真夜中の珈琲

青菜西雄

本文

 マグカップの側面に描かれた一匹の黒猫が地べたに這いつくばりながら、じっと私のことを見つめている。そのお気に入りのマグからは白く濁った湯気がくらくらと立っていた。

 森川が食器棚の引き出しに置いていったドリップバッグの珈琲は水っぽくて、舌の上に何の情報も残さない。ドリップバッグってこんなに不味かったっけ。

 昨日彼が出て行って、くしゃくしゃになるまで泣いて、今日もやっぱり一日中泣いていた。夕方になってカラスの鳴き声がうるさいなあと思っていたら、なぜだか急にお腹が空いてきて珈琲とチョコレートを口に入れたけど、そうしたらもっとお腹が空いた。

 料理をする気分にはなれないし、そもそも冷蔵庫に食材は無かったはずだ。最後に残った珈琲を飲み干してやっぱり不味い事を確認してから、私は晩ご飯を買いに家を出た。

 

 玄関のキースタンドに彼の合鍵がかかっているのを見てまた涙が出そうになったけど、それを堪えてドアを開けたら、空は赤色のセロファンを被せたみたいな色に染まって、生暖かい空気が私の身体を包み込んだ。

 明日は仕事だから、朝ごはん用にパンも買ってこなきゃ。隣の家から漂うカレイの煮付けの匂いを嗅ぎながら、近所のスーパーに向かって歩いていた。

 

 

 森川と出会ったのは三年ほど前、大学生四年生の春だった。彼はゼミの自己紹介で珈琲とビル・エヴァンスとヘミングウェイが好きなんだと言っていた。如何にも、という感じだったから最初は遠ざけていたけど、何度か話しているうちにそれが恰好じゃなくて本当に好きなんだと分かって、私の方から惹かれていった。

 

 付き合い立てのころ、私は珈琲が好きじゃなかった。彼が珈琲を淹れる時「今日は美味しくできたよ」なんて言われて一口飲んでみることがあったけど、舌が痺れるように苦いし、飲み干したら口が酸っぱくなるし、何が美味しいんだか全然分からなかった。

 でも、彼が珈琲を淹れるのを見てるのは大好きだった。

 彼はいつも、豆から珈琲を淹れた。珈琲豆の保存してあるガラス瓶を開けると、ほろ苦い香りが溢れてきて私の鼻が期待感でいっぱいになる。豆をミルに移してハンドルを回すと、その匂いが部屋中に広がった。

 がりっがりっと豆を挽く彼の白い手を、私は隣で見ている。彼は病人を労わるように優しくゆっくりとミルを回す。

 珈琲豆は金属の刃によって押しつぶされて、バターみたいな油っこくて甘い匂いを放つ。私は、この時の香りが一番好きだ。周期的に響く鈍い音と香ばしい珈琲の香りが部屋に充満して、幸せな空間だった。

 お湯が沸いたら、彼は気忙しく何度も温度計をポットの中に突っ込んで、丁度良い温度まで冷めるのを待った。普段は左右バラバラの靴下でも気にしないような性質なのに、こういう時だけ神経質になるのが彼だった。

 粉になった豆にお湯を注ぎ入れると、さっきよりも柔らかい香りが部屋に拡散される。少し酸っぱくて、甘くて油っこくて、やっぱり苦い香り。

「蒸らしが大事なんだ」なんて言って少しだけお湯を注いで、きちんと三十五秒を計って、早く次のお湯を入れたいのをうずうず我慢している顔が面白かった。

 ぐる、ぐるとお湯を注ぐと、粉が風船みたいに膨れ上がって、ドリッパーの下からぽたぽたと出来上がった珈琲が滴る。全部落ちきったら彼は、緊張が解けたみたいに笑顔になった。

 

 香りはすっごく好きなのに苦くて飲めない私のために、森川はよくカフェオレを作ってくれた。お砂糖をたっぷり入れたアイスカフェオレは、グラスを揺らすと氷がからんからんと鳴ってなんだか嬉しかった。

 そのうち彼は、私に内緒でお砂糖とミルクの量を少しずつ減らすようになった。私がブラックで飲めるようにするための作戦らしい。私は気付いてたけど。

 でも、彼の作戦に気付かないふりをしながら苦い珈琲を飲んでるうちに、本当に飲めるようになっていた。

 

 私たちは順調に付き合っていたと思う。付き合い始めて割とすぐに一緒に住み始めたから、お互いの良いところも悪いところもいっぱい知った。私は彼の真面目さが好きだった。珈琲を飲んだり、音楽を聴いたり、小説を読んだりする時の真面目な表情が好きだった。彼は私の、正直なところが好きだと言っていた。君は思ったことが表情に出るから分かりやすいんだ、と言って笑っていた。

 揉め事はあまり起こらなかったけれど、たまに本気で喧嘩になることがあった。二人の考え方の違いとか、向き合い方の違いとか、そういう事でぶつかった時には二人が納得するまで話し合った。

 

 お互いに腹を立てたままだと話し合いができないから、そんな時には珈琲を淹れて、それを飲みながら話すのが私たちの約束だった。

 それは大抵、真夜中だった。お互いに理性が許す限りの暴言で戦って、怒って、泣いて、疲れて沈黙が訪れた時に彼が「珈琲でも飲もうか」と言うと私が頷く。がりっがりっという、いつもの音がキッチンから聞こえると私は少し安心した。あの油っこくて香ばしい匂いは食卓にまで漂ってきて、私をうっとりさせる。

 珈琲の入ったマグカップを彼が危なっかしく食卓に運んできて、向かいあって啜る。そうしていると、さっきまでの怒りが少し顔を引っ込めて、落ち着いて話すことができた。こういう時に飲む珈琲は、夜中に飲むという罪悪感も手伝って美味しく思えて、彼には言えなかったけど私は好きだった。

 

 

 お弁当コーナーに並ぶ商品はどれも美味しくなさそうに見えたから、どれでも良いかと思って一番売れ残っているものを選んだ。適当なジュースと明日の朝に食べる菓子パンを買い物かごに入れた後、珈琲や紅茶の置いてあるコーナーに足を運んだ。

 ドリップバッグの珈琲を買うかどうか迷った。珈琲器具は彼が全部持って行ってしまったから。

 さっき飲んだ安物の珈琲はあんまり味がしなかったけど、良いものを買ったら美味しく淹れられるのかしら。

 森川と一緒にこのコーナーに来ることもあった。どうしても忙しい時に飲む用のインスタントコーヒーとか、ペーパーフィルターとかを買いにきていた。

 

 

 私は多分、別れることを心のどこかで分かっていた。彼は時どき自分でも小説を書いていて、一年くらい前からそれにのめり込んでいくのを私は傍で見ていた。怖かった。

 付き合い始めた時から、森川はたまにどこかを見つめて考え事をする時があった。それはリビングでテレビを見ている時、キッチンで皿洗いをしている時、二人で音楽を聴いている時、突然訪れて、彼を違う世界に連れて行った。私は彼のその部分を知りたいという気持ちと、知ってはいけないという気持ちの間で押しつぶされそうになっていたけれど、やっぱり怖くて聞けなくて、知らないふりをしていた。

 一年前、彼が小さい新人賞を獲って以来、彼がその世界に行く時間は増えた。少し時間が経てばまた元の彼に戻って私に笑いかけてくれたけど、私が見てないところでまた、ぼうーっと考え事に耽っているのが私には分かった。

 私はどうすれば良かったんだろう。知らないふりをし続けたのが駄目だったのかな。私にも教えてって、彼にせがんだら私もその世界に連れて行ってくれたんだろうか。そうしたら、彼の中の世界にとって私は必要な存在になっていたんだろうか。

 ここ数か月は喧嘩すらしていなかった。決して、険悪な雰囲気じゃあなかった。今までのように朝ごはんを一緒に食べて、仕事に行って、晩ご飯を食べた後は音楽を聴いたりドラマを見たりして笑いあって、幸せな生活を続けていた。でも、ちっとも健全じゃなかった。お互いに思っていることがあるのにそれを言わないで、自分ですらそれに気付かないふりをして蓋をしていた。夜中に珈琲を飲みながらしていた喧嘩は、私たちに将来があると信じていた証だったって、私は最近になって気付いた。

 

 

 あの日の夜は、珈琲みたいな漆黒の空に星がぷかぷかと浮いていた。一週間とちょっと前の土曜日だった。ご飯を食べ終わってバラエティ番組を観ている最中、彼から別れを切り出された。

「話があるんだけど」

 眉間に皺を寄せて彼がそう言った瞬間、テレビの音量がざあっと上がっていって、司会のタレントの笑い声が鮮明に聞こえた。心臓がばくばく鳴って、彼の真面目な瞳に吸い込まれそうになって、そして森川はこう告げた。。

 小説を真面目に書きたいから君と別れたい。多分仕事もそのうち辞めるから、君と一緒に生活していくことはできない。彼はそう言っていた。

「付き合ったままでも小説は書けるよ。私の収入だけでも暮らしていけるよ」

「でもさ、迷惑かけちゃうから」

「私はそれでもいいから。小説書きながらでいいから、まだ一緒にいて」

 涙目で訴える私を見て、彼は困ったような優しい顔をしていた。

 早口の関西弁で喋るテレビの中の芸人がうるさくて、電源を切った。それでも聞こえる換気扇の音に落ち着かなくて、身体じゅうの力が抜けて、重力がいきなり十倍になったみたいにして私はソファーに沈み込んでいった。

 私はなんて言ったらいいか分からなかった。言いたいことも聞きたいことも沢山あるのに、沢山ありすぎて私の頭の中で靄になって渦巻いて、形にならないままだった。

「ねえ、珈琲が飲みたい」

 沈黙が怖くて隣に座る彼の手を取って、やっと出てきた言葉はそれだけだった。彼は手にぎゅうと力を込めて、「うん、いいよ」と言ってくれた。

 

 彼が一人でキッチンに立って、豆を挽き始めた。先々週に買ったコロンビアの豆は、チョコレートみたいにほろ苦くてドライフルーツみたいに甘い香りを食卓にいる私のところにまで運んできた。ゆっくりと、周期的に聴こえるコーヒーミルの鈍い金属音を聴いていると、私の身体と心がどんどん落ち着いていくような気がした。

 がりっがり……がり……。なんで森川は私から離れていくんだろう。どうしたら、まだ近くに居てくれる?

 いつかこの夜が来ることを分かっていたはずなのに、本当に言われるなんて信じていなかった自分もいた。さっきだって一緒にご飯を食べた。昨日はスーパーに一緒に買い物に行った。不安定で綱渡りみたいだけど、こういう生活がずっと続くと思っていた。

 がりっがり……がりっがり……。彼はよく言っていた。焦って早く挽いてはいけない。心を落ち着かせるように、ミルはゆっくり回すんだ。キッチンからは、いつもと変わない、丁寧に豆を挽く音が聴こえてくる。がりっがり……がり……。

 そのリズムに身体と思考を委ねていると、なんだか今回もなんとかなるような気がしてきた。これまでだって別れ話をしたことは何回もあったけど、珈琲を飲みながら一晩中話せば、いつの間にか仲直りしていた。彼は今日だって優しいまんまだ。ちゃんと話せばきっと、まだ私のそばに居てくれる。鼻腔に届く香ばしい匂いが、私にそんな錯覚をさせた。

 

 手に二人分のマグカップを持って、彼は食卓の向こう側に座った。俯いていた私の視界にマグカップを持った彼の手が伸びてくる。香りで、今日は美味しく淹れられた日だと分かった。

「ありがとう」

 そう言って私が顔を上げると、困ったように優しく笑う彼の顔がそこにあった。

 私はそれで、ぜんぶ分かってしまった。彼の心はもう、私の手の届かない場所にある。私が何を言っても、彼の決心が変わることはないのだと。

 言おうとしていた説得の言葉が頭から全部吹き飛んで、代わりに視界に涙がにじんだ。

「ひどいよ、森川」

「そうだね、ごめん」

「結婚するんだと思ってたよ。このまま」

「うん、僕も前まで思ってた。本当に」

 頬をつたう涙が大粒になって、食卓にぽろぽろと零れていった。止めたいのに止まらない。胸が張り裂けそうに痛かった。 

「ごめんね」

「謝らないでよ」

 謝られたら、彼と別れることがいよいよ現実になってしまう気がした。

「いつから考えてたの?」

「賞を獲った時から。このままだとお互い不幸になるって思って。どうすればいいか考えていたけど、これしか方法はないと思った」

「森川にとって私は邪魔だった?」

 私の質問に彼は眉を上げて困った顔をしていた。

「邪魔だったわけじゃない。これは僕の内側の問題だ」

 答え方が彼っぽいなと思った。小さく「そっか」とだけ返して私は珈琲を啜った。いつもと同じ優しい苦味が、今日はやけに舌に絡みつくように感じた。

 

 

  それから一週間で森川は荷物を片付けて、昨日の朝いちばんに出ていった。

「今までありがとう」

 マスコットの付いた合鍵を私に手渡しながら、彼は私の目をまっすぐ見つめてそう言った。

「うん、こっちこそ」

「忘れ物があったら、悪いけど処分しておいて」

「……うん」

 伝えたかった言葉は沢山あるはずなのに、何か口に出そうとする度にそれが引っ込んでいった。

 やっとのことで私の口から出たのは、情けないくらいありきたりな言葉だった。

「元気でね」

「君も、元気で」

 少しだけハグをして、彼は扉の方を向いた。振り返る時に彼の目尻がきらりと光ったのは気のせいだろうか。「じゃあね」と言って彼はそのまま出ていった。

 

 

 結局、ドリップバッグは買うのを辞めた。代わりに家に着いたら、通販でドリッパーとミルを買おう。

 私は知らないうちに、珈琲の味が分かるようになっていたらしい。以前珈琲を淹れるのを練習させてもらった時には上手にできなかったけど、もう淹れてくれる人はいないから、私がやるしかない。

 多分まだ、泣きたくなってしまう夜はあるけれど、珈琲が慰めてくれる。

 真夜中に一人で飲む珈琲はどんな味がするんだろうか。またちょっと涙が出てきそうになってきて、私は慌てて珈琲売り場を後にした。

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