第5話 水曜日計画

【TWO】


 未未うらずえ市という街がある。

 先の大戦の後、政府主導で特別行政区として再建された四大政府直轄都市の一つであり、人口459万人、208万世帯がひしめくこの国第二の都市である。正式名称を未未市と言うが、戦後六十年、今ではその書き文字を音読みしてバツバツ市、『××市』と呼称されることも少なくない。

 未未市が××市と呼称されるにいたる経緯は諸説あるが、戦後、目覚ましい発展を遂げる一方で、急激な人口増加に伴い凶悪事件件数が爆発的に増加し、この国有数の犯罪都市に成り下がった蔑称というのが通説になっている。

 未未市警察はこの巨大犯罪都市の治安維持を一手に担っており、警察官9941名、職員3631名を抱えている。これは首都警察および他の大都市圏の警察組織と比較し、警察官一人当たりの人口が462名と極めて多く、劣悪な労働環境であることは否定しようのない事実である。未未市警察は慢性的な人員不足に悩んでおり、それでも凶悪犯罪の解決率が他の大都市における警察組織と同等の数値を維持出来ているのは、ひとえに警察官個人の犠牲によるところが多い。


 **********


 まるで、俺が捜査を承諾することが最初から決まっていたかのように、車は一度もスピードを緩めることなく中央高速道を走り続けている。俺はずっとこいつの手の平の上で踊らされている。俺は踵がすり減り表面に細かなしわや傷がいくつも刻まれた足元のローファーをちらりと見ると、たしかめるようにきゅっきゅとつま先でタバコを消す仕草をしてから捜査ファイルを開く。どうせ踊るなら自分のリズムで踊りたい。

 ファイルの最初には、機密保持同意書と書かれた書類が挟まれている。

「D区画は政府機関であり、捜査で入手した情報はすべて法務省に帰属します。外部への持ち出し、第三者への漏洩は重罪に当たる可能性があります。D区画勤務の職員はみな、機密保持の宣誓をしています。サインをいただけますか?」

 俺は黙って同意書にペンを走らせると改めて捜査資料に視線を落とす。資料の一枚目には極秘と赤い判が押され、『水曜日計画(仮称)第四実験区画刑務官殺害事件概要』と記されている。

「水曜日計画というのは?」

「特に意味はありません。この実験区画プロジェクトが最初に動き出した時の仮称がそのまま残っているだけです。お役所仕事ではよくある話ですよ」

 巻き込まれるにしてはふざけた名前だと俺は苛つくが、気にせずページをめくる。そしてそこには凄惨な事件の様子が、淡々と記載されている。

 被害者は加藤貞夫、四十二歳。三月十二日(昨日)十七時から十三日九時までの勤務についていたが、午前三時に、D区画内の図書室で背中を刺されて死亡しているところを同僚の夜勤勤務者によって発見された。ファイルにはその背部をめった刺しにされた無残な死体の写真が収められている。まったく。これを見れば善良なる未未市民が実験区画に対して非難の声を上げるのは目に見えている。そもそも半年前の脱走事件の時点で、市民団体によってD区画の閉鎖の嘆願書が出されたが市議会はそれをはねのけた。件の人権保護団体が未未市議会最大会派に一定の組織票をもっているという身も蓋もない政治的理由があるからだが、市の職員である刑務官が殺害されたとなるとさすがにかばい切れなくなる可能性は高い。市議会の後ろ盾を失えば、いくら法務省でも未未市での実験区画の継続は困難になるはずだ。

「犯行時刻は真夜中か、」俺は思わずつぶやく。だとしたらおかしいな。

 資料をめくる。次のページには殺人の舞台となったD区画および東洲区重警備刑務所の見取り図が載せられている。東洲区重警備刑務所はこの国にあるセキュリティレベルが最高ランクの刑務所の一つで、多くの重罪犯が服役してる。巨大なコンクリートの壁に囲まれた広い敷地に巨大な囚人監房棟が並んでいるが、「D区画だけ他の監房棟からずいぶん離れた場所に建っているんだな」

「元々その場所は、未未市が政府直轄都市として再編された際に、戦争犯罪人を収容する施設として使用されていました。役目を終えたのちは閉鎖され、これまでずっと放置されていたんです。刑務所の敷地内にありながらさらに何重ものフェンスで覆われて隔離されていますし、実験区画としては申し分ない環境です」

「半年前に脱走されたのはどこの誰だよ」

 俺の悪態に手厳しいですねと九は肩をすくめてみせる。「しかし、そもそも首都圏で行っていたこの社会実験を未未市でも採用することになったのは、東洲区重警備刑務所に都合よく閉鎖された監房棟があったからです。この国の刑務所は今やどこも満員状態ですからね。実験のための区画を確保するのは重要課題の一つです。実験区画の導入に際して老朽化していた建物は改装、改築がなされましたが、脱走犯は戦前に建てられた際の青写真を手に入れたようですね。壁の奥の配管の配置図から、最も壁が薄い場所がピンポイントで狙われました。完全にこちらの落ち度です。脱走事件後、大規模に改築、補強工事が行われており、現時点では警備体制は万全だとお考え下さい」

「つまり外部犯の可能性はない、と?」

 もちろんです、と九は笑顔で答える。「現在、D区画に出入りするには刑務所の中央管理棟と連結する地下通路のみです。中央管理棟側とD区画側の二カ所に電子ロックのかかった扉があり、通過すればすべて記録に残ります。被害者の最終生存確認時刻の昨夜二十四時以降、D区画から出た人間はいません」

 そもそも殺害されたのが囚人ではなく刑務官である時点で外部犯はあり得ない。勤務が終われば刑務所から出て来るのにわざわざセキュリティ強固な刑務所に侵入して刑務官を殺害する必然性はない。だが外部犯が否定されるとなるとやはりおかしい。連絡通路を通る人物がすべて記録されるなら、当然、昨日の日勤帯の勤務者が潜んでいた可能性などはとうに除外されているのだろう。とすると、犯人は昨夜の夜勤帯にD区画内にいた人物に限られることになる。だが、そうだとすると、

「囚人の所在は全員確認しているんだよな」

「もちろん、今回は誰も脱走していませんよ。夜勤帯勤務者もまだD区画に残しています」

 ここまでの話を信じるならやるべきことはおどろくほど単純だ。問題があるとすれば。俺はちらりと腕時計を見る。遺体の発見は午前三時、すでに八時間が経過している。犯行現場が脱出不能な広義の密室である以上、証拠の散逸は最小限におさえられているはずだが、一分一秒、関係者の記憶は不鮮明になっていく。殺人事件の捜査は時間との勝負だ、足枷にならなければいいが。

 俺の仕草に言わんとすることを察したらしい九が弁明するように言う。「遺体発見後、速やかに刑務主任に報告され、刑務所長を通して実験区画管理委員会に通達されました。直ちに管理委員会と市議会による臨時会議を招集、特別捜査官が朝一番で到着し現場検証と夜勤勤務者への聞き取り調査を終えたのち、正式に他殺と認定しました。事態の早期収拾を図るべく速やかに市警察に通報、法務省からの捜査協力依頼が受託されたのが一時間前。こちらも決して遊んでいたわけではありませんよ」

 べらべらよくしゃべる。俺は苛つくように言い返す。

「しわ寄せを食うのはこっちなんだ。半年前の脱走事件の時だって、市警察への通報が半日以上も遅れたために初動捜査で脱走犯の足取りを完全に見失った。犬の散歩中の老人が見つけるまで脱走犯の手がかり一つ掴めなかったというのに、反省していないのか?」

「これでも東方さんをお迎えに上がるために、車を飛ばしてきたんですよ」悪びれた様子もなく言うと、九はふふと薄い唇の端を吊り上げる。「それに、脱走事件の際に市警察への通報が遅れたのはぼく達ではなく刑務所側の落ち度です。こちらへの通報も囚人が行方不明になってから半日近く経って、脱走事件が発覚してからでしたからね」

 え、と俺は思わず聞き返す。「どういう意味だ?」何がです、と九。「行方不明になって半日が経ってから脱走事件が発覚した、というのはどういう意味だ?」

 ああ、そのことですかと九はうなずく。「朝の点呼の際に囚人の一人が行方不明になっていることが発覚しましたが、当初刑務所側は囚人が刑務所内のどこかに潜伏していると考えたようですね。過去にも囚人同士の抗争から身を守るために囚人が洗濯室に身を隠していたという事件があったんです。セキュリティが強固なあまり、脱走など起きるはずがないと思い込んだことで捜査が出遅れたのは皮肉な話です。結局、ボイラー室の壁の一部が破られているのが発見され、脱走事件が発覚しました」

「ご立派。今回は死体を発見してすぐに通報してきたんだから大した進歩だ、」言いながら俺は困惑する。「今、朝の点呼の時点で行方不明になっていたと言ったな。監房から消えていたのならその時点で脱走にならないのか?」どう考えてもボイラー室の壁を破るより監房の鉄格子を破る方がハードルが高いはずだ。

 だが俺の疑問に九はわかっていませんねえと首を振る。「水曜日計画の基本理念は囚人達の自主自立です。刑務所の本来の役割は囚人達から基本的人権を奪うことではなく、囚人が更生し社会復帰をする手助けをすることです。釈放後も自らの生活を律する能力を身に着ける。そのために、D区画の監房には夜間でも鍵はかけていません」

 平然と言ってのける九に俺は殺意を覚える。脱走事件の際に、飼い犬に手を噛まれたと言った奴がいたが、囚人達を自由にさせた挙句に刑務官が殺害されたのなら手を噛まれたどころの話じゃない。こいつらは一体何をやっているんだ。だが同時に、俺はようやく腑に落ちる。事件が夜間に起きたと聞いてから俺にはずっと違和感があった。夜間なら通常囚人達は檻の中、犯人は夜勤の刑務官でしかあり得ない。だが刑務官が刑務官を殺害するのなら外部犯の場合と同様、普通なら刑務所の外で殺すはずだ。刑務官じゃない、自由を与えた囚人が刑務官を殺害したから実験区画の存続が危機にさらされているんだ。だからこそ、身代わり羊として俺が呼ばれたんだ。

 俺は怒りを押し殺して九に問う。

「脱走事件まで起きたのに、どうして監房に鍵をかけないんだ?」

「崇高な理念の実現のためには多少の犠牲はつきものですよ」

「そしてその尻拭いを他人にさせるのかよ」

「他人だなんて傷つくなあ。今となってはぼくとあなたは一蓮托生ですよ」

 九はすました顔でそう言うとにっこりと笑う。

 捜査資料によると昨夜の夜勤帯刑務官は被害者を含めて六名。現在のD区画収容人数は百余名。コンクリートの要塞の中にいる、百人を超える容疑者の中から犯人を見つけ出せというのかよ。

「管理委員会の特別捜査官とやらは使えるんだろうな?」

「これまでの実験区画がすべて首都圏に設置されていた都合、特別捜査官はすべて首都警察からの選りすぐりの捜査官で構成されています。腕はたしかですからご心配なく。仲良くして下さいね」

 腕はたしかです、か。「誰が信じるんだ、そんなこと」

 がたがたと車が揺れる。高速道路を下りると埋め立て地を突っ切るように延びる旧国道を車は走る。遠くには送電塔が並んで建っているのが見える。しばらく進むと、東洲区重警備刑務所まで三キロメートルの看板が見える。

「正門のところで刑務所の職員が待っています。そこからはお一人で行っていただきます」

「おたくは一緒に行かないのか?」

「嫌だなあ、東方さん。ぼくは法務省の官僚ですよ。囚人だらけの危険な場所なんて恐ろしくて恐ろしくて」

 その薄っぺらい笑顔の下で他人の人生を平気で弄ぶ残酷な素顔を隠しているくせに何を白々しい。俺はもうこいつと同じ空気を吸うことに心底うんざりしている。

「さ、見えてきましたよ」

 砂埃の向こうに巨大なコンクリートの城が見えてくる。その禍々しい姿に呆気に取られている俺に、九ははしゃぐように告げる。

「ようこそ、水曜日計画へ」


 1996/3/13 Wednesday 捜査第一日目


「開門」

 ブザーが鳴り響き巨大な鉄の扉がゆっくりと開かれる。

 扉の向こうには刑務官二名が待ちかまえており、東方の姿にお待ちしていましたと一礼する。こちらにどうぞと踵を返した刑務官達のあとを俺は大人しくついていく。

 正門からまっすぐに伸びる道の両脇を高さが三メートルはあるだろうフェンスに挟まれ、上方には鉄条網のらせんが巻き付けられている。俺の前を歩く刑務官の腰には警棒が下げられ、ゴム弾用のライフルを肩から下げている。物々しいことだ。非致死性兵器でも至近距離でくらえば致命傷になり得る。戦争でも始めるつもりかよ。

 しばらく進むと、レンガ造りの古い建物が見えてくる。中央管理棟らしいその建物に入ると、入念な身体検査と金属探知機のゲートを抜け、俺は八階の刑務所長室へと案内される。刑務官が分厚い木の扉をノックし、お連れしましたと声をかけると、入れ、と鋭い声の返答がある。扉を開くと、モザイクタイルが敷き詰められた床と、重厚な木製の机の向こうに大柄なスーツ姿の男が座っているのが見える。短髪で皺だらけの顔、イスに座る姿勢は軍人のような佇まいを思わせる。冗談が通じる相手ではないだろうな。所長が手で合図すると、俺を連行してきた刑務官は一礼して部屋から出ていく。

「遠いところをご苦労。東洲区重警備刑務所所長の貝沼だ」

 俺は慇懃に頭を下げて答える。「市警察の東方警部補です」

「脱走事件の際には世話になったようだな。今回もよろしく頼む」

 内心はどう思っているのか。半年前の脱走事件。捜査が進展しない原因は通報が遅れたためだという態度を隠そうともしなかった市警察と、東洲区重警備刑務所との関係は今でもこじれたままと聞く。こちらにいい感情を持っていないのは当然で、本音では市警察の協力など仰ぎたくもないのだろうが、刑務官が殺害された以上、そうも言ってはいられない。その妥協点が、記録上、脱走した囚人を発見したことになっている俺の召喚というところなのだろう。

「D区画は政府機関だが、刑務官は皆、市の職員だ。市長もずいぶん心を痛めておられる。早急な事件の解決を市長はお望みだ。必要なことはそこにいる三神から聞くといい」

 振り返ると部屋の隅に小柄な男が立っている。存在を消すかのようにそれまで身動き一つしていなかった小柄でお腹の出たその中年男は、鰐のように目をぎょろぎょろさせながら俺に一礼する。

「D区画刑務主任の三神です。お噂はかねがね、お会い出来て非常に光栄です」

「緘口令は敷いているが、脱走事件の時のこともあるからな。マスコミに漏れる可能性は念頭においておく必要がある。早急な事件を解決することを期待する」

 そういえばそんなこともあったな。刑務所長は、話は終わりだと言わんばかりに無言で扉の方を顎で指す。俺は素直に失礼しますと一礼して部屋を出る。

 廊下に出るとすぐに小柄な刑務主任が俺を追って部屋から出てきてぺこりと頭を下げる。

「改めましてよろしくお願いいたします。D区画の刑務主任の三神です」

 こんな状況にもかかわらず、若干はしゃいでいるような態度に、俺は出会って三十秒でこの男を嫌いになる。

「早速事件現場にご案内します。ささ、こちらです」

 短い足をちょこちょこと動かしながら鰐のような小男は歩き出す。俺は小さくため息をつくと無言でそのあとに続く。歩きながら男は快活にしゃべる。

「東洲区重警備刑務所は現在収容人数1503名、敷地面積は14万平方メートルでこの国で五番目の敷地面積を誇る巨大刑務所になります。総延長1.8キロメートル、高さ6メートルの塀で囲まれるこの国で最高ランクのセキュリティレベルを誇る難攻不落の刑務所です」脱走事件のことはどうやらみんな忘れてしまっているらしい。「一般男性囚人棟、一般女性囚人棟は地上で行き来出来ますが、D区画は法務省直轄の政府機関であり完全に隔離されています。地上から立ち入ることは出来ず、入るにはこの中央管理棟の地下とつないだ連絡通路を通る必要があります」

「事件の話をしましょう。昨夜の刑務官の勤務状況を教えていただけますか」俺は前を歩く鰐男の背中に問う。

「D区画の夜勤は十八時から翌朝八時までの十四時間勤務です。刑務官六名が二名一組の三チームで勤務に当たります。日中は自由に監房を出ることが出来ますが、夜勤帯にあたる十八時から翌朝八時までは囚人達は監房にいることが義務付けられています。消灯は二十一時です。D区画は円筒状の建物でして、地上部分が囚人の監房エリア、地下部分が管理エリアになります。地上部分には横付けされるように懲罰房や保護房などの特別監房エリアの建物があります。夜勤帯では監房エリア、管理エリア、特別監房エリアの三カ所を三チームで管理することになります」「勤務エリアは固定されているんですか?」「いえ、十四時間勤務のうち夜勤帯の始まる十八時からの一時間と、夜勤帯の終わる朝八時までの一時間は、点呼と食事の配膳および日勤帯との申し送りに当てられています。それ以外の十二時間を三チームで四時間ごとにローテーションします。市の条例で夜勤勤務者の仮眠、休息が義務付けられていますから、管理エリアの担当の時にそれぞれ休憩を取っています」まあ、それは好きにすればいい。

「昨夜の被害者の担当はどうなっていたんですか?」「加藤君は最初の四時間、十九時から二十三時まで監房エリアを担当し、二十三時から翌朝三時までが管理エリア担当でした」「最終生存確認は?」「二十四時頃です。二十三時に相棒と共に管理エリアに下りてからは、相棒は仮眠室に入り、そこからは単独行動をとっていたようです。その後、三時になり特別監房エリアの担当時間になっても姿を現さず、無線機にも応答がなかったため、夜勤帯勤務者全員で捜索したところ、管理エリア内の図書室で背中を刺されているところを発見されました」なるほど、と俺はうなずく。

「死体発見後、すぐに通報し全員で囚人の点呼を取りました」「D区画の出入り口は本当に連絡通路だけですか?」「はい。連絡通路にはD区画側とこちら側の二カ所に電子ロックがあり刑務官のカードキーがないと開けられなくなっています。こちら側には二十四時間体制で刑務官が扉を警備しており、刑務官以外が通過することは不可能です」外部からの郵便物や備品類もこの中央管理棟で受け取ったあと、刑務官によってD区画に搬送されていますとその徹底ぶりを鰐男は強調する。いずれにせよ犯人はまだD区画内にいることは確実なようだ。だが、

「監房に鍵がかかっていれば、話は簡単だったんですがね」俺が皮肉めいた口調で言うと鰐男は立ち止まり唾をまき散らしながら反論する。「刑事さん。お言葉を返すようですが、ここは囚人に罰を与えるための場所ではありません。彼等に社会復帰させることこそが目的なんです。われわれには崇高な理念があります。夜間でも監房には鍵をかけない、それこそがD区画がD区画たる所以なのです」短い両手を必死にばたつかせながら鰐顔の男は熱弁する。「建前はわかりますがね、実際のところはどうなんです? 本当に囚人の更生を信じているんですか? 監房に鍵をかけなければ危険にさらされるのはおたくら刑務官です。本当に納得してやっているんですか」想定していなかっただろう俺の言葉に、鰐男は動揺した様子でぎょろぎょろと両目を動かす。わかりやすい奴だ。彼等も言ってみればこの崇高な社会実験とやらの犠牲者だろう。貧乏くじをひかされたのは俺も同じだが。「まあ状況は大体わかりましたよ。とにかく現場に行きましょう」

 俺がそう言うと、鰐男ははい、とうなずき再び歩き出す。スキップをするような軽い足取りで歩いていく姿は、背中にゼンマイがついている子供のおもちゃのように見えてくる。この馬鹿馬鹿しい刑務所の案内人にはぴったりだな。

 地下の連絡通路に向かうため、俺達はエレベーターが到着するのを待つ。

「すでに遺体は運び出され、鑑識作業も終えています。管理委員会の特別捜査官が東方刑事をお待ちですよ」

「現場が荒らされてなければいいがな」

「脱走犯を見つけていただいた時から、ずっとあなたには注目してきました。あなたならこの事件を解決してくれると私は確信しています」

 おや、と俺は思う。俺を推薦したのはあの刑務所長ではなくこいつなのか。たしかに刑務所長の口ぶりは俺が来ること自体、あまり歓迎していないようだったが。

「それにしても、加藤君は本当にすばらしい刑務官でした。勇敢で仕事熱心で同僚からも信頼の厚い男でした。そんな彼があんな無残な姿に、」

 そう言って鰐男は黙り込む。ちらりと覗き込むと大粒の涙を流しており俺はぎょっとする。冗談だろ、何なんだこいつは。それから鰐男は突然こちらを向くと俺の足にすがりついて言う。「仇をとって下さい。D区画はたしかに政府機関ですが、私達刑務官はあなたと同じ市の職員です。同じ正義のために命を懸けて戦う仲間、いえ、言ってみれば私達は家族です。どうか、どうか家族の仇をうって下さい。お願いします、お願いします」

 勘弁してくれ。俺が顔を引きつらしたところで、ちん、とエレベーターが到着を告げる。扉が開くと、さ、こちらですとそれまで泣いていたのが嘘のように涼しい顔で鉄の箱の中に入っていく。ころころと感情が入れ替わる様子に、本当に機械仕掛けの子供のおもちゃみたいだなと思う。やれやれと鉄の箱に入ると俺は鰐男の横に立つ。

「檻の中の動物に餌を与えないで下さい」

 俺がつぶやくと、何です、と鰐男が顔を上げる。

「それが今回の教訓だ」

 扉が閉まりエレベーターはゆっくりと下がっていく。



 地下二階でエレベーターは停まる。エレベーターの目の前には鉄格子の扉があり、すぐ横に刑務官が二人控えるカウンターテーブルがある。鰐男がご苦労様と手を上げると、刑務官達はお疲れ様ですと声を揃えて背筋を正す。

「こちらの箱に財布、携帯電話、鍵、腕時計、ペン、その他武器になり得るものをすべて入れて下さい。靴紐も凶器になりますので、こちらで用意した靴に履き替えて下さい」

「靴紐はない」

 俺の言葉に刑務官が怪訝そうに足元を覗き込む。スーツにローファーがマナー違反なことは知っているが、あいにく俺にストレートチップを履く習慣はない。まあいいでしょうとうなずき、金属探知機で俺の身体検査をしながら刑務官が説明する。

「ここから先は政府機関になります。この先は、いかなる物も許可なく持ち出すことは禁じられています。いかなる理由があっても許可なく録画、録音することは禁じられており、見聞きしたあらゆる情報は法務省に帰属し、政府の許可なく口外することは機密情報漏洩と見なされ重罪となる可能性があります」

「心得ている」

 身体検査を終えると、もう一人の刑務官が壁のボタンを強く押す。ブザー音が鳴り響き鉄格子の扉が開く。

「どうぞ。D区画へお進み下さい」

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