P.29 おかえり

 ケンが刺された。

 夜のホテル街。ケンを刺した刃物で自殺を図ろうとした女性が、身柄を拘束された。クリニックを経営する女医だという。

 ケンは重症を負ったが一命はとりとめた。一緒にホテルを出た女性は無事に逃げたそうだ――

 うすら寒い風がボクの躰を吹き抜けた。そんな物騒なヤカラと、多少なりとも関わりをもったのだ。

 道を歩くとき振り返るクセがついてしまった。

 土曜日、昼の下校時。過敏になっているボクは、背後に気配を感じて振り向いた。

 赤いテスラが音を殺して迫っていた。獲物を狙う鮫みたいに。

 道の端に寄った。

 テスラはボクに並ぶと停止し、微かな電動音をたててウインドウが下がった。

 源田社長の浅黒い顔がのぞいた。「送ってやろうか。涼しいよ」

「けっこうです。もう関係ないはずですけど」

「やれやれ、嫌われたもんだ」バッグから水色の封筒を取り出した。

「流美に渡しとくれ。雇用契約書だ。破るなり焼くなり好きにしたらいい。契約書ってのはね、虫メガネが要るくらい小さな字で、ごちゃごちゃ大事な事が書いてあるのさ。覚えときな。それと、あのに暴行受けたという訴え、ケンに取り下げさせた。あのバカ、オンナを甘く見るからあんな目に遭うんだ。ちっとは懲りたろうさ。これで、流美はまっさらだよ」

「ありがとうございます」思わず頭を下げていた。

「なんでアンタが礼を言う?」

「友だちだからです」

「ふん、青春だねぇ。アンタらと一緒に居た先生が舞島のボンだったなんて…… 舞島のおやっさんには昔助けてもらった。だからこうして生きてる」タバコを点け、最初の煙を吐き出した。「流美に伝言を一つ。いいかい?」

「はい」

「がんばれ、って言っとくれ」

「はい! きっと」

「あ~あ、いいを手放しちまったよ」

 赤い鮫はふてぶてしく、滑るように去っていった。欲望波うつ街の海へ。

 水色の封筒に目をやる。陽射しを照り返している。すぐに届けてやりたいが、アネゴはこれから舞島先生に逢うのだ。雪ちゃんはアネゴに付き添って川原で先生と落ち合う。その後、二人を残してボクが待つ場所へ来る。

 かたくななアネゴを、雪ちゃんは何日もかけて説得した。最後まで付き添わないと、すっぽかすかもしれない、と言っていた。

 うまくいくことを祈りながら、待ち合わせ場所の喫茶RENに向かう。

 封筒の水色は、良いことの先触れみたいに明るい。

 心が少し浮き立っている。

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