かの監房内に隠したくとも、夜間ではみんな監房内にいるためそれも難しい。死体を隠すことも出来ない以上、遅からず持ち物検査や身体検査が行われるのは想定の範囲内だったはずです。とすると凶器を現場に残すのが一番安全だというのは理にかなっています。ただ、」そう言うと彼女は尖らせた唇に右手の人差し指を当てる。「囚人が喧嘩に使うような手製のナイフをこれみよがしに被害者の背中に突き立てておくというのは、ちょっとあからさま過ぎる気がしますけど」

 彼女の言葉に鰐男がゼンマイ仕掛けのように飛び跳ねる。

「どういう意味ですか? あなたは、これが囚人による犯行だと思わせるための偽装工作だとおっしゃるのですか?」

 鰐男の言葉に彼女はうーん、と首をかしげたあと、「はい」とにこやかにうなずく。

 その態度を挑発だと受け取った鰐男は顔を真っ赤にして短い両手を激しく振り回す。

「刑事さん、聞きましたか? 彼女は所詮、法務省側の人間。私達の気持ちなどわからんのですよ。家族が殺されたというのに、それなのに私達の中に犯人がいるなんて、」そう言うと鰐男は大粒の涙をよよよと流す。「ひどすぎるうう」体中の水分が全部流れ出すんじゃないかというほどの洪水に、彼女は呆気に取られ固まってしまう。初めて見たのなら仕方がない。

「その爬虫類の肩を持つわけじゃないがな、」俺は仕方なく仲裁に入るが、鰐男は私のことですかと素っ頓狂な声を上げる。当然無視。「刑務官が犯人である可能性は除外してもいい」俺の言葉に彼女はへえと嬉しそうな表情を浮かべる。「でも、捜査は始まったばかりですし、今は全員を疑うべきで予断を持つべきではありませんよ」生意気な態度だが俺は大人だから十五歳の少女の態度を一々気にはしない。代わりに俺は努めて冷静に説明する。「まず一つ。ここは刑務所だ。外部から物を持ち込むのが最も難しい犯行現場だとも言える。凶器を持ち込むよりも刑務所内で調達する方が現実的だとすると、凶器の選択肢は多くない。犯人が誰であろうと、刑務所内で調達出来るナイフを使うことは不自然じゃない」「なるほど、それには同意します」俺は鰐男にたずねる。「昨夜、囚人がナイフの不法所持をしていたという報告はありましたか?」いいえと鰐男は首を振る。「とすると刑務官が被害者と揉め事を起こした時、偶然その夜押収したナイフで刺したという可能性は除外出来る。前もって用意していた凶器を使用したのであれば、これは計画的な殺人だ」「それにも同意します」「計画的な犯行なら、刑務官が犯人であるはずがない。数時間経てば勤務が終わるのに、どうしてわざわざ刑務所中で殺すんだ?」

 俺の言葉に彼女はしばらく考え込んだあと、「激情にかられたのかも、」とつぶやく。「

 たまたま過去に囚人から押収したナイフをどこかに隠し持っていて、激情にかられてその凶器を取りに行ったという可能性はありませんか?」「却下。押収したナイフを刑務所内に隠し持つ理由がない」「護身用ですよ。ここにいるのは凶悪犯ばかりですから」「却下。刑務官は腰に立派な装備品をぶら下げている。粗悪なナイフを隠し持つ意味がない」「誰かを殺した時に、その罪を囚人になすりつけるために持っていたのかも」「どうしてめげないんだ? 囚人に罪を着せたいならどうして囚人が自由に行動出来る日中に殺さないんだ」「たしかに」とにかく、「刑務官が激情に駆られたという線は捨てろ。そして刑務官が計画的に殺したというのなら、何故昨夜、刑務所内で殺さなければならなかったのか、その理由が必要だ」「ではそれを見つけましょう」

 ちょっと待って下さい。鰐男は納得がいかないといった様子で彼女に再び噛みつく。

「あなたは私の部下の犯行だと決めつけているのですか?」

「え、だって背中だけを刺されているんですよ。揉み合いの最中に刺したのなら普通はお腹を刺しますし、相手は屈強な男性です。抵抗した跡や争った跡が残るはずです。それがないのは、被害者の隙をついて近寄り背後から致命的な一撃を与えたことになります。犯行時刻は夜中です。監房にいるはずの囚人に向かって背中を向けていたはずがありません」

「気付かれずに近付いただけでしょう」鰐男は反論するが、彼女は人差し指を立てて言う。「あり得ません。だってここ図書室ですから。刑務官のカードキーがないと入れません」

 彼女の言葉に鰐男は唸り声を上げて黙り込む。一見、彼女の言葉は正しいように聞こえるが俺には納得出来ない点がある。

「突然犯人に襲われ図書室に逃げ込んだ可能性はある。被害者が開けた扉から被害者に続いて犯人も入り、背後から刺したとしたらどうだ?」

 なるほど。彼女は考え込む素振りのあと、小さく首を振る。「やっぱりあり得ません」

 それから彼女はしゃがみ込むと血痕の近くに散らばっていた本を拾い上げ、俺に向かってずいと突き出す。

「これ、どう思います?」「知らん、読んだことない」「本の中身はどうでもいいです。背表紙の下のシール、図書室の整理番号が書かれています」「そうだな」「床に落ちている本の整理番号はすべてCから始まっています」そして彼女は被害者が倒れていたすぐ先の本棚を見上げる。本棚の上には大きく『C』と書かれたプレートが貼られている。「遺体近くに落ちていた本はすべて、この本棚の本なんです」俺は彼女から本を受け取ると本棚の前まで歩いていく。「襲われた際に本棚にぶつかって落ちたのか?」「いいえ。本棚に血痕など被害者が接触した形跡はありませんでした。本は本棚から落ちたんじゃありません。本棚に戻されるところだったんです」そう言うと彼女は先程ファイルが置いてあった机の方へと歩いていく。「この机の上には他に八冊の本が重ねて置いてありました」彼女はくるりと積み重なった本の背表紙を俺の方に向ける。「上からKで始まる本が四冊、Nが二冊、そしてBとFが一冊ずつあります。棚の整理番号ごとに並べられているということは、被害者は本をしまおうとしていたと考えるのが自然です。この推理どう思います?」

「それだけ自信満々で話しておいて、どうせすでに裏は取っているんだろう?」

「正解です。昨夜の夜勤帯勤務者の証言によりますと、二十四時頃に一度、被害者は一階の監房エリアに上がって来ているんです。図書室の返却BOXの中の本を片付けると言い、本を抱えてまた地下に下りていったそうです」

 被害者の最終生存確認時刻が二十四時というのはその時か。そして、被害者が本を片付けようとしていたことは確定的らしい。

「ちなみに、」彼女は鰐男にたずねる。「刑務官の持つカードキーの管理は厳重にされていますよね」「もちろんです。出勤時はD区画に入る前に書類にサインしカードキーを受け取り、勤務を終えると再びサインしカードキーを返却します。これまでにカードキーの紛失の報告はありません」「事情聴取の際に、夜勤の皆さんのカードキーは確認しましたし、被害者の首からもカードキーの入ったパスが下げられていました。昨夜この部屋に入ることが出来たのは、やはり刑務官だけです」彼女の言葉に鰐男がぐうと唸る。「あ、でも囚人がカードキーを刑務官から盗んで被害者を殺害後にまた刑務官に気付かれずにカードキーを返すなんてことが出来れば囚人の単独犯もあり得ますが、そんないい加減な管理されています?」挑発的な物言いに鰐男は顔を真っ赤にして黙り込む。

 彼女は正しい。だが俺は別の可能性を考える。刑務官と囚人が共犯で、カードキーを手渡したのだとしたら。被害者は監房エリアから本を持ち出している。監房エリアにいた誰もが、被害者が図書室にいることを知ることが出来たと考えるべきだろう。もし監房エリアの刑務官が囚人を使って殺害させたのであれば。カードキーを手渡し、監房エリアから出ていくのを黙認すれば犯行は可能だ。

 いや、そんなことよりもまず、本当に囚人は図書室に入ることが出来なかったのか、それをたしかめるべきだろう。俺は扉の方へと歩いていくと取っ手に手をかける。一度閉じた扉には鍵がかかっている。

「取っ手の横のつまみを捻って下さい。部屋の内側からはカードキーがなくとも鍵が開きます」鰐男の言葉に従い俺はつまみを回す。かちっと開錠の音がして俺は取っ手を握る手に力を込める。扉を半分ほど開けたところで俺は手を放す。日中は囚人が出入り出来るように扉は開けっ放しになっていると言っていた。見たところ特別なストッパーなどはない。何よりもこの部屋に入った時、あの鰐男はわざわざ扉を閉じていた。つまり図書室の扉は手を離しても勝手に閉まってしまうような構造にはなっていない、と思っていたが案の定手を離した扉は開いたままその場所にとどまっている。

「床に落ちている三冊、そして机の上の八冊、被害者は少なくとも十一冊の本を抱えて監房エリアから下りてきた。監房エリアの一階には図書室の返却ボックスと書かれたワゴンが置かれたままになっていた。D区画の見取り図にはたしか貨物用のエレベーターとあったはずだが、本を運搬したあとカートだけをもう一度管理エリアに戻しに来たのか?」俺の問いにいいえと彼女は首を振る。「刑務官の話では、本だけを抱えて階段を下りていったようです」「だが十一冊を抱えていたとなると当然両手を使う。図書室の扉はかなり重い。いったん床に本を置いて扉を開けたのか、あるいは扉に押し付けるようにして片手で本を持ち首から下げたカードキーで開錠し、本を両手で持ち直して体を使って扉を開けて図書室の中に入ったのかのどちらかだろう。いずれにせよ両手に本を抱えた状態で図書室の扉を通過したあと、わざわざ苦労してまた扉を閉じるより、そのまま扉を開けっぱなしにしておいたと考える方が自然だ。そして扉が開けっ放しになっていたのなら、囚人でも被害者に気付かれずに近付くことが出来たことになる」

 彼女は唇を尖らせたあと、ですが、と反論する。

「被害者はこの場所で本棚に本をしまっていたところを襲われています。入口からここまでは数メートル。いくら片付けに夢中になっていたとしても気配でわかるでしょうし、一目でも囚人の姿を確認すれば当然警戒して背中を向けたままにはしなかったはずです」

「床にはカーペットも敷かれていて足音はほとんどしない。現にお前は俺が図書室に入って来た時、声をかけるまで本棚の方を向いていただろう」

 俺の言葉に彼女はきょとんした表情を浮かべ、それから数分前のことを思い出したのか、にっこりと笑って言う。「ですね」

 話はこれで振り出しに戻る。

 刑務官であれ、囚人であれ、犯行は可能だった。

「整理しよう」俺は彼女と爬虫類に向かって言う。「被害者が監房エリアから本を持ち出したのであれば、監房エリアにいる不特定多数が、被害者が図書室にいると知ることが出来た。また図書室の扉が開けっ放しになっていた可能性がある以上、犯行現場から犯人を絞り込むのは難しい。昨夜、囚人からナイフの押収はなかったという証言を信じるならば、これは計画的な犯行だ。犯人は隠し持っていたナイフと明確な殺意を持って図書室にやってきた、ここまではいいな?」

 ここで、「はい」と彼女が手を上げる。「無差別殺人の可能性はどうですか? ナイフを手に監房を抜け出た囚人は誰でもいいから最初に目についた刑務官を殺害するつもりだった。偶然、図書室の扉が開いていたところに通りかかり被害者を刺した、とか?」「却下だ。最初に目にした刑務官を襲うならどうして監房エリアの刑務官を襲わない?」「ですよね。ほら、一応あらゆる可能性を考える必要がありますので。続けて下さい」

 まったく。俺はふんと鼻を鳴らすと話を戻す。

「次に考えるべきは、昨夜犯行が行われた理由だ。刑務官であるならば刑務所の外で殺害することが可能なのに、何故昨夜でなければならなかったのか」「囚人にしても同じことが言えます。たしかに囚人なら刑務所内でしか殺害出来ませんが、夜間に違法な武器を所持して監房から抜け出すのを見咎められれば懲罰房は免れません。しかも図書室の扉が開いているかどうかは賭けでしょうしリスクに見合いません。殺すなら日中の方が簡単なはずです」そうだな。仮に刑務官と囚人が共犯であっても同じことだろう。「つまり刑務官だろうが囚人だろうが、昨夜、計画的に被害者を殺害するには余程の理由が必要となる。昨夜でなければならない理由があったはずだ」

 俺の言葉に彼女はうなずく。

「例えば被害者が別の刑務所への異動が予定されていて、これが最後のチャンスだったという可能性はありませんか?」彼女の質問に鰐男はいいえと首を振る。「加藤君の異動の話はありませんでした」「でも何か引き金があったような気がします。元々抱いていた殺意を後押しする何か。昨夜、被害者と揉め事があったということはありませんか?」「囚人と揉め事があったのだとすると監房エリアの監視中しかあり得ないが、そうなれば少なくとも相棒は知っているはずだし、次の監房エリアの担当刑務官にも問題があると伝えたはずだな。被害者が昨夜、囚人と揉めたという報告はあったか?」鰐男はいいえと首を振る。「囚人でないのなら、やっぱり刑務官と揉めたんじゃないですか?」あくまで彼女は刑務官が犯人である可能性を追っているのか。「夜勤帯は基本的に二人一組で行動している。刑務官同士で揉めれば、当然お互いの相棒の知るところになる。そういう証言は、」再び鰐男はいいえと首を振る。「被害者が誰にも知らないところで揉めたとするとその相手は相棒しかあり得ない。だが犯行時刻、地下にいたのは自分と被害者しかいない状況で犯行に及んだとするとあまりに直情的だ。自分の武器で殺害したならまだしも、隠し持っていた囚人手製のナイフを持ち出す冷静さがあるのなら、自分が最も疑われる状況下で殺害するとは思えない。刑務官同士で揉め事があった可能性は低いだろうな」

 つまり、もっと特殊な理由があったはずだ。昨夜でなければならなかった理由。犯人を殺人に駆り立てた理由。彼女も黙って考え込んでいる。すぐに答えが出るとは思えない。だがとっかかりとしては十分だろう。俺は二人に向かって言う。

「知りたいことは三つだ。昨夜、被害者が刑務官あるいは囚人と揉め事があったかどうか、囚人が監房から抜け出すことは本当に可能だったかどうか、そして、昨夜、被害者を殺害しなければならなかった理由とは何かだ。そんな物があればだが」

 俺は鰐男に向かって言う。「夜勤勤務者はまだ刑務所内にいるんですよね」

「はい、全員を待機させています」

「だったら全員雁首揃えてもらうのが一番手っ取り早いな。異論はあるか?」

 彼女にたずねると、人差し指で唇をとんとんとノックしたあと、「いいんじゃない」と能天気に言う。

 俺は鰐男に昨夜の夜勤勤務者を連れてくるように言う。鰐男はわかりましたと背筋を伸ばすと跳ねるように小走りで扉に向かい、開けっ放しになっている扉から廊下に飛び出していく。

 そして被害者の大量の血痕が床に残る図書室に二人の刑事は取り残される。

 鰐男の足音が遠ざかると、俺は彼女の方を向く。まるで十五歳の少女のようにしか見えない法務省から来た特別捜査官が唇を尖らせながら立っている。目が合うと俺は一度うなずき、それから彼女の名前を呼ぶ。

「水沼、キリコ」

「トウコです」

「どっちでもいい」

 俺の言葉に彼女は鼻の頭にしわをよせたあと、「ま、いっか」と言う。

 それから彼女は心底不思議そうに俺の顔を覗き込む。

「こんなところで何をしているんですか、東方さん」「それはこっちのセリフだ。研修中にしょっちゅう泣きべそをかいていたお前が大した出世だな。首都警察に戻って今では立派な法務省の犬だ」「泣いたことはありませんが、素直にありがとうございます」「褒めてない」「褒めましたよ」「褒めてない」「褒めたくせに。こんなところで何をしているんです?」「知らん。頼まれたから来ただけで俺の本意じゃない」「東方さんとまた殺人事件の捜査が出来るなんて光栄です」「嫌味か?」「もしかして、わたしの方が階級が上になったので怒ってます?」「いつからそんなにおしゃべりになった?」「女性は三日会わないと変わるものですよ」「いつまで経っても十五歳にしか見えない」「わたしに会えてうれしいって素直に認めたらどうです?」「口数が多いのは緊張している証拠だぜ」俺は唇を鳴らすと彼女を見る。「何か隠しているな?」

 両目を見開いて俺を見たあと、彼女は小さくうなずき、さすがですねと笑う。

「東方さん」水沼は鼻先までずり下がった眼鏡をくいっと押し上げると相貌を引き締める。「わたしはこの二年間、法務省直轄特定刑務所管理委員会直属の特別捜査官の任務に従事してきました。これまでは首都圏の三つの特定刑務所での事件の捜査をしてきましたが、ここは異常です。東洲区重警備刑務所D区画は、他の実験区画とは明らかに違います」

 ほおと俺は机に寄りかかると、十五歳の少女をまじまじと見る。

「具体的には?」

「東方さんはすでに監房エリアを見ましたか?」

「ああ。囚人の不満が爆発しそうだというので、最初に案内されたな」

「首都圏にこれまで設置された三つの特定刑務所は、軽犯罪や詐欺罪、政治犯など知能は高くとも暴力犯罪とは縁のない比較的社会性が保たれている囚人集団で構成されていました。それでもかなり細かい厳密なガイドラインが設定され運営されていました。首都圏で法務省の監視も行き届いた状況で管理されていましたが、ここは首都圏から遠い上、実験区画初めての重罪凶悪犯への社会実験が行われています。そんな不安定な状況下で、夜間にも監房に鍵がかけられないなんて初めての事態です」

 何だと。俺は思わず眉をひそめて彼女に問う。どういうことだ。監房に鍵をかけないのは水曜日計画とかいうふざけた名前の社会実験の重要な理念の一つじゃなかったのか。

「監房に鍵をかけないのは法務省の意向じゃないのか?」

「法務省の許可を得ているのはたしかでしょうが、実験区画の共通ガイドラインには記載されていません。施設ごとに刑務官の人員など異なりますから、共通ガイドラインをベースに、細かい規定は刑務所ごとに法務省と調整しています」

「つまり、夜間に監房に鍵をかけないというのはこのD区画からの提案で、そんな馬鹿げた申し出を法務省も許可したということか?」

「おそらくは。馬鹿な決定とは思いますが、囚人の人権が拡大する方向の申請であれば簡単に許可が下りると聞いています。刑務所自体が管理出来ると考えているであれば、法務省としては反対する理由はありませんから」

 だがそうなると話は大分変わってくる。あの爬虫類はこのD区画の現状は法務省から押し付けられたかのように言っていたが、単に仲間が殺された責任を法務省に転嫁したかっただけなのだろうか。あるいは、

「こんな凶悪犯監房の鍵をかけないようにするなんて異常です。この先も想定を超えたことが起きる可能性は覚悟しておいた方がいいと思います」

「何が言いたい?」

「捜査中のわたし達の安全は、何も保障されていないということです」

 なるほどな。

 俺は思わずため息を一つつく。まったく。休暇明けの身には荷が重過ぎる。

「嫌な予感がしてきたよ」

「わたしは朝からずっとしています。わたし達はまさに、死なばもろとも、ですね」

 不吉なことを笑いながら言い、彼女はぺこりと頭を下げてみせる。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 よろしくお願いします。パンツスーツにリュックを背負ったおかっぱ頭の小柄な少女が、未未市警察の刑事部屋で深々と頭を下げたのは二年ほど前のことだった。首都警察から来た三カ月間限定の研修生。この国最初の自治体警察であり、この国で最も過酷とも称される未未市警察捜査一課で彼女は殺人課刑事としての産声を上げ、そして首都警察へと帰っていった。その後の彼女はその能力をいかんなく発揮し、元々上級国家公務員試験一種合格の幹部候補生ということも相まって、あっという間に出世の階段を駆け上がったと風の噂に聞いていた。たった二年前だというのに十年も昔のように感じられる。あの頃の俺は若く殺人課刑事の仕事を信じていた。だが仲間の堕落を目にし、殺人課刑事の仕事を信じられなくなった俺は、それでも仕事を辞められずに、生きているのか死んでいるのかわからない日々を過ごしている。もうずっと忘れていたはずだったのだ。それなのに。

 水沼桐子と俺はこうして再び出会う。

 まるで悪い冗談だな。

 俺がそうつぶやくと、ほんとにね、と彼女が笑った気がした。


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