第一章
第一節 内田昭一
〇三四〇。
散乱したファイルを引き出しに収め、個室を出る。草刈り後の青臭さと湿気が充満する廊下を抜けて正面口へ。『入出チェック』とあるヨレたキャンパスノートを開き、新頁の二行目に名前と時刻を書き込み、建付けの悪い合金扉を引き開けると、今夜も慎ましくも美しい夜景が出迎えてくる。
基地の正面、福島盆地を囲む山々は塗りつぶしたように黒い。山頂から中腹を覆う森林の下は『生息域』、巨大な害鳥が蔓延るエリアである。
三〇年ほど前の総力戦で、日本は人類の敵である害鳥ギャオスを森林に押し込み、そのエリアを『未国土』として封鎖した。目の前に広がる広大な森林は、日本国内にありながら日本領土とは言えず、今この瞬間も木々の下では禍々しい害鳥や巨大な野生動物たちが跋扈している。だが闇夜はそれらの一切を表出させることはなく、ただ時おり頭を風に撫でられた原生林がつまらなそうに揺れるだけである。
そのまま暫く月明りに目を慣らしていくと、山の中腹から広がる木々が次第に明るくなるのが見て取れる。人の手が入り等間隔に植樹され正確に切り揃えられた密生林が、月明りを等しく反射するからだ。目線をさらに落とすと、森はやがて手厚く可愛がられた果樹林に変わり、梅雨明けの日差しでぐんと背を伸ばした稲になり、そして細長く横に伸びた草地に突き当たる。この辺りは『緩衝地域』、ギャオスと人間を隔てる境界である。草地には陸上自衛隊の基地と設備が設置され、この地域を管理・死守するのが我々、緩衝地域管理隊の任務である。
延々と続く農耕地は更に明るさを増す。水田に反射する月明りには街灯が加わり、寝静まった住宅の窓明かりとなり、更に街の中心に目をやると、福島駅周辺の経済特区が居心地悪そうに横たわっている。この辺りは『居住域』、人間の住む場所だ。基本的な活動は昼間(ちゅうかん)に限られているが、指定された経済特区では夜間(やかん)の経済的活動が認可されている。
グッと背を伸ばし、規則正しく並んだLED街灯をしばらく見ていると、その下を見回り警戒のパトカーが赤色灯を回してノロノロと走っていく。繁華街の方では新旧の広告看板が競うように明滅し僅かな客の取り合いをしていて、そんな光景をぼんやりと見ていると、夜勤特有の鬱屈した気分がいつの間にか晴れていくのが分かった。
――ザッ、ザッ
声掛け代わりに戦闘靴が大げさに下草を踏みつける音が近づく。左に半身向くと
「お疲れさま、隊長。また書類とにらめっこけェ?」
福島訛りと共に飯塚の丸い顔が横並びになった。
薄い頭、丸い頬骨、低い団子鼻。典型的な福島の中高年といった風体だ。彼との身長差は三十センチほどあり、見下ろした風体は立ち上がった熊そのものである。
「近々T2あるもんで。一応確認しときませんと」
飯塚は紫煙交じりに「そゥ」と呟いた。
「そのT2、嫁さん来んのヶ?」
「だから嫁じゃないですって、まだ籍入れてませんから。今回は来ないですよ」
「もう十一年っショ?そういうの嫁っつうんだわさ」
定年が近い好好爺が黒目がちな目を細める。
庭坂基地で最古参の飯塚には、現場一筋の隊員の放つ妙な緊迫感がない。四月からは幹部候補生学校帰りの新米小隊長の陸曹、つまり自分の補佐兼教育係であるわけだが、彼からは今まで幾度となく「叱られた」ものの、感情に任せ「怒った」ところは見たことがない。内示で編成を見た時の安堵は、今となっても鮮やかに思い出される。
「今月の二十日に吾妻山らへんでやるんで、そん時会えそうですよ」
「大事にしなよ、こういう仕事だから」
――ブツン
虫と蛙の声にまぎれたスピーカーの通電音に身体が反応し、どちらともなく正門に歩き出す。
『小隊長、二班長からッす。簡易で〇三四一から継続反応。お戻りください』
武藤のめんどくさそうな放送が終わった頃には、二人ともプレハブ基地の廊下を大股で進み始めていた。ぐずぐずしていると武藤が照明を落としてしまう。
「アタリっぽいですかね」
「時期的にはそろそろだねェ、梅雨明けしたから」
「五月も六月も結局サーチ照射だけですからね、いざって思うと緊張しますよ」
「なんも難しいことねェよ。訓練はちゃんとやっちゃるから」
扉を開けるやいなや、小島班長の怒声が耳に飛び込んできた。何処から出るのか驚くほどの声量は相変わらずだが、こちらに向いた目の見開き具合を見るに、どうも本命の線が色濃い。
「小隊長ォ!」
「班長、山林内の通過座標と時間を」
「ハッ。〇三四一から一分毎にJ―56、I―54、I―54、H―49、H―48、G―48です!」
「斜面を南にほぼ直下だな、体温は?」
「全て適合しております!映像はまだ入っておりません」
小島が顎をしゃくった先、二班隊員の平尾が真っ暗な熱感監視カメラのモニターを突き破らんばかりに睨みつけているのが見えた。
映像がないとはいえ、森を猛スピードで移動しているこの生物がギャオスであることはほぼ間違いないだろう。この庭坂基地はギャオスの大型コロニーを抱える生息域の境界に位置する重要拠点であり、管轄の森林地帯には一定の体温が範囲内に居ると反応する熱源センサーが二百メートル四方毎に設置されている。先ほど小島が報告した座標はそれらのセンサーが反応した位置と時間を表したものだが、南側の斜面は岩っぽい地形で、イノシシやシカが駆け下りたり足を滑らせたりしたにしては速度が緩やかで運動が継続的だ。
「F―47!」平尾の声がひっくり返り、隊員の熱量がさらに上がる。
無理もない。今は梅雨明け、ギャオスの飛行エリアが拡大し産卵期に入るため緩衝地域に侵入するケースが増える時期だ。侵入した個体に対しては忌避行動が基本となるが、排除困難と判断されれば駆除、つまり殺処分する必要がある。
そしてその殺処分こそ、新任の基地隊員にとっての何よりの『誉れ』、一人前の緩衝守となるための通過儀礼だ。勿論、それは今年度に小隊長に任命された自分にとっても例外ではない。
「飯塚一曹、この進路だと対応基地は第二駐在所ですか?」
「いや、今日は月が出てます。なるべく木の下を来ますからEで横に流れて……ココになると思います」
二分後、果たして森を蠢く大型生物は密生林エリア前で立ち往生、一度停止した後進路を
南西に変え、直後に地上に設置した熱源センサーの反応が消えた。飛翔したに違いない。
やるのか、遂に。
「目視確認!」
見張りの鈴木が張り上げると同時、作戦室の真ん中で眠っていたモニターが目を覚ます。
「目視確認、ギャオス通常相!翼開長は九、いや……八・五!」
乾いた唇を気にしながら、横に並んだ小島に抑えた声で指示を出す。
「班長。警察・消防・市役所に通報、第二注意報発令。サーチ照射」
「了解!船岡ァ、サーチ照射始め!」
遠く遠く、皆寝静まっているであろう居住域に、通報を受けた市役所が断続的なサイレン音を響かせ始める。同時に四門の忌避用紫外線サーチライトが宙を舞う通常相を照らし出す。もしこの個体が冒険心に駆られただけの世間知らずなら、この焼けるような光にたまりかねて逃げ帰るはずだ。
しかし、そうはならなかった。
ギャオスは光線からは逃げ続けるが、森へ帰ろうとせず緩衝地域へにじり寄る。リーダー争いに敗れてコロニーを追われ、居場所を失った「ハグレ」個体が取る行動はただ一つ、緩衝地域とその先の居住域で飢えを満たし、その先にあるはずの新天地を求めて旅に出るのだ。だがそれは、この十五年間日本で一体も成し遂げた者のない死出の旅である。
「小隊長!」腕時計をチラチラと見ていた小島が進み出る。
「目視確認及びサーチライト照射開始から五分が経過いたしました。この個体は、今後緩衝地域及び居住域に侵入の恐れがあります。該当個体駆除のため、高射機関砲使用の許可を願います!」
人知れず練習したであろう定型文を班長がよどみなく唱える。ちらりと見た飯塚の表情もいつもと変わらない。唇を一度舐め、小島に正対した。
「高射機関砲の使用を許可する。第二警報発令」
管理隊小隊長として重大な、そして新任の自分には初めての一言が、心の準備も半ばに舌から転げ落ちる。下命を受けるや否や部下たちは目を見開いて動き出した。妙に泡立つ背中を飯塚が軽く叩き、天窓が開いた見張り台を指さすと、サーチに追われるギャオスが良く見えた。
射撃管制システムは見る間にギャオスをとらえた。適切なプログラミングと昼間(ちゅうかん)訓練時の誤差調整射撃の定期メンテナンスさえ怠らなければ、システムに連動した三十五ミリ二連装高射機関砲が確実に対象を貫く。後はタイミングだ。
ギャオスはひたすらにサーチを潜り抜け、必死に居住域へ進路を取ろうとする。湿気った空気を切る鋭い飛翔音が、風に乗って時折かすかに聞こえてくる。急降下、旋回、エルロン、インメルマン。誰に教えられるでもなく学んだ、己の経験と才能のすべてを振り絞る。
居住域で鳴るサイレンはいつの間にか連続音に切り替わっていた。街の住民は眠い目をこすりながら避難壕に駆け込んでいることだろう。子どもの頃の自分のように、親に怒られながら窓に齧りつく子もあるかもしれない。
今の自分は、あの時と同じようにこの光景が見られているだろうか。
「今!ッてえッッ!!」
小島の号令一閃、平尾が身体全体で射撃ボタンを押しこんだ。
暗闇に紛れていた二門の高射砲が、カカッと発砲炎の中に浮かび上がり、衝撃が天窓を揺らす。撃ちあがった真っ赤な弾丸は糸で引き寄せたようにギャオスに向かって伸び、砕け散った。巨大な害鳥は電池が切れたオモチャのように動きを失い、密生林の暗闇に吸い込まれ、そして見えなくなった。
瞬間、身体が持ち上がるような歓声が基地内を満たした。
照明が点き、隊員たちの赤らんだ笑顔が浮かぶ。小島は警戒を怠るなと戒めるが、彼自身も声の浮つきを隠しきれない。
「初戦果おめでとうございます、小隊長殿」
大騒ぎする新米たちに押されながら飯塚に差し出された手を握ると、ようやく実感が追いついた。いつの間にか寮で寝ていた連中も起き出し、墜落した辺りを見ては興奮している。部下の表情、自分の中に沸き上がる感情、それらを交互に噛み締める。
誰からともなく、新米隊員たちは初戦果を目にすべく小声でカウントダウンを始めた。毎年の恒例ではあるが、上官となってもこんな時は夜間の行動制限解除が待ち遠しい。
恨めしく思いつつ窓から外を見上げると、いつの間にか空は白み始めていた。点々と浮かぶ雲は相変わらず不愛想な鉛色だが、山を越えた辺りの一つが一撫での茜に染まっているのが目に入った。
夜明けも、もう近い。
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