第2話


「ただ、犯人が画家だって事は分かっているんです。画家の名前はカラヴァッジオ。人を殺して逃げた」

「ぃや、それだけで何の本だか分かる人なんていませんよ。題名か、著者の名前のほんの少しでも分かりませんか?」

「分かりません。それしかヒントをくれなかったんです」


僕は頭を振った。


友人と賭けをした。

とても下らない賭けだ。

その頃、僕はとても金に困っていた。

金持ちの友人に援助を頼んだ所、今から出すヒントを元に、本を探して来たら金を貸してやる、と言われた。


「思えばお前は学生時代から本の虫だった。呆れるほど結構な量の本を読んでいたんだ。今だって読んでいるはず。だから明日のこの時間までに持ってこい」

「そんな……もっとヒントをくれないか?これだけで見付ける事は出来ないよ」

「お前だって物書きのはしくれだろ?これくらいのヒントで分からないでどうする?」


友人は、にやっと口元を歪め、時計を見た。


「さぁ、今は16:47。24時間後を楽しみにしてるよ」


そして、ドアを指差した。

僕は出て行くしかなかった。


友人が僕に金を貸す気がない事は分かっていた。

返す当てもないのに、今までも散々借りていたから。

だが金が無ければ、せっかく書いた小説を出版社に持ち込む事は出来ない。

いつものように郵送する事も考えたが、それではいつ読んでもらえるか分からない。

この小説は是非すぐに読んで欲しかった。


それほどの自信作。


せっかく傑作が書けたというのに、金がないから、と諦めたくはない。


僕はポケットの中に手を突っ込んだ。

小粒銅貨を数えて息を吐く。


ぃや、送る事も出来ないな………

これじゃぁ、パンの一切れも買えやしない。

今朝から水以外に何も口にしていなかった。

ヤツに金を借りられなければ、小説を持ち込む前に飢え死にしかねない。


とにかく本を探そう。


そう決めて向かったのは街で一番大きい図書館。


金のない僕が本を買える訳もない。

そこでなら、本をただで借りて帰る事が出来るし、本の事を熟知している司書もいる。

数少ないヒントだけで膨大な量の本の中から一冊を探しだす為には、どうしても彼らの力が必要だった。


が。


予想に反して、司書に冷たくあしらわれた。





「とにかくムリです」


眼鏡をかけた初老の司書は、申し訳なさそうに、でも椅子から立ち上がる事なく頭を振った。


「それだけで本を探す事は不可能ですよ」

「そんな………」


その時だ。

呆然と立ちつくしていた僕に、彼女が声をかけて来た。


「ぁの、その本………」

「え?」


後ろから掛けられた声に振り向く。


そこには女性が立っていた。

年は20を過ぎているかどうかという所。

結いあげた金色の髪の上に、小さな帽子が載っている。


目鼻立ちのはっきりした顔。

明るいグリーンの瞳は澄んでいる。

その紅い唇が、白い肌の上でひと際目を惹いた。


ケープの下は、光沢のある絹のドレス。

男の僕が見ても、一目で高価だと分かる装いだ。


僕は彼女に見惚れた。


美しい。

美形だ。

美人だ。

女神様だ。


………そう思うほどに、彼女の所にだけ光が当たっているように煌めいていた。


そう錯覚するほどに、彼女の存在は図書館の中で浮いていた。


「お嬢様、知らない方とお話になるのは………」


その声で、彼女の後ろに気の弱そうな若いメイドがいる事に気付いた。


「あなたは黙っていて。この方は本をお探しになっているのよ。もしかしたらお手伝いが出来るかもしれないわ」


彼女は首だけ振り向くとメイドにそう言って、また僕を見た。


「あなた、カラヴァッジオって画家が人を殺す本を探してるの?」

「ぁ………えぇ、そうなんです。もしかしてご存じなんですか?」


僕は意気込んで尋ねた。

彼女は一歩後ずさって頷いた。


「それは何という本なんですか?」


彼女はそれに応えることなく、くるっと踵を返すと、すたすた歩き出した。

僕はその後ろ姿を呆然と見送る。


と。


「こっちよ」


彼女が振り返って僕を呼んだ。

僕は慌てて追いかけた。

僕の後ろからメイドも小走りでついてくる。


「お嬢様ったら………どうしてこんな事を………」


お付きのメイドがいる様なお嬢さんが、どうしてこんな場所にいるのだろう?

メイドのぼやきを聞きながら僕は歩いた。

彼女が足を止めたのは、美術書の棚の前。


「ぁの、僕の話聞いていました?僕はミステリの本を探しているんだ。画家が殺人犯で………」


彼女は僕の言葉を無視して、ある一冊の本を指差した。


「これよ。この画集はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオのもの。彼はその生涯で殺人を犯した」

「………本当ですか?」

「えぇ。画家としての腕は素晴らしかったけれど、素行は悪くて有名だった。暴行事件を何度も起こしているのよ。投獄された事も、死刑宣告されて逃げ出した事もあるの」


僕は画集を棚から引き抜くとページを捲り、画家の生涯に関する記述を見付け、読んだ。


「………本当だ。確かに人を殺してる。でも、どうして?」


彼女は首を傾げた。


「どうしてって……何が?」

「だってあのヒントを聞いて、誰もこの画集の人物を思い出したりはしませんよ」

「そうねぇ……そうかも。だって先ず私が思い出したのは、彼の伝記だったから。でも今、すぐには見られないの」

「どうして?」

「閉架中の本だから。とても古い本なのよ。借りたい旨を用紙に書いて申請しなくては」

「申請にはどのくらい時間がかかるんですか?」

「1週間くらいかしら。司書さんに聞けばはっきりした答えが返って来るだろうけれど」

「1週間………」


それでは間に合わない。


「だったらこれでいいです」


僕は画集を借りる事にした。

他の本である可能性はもちろん捨てきれない。

でも、僕がその本を探すのは、大海に落ちた真水一滴を探すのに等しかった。


だからそれに賭ける事にしたのだ。


「手伝ってくれてありがとう」

「別に………たまたま心当たりがあっただけだから」


彼女は笑みの一つも浮かべぬまま踵を返すと、僕を置いて棚の前を離れて行った。

メイドがその後を追う。

二人の後ろ姿がコーナーを曲がってしまうまで見送り、カウンターに画集を持って行き、借りる手続きをする。


「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの画集ですか………」

「彼、短い人生の内に人を殺しているんです」

「なるほど………殺人犯の名は、カラヴァッジオ………」


司書は本を眺め、僕の説明を聞くと、感心したように頷いた。

僕は司書に彼女の事を尋ねた。


「さっき僕に声をかけてくれた女性、本の事に詳しいんですね?」

「あぁ、彼女は常連さんですよ。色々な本を読んでいて、まだお若いのに私達よりも本に詳しい位です」

「そうですか……あの人の名前は?」


司書は顔を顰め、僕を値踏みするような目で見た。


「………個人情報は漏らせないんです。直接、ご本人に尋ねたらどうですか?まだ図書館の何処かにいるでしょうから」


さっきまでとは打って変わって、どこか素っ気なく冷たい。


「ぁ………ぃえ。では、また」


司書の、貸出期間は2週間ですよ、の声に追い出される様にして、僕は図書館を出た。

恥ずかしさに赤くなった顔を、人に見られない様に帽子を目深にかぶり、俯き加減で図書館を離れる。


全く。


僕は何て身の程知らずなんだろう?


1ブロック歩いた所で角を曲がり、息を吐く。

司書の視線に自分の姿を思い出した。


薄汚れたジャケット。

履き古した靴。

縁が綻んでいる帽子。


そのどれもが、美しい彼女とは不釣り合いだった。


僕は時計屋のウィンドウに飾られている時計を見て、友人を訪ねるのにそう遅い時間でない事を確かめてから歩き出した。


「ぉや、随分早かったじゃないか」


僕を出迎えた友人は、引き攣りそうになる頬に何とか笑みを浮かべた。

そして僕が差し出した画集を見て、顔を顰めた。

僕は黙っていた。

友人は僕に手を出すように言った。


僕は彼が手に乗せてくれた金貨をありがたく受け取り、ポケットに入れて自分の家に駆け戻った。

すぐに原稿の入った袋を掴むと、その足で夜行列車に飛び乗る。

乗る前に駅の売り子から買った、パサパサに乾いたサンドイッチを貪る様に食べた。


そして翌日。


僕は”先生”と呼ばれる身分を手に入れた。

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