第6話 D区画

 幅二メートル、高さ二メートルの空間がまっ直ぐに伸びる連絡通路を歩き出すとすぐに、背中で鉄格子が閉まる音が聞こえる。しばらく歩いたあと俺は目の前の小柄な背中に、ずっと聞きたかったことをたずねる。

「これほど厳重に隔離しているのに、どうして監視カメラを設置しないんです?」

 俺の言葉に驚いたように鰐男は足を止めて振り返る。

「半年前の脱走事件の際に、当初囚人がD区画内に隠れているのではないかと捜索していたと聞きました。監視カメラがあればもっと早く結論が出ていたはずですし、今回の件にしても夜間に監房を抜け出した囚人がわかればすぐに事件は解決です。賭けてもいいがD区画に監視カメラは設置されていない。何故です?」

「さすがですねえ東方刑事」鰐男がにんまりと笑う。「したくとも、D区画には監視カメラは設置出来ないんですよ」

「物理的に? それとも予算の都合でも」

「D区画は管理委員会が定める囚人の人権保護規定に則って運営されています。人権保護の観点から、ここでは囚人の同意なく彼等を撮影することは、不可能なんです」

 当然、囚人達が同意するはずがない。だが監房に鍵をかけず監視カメラもないのなら、事実上囚人達は野放しだ。そこで何が起きても自らが招いた災厄に違いない。

 しばらく歩くと二つ目の鉄格子に辿り着く。今度は鰐男が鉄格子横のセンサーに自らのカードキーをかざすとけたたましいブザー音が鳴り響き、鉄格子が開く。D区画は円筒状の建物だが、鉄格子の先は緩いカーブを描く廊下が左右に延びている。

「ここは地下二階、管理エリアの一番下の階になります。現場は地下一階の図書室です」

 ぐるりと建物の外周を回る廊下に沿って、円筒の内側に部屋が並んでいるらしい。向かって左側に廊下を歩いていく。捜査資料にあった見取り図によると、連絡通路出口を時計の十二時として、六時の位置に階段があり、そこから地下一階、そして地上の監房エリアに上がれるようになっている。実際廊下を歩いてみると思ったより円筒は大きい。

「地下二階には刑務官の控室、備品室、洗濯室、ボイラー室などがあり、こちらは囚人達が立ち入ることはありません。地下一階が主に囚人が利用する図書室、礼拝堂、食堂、ジム、シャワー室が配置されています」

「監房エリアから地下に下りる階段は、夜間でも素通り出来るんですか?」

「はい。ですが管理エリアのすべての部屋は夜間施錠されており、入るには刑務官の持つカードキーが必要になります。どうせ鍵がかかっていますし、監房を抜け出したことが発覚すれば懲罰房行きですから、夜中に出歩く囚人はいませんよ」

 鰐男は楽観的に言うが、事実夜中に管理エリアで刑務官が殺されたのだからその認識は改める必要がある。六時の場所に着いたのか右手側、円筒の内側に階段が現れる。階段を上がろうとしたところで、下りてきた刑務官と鉢合わせる。刑務官は鰐男に敬礼して言う。

「主任、監房エリアの問題はようやく片付きました」問題? 俺が聞き返すと刑務官ははい、と背筋を伸ばして答える。「三十分ほど前、囚人達が監房の鉄格子を一斉に叩き抗議の声を上げるという事態が発生しました。非常事態措置マニュアルに基づき、昨夜の事件発生後より監房は施錠されており、囚人達のフラストレーションは限界近くまで溜っていると思われます」

 監房に鍵をかける、それは普通のことなんだがな。

「困りましたねぇ」鰐男は俺を見上げて言う。「監房エリアの捜査が終わるまでは刑事さんの安全確保のために監房から出すべきではないと思うのですが、」そう言うと鰐男は目をぎょろぎょろと動かす。「もしよろしければ先に監房エリアを見ていかれますか? このままでは暴動が起きる危険性もありますし」

「暴動が起きたらどうなるんです?」

「万が一の時は、地上の監房エリアをロックダウンします。地上部分の電源を落としますと、通常は解放されている管理エリアへの階段入口の鉄格子が閉じ電子ロックがかかり、完全に地上部分が隔離されます。そうなると監房エリアの捜査どころではなくなってしまいますが、」

 厄介だな。これまで囚人に散々好き勝手させたおかげで、たった一日でも監房に閉じ込められるのは我慢出来ないらしい。囚人達の機嫌に捜査が左右されるのは気に入らないが、囚人が監房を抜け出して犯行に及んだ可能性が高い以上、監房エリアの捜査は必須だ。ロックダウンされれば捜査も足踏みすることになる。

「刑務官は武装しているんだろう? 囚人と間違って俺を撃ったりしないでくれよ」

「刑事さんは私達の家族です。銃口を向けることはあり得ませんよ」

「そう願いたいね」それから俺は小さく息を吐く。「監房エリアに行こう」



 階段を二階分上がると、ぱっと目の前の空間が開ける。

 そこは禍々しい巨大な筒状の構造体で、見上げると円筒の外壁に沿ってびっしりと監房が並んだ四階建ての吹き抜けの空間が広がっている。壁面を埋めつくす監房の前には円筒の内側に手すりのついた廊下がぐるりと回っており、円筒の十二時、三時、六時、九時の計四カ所に一階から四階までの廊下をつなぐ階段が設置されている。今、各階の廊下には銃を装備した刑務官達が、監房の中を監視するように歩いて回っている。囚人達は今のところ大人しくしているように見えるが。

 監房は二階から四階の壁面に沿って設置されており、一階フロアは囚人達が共同で過ごすラウンジのような空間が広がっている。中央には四角形のカウンターテーブルが置かれ、周囲を取り囲むように四人掛けの丸テーブルがいくつか置かれている。テーブルの上には誰かがこぼしたコーヒーの染みやチョコレートの包み紙が見える。壁の方を見れば図書室の返却ボックスと書かれた大きい箱状のワゴンや自動販売機があり、大きな柱には二カ所、テレビが吊り下げられている。俺はふと、壁際の一画に透明なガラス張りの空間を見つけ眉をひそめる。

「喫煙室まであるのか?」ガラス張りの空間の中には分煙機も見える。「未未市の公的機関内では全面的に喫煙は禁止されているはずだぜ」

「もちろん職員は禁止されています。喫煙が許可されているのは囚人だけですよ」

 あっそ。俺はもう驚かなくなっている。そのままテーブルの間を歩いていき、中央の四角く配置されたカウンターテーブルの中に入る。

「刑務官詰め所です。ここからだと監房エリア全体を見回すことが出来ます。夜勤帯はここから周囲を見上げる形で監視をしています」

 なるほど。俺はカウンターから監房を見上げる。見る人は見られる人。俺は監房の奥から注がれる無数の視線に気付く。自分達の自由を奪った者に対する敵意のこもった視線は居心地のいいものではない。

「監房は各階に二十四部屋、三階分で七十二部屋。各監房は囚人二人の相部屋になりますので最大百四十四名が収容可能です。D区画での実験企画は最長四十八カ月と定められています。三カ月に一度審査があり、重大な違法行為や病気、怪我などで実験の継続困難と判断された場合は、他の刑務所に移送され、新たな被験者が入所します。現在、D区画の収容人数は百六名、一般監房エリアに百一名と特別監房に五名が収監されています」

「特別監房はどこに?」

 あちらです、と鰐男が指し示す先に金属製の扉が見える。「扉の先で懲罰房や保護房のある別の建物とつながっています」

「格子を掴むな」

 突然怒鳴り声と共に、警棒で格子を叩く金属音が響き渡る。はっと顔を上げ音の方を向くと、刑務官が囚人に監房の奥に行くように命じている姿が見える。囚人達の不満はぐつぐつと煮えいつ沸騰するかわからない、そんな気配がひしひしとコンクリートの円筒の中に漂っている。

「夜間の監視は基本的にここから行い、一時間に一度は監房の前をすべて回って監房内を確認します」

 たしかにこの場所に立てば、四階の監房まですべて死角なく見回すことが出来るな。だが、「消灯後でも監視出来るんです?」

「消灯後も監房前の廊下の常夜灯はついていますので、監房から出れば気が付きます」

 それは多分事実だろう。監視がきちんと行われていればだが。

「これまでに夜間、囚人が監房から抜け出したことはありますか?」

 素朴な疑問だったが、鰐男は苦々しい表情を浮かべる。

「半年前の脱走事件が初めてです。もちろん刑務官に気付かれずに監房から出て、再び気付かれることなく監房に戻ることが可能であれば、私達の関知していないケースが存在した可能性もありますが」

 物理的には可能かどうか、まずはたしかめてみるか。

 俺は腕時計を見るとつぶやくように言う。

「用意、スタート」

「何です?」鰐男がたずねるが無視。俺は監房前の廊下を歩く刑務官をじっと観察する。十秒、二十秒、「あの、刑事さん?」俺は時計と刑務官との間を、視線を往復させながら、少し待て、と言う。二分十一、二分十二か、それから俺は鰐男に向かって言う。「今、見回りをしている刑務官が一度も足を止めずに監房前を一周するのに二分十二秒かかった。二階から四階まですべて見回ると七分から八分かかる。夜間、薄暗い監房内を観察しながら歩き、各階の移動も考えれば所要時間は約十分。一時間ごとに監房を回るなら、残りの五十分は二人でこの詰め所にいることになります」

 まあそうなりますかねえと鰐男が他人事のように言う。

「この詰め所から見えるのは監房の出入り口だけで、監房内までは見えません。消灯後なら尚更です。監房の見回りが一時間ごとなら、監房前を見回りが通り過ぎたあと、一時間は監房内にいなくても気付かれない」

「それはそうかもしれませんが、監房を出入りすればわかりますよ」

「ちゃんと監視していれば」

 俺はそう言うと詰め所のカウンターテーブルの上に乱雑に置かれている新聞や飲みかけのコーヒーカップを指差す。ウォークマンに水着姿の女性が表紙の雑誌。「こんな物が監視に必要とは思えませんがね」

 鰐男は大きな目をせわしなくぎょろつかせながら、それは、とつぶやいたあと喉からきゅっと音を立てる。

「刑務官が二人ここに揃っていれば、どちらか一人が居眠りをしていても囚人の出入りに気付く可能性は高い。ですが、一人が見回りをしている十分間なら、詰め所には監視は一人しかいない。その間に音楽を聴きながらコーヒーを飲み、裸の女性に夢中になっていれば見逃した可能性は否定出来ません」

 十分間で監房を抜け出し地下に下りて鍵のかかった図書室に入り刑務官を殺害してまた監房に戻ることが現実的かと言われれば、もちろんかなりの困難であることは間違いないが、物理的に不可能じゃない。それが確認出来ただけでもここに来た甲斐はあった。それにしても。俺は新聞を手に取り裏面を見るとはっと笑う。「クロスワードパズルを途中まで解いている。余程暇だったらしいですね」監房には鍵をかけず監視カメラを設置しない上に夜勤の監視もいい加減ときたら、まったく、犯人が誰であろうとどんなに被害者ぶろうと、責任の一端は間違いなく彼等にある。

 俺の冷ややかな視線に鰐男は短い手を振り回しながら必死に反論する。

「お言葉ですが、その新聞や雑誌は囚人がラウンジに忘れて行ったものを回収しただけでしょう。彼等は皆、真面目な刑務官です。いい加減な仕事をしたとは思えません」

 この男の立場ならまあ、そう言うしかない。だが仮に、監房エリアの監視が本当に機能していたのなら囚人が犯人ではあり得なくなり、必然的に犯人は夜勤帯の刑務官の中にいることになる。一方で囚人がここから抜け出して殺人を犯したのなら、それはつまりここの監視がざるだったことを意味し、自分達の怠惰が仲間の死をもたらしたことになる。どっちに転んでも彼等にとっては悪夢でしかない。

 俺はいま一度、クロスワードパズルが解きかけだった新聞に視線を落とすと、それを丸めてぽんぽんと肩を叩きながら鰐男に言う。

「まあ、実際の勤務がどうだったのかは夜勤者に直接聞くとして、見たいものは見れましたし、そろそろ現場に行きましょう」

 そう言うと、俺は監房からの視線が追うのを背中で感じながら、さっさと地下への階段の方へと歩いていく。慌てたように小走りに追いついてきた鰐男は、鼻息荒く俺に言う。

「ここの監視に穴があった可能性は認めます。しかしここは重罪犯が集められた実験区画で刑務官達は常に危険と隣り合わせです。部下達は皆、常日頃から過度の緊張とストレスにさらされています。夜勤達の勤務形態も法務省作成のガイドラインに則っていますが、そもそも二人でこの監房エリアを監視すること自体に無理があるんです。囚人が騒ぎ出し刑務官一人で対処出来なければ、応援が来る間は監視が中断されることになります。そもそも百パーセントの監視は不可能です」

「なるほど。昨夜、何か騒ぎがあったと?」

「その報告は受けていませんが、」

「それならば監視が出来てなきゃおかしいことになります」

「脱走事件以降、責任は現場に押し付けられ予算も削られています。人手が足りない中、必死に仕事をしている部下達を私は攻めようとは思いません」

 俺は階段を下りながら声を張る。

「だったら監房に鍵をかけろ。簡単なことだろう?」

「ですから、」鰐男は顔を真っ赤にして声を上げる。「それは法務省が定めたことで、私達はそれに従うしかないんですよ」

 俺は足を止めると鰐男を振り返る。ようやく本音が出たな。

「おたくらの言い分は理解出来ますがね、それを受け入れたなら同じことですよ」

 俺が冷淡に言うと、鰐男はぎゅうっと相貌を引き締め答える。

「刑事さん、私達は家族を失いました。ですが、死んだ加藤はあなたの家族でもあるはずです。お願いですから彼等を気遣って下さい。家族を失った彼等を責めるようなことは間違っても言わないで下さい」

「事情聴取ではきちんと彼等に敬意を払う、それは約束しますよ」

 俺の言葉に納得したのか、行きましょうと鰐男は歩き出す。

 その背中を見ながら俺はどこか白けた気分になる。たしかに囚人達が売店で買った新聞をラウンジに残していった可能性はある。だが、囚人にとっては貴重なお金で買った新聞を、しかも解きかけのクロスワードパズルをそのままにして放置していくとは思えない。刑務官の怠慢の証である丸めた新聞を唇に当てながら俺は思う。決してこいつらは犠牲者じゃない。自らの堕落が仲間を殺した。そのつけはどこかで払うことになるだろう。

 地下一階におりると右手に曲がり、緩やかな曲線を描く廊下を歩いていく。しばらく進むと、目の前に立ち入り禁止と書かれた黄色い規制線が現れる。

「図書室、か」

 規制線をくぐるとその先には横にスライドするタイプの分厚い金属製の扉が鎮座している。「管理エリアにある部屋はすべて刑務官のカードキーで施錠されているんでしたね」

「はい。扉が閉じると自然に鍵がかかりますので、日中は囚人が使用出来るように扉は開けっ放しになっています。解放しておくのはトラブル防止の意味もありますが」

 そう言うと鰐男は首から下げたカードキーを扉脇のセンサーにかざす。小さくぴっと音が鳴る。余程扉が重いらしく、鰐男は全身を使って扉をスライドさせる。扉はゆっくりとだが音もなく開き、その先に本の貸し出しカウンターと横に並ぶ本棚が見える。

「現場は奥になります」図書室に入ると鰐男は再び全身を使って扉を閉じる。五列ほどの本棚の脇を通り過ぎると、その先には大きな机が並んでおり、さらにその先に本棚の列が見える。そしてその本棚の前に立つ人物の背中に気付き、俺は足が止まる。肩で切りそろえられた黒髪に小柄な体躯。管理委員会の特別捜査官は女性なのか。

「捜査官、お待たせしました。市警察の東方警部補をお連れしました」

「東方さん?」

 素っ頓狂な声を上げて女性が振り返る。おかっぱ頭に大きな黒縁眼鏡をかけた十五歳にしか見えない少女が呆気に取られてこちらを見ている。

 まさか、そんな。

 水沼、桐子?

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