第4話 脱走犯

 1995/10/2 Monday


 朝から課長室に出頭するよう命じられた東方は、ノックもせずに捜査一課長室の扉を開く。机についている背の高い神経質そうな男が、無言で手招きして自分の元に来るよう促すが、東方は扉を閉じた後ろ手でノブを掴んだまま扉にもたれかかり近寄ろうとしない。

「市警察への非難の視線が厳しい中、マスコミに持ち上げられ調子に乗った挙句、このような失態を晒すとはな」

 そう言うと課長は一冊の雑誌を東方に見えるようにかかげてみせる。

「一方的にやり玉に挙げられるのは納得出来ませんね。あの新人がいい加減な捜査をしたことは事実です。それを咎めたら懲戒委員会に訴えるなんて無茶苦茶です。こんな話が通るなら、どうやって一緒に捜査をしろと言うんですか」

「お前の言い分は懲戒委員会で十分聞いた。二カ月の減給で済んだんだ。ありがたく思え」

「その雑誌には俺が懲戒委員会にかけられたことも載っています。市警察内の出来事を外部に漏らすなんて服務規程違反でしょう。あの新人こそ罰せられるべきです」

「彼はすでに辞表を提出し正式に受理されている。今更彼を罰することなど出来ない」

「俺一人が悪者ですか?」

 課長は件の雑誌をゴミ箱に投げ入れ、それから東方に冷たい口調で告げる。

「今後一切のマスコミへの接触は禁ずる。お前は今や市警察の面汚しだ」

 東方は小さく唇を鳴らすと、課長に向かって言う。

「俺が袋叩きに合ってずいぶんとうれしそうですね」

 課長は答えない。

「あなたが親父とどんな因縁にあるかは知りませんがね、俺に当たるのは筋違いですよ」

「御厨の失敗は、お前みたいなはねっ返りに好き勝手をさせていたことだ。事件解決率が高いことは認めるが、お前の代わりなどいくらでもいる。それをお前は自分が重要な人間だと勘違いしスタンドプレーに走ってきた。御厨はそれを許したのだろうが私はそうではない。ここは未未市警察、この国最初の近代自治体警察だ。われわれはすべての自治体警察の模範になるべき存在だ。それがわからなかったから御厨は職を失った」

「あんたに親父の何がわかる」

「見上げたご忠信のようだが、お前に汚職警官の取り調べをさせ、告発をさせたのもまた御厨だ。この意味がわかるか? お前を信頼していたと言えば聞こえがいいが、あいつは結局のところ自分の手を汚すことを嫌い、お前に仲間を断罪させた。汚職警官をお前は裏切者と呼んだが、お前自身が他の刑事達からどう思われているのか考えたことはないのか? 仲間を背中から刺した男。お前は、背中を裏切ったんだ。彼等にとっては、お前の方こそ裏切り者だが、お前にそうさせたのがその親父殿だ」

 東方は言い返せない。すべて本当のことだからだ。

 あの事件以来、東方は殺人課刑事ではなくなった。彼等の仲間ではなくなった。どんなに世間でもてはやされても常にどこか焦燥感が蝕み、周囲に苛つきをぶつけるようになり、挙句あの無能な新人に当たり散らして東方は自分の人生にとどめを刺した。改めてその事実を突きつけられ、東方は何も言い返せなくなる。黙り込んだ東方に課長は言う。

「お前が誰も信じないのは勝手だ。相棒を作らないのも好きにすればいい。だが、自治体警察では殺人事件の捜査は二人一組が原則だ。一人である以上、殺人事件の捜査は禁止とする。異常死体の検分は許可するが、殺人事件と判明すれば他の人間に担当させる。話は以上だ。仕事に戻れ」

 課長室から出ると、刑事部屋の自分の机に戻る。ご丁寧に件の雑誌が机の上に開いた状態で置かれている。反応を見ようと遠目に観察している視線に、東方は無言で雑誌を手にすると、刑事部屋の窓を開いておもむろに外に向かって投げ捨てる。ばさばさとページがあおられる音が遠くに消えたあと、職員駐車場から、おい、という怒声が上がるのが聞こえる。呆気に取られている同僚達を無視して、東方は通信係の机から異常死体の通報のメモを適当に一枚ひったくると刑事部屋から出ていく。



 市警察の駐車場に停めてある古い2CVに乗り込むと東方はメモを見る。第三埠頭近くの工業用水路で上がった不審死体。事故か病死か自殺かあるいは。いくらこの街が悪名高い凶悪犯罪都市とはいえ、不審死体の多くは殺人事件などではない。それを判別するのも捜査一課の大事な仕事だが、相手はホームレスなど身元不明の死体も多く、労力を要するだけで手柄にならないこんな仕事は誰もやりたがらない。普通は配属されて間もない新人がやるべき仕事だが、今の東方には唯一ともいえる現場仕事であるため選択肢はない。とはいえ、「朝っぱらから溺死体かよ」東方は悪態をつくとキーを回しアクセルを踏み込む。

 第三埠頭に向かう車を小雨が打つが、ワイパーのゴムが劣化しているためどれだけ拭ってもフロントガラスを雨の幕が薄く覆っている。第三埠頭近くには工場が多く、工業用水路が張り巡らされている。近くには公園や小学校もあるというのにコンクリート製の用水路の多くにはガードレールやフェンスが設けられていない。深さ、幅共に二メートルはあるだろう巨大な溝にはこれまでも子供や老人が転落した事故が起きている。フェンスを作れ、簡単なことだろう? 用水路の水深はせいぜい数十センチだが、転落した際に受傷すれば容易にそのまま溺れてしまう。身元不明ということは大方酔っ払ったホームレスでも落ちたのだろうが、酔っていればなおさら簡単に命が奪われる。まいったな、溺死体かよ。どれだけ時間が経過しているかもわからない。損壊が激しければ身元の確認が困難を極めるのは火を見るよりも明らかだ。貧乏くじだったかな。東方は小さく舌打ちをすると乱暴にハンドルを切る。

 たたらんたたらん。いつの間にかフロントガラスを打つ雨音は激しくなっている。道路の先に黄色い規制線と制服警官達の姿を見つけ、東方は出来るだけ近くまで車をよせてから停車する。傘は持っていない。車から出ると制服警官の方に駆け寄り強引に警官がさす傘の下に体をねじ込ませる。

「状況は?」東方の口から白い息が漏れる。「そこの用水路に浮いているところを犬の散歩中の老人が発見、通報してきたのが四時間程前です」すでに死体は引き上げられシートがかけられたままストレッチャーに乗せられている。「第一発見者は近所に住んでおり、事情聴取のあと一度帰宅させています。話をお聞きになりますか?」いいやと東方は答え、用水路を覗き込む。雨で水かさが増した濁った排水が流れている。水深は現場検証中の鑑識官の膝くらい。雨で水深が増す前にこの高さから落ちれば、外傷が致命傷になってもおかしくない。「死後かなり時間が経過しており含水で損傷もひどく、鼠にかじられたような跡もあります。顔貌もはっきりしませんが、引き上げた死体を見ますか?」冗談じゃない。東方はいいからさっさと運び出してくれと告げる。「財布や身分証、携帯電話は所持していませんでした。水路底をさらっていますが今のところは何も」用水路の濁った水面に雨の波紋がぱらぱらと生まれては流れ消えていく。時間が経っているならかなりの距離を流されてきた可能性もある。用水路は複雑に入り組んでいる。ここで用水路に落ちたのでなければ、落下地点の特定はかなり厄介な作業だ。まったく。どうしてフェンスを作らないんだ。

 東方はそれから制服警官に手早く指示を出すと車に戻る。まずは検死、話はそれからだ。キーを回し、エンジンをかける。雨が打ちつけるフロントガラス越しに、黄色い規制線の向こうで制服警官達がこちらを見て何やら話しているのが見える。ここでも俺は有名人か。東方はもう慣れっこになっていて無感情のまま車をバックさせる。



 翌日。東方は観察医務医院に向かって車を走らせる。今朝、受け取った検死報告書には別段不審な点は認められなかった。工業用水路に浮かんでいた死体は三十代から四十代の男性、死後数週間が経過。死体には複数カ所の骨折を認め、頭蓋骨骨折及び脳出血が致命的になった可能性が示唆されていた。肺内に白色泡沫は認めず、溺死よりも外傷が直接死因の可能性が高いと思われたが、水路に転落したことで受傷したのか、事故などで頭部を打撲したあと水路に落ちたのかは判別困難。事件性についての最終結論には時間がかかる見込みであるということだった。目撃証言でもあればいいが、何しろ身元がわからない。損壊されており生前の顔も不明だ。厄介なことは違いないが、それにしても何故、俺は観察医務医院に呼び出されたのだろうかと東方は訝しむ。

 監察医務医院地下の死体安置室に入ると、部屋の奥の机についている白衣姿の大きな背中が見える。何かをむさぼっている背中に東方は呆れたように声をかける。

「用があるなら電話で言えよ。どうしてわざわざ呼び出すんだ」

 振り向いた白衣の男は、手術用のキャップをかぶり、マスクを顎までずらしたままサンドイッチをほおばっている。ハムやらレタスやらがはみ出したサンドイッチを右手に、左手の指についたケチャップを舐りながら男は愉快そうに笑う。

「よお早かったな」

「検死報告書ならもう読んだぜ。わざわざ呼び出した理由を教えろよ」

「どうせ暇だろ。それより見たよ」

 監察医は机の上の雑誌を手に取って振って見せる。こいつもかよ。東方はうんざりするが、鈍感な監察医は意に介さず汚れた手でページをめくりながらまじまじと雑誌を見る。「それにしても、酷い写真写りだな」

「それを言うためにわざわざ呼び出したのか?」

「そんなわけないでしょうが」

 立ち上がった監察医の張り出した腹が揺れる。こいつは会うたび何かを食べており、まともに解剖している姿を見たことがないが、どういう仕組みで給料が支払われているんだ。

「内臓はほとんどが健康体、軽度の脂肪肝に胃内のポリープ以外、明らかな肉眼的異常は認めなかった。健康な死体だよ。病死は除外していいと思う」

「だから、どうして呼び出したんだ」

「肺内に残ったプランクトンや藻類、化学物質を分析して用水路に落ちた場所を特定しようと思っていたんだけど、その必要がなくなったんで、まず君に知らせようと思ってね」

「落ちた場所がわかったのか?」

 監察医は東方の方を見ると真ん丸な顔に笑みをにいっと浮かべる。

「君はやっぱり持っているね。これでまた、君はヒーローに返り咲きだ」

 監察医は死体が安置されているロッカーの扉に手をかけるとぐいっと手前に引き出す。金属製の引き出しにはカバーのかけられた死体が横たわっている。

「まずはこれを見てくれ」

 監察医がカバーをめくり、東方は思わず顔をしかめる。損傷が激しい死体だが、監察医が指差す死体の右肩に、刻まれた何本かの線が見える。

「バーコード?」

「大昔、若者のファッションで流行ったものだけど、今でも一部のストリートギャングのチームで、仲間を認識するためにチームごとのバーコードタトゥを彫る文化は残っている」

「じゃあこれをスキャンすればこいつの個人情報でも出てくるのかよ」

「まさか、スーパーのレジじゃあるまいし。ただね、どうもこのバーコードを入れていた連中は、四年ほど前に捜査三課によって逮捕、解散させられているんだ」

「じゃあ、三課に問い合わせれば、」

「要はさ、犯罪歴がある可能性が高いってことだ。そして死体が見つかったのは第三埠頭。ぴんとくるだろう?」

 東方が怪訝そうな顔で突っ立っていると、え、わからない? と監察医は机の方へと歩いていきファイルを一冊手に取って戻ってくる。「何だよこれ」ファイルを開くとそこには何枚かの写真が挟まれている。

「監察医務医院に来たらすぐに衣類は脱がされるでしょう? ぼくが解剖台でご対面する時にはすでに素っ裸なわけだ。通常は衣類なんて気にしないんだけど、すぐに確認したよ。二枚目を見なよ、死体が着てたシャツ、胸元に縫い込まれたワッペン」

 排水で汚れた手術着のような半袖シャツの写真。たしかに左胸にあたる部分にワッペンが縫い込まれている。灰色と茶色が入り混じったような泥で汚れて読みにくいが、アルファベットが刺繍されている。

「T、、、H、、、これはSか、S、P、THSP、聞いたことがないな」

 俺の言葉に呆れたように監察医が声を上げる。

「おいおい、テレビを見ないのか? この二週間、散々画面に出ているだろう?」

「知らん。マスコミに追いかけられてからテレビはずっと消している。自分の顔なんて見たくないからな」

「THSP、Toshu-ward heavy security prison. 東洲区重警備刑務所だよ。これは囚人服だ」

「囚人服、」

 おい、まさか、と東方は顔を上げる。

「そう、この死体はね、斉藤雅文だよ」

 


 それから事態は急転する。

 東方が市警察への一報を入れた十五分後にはサイレンが鳴り響き、監察医務医院の前に何台ものパトカーが集結する。刑事達が足音を響かせ地下の解剖室へと乱入してくるなり、東方と監察医の前にずらりと並ぶ。

「捜査一課の東方警部補だな」

 中央の男は威圧感をまき散らしながらたずねる。捜査二課の近藤警部、男はそう名乗るがそんな奴は知らん。

「東洲区重警備刑務所から取り寄せた斉藤雅文の医療記録から、歯型と右足の傷跡が一致、現在DNA鑑定も指示しております」

 監察医が直立して慇懃に答える。こいつ、俺に対する態度とは大違いだ。

「最終的な結論を待つまでもなかろう。この死体を斉藤雅文と断定し、この先は捜査二課が引き継ぐ。東方警部補、異論はあるまい」

 ご随意に。東方がやれやれといった様子で肩をすくめると、何だその態度はと警部の取り巻き達がいきり立つ。

「貴様は今、いろいろと大変そうだからな。こんな大事件は荷が重かろう?」

 近藤警部の言葉に取り巻き達が一斉に笑う。どこかで練習してきたのかよ。それから手早く捜査資料と検死記録をかき集めると、刑事達一行はぞろぞろと監察医務医院をあとにする。あとに残された見慣れた顔の二人に東方はたずねる。

「どうしてお前らまでここに来たんだ? 囚人の脱走事件は二課の管轄だろ」

 東方と同じ捜査一課の刑事が二人、大島と杉本が不愛想に突っ立っていた。

「課長に言われたのさ。お前が近藤警部に失礼な態度を取らないように子守しろって」

 背の高い方、短髪でがっしりとした体つきの刑事が言う。

「ご苦労なことだな。誰が好き好んでこんな事件を欲しがるかよ。謹んで二課に譲るさ」

「お前が関わっていることが知られれば、こぞってマスコミが押しかけるからな。お前は目立つなよ」

 杉本の言葉に東方はふんと鼻を鳴らす。それにしても、まさか通信係のメモから適当に引き当てたのが例の脱走犯だったとはな。斉藤雅文か。数週間前に東洲区重警備刑務所から脱走し、懸命な捜査にもかかわらず一向に手がかりは掴めずにいた。警官殺害事件から半年、ようやく落ち着きを取り戻したところに降って湧いた災難、二課の警部殿が慌てて出張ってくるのもうなずけるが。

「課長からの伝言だ。午後、管理委員会の特別捜査官が事情聴取に来る。丁重に対応しろとよ」

「管理委員会? 何だそれ」

 東方の言葉にもう一人の刑事、派手なネクタイの男は心底驚いたような表情を浮かべる。「お前、本当に何も知らないんだな」大島は侮蔑した視線を送りながら東方に言う。「囚人が脱走したのは東洲区重警備刑務所のD区画だぜ」

 D区画。どこかで聞いたなその名前。そして東方は思い出す。「ああ、例の本か」そういうことだと杉本がうなずく。数年前、T県の刑務所内医務室に勤めていた医者が一冊の本を出版した。刑務官による常習的な囚人虐待の事実を告発したその本はベストセラーとなり、その後、芋づる式に全国の刑務所で囚人虐待の事実が発覚し社会問題となった。本が話題になったあと、医者は人権派弁護士と組んで政治団体を設立、政府に囚人の人権保護と待遇改善を要求した。世論の支持を受け社会的にも無視出来なくなった政府は海外の先例に倣い、試験的に新しい囚人更生プログラムの導入を決定した、とかなんとか。

「まず、首都圏の刑務所三カ所に実験区画が設けられ、運用が軌道に乗ったところで、二年前に東洲区重警備刑務所に実験区画が設置された」四番目の実験区画。通称D区画か。「社会実験と言えば聞こえはいいが、まあ早い話が人権保護団体の圧力に負けて囚人達の楽園を作っちまったと言うことだが、」杉本はふんと鼻を鳴らすと苦々しく言う。「囚人達に感謝されるどころか、飼い犬に手を噛まれたということだ」

「東洲区刑務所自体は市議会が運営しているが、D区画は法務省の管轄だ。管理委員会の捜査官に会え。ちゃんと伝えたぞ」

 そう言うと、杉本と大島の二人は踵を返す。

「お使いご苦労さん」

 東方の言葉に、振り返った大島が盛大な嫌味を言い放つ。

「お前の醜聞が三流雑誌どまりなのは、脱走事件があったからだぜ。脱走犯の脅威がなくなれば世間はすぐに次の獲物を探し始める。お前はその候補の筆頭だ。せいぜいサンドバックになる心の準備をしておくんだな」

 二人の刑事が死体安置室から出ていくと、監察医がのんびりした声で言う。

「君達って本当に仲がいいねえ」

「この死体を引き当てた俺は、ヒーローになるんじゃなかったのか?」

 ぼくに当たらないでよと監察医は肩をすくめてみせると、白衣のポケットからチョコバーを取り出し一齧りする。 

 一九九五年九月十三日。法務省直轄特定刑務所第四実験区画、東洲区重警備刑務所通称“D区画”より囚人斉藤雅文は姿を消した。D区画内の捜索にて、ボイラー室の壁が破られ、壁の裏の下水管内に侵入した形跡が発見された。下水管は刑務所の敷地から百メートルほど南に下ったところで工業用水路に合流するが、その地点は落差が三メートルほどあり、斉藤雅文はそこを飛び降りるか落下した際に頭部を打撲し死亡したと、市警察捜査二課は結論づけ、実験区画管理委員会の特別捜査官もそれを支持し事件は解決した。

 それが半年前の話。


 **********


 俺は隣に座る法務省から来た男を見る。

「法務省直轄の実験区画で起きた事件だろ。管理委員会の特別捜査官だけでどうして対処しないんだ? 脱走事件の時もそうだぜ。こっちが頼んでもいない実験をこの街で始めておいて、尻拭いはこちらかよ」

「おっしゃりたいことはわかりますが、まず脱走事件は本質的には刑務所の中と外、両方で起きた事件です。実験区画の内側の捜査についてはこちらで対処しますが、外側の捜査にはわれわれは不向きです。土地勘のある市警察のご協力を仰ぐのは当然と言えば当然ですよ」

「だが今回の事件はおたくらの庭の中で起きたんだろう?」

「その通りです。囚人同士のいざこざならこちらで粛々と対処しますが、今回は特別です。何しろ殺害されたのは囚人ではなく、東洲区重警備刑務所の刑務官なんです」

 刑務官、だと。俺は思わず聞き返す。

「D区画は法務省直轄の政府機関ですが、実務についている刑務官は東洲区重警備刑務所の職員ですからね、つまりこれは法務省マターであると同時に市議会の問題でもあるわけです。市警察を通さずにことをすすめるわけにはいかないでしょう?」

 あの実験区画で刑務官が殺害されたのか。

「脱走事件はわれわれにとっても大きな痛手でした。あの悪夢を繰り返さないためにも、何としても解決しなければなりません」

 九の言葉は事実だろう。半年前には凶悪犯が脱走し今度は公僕たる刑務官が殺害された。対応を誤れば実験区画その物の存在が危うくなる。そして、だからこそ俺なのだろう。本来なら管理委員会の捜査官だけで内々に処理したかったはずだが、殺害されたのが市の職員である以上、事件をなかったことには出来ない。なかったことに出来ないのなら、事件が表沙汰になった時の保険が必要だ。マスコミの目を逸らし世論を誤魔化すための身代わり羊、それには過去にスキャンダルにまみれた刑事ならうってつけだ。笑えない。笑えるはずがない。俺はまたもやこいつらの生贄にされようとしている。

「そんな目をしないで下さい。この一件は、法務省から正式に市警察に依頼され受託されました。あなたがここにいるのは捜査一課の了承の元です。恨むならぼくではなくお仲間にして下さいね」

 何が取引だ。これはそんな上品な物じゃない。捜査を断れば職を失い、捜査をしても解決出来なければマスコミの餌食になる。つまり、速やかに事件を解決する以外に俺の殺人課刑事としての未来はない。

「本音を言えば、あなたの力を借りるということは自分の失敗を認めることに等しいので個人的には避けたかったのですが、刑務所の方からあなたに捜査をと懇願されましたからね。仕方ありません。ぼく自身も本意ではありませんし、ここはお互い様ということで」

 そう言って九はにっこりと笑う。

 何がお互い様だ。猫のような目をした前髪の長い優男。きっとこいつは他人の人生を踏みにじることに何の迷いもためらいも感じないのだろう。こいつにとっては実験区画の存続と保身がすべてだろうが、事件の解決のためにはどんな手も使うという点において俺はこいつを信用出来る。信用することにする。

「それで、心は決まりましたか?」

 俺が今置かれている状況は特別でも何でもない。俺がこれまで好き勝手やりながらも市警察を首にならなかったのは、前の課長が部下への慈愛にあふれていたわけでも俺が上層部の弱みを握っていたからでもない。俺が殺人課刑事として優秀だったからだ。誰よりも事件解決率が高かったからだ。だから俺はこれまで生き延びてこられた。殺人事件が解決出来ない殺人課刑事に存在意義などない。そうやってずっと生きてきた。そう、だから、 

「事件を解決すればいいんだろう?」

 俺はそう言うと乱暴に捜査ファイルを受け取る。

 九は満足そうにうなずくが、俺はそんな法務省から来た男に釘を刺す。

「言っておくが二匹目の泥鰌を狙っているのなら大間違いだぜ。そもそも脱走犯を発見したのは犬の散歩中の老人であって俺じゃない。俺は運が良かっただけだ」

「今、必要なのはそういう幸運なんですよ、東方警部補」

 話は決まった。九は上機嫌な様子で件の雑誌の表紙をまじまじと見ると、可笑しそうに笑う。

「それにしても、本当に酷い写真写りですね」

 ああ、それには同意するよ。


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