第11話 母の愛情

「ナティス、どこなの……?」


 視力が失われつつあるのか、腕の中からいなくなったナティスを探す小さな声が不安げに揺れる。

 どんどん血の気を失っていく母親に何もしてあげることが見つからないまま、ナティスは再び母の腕の中に戻って、ぎゅっとその身を抱きしめた。


「ここに、いるよ」


 ナティスの体温を取り戻した母が、安心した様にほっと息をついて微笑む。


「こんな所で、一人にする事になって……最後まで守ってあげられなくて、ごめんね」

「おかあさん?」

「これを……ナティスに、返さなくちゃ……」


 ほんの僅か動くのさえ辛そうで、今にも意識を手放してしまいそうな母が、気力を振り絞るように大事そうに取り出したのは、長い紐の付いた小さな革袋だった。

 母がそれをナティスの首にゆっくりとかけると、革袋からぶわりと強大な魔力が吹き出し、まるで守り慈しむ様にナティスを包み込む。


(ロイ、ト……?)


 記憶の中にある魔力の感覚が思い起こされて、恐る恐る掌の上にころりと革袋から中身を出すと、そこには碧色の小さな石があった。

 予想通りの中身の正体に、ハッと顔を上げる。


「これ、は……」

「貴方が生まれた時に、手に握りしめていたの。全然手を開いてくれなくて、どうしようかしらって慌てたわ……」


 昔を思い出して笑う母は、苦しそうなのに嬉しそうでもあって、ナティスを愛してくれていることが伝わってくる。

 首にかけられた紐の付いた革袋は、母の手作りらしい。

 母はこの石の正体が何なのかわからなかったはずなのに、ナティスが生まれた瞬間から大切にしていた物だから、大事にしてあげたいという気持ちが詰まっていて、じんわりと温かい様な気がした。


 そして母は、この魔石をそのままナティスに持たせていたら、今のように常時魔力がナティスを包んでしまう事もわかっていたのだろう。

 それは間違いなくナティスを守る為の力ではあるのだけれど、同時に人間が決して生み出す事の出来ない力でもある。


 握りしめて生まれてきたという事は、ナティスとしてこの闇に覆われた世界に新たな生を受けた瞬間から、この巨大過ぎる魔力がナティスを包み込んでいたと思われた。

 ナティス自身にその記憶はないので、本当に生まれたばかりの、意識が浮上する前の出来事なのかもしれない。


 きっと母が慌てた理由は、ナティスが手を開かなかった事だけではなかったのだろう。

 そのままにしておくと周りに奇異の目で見られることを察し、必要になる時まで預かる事で、ナティスも魔石も守っていてくれたのかもしれない。


 母がこの力を正しく魔力だと判別出来たとは思えないので、ただただ恐ろしい力にしか感じなかったはずだ。

 それでも捨てたりせずに、大切にしていてくれた。


「ありがとう。とってもだいじな、ものなの」

「ナティスはいつも小さなお友達と、よくお話していたわね。それとも関係があるのかしら?」

「しって、いたの?」


 ナティスが魔族と会話出来る事を、母は知っていたらしい。

 強大な魔力を放出する石を持って生まれ、人外の生物と会話する娘。きっと母にとってナティスは可愛いと言うよりも、恐怖を感じても可笑しくない子供だったに違いない。


「貴方が普通の子供とは、違うのはわかっていたわ。でも私達の可愛い娘である事に、違いはないでしょう? ……ただ幸せになって欲しいから、私に出来る事をした。それだけなのよ」


 徐々に、でも確実に、母の身体から生気が抜けていくのがわかる。

 苦しいはずで、本当なら自分の事で精一杯のはずなのに、それでも母はナティスに最期の時まで無償の愛情を注いでくれようとしていた。


 大切な人の命が失われていくのを肌で感じて、ナティスはようやく本当の意味でロイトが深い悲しみに囚われてしまった瞬間の感情を知る。

 あの時、悲しみの根源であるティアがその悲しみを止めてあげられなかったのは、当然だったのだ。

 どうしようも出来ない事実を目の前に、怒りに変えることでしか一人残された絶望を抑える術がなかったのだろう事も、今ならば理解出来る。


 ロイトには、前を向いていて欲しい。ティアを失った悲しみで世界を閉じてしまわないで欲しい。

 ロイトから生まれた闇に覆われていく世界をどうすることも出来ずにただ見つめていた時は、必死にそう願ったけれど、いざ実際に大切な人の灯火が理不尽に消えようとしている現実を目の前にして、それはとても難しいことだと知った。


 ナティスだって今自分に力さえあれば、父と母を奪った追っ手達を、そしてその命を下した大修道院を、滅ぼしてしまいたいと願う気持ちが湧き上がるのは否定できない。

 けれど本当にそうしてしまったら、悲しみの連鎖はいつまでも途切れないだろう。


 今は何も力を持たないから、必死にそう言い聞かせて閉じ込めているだけかもしれないけれど、せめて復讐に思考を傾けることはしないでおこうと強く思う。

 それだけが、今のナティスに出来る精一杯の、理不尽への抵抗でもある。


 今までもそしてこれから先も、悲劇を生み続けようとしている大修道院の導く先を変える方法を、怒りと悲しみを消し去ることは出来なくても、復讐という方法以外で見つけたい。


「おかあさん、だいすき」

「愛しているわ、私の可愛いナティス。どうか幸せに……」


 もう目を開けている事さえ出来なくなった母に、愛してくれてありがとうという気持ちを込めて強くしがみつくと、ゆっくりと言葉と共に頬へキスが落ちてきて、そのまま母は動かなくなった。


 今の小さなナティスには、母を埋めてあげる事すら困難だ。

 人間の命を狙う魔族も沢山いる気配が漂うこの森の中で、もたもたしている事は出来なかった。


 亡骸はこのまま残して行くしか方法がない。

 せめて簡単には見つからない様に、その身体をゆっくりと木陰に横たえ、その上から落ち葉や枯れ木でその身を覆う。

 そしてその場で、ナティスを守ってくれた母と父へ祈りを捧げ、ゆっくりと立ち上がった。


 この先、体力のない小さな身体でどこまで行けるかはわからない。

 きっと追っ手は、またやってくるだろう。

 それでも両親が必死に守ってくれた自由に生きる権利を、ナティスが諦めるわけにはいかなかった。

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