P.31

 店の扉が開く。チロリンと鈴が鳴った。

「いらしゃいませ」

 新しい客は奥へ進み、整理棚と観葉植物を挟んだすぐ隣のテーブルに座った。

「アイスコーヒーでいい? それ二つね」注文の声を聞いて、ボクらの口は咀嚼を止めた。

 舞島先生だ。なんでこの店に来るわけ。街から遠いぞ。しまった。わざわざ遠い店を選んだのか。

『どうしよう』50センチ手前からショートメールが来た。

『ボクらが出たらムードぶちこわしになる』返信。

『えーん(泣)』

 適度な音量で室内楽が流れ小声の会話ならマスキングされる。が、棚を挟んだだけのボクらにはまる聞こえだ。

「進学の費用は出させてほしい」

 注文が届き蓮子さんが下がると、ハナシはいきなり核心に入った。

「おカネを出していただく理由がありません」

「理由はあるよ。ボクたちはケッコンするんだ」

 けけけ、けこけこけこ、言語中枢が誤作動して変換できない。

 雪ちゃんの瞳がジュワっと潤む。

「そんな……あんなに大きな会社なのに……反対されるに決まってる」

「父が始めた頃は掘っ立て小屋だったよ。それに、親は反対なんかしない。キミをきっと気に入る。苦労人が好きだしね。ボクが会社へ入れば、学費くらい払える」

「けど……教師になるのが夢だって……」

「仕事なんかいくらでもある。でも、金子 流美は一人しかいない」

 雪ちゃんはおしぼりを握りしめて鼻に押し当てた。

「だめ。ワタシは、先生にふさわしくない」絞り出すような声。「うす汚いんです。ワタシは汚れてる」

 それがどうした、というように先生は軽い笑い声をたてた。「汚れたなら洗えばいいさ。今度、石鹸あげるよ。いただき物がいっぱいあるんだ。シャネルとかディオールとか。10個もあればいいだろ。それで元どおり。ピッカピカだ」

「せんせぇ……」

『裏から出よう。これ以上聞いてちゃ悪い』雪ちゃんに送信した。

 抜き足差し足、厨房へ抜け、蓮子さんに拝み手して勝手口から脱出した。

「さわやか〜。舞島さんて透明なソーダ水みたいな人だね」

「うん」雪ちゃんは街路樹の影でボクに向き直ると、いきなりキスしてきた。

 パフェの香りのキス。二度目のキスはファーストよりずっと長く、腕を背中に回し合った。ロケットおっぱいがボクの胸を突き刺す。

 時間の感覚が消えた。頭は空白になり、唇を合わせたまま、いつまでも道端に立ちつくしていた。

 通行人は無く、車だけビュンビュン通り過ぎる。その内の一台が、ファンファーレのようにクラクションを鳴らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る