第六章

第一節 宣伝

 ――大型の台風十三号は、非常に強い勢力を保ったまま北上を続け……


 どこかのバカが最大音量にしたラジオ放送が眠気を削ぎ、仕方なしに脳が活動し始める。明瞭になる意識と同時に、空腹がもたらす肋骨の裏側に張り付くような痛みと、インフルエンザに罹った時のような手足のけだるさと、汗と酸化した脂と垢が引き起こす関節周辺の痒みが目を覚ます。

 醒めなければよかったと後悔するのも、ここ二日ぐらいか、とにかく最近はもうそれすらない。どうでもいい、あまり考えたくない。

 肘や首の辺りを搔きむしるが、ゴワゴワの防護服と手袋のせいでうまく届かない。イライラして無駄に腕を動かしたせいで身体は本格的に覚醒を始めた。

 真夏の強烈な日差しが白いテント布を突き抜けて睡眠不足の目に刺さる。最近ほんの数メートル先でさえ焦点が合うのが遅い。しばらく隣を見ているとようやく、寝ぼけた武藤の顔を這いまわるハエがなんとか目で追えるくらいになった。

「……何分経った」

「五分ってとこッす。そろそろ着替え終わるんじゃないッすか」

「まだ終わってねえのか、化粧するわけでもねえのに」

 緩いウエーブパーマ、七三分け、細身のブルーストライプのスーツ、ロゴが彫り込まれた太縁眼鏡、ブランドのサングラス、真っ白いスラックス、七三分け、シルクのネクタイ。

 着替えに行った三人の格好を思い返してみる。マスクと防護服の中にハエが入らないように着替えるのには俺たちでも最初苦労した。サッサとマスクだけつけて、防護服の中に入ったのは上から叩いて潰しちまえばいいんだが、数時間前まで冷房の効いた空気を堪能していたような奴らには無理な話だ。

 武藤が立ち上がった、着替えの様子を見に行くらしい。テントの中には既にハエやガの死骸が堆積して、歩くたびにシャリシャリ音を立てる。ちょうど武藤がテントの区画を仕切る二重の透明シートの前に近づいた辺りで耳障りな会話が聞こえてきて、急いで立ち上がった。

「いやァお恥ずかしい限りで。誠に申し訳ない……。あのさあ君たち、ある程度は仕方ないと思うけど、訪問者があるって通告があった時点でこの辺掃除ぐらいしようとか思わない?今待ってる時間にちょっとでも掃除した?」

 開口一番、防護服の上に張ったガムテープに「ムロヤ」と書いた役人が質問してきた。何か言おうとしたのに、二つも質問するからどっちを先に応えようか迷ってるうちに会話は遮られた。

「まあまあ室谷さん。最前線で仕事されてるところお邪魔するんですから。お二人ともお待たせしましたね、参りましょうか」

 さっきの質問に応えようと思ったのに、更に会話が割り込んできてどうすればいいか迷っていると、役人と他の二人は勝手にテントの外に向かって歩き出した。仕方なく後に続いて、区画を仕切る透明シートの辺りで先頭に立つ。

 休憩所の外に出ると、セミの大合唱と防護服越しに伝わる太陽熱が倦怠感を増幅させた。軽く口呼吸しながら最初の集積所まで歩を進める。

 後ろを歩く「ムロヤ」は今朝、十キロ以上になる今日の移動行程がすべて徒歩だと俺に知らされてからずっと機嫌が悪い。その後ろを、どっかの広告代理店から来た男とカメラマンがついてきているんだが、ガムテープの名前が小さくて読めない。ついさっき名前と所属を聞いて、代理店なんか結構有名だと思ったのは覚えているんだが、肝心な名前も会社名も全く思い出せない。最近物を覚えていられる時間が短い。

 集積所まで五百メートルほどに近づくとハエの密度が一層上がって視界が悪くなる。最近は目や鼻に入らなければ顔にハエがはい回っていようが気にならなくなったが、大量のハエが防護服やマスクのグラス越しにカンカンぶつかるこの感触は未だに慣れない。

 役人と広告屋の脚が止まった。足元を見て互いに顔を見合わせている。

「……行かないんですか?」

「何だねこれは」

「何って……血と脂ですけど。滑るんで気を付けてください」

「そんなことはわかってる!掃除に一週間も掛けておいて何だこの有様は!」

「何だって、この先の避難所にGHが入ったんですよ。中で暴れたから入口も壊れてて死体もバラバラだし、手作業で搬出してます。最初は水で洗い流してたんですけど排水管が詰まっちゃいまして」

 道路脇の排水溝を指さす。アスファルトもコンクリートも腐った人肉と血液がこびりつき、脂肪分が表面に浮かび上がって真っ黒い油性塗料のように虹色に光っている。排水管は髪の毛と脂肪が絡まり、中で発生しているガスが時々排水溝からブシュッと吹き出す。役人はもう吐きそうな顔をしているが、広告屋は目を輝かせカメラマンは気が触れたようにシャッターを切る。

「素晴らしい!やはりドラマがある。室谷さんこれでいいんですよ、今までの現場で一番期待できますよ」

 集積所の中は搬入班・撮影班・搬出班が緩慢な動きで作業をやっている。昨日より少し片付いたが、死体の状態が悪化しているのは一目でわかった。一昨日ぐらいまでは白とか緑色っぽい感じでフォルムも人間っぽい形だったのに、今は黒っぽくて膨れているのが多い。人間も寝かせたパン生地みたいに丸くなるもんだ。

 大体一キロ間隔で作られている集積所を歩き回っては、広告屋とカメラマンが写真を撮るのを見守った。普段より格段に楽な作業だが、モノを考える余裕ができるのは苦痛だった。

 一昨日久しぶりに真琴と電話した時は、ずっと泣いてばかりで何を喋ったのかよく覚えていない。もっと生きたいとか人間らしい会話がしたいとか考えてしまって、電話が終わったあと余計に辛くなった。

 両親と連絡は取れているが、避難先を転々としていて今は栃木の辺りにいるらしい。電話越しの父親の声は以前の尊大さをまるで失っていて、聞くに堪えないほど精神的に衰弱していた。

 誠二はどこで何をやっているのだろう。アイツが家を出ていく前の夜、俺のことを「完成品」と言いやがったのが結構胸に刺さっている。それなりに良い兄貴やっている自信があったのか、気が付くと何も言い返せなかったあの時の会話を思い返してしまう。

 四つ目の集積所から三人が出てきた。最初は上機嫌だった広告屋もカメラマンも役人と揃ってだんだん不満そうな顔をし始めていたが、どうやらそれは歩き疲れたせいではないらしい。

「いやー、ここもダメですねえ。どう思う西川クン」

「そーっすねぇ。最初のところと同じインプレッションっていうか感激度が同じって言うか、メッセージが代わり映えしないってのはありますねえ」

「隊長さん、なんかこう……もうちょっと何かありません?」

「はあ?」

「いや、何というか、単調なんですよ。画的にね」

「……言ってる意味が分かんないですけど」

「もうちょっと写真映えする死体がほしいってことですよ」

 意味が分からなくて黙ってると、ムロヤがイライラした顔で会話に割り込んでくる。

「隊長さんには難しい話かも知れないんだけどね、我々の活動も立派な国防であって国家戦略なんだよ。今回の尊い犠牲を国内外に知らしめて、負の感情を結束と国力に転化できるのは宣伝しかない。申し訳ないけどここにある死体は、なんていうか」

「ダイレクトっすよね」

「そうそれ、直接的すぎるんだよ。言っちゃ悪いんだけどさ、グロテスクで汚いわけだ。こんな死体だとモザイク掛けるか雑誌の袋とじくらいでしか使えないんだよ」

「細かいこと言わせてもらえば、写真から悲惨さが出すぎちゃうと自省に繋がっちゃうんで宣伝としては使いにくいんですよ。私たちが求めてるのは『程よく泣けて程よく怖い』画なんです。もう少し保存状態がよくて、人の絆を感じるようなドラマチックな死体が理想なんですよ」

「川とかの死体どうっすか?水でクールダウンされてたらなんかうまいことプリザーブされてそうだし」

「川のはもう真っ白い風船みたいな感じですよ。突っつくと破裂しちゃったりするんで近づかない方がいいです」

「気温の低い、高原なんかの方で見てくれが良さそうなのは無いのか?」

「こことあんまり変わらないですよ、三日ぐらい前だと人間っぽい形してましたけどね」

 その時、広告屋が手を叩いて顔を上げた。

「焼死体だ!焼けてるならまだそれらしい形が保存されてるでしょ!」

「そうか、流石エリートさんだ!子どもや老人を守る家族なんかあれば最高の一枚ですな!おい隊長、すぐ付近の集積所に綺麗な焼死体がないか問い合わせてくれ!」

 化繊工場の近くの集合住宅で火災があったらしく、近くの集積所に向かうことになった。道路の反射熱で気温は四十度近いが、腐敗が進めば始末に負えなくなるため隊員に休む暇はない。

 若い隊員が、ふらつきながらリヤカーで押していた死体を目の前で倒した。先輩隊員が止めろと言うのも聞かず、死体の腕を引っ張ったら腐った腕が肩から抜けてしまい、隊員は足を滑らせて背中からドロドロの路面に倒れ込んだ。

 ――何やってんだバカヤロウ、路面汚しやがって!防護服もただじゃねえんだぞ!

 口から溢れそうになった罵声を、件の先輩隊員が代弁した。こういうバカのせいで路面が汚れて車輪やギヤに脂が詰まるから、車両もバイクも自転車すらも使えなくなる。尻拭いしてどやされる上官の身にもなってくれ。

 化繊工場脇の死体はたいそう役人どもの心を打ったらしく、広告屋は鼻をすすって黒焦げになった赤ん坊に手を合わせた。そして密集したまま焼けて固着した死体を嬉しそうに撮影し始めた。再興・結束・決起・感動。体のいい言葉がポンポン滑り出してくるのを見事なもんだと眺めていた時だった。

「ギャァァアアア!ウガッ、ガッ!」

 カメラマンが死体の中で転げまわっていた。ブカブカの防護服と防毒マスクは子どものような等身で、縮尺をいじれば駄々っ子が地面で転がってるみたいだ。よく見るとマスクが上がっている。

「き、君!何をやってるのかわかって、うわ、おい!隊長、なんとか、ウワァァ!」

 顔中にしわを寄せた武藤が、のたうつカメラマンを跨ぐとそのまま役人に飛び掛かってマスクを乱暴に跳ね上げた。防護服越しでも手に染み付いて仕方がない腐臭で呼吸器が麻痺してるらしい。役人は涙と唾液を詰まらせながら必死に酸素を求めるが、その喉と鼻には大量のハエが流れ込んでいく。

「な、なあ待ってくれ!無礼があったなら謝る!君たちの苦労は、うわあ嫌だ!止めろクソッタレ、オアァァァ!!」

 武藤は一言も発さずに広告屋のマスクも跳ね上げた。目が血走って涙があふれている。そうか、所帯持ちだとこういうのは琴線なのか。自分を失わないで正しく怒れるコイツが羨ましいな。

 俺の方はどうだろう。おかしくなってないかな。

 足元にちょうど頭が割れたポニーテールの女性の死体を見つけたので、試しにしゃがみこんで真琴を投影してみる。口を開け閉めして

「ショウ、ショウくん」

 呼びかけさせてみるのだが感情の起伏はまるでなく、目の前の死体はいつまでも生焼けの炭素の塊のままだった。


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