第二節 スパイ

 私が二十四歳の時、十日間の泊まり込みでガンビアのヒー・クンダ西にある小さな村に行った。

 研究者として本格的にやっていこうと燃えてた私は、ゼミの教授のツテで長峰研究室に飛び込んだ。日本はこの頃から戦略的ODA事業の一環としてJapan Education Program for Rehabilitationというのを展開してて、ギャオス被害が大きいアフリカ・東南アジア・中南米地域を中心に日本の対ギャオス戦略を教育プログラムの一環として海外に提供してた。私は雑用係として使ってくれって頼み込んで、このプログラムに参加したんだ。


 サングラスを外した時の空の青さは今でもよく覚えてる。雲一つない、私の全てを受け入れてくれそうな空に一目ぼれしちゃって、本気で永住しようか悩んだくらい綺麗だった。

 村の人たちはすごく親日的で、警戒されるかなと身構えてた私は地元の学校に行くなり子どもに取り囲まれて、鬼ごっことかぶら下がりっこにさんざん付き合わされた。

 全校で二十人くらいしかいない学校の中で子どもたちのまとめ役をしてたのが、シセっていう名前の女の子だった。シセは落ち着きのない下級生を座らせたり先生の手伝いをしたりするようなしっかりさんだったけど、私の下手くそな発音を面白がったりする悪戯好きなかわいい子だった。


 でも最初の歓迎ムードに反して、私たちの避難プログラムを受け入れてもらうのは凄くハードルの高い作業だった。村の土着宗教の信仰対象はギャオスとの親和性がすごく高くて、彼らはギャオスの襲来を天啓だと考えてた。私たちが持って行った食料や日用品はあっという間になくなったのに、配布を頼んだ紫外線懐中電灯とか避難用パンフレットはいつまで経っても村役場に山積みのままだった。


 今でもよく思い出す、六月八日の朝六時ごろ。


 あの時は、村から数百メートル離れた硬い地盤に何とか掘った研究用の壕で雑魚寝してたんだ。誰かに叩き起こされると壕の中は早口で聞き取れない英語と民族語が飛び交ってて、皆の青ざめた顔で私もすぐに何が起こったか分かった。何にも考えずに大慌てで壕の出口まで這ってくと現地ガイドの人に思いっきり足を引っ張られて、その時外の風景が見えたんだ。

 壕の外の平原はどこまでも広くて、薄ピンクの素敵な朝焼けだった。そしてずっと向こうにある地平を無数のギャオスが低空で飛んでくのが見えた。近くのコロニーが崩壊して大移動が起きたっていうのはその後分かったことだった。


 私は何にもできなくて、壕の中で陽が昇るまでずっと祈るしかなかった。神様でも仏様でも誰でもいいから、ちゃんとみんなを隠して下さい、助けてくださいって。

 そして私はこの時を最後に、あいつらに向かって何かを祈るのを止めた。


 日差しが強くなってやっと村に向かうと、村が壊滅してるのは一目でわかった。昨日ご飯を食べたところも、子どもと遊んだ学校も全部壊されちゃって、それが悲しくて仕方なくて、怪我人を介抱したり救出活動をしなきゃいけないのに、私は村をフラフラ歩いてボロボロ泣くしかできなかった。

 やっと村役場の近くまで歩いていくと、パンフレットもギャオスから身を護る忌避用品もそのままで、その前に布が掛けられた犠牲者が並べられてた。シセもその中にいて、硬直した細い手は、きっとみんなを助けようとしてくれてたんだと思う、私が学校で配ったパンフレットを握りしめてた。


 右手首にはめたシセの手首飾りの感触を確かめる。


 シセは友達のしるしに、自分の青い手首飾りをあげるとずっと私に言ってくれてた。大事なものは貰えないよって断ってたんだけど、シセが亡くなった後、彼女の両親が私にくれた。

 その時から、私は気分が高まったり怖くなったりする時にこれを触ってあの記憶を呼び起こす。トラウマで恐怖で、私の進むべき方向を教えてくれる記憶。


 車窓から外の風景を眺める。ゆったり広い道と緑がいっぱい茂った街路樹、古臭いけど威厳のある建物の数々、ほんの一週間前まであった永田町の光景はもうない。電柱の下には回収されないゴミが背丈くらいまで山積みで、それを漁るカラスやネズミが時々車の前を横切ってく。建物も門や扉に鎖がグルグル巻かれてて、もうずいぶん前から廃墟だったみたいな姿になってる。当たり前って、こんなに早く壊れちゃうんだな。


 グレーのアウディはその中を進んでいく。いつもなら気を利かせて点けてくれるカーナビのテレビもラジオも、軽い小話も今日はない。真顔を保ってみるけれど、本当はどんな顔をしていいか分からない。

 車は私の知らない場所を走ってく。急ぎもしないし迷いもない。


 誘いを断ったからすぐ何かされることもないだろうけど、きっとそれもこれからの身の振り方次第だ。頭の中で、彼の最後の言葉がグルグル回る。


 ――長谷部さんの正義と知識は、日本という一国家に拘束されるべきではない。我々に協力していただきたい。


 車のスピードが落ちて、近くに建物もないところでゆっくりと停車した。彼はバックミラー越しに私を見ると、いつもと同じ誠実そうな表情で話し始めた。

「今から十分間、この車内で行われる会話はいかなる国家・組織にも盗聴されません。十分間だけお付き合いください」


 さっきからずっと、最初の質問を考えてた。


 一国家、我々、協力。

 あんまりビックリしたからもう一度問いただしたけど、彼の発言は変わらなかった。竹下さんは数分前、私に対して自分が何らかの組織のスパイだということを自白してきた。

 スパイにとって自分の正体を現すのは最終手段のはずだ。脅迫でも買収でもなく説得という手段に出たのは、私が独り身で金銭欲に乏しいからか、それとも彼自身の誠実さからか。ただ正体を暴露したからには、もし私がそれをどこかに公表しようとすれば口封じをされるってことだ。だからまずは彼が告白してくれた誠意を受け止めて、最低限の安全を確保しないと。


「……あなたの所属は?」

「一国家の所属ではありません、とだけ申しておきます」

「あなたに関して私が知っている情報で、虚偽であるものは?」

「長谷部さんには偽りなくお話しているつもりです。氏名竹下遥、年齢三十六、岩手県旧仙台市出身。一九九六年一月のガメラとレギオン草体の衝突で家族・友人・故郷を喪失。本人はボーイスカウトキャンプで県外におり、その後孤児となる。情報の秘匿があっただけです」


 本当は聞きたいことが沢山ある、なんで?いつから?

 人を見る目に自信がある訳じゃないけど、竹下さんは正直な人だと思ってたし、今もそう思う。なんとなく、ウソをつくのは得意じゃない気もする。

 今目の前にいる竹下さんは、普段と変わらない。真っすぐで真剣な眼差し。ってことは、この人はここ数日で脅されてスパイになったわけじゃない。自分の信念から、ずっと前からこうだったんだ。じゃあ、私たちと仕事したり給湯室で喋ったりしてたのも、このため……?

 すごくショックだけど、そんなこと顔に出していられない。これは勝負だ、私と彼の。


「あなたの、あなたたちの目的は」

 たぶん、この質問を聞かれるのを期待してたんだ。質問するなり彼は身体を前に乗り出した。

「我々の目的はセイリュウです。あれは今、日本とアメリカが占有している状態にある。これは地政学的に非常に危険な状態であると同時に、いま世界中で起きている危機的状況の解決の遅延に繋がるものです。我々はこれを解決したい」

「危険?日米がセイリュウを軍事利用するってことですか?」

「特定の国家によって誘導のメカニズムが解明され利用されれば、世界中に拡散したギャオスは生物兵器と化します。ですが、もしそのメカニズムが超国家的、つまり世界中で共有されれば、各国がギャオスの被害を抑止するために利用することもできます。しかし国家はそれそのものの利益だけを追求する性質をもちますから、現在の状況のままでは難しいでしょう。メカニズム解明はともかく、セイリュウそのものを国外に拡散させることが急務なのです。それに、長谷部さんは軍事利用と言いましたけれど、我々はセイリュウをそれ以上の存在として見ています」

「彼らの知能ですか?」

「その通りです。彼らは人間に匹敵する知能を有していると我々は考えています。認知発達の順序を追求し彼らの思考を理解できれば心的帰属、つまり他者への欲求や行動意図に関わる特性の進化発達のメカニズムをも理解できる可能性が見えてくるのです」

「……あなたたちのやりたいことがよく分かりません。今更セイリュウとコミュニケーションを取ろうとでも?」

「あの個体だけの問題ではありません。現在最も活発な研究対象である人工知能も、その枠組みは人間の思考モデルをなぞったものです。人間と全く違う発達段階と知性獲得順序を持つ、人間と同等かそれ以上の知性の存在は、新たな研究領域を生み出し人間社会に飛躍的な進歩をもたらすものです」

「そんな呑気な話をしてられる状況じゃないと思います。セイリュウに核攻撃が加えられ駆除されるのは決定してます。研究以前に、セイリュウは人類の敵なんです。そんなのを助け出すなんて絶対にやるべきじゃないし、第一できっこないです」


 彼は何か言おうとしたけど、それを止めてボンネットから一枚の写真を取り出した。

 写真は前回の作戦中の第一目標の空撮みたいだ。写真の真ん中に映る第一目標のちょうど後ろで爆発が起きている瞬間を撮ったものだ。その膨らんだ腹部には、爆発の発光で透けて見える無数の球体がハッキリ見える。

「すごい、やっぱり妊娠してたんだ……」

「卵の直径は推定二メートル、どう思われます?」

「どう、って」

「行動予測です。セイリュウは産卵する。長谷部さんならどう行動すると考えます?」

「……二メートルって大きさが事実なら、そのまま硬い地面に産み落とせば割れてしまいます。だから恐らく産卵場所は柔らかい砂地か水中です。この写真が六日前とすると、卵の成熟はかなり進んでいるはずです。産卵場所は多分川か海か、いずれにしろ水源の近くです」

「さすがです。我々も同じ結論を得ましたし、日米も同じようです。米国内では核攻撃積極派と穏健派が強く対立していて、穏健派に一部の企業がけしかけて核攻撃延期と卵のサンプル獲得を大統領に働きかけているようです」

「じゃあ核攻撃は延期に?」

「それは難しいでしょう。米国も建前がありますしサンプル取得は機密事項ですから。ですが日米でサンプルが喉から手が出るほど欲しいのは共通している」

「サンプルって言っても、二メートルの卵殻をどうやって」


 竹下さんは運転席からもっと身を乗り出して、目線を私の目にしっかり合わせてきた。

「長谷部さん。恐らく今日か明日、貴女に密かに指令が来るはずです。米軍は予定通り核攻撃を実施するつもりですが、おあつらえ向きに巨大な台風が攻撃予定時刻に宇都宮付近を通過する予定で、恐らく攻撃が延期されます。その瞬間を見計らって卵に近づきサンプルを取得しろという内容です。サンプルは卵の胚。どの分裂期にあってもそれさえあれば、いかなる生物も再発生させられるんです」

「胚だけで?そんな、そんな技術が」

「あります、元々は我々が開発した技術です。日米両国はその技術に関して後塵を拝していますが、そのことよりも我々がセイリュウ関連の情報を国外に拡散させることを恐れています。長谷部さん、貴女には命令通り任務をこなすと同時に別の容器でサンプルを取得し、それを我々に渡していただきたいのです」


 眼を合わせているのが辛くて背もたれに寄りかかった。

 あんまりにいろんなことを聞かされたし、選択肢も多すぎる。どうすればいい、私は何のために行動すればいいの。教えてシセ。


「長谷部さん、そのリングは過去の物じゃないんです。今も世界中のどこかで起きている悲劇の破片です。貴女はギャオスも国家も知りながら、それでいて自分を見失わないでいる。その正義を失うべきじゃない、いつまでも先生の愛弟子でいるべきじゃない」


 カーナビのテレビが点いて、チャンネルが回された。ほとんどのチャンネルがギャオス被害を伝える報道や避難の中継を流してる。彼は一つの番組にチャンネルを合わせた。

「貴女が長峰先生に強く憧れてて、その生き方やキャリアに魅かれていることはよく知っています。でも見てください、これが彼女の今の姿です。彼女は国家に近づきすぎた。国家は近づくものを吸収し国家そのものにしてしまう。引き換えに得られた権力は個人の物のように見えるが、やはりそれも国家機能の一つだ、個人の人格や思想ではもはや制御できない。長谷部さん、貴女はこうなりたいんですか」


 画面には片道三車線の大通りが映ってて、その上を敷き詰めたように避難者が歩いてく様子が中継されてる。車線の両脇には重機が動いてて、避難者はアスファルトでなく鉄板の上を歩いてる。テロップには『避難と道路拡張工事 同時並行で』の文字。


 でも、これは拡張工事なんかじゃない。

 鉄板の下に埋まっているのは地雷だ。核攻撃するまでに逃げられないよう、セイリュウが通過しそうな区画に何かと理由をつけて工事をして、私たちが算出したセイリュウの推定体重以上の衝撃で爆発する地雷が何重にも埋められてるんだ。セイリュウよりはるかに軽いから起爆の危険性は低いけど、国民は何も知らされないで爆弾の上を歩いてる。そして、この計画は私の目の前で先生が立案して総理に提案したものだった。私はこの時から先生が、私たちが守ろうとしてるものが、よく分からなくなった。


「もし」

 そう、もし、だ。仮に私が先生の、日本の正義から背を向けるとしての話。

「協力したとして、その後は」

「残念ですが、我々が日本国内で長谷部さんの安全を保ち続けるのは困難です。セイリュウに関する殆どの情報は国家機密であり、それらの情報や生体の国外流出に関わった場合、法律に照らし合わされるまでもなく内密に処理される可能性が高くなります。幸い我々は海外でも顔が効きますし、日米以外にしてみれば長谷部さんは英雄ですから、行先には困りませんよ」

「国外逃亡しろと」

「そうなります。ですが惨めな隠遁ではない。敬われ重用され、長谷部さんの正義を貫き通すことのできる生き方です」

「私だけの?」

「ご家族ご親族まで手を回すことは難しいでしょうが、フィアンセならあるいは」


 ショウと二人?

 昔そんなことを考えたこともあった。二人でガンビアに行って、何もないしご飯は味が薄いけど、二人で自然と隣り合わせの生活がしたいって。百を千に伸ばすんじゃなくて、何もないところから何かを生み出すのを楽しむような生活。


「時間です。僕からできる限りのお話はしました。後は長谷部さんがどう受け止められるかです。ゆっくり考えていただく時間はありません、明日午前八時までにお返事をいただきたいと思います」


 軽い音を立ててドアロックが解除された。もう一度振り向いた竹下さんは今日初めて笑った。

「こんな暑いのに申し訳ないのですが、一分ほどしたら黒いタクシーが来ますので、それに乗って下さい。また明日お会いしましょう」

 アウディから降りると、立ってられないほどの悪寒がきた。タクシーが来るまでの時間はすごく長くて、この世から私の居場所がすっかり無くなったみたいだった。

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