第七章

第一節 荒天

 一度受け入れてしまえば、降り注ぐ雨は快となる。立ち止まって顔を上げ、頬で唇で雨粒が弾ける感覚を楽しむ。低く沈む鉛雲に包まれた空も今の眼には眩しく映った。舌を出して口に飛び込む雫を味わってみるが期待した味はない。「風に巻かれた港の雨は微かに潮が香る」と聞いて、一度味わいたかったのだが。

 細長く伸びる通りに目を落とす。村の中では大通りだろうが、大型車とすれ違う時には少し減速をしたくなるような心もとない道幅だ。道の中央に停めたパジェロの横で目を細めていると、百メートルほど先で懐中電灯の光がかすかに踊るのが見えた。

「遅かったな、誰かいたか」

「いえ、流石にもう誰もいませんね。撤収命令出たんで引き上げましょう」

「そうか、早いな」

「結構近くでも降ってるみたいッすよ」

 暴風に身体を流されながらドアに縋りつく。車内に入ると水分を纏った雨具と戦闘服が体にまとわりつく。

「……やっぱ俺たち臭ェな、隊長気になんないンすか」

「うるせぇぞ、気にしないようにしてんだ」

「下手に風呂入ったり寝たりするもんじゃないッすね、今朝のサバ味噌旨かったなぁ」

「あーもう余計なこと言いやがって。また腹減るだろ」

「今日終わったらまた食えますよね?そのうち帰れますよね?」

「そんなもん知るか」

 昨日の昼の下命はとてつもなく妙なものだった。無線を全く解さず、指揮官は所属も明かさず隠れるように物陰で通達してきた。そして前祝いかのように、長らく遠ざかっていた真っ当な食事と休みを与えられた。

「喰いもんにハイになる薬入ってないか心配だったンすけどね」

「別に死にに行けって言われてるわけじゃないんだろ。巣までエスコートして、その誰かさんが何か作業して無事帰ってくれば、いくらでもうまいもんも食えるだろ」

「そしたら暫く休暇取りてェなあ、この辺走りやすそうッすね」

「例のRNC7どうしたんだよ。いい加減嫁にバレたか」

「避難勧告の後から屋外駐輪のままなンすよ。絶対錆び出てるわ、泣きてェ……」

 任務が無事で済まないのは互いに承知だが今更何かを変えられるわけでもない。不自然に饒舌な武藤の会話に付き合っていると任務開始地点に足向ける緊張を意識せずに済んだ。

 パジェロは、衝突地点及びセイリュウの巣があると推定される水戸・大洗周辺から離れる方向に走る。一面をガラスで覆った複雑なデザインのビル達が、バックミラーの中で競うように背伸びしているのが小さく映る。

 集合地点は市街地から離れた高台であった。到着すると車両の脇に待機する人影がいくつか見えた。全体に痩せているのに腹だけがポッコリと出た体型は、昨日下命した上官だとすぐに気が付いた。そして隣りは、女か。コイツが派遣されてきたお偉いさんの手先だな、まったく損な役回りを――。

 次の瞬間、撃たれたように身体が硬直した。

「あれ?隊長、あの人」

 武藤が言うより早くアクセルを思いっきり踏み込み二人の前で急停車する。サイドブレーキを荒っぽく引くとアイドルのまま車から飛び出した。

「ショウ!」

 何を言われようが知ったことか。真琴にキスをし、抱き合うと首筋の臭いを嗅いだ。腕をつかみ、背中を掴み頭をなでる。懐かしい髪の香りが満たされて膝の力が抜けそうになった。だが、気付けば別の感情が心を塗り替えていた。

 警護するのは真琴なのか。彼女を巣まで連れて行くのか!

 抱きしめる腕に力が籠る。痛いのか、真琴が少し腕を伸ばして身体を離そうとする。震えていて、弱く冷たく柔らかい手。今日この時ほど、何かを守るという使命を直接的に感じることはなかった。高熱の血がめぐり出し、身体の中で暴れ出そうとしている。

「絶対一緒に帰るぞ」

 囁くと真琴が頷くのを感じて、やっと腕を離した。高揚した真琴が見返してくる。

「頼んだぞ、内田隊長」

 上官がこぼす囁きに振り向くと、上官は巣があるだろう方向から目を離さずにいた。

 高台は背の低い緑に囲まれ、枝葉の間から遠くのビル街が一望できる。低く雲がのしかかる人工の針山に目を凝らすと、空の上から赤々と燃える破片が時折降ってくる。まるで小学校の頃に見た恐竜絶滅のイラストの背景のようだ。

 武藤が黙って寄こした双眼鏡を覗く。遠目からは細かい破片のようだったが、拡大されたギャオスの肉片はかなりの重量のようで、ビルに墜落する度濛々と煙が吹き上がる。風に流されるような重量とは思えない。もう真上か、始まりが近い。

 双眼鏡から目を外すと真琴の眼差しが交錯した。何か言うより早くこちらに身体を向けると手を差し出してくる。

「では改めて。宜しく内田隊長」

 握り交わした手は先ほどまるで違う。簡潔で、熱く固く、研究者たる彼女そのものだった。


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