第6話 絶望の中のささやき

 あたりが暗くなり、蛇女の笑顔が闇に溶け込んで見えなくなった。代わりに、甲高い声だけが耳元に残る。


『どおん!……バリバリバリ』


 雷鳴が響き、凍りついたように立ちつくす俺の意識を強引に引き戻してくれた。


「――っ!!」


 ショックを受けている場合じゃない!

小屋の扉に必死に縋り付く。幸運なことに引き戸の扉は施錠されておらず、あっさりと開いた。ほとんど飛び込むように室内に入った俺の体は、バランスを崩し、一回転して壁に叩きつけられる。


「はあ、っはぁ、はっ、ゴホッ!ゴホッ!」


 息が切れ、喉が焼けるように痛んだ。心臓が胸を突き破りそうなほどに脈打っている。開け放たれた引き戸の奥、闇の中からあの蛇女が顔を出しそうで、這いつくばるようにして急いで戸を閉めた。戸を閉めきった小屋の中は、外よりもさらに暗く、何も見えない。ただ、湿った木の匂いと床板の軋む音がするだけ。


「なんなんだ……なんだったんだあれ……!」


 いつのまにか流れていた鼻血をシャツの袖でぬぐい、自分の体を抱きしめるように床の上で縮こまった。苦しい、怖い、寒い、痛い。吹き飛んでいた感覚が徐々に戻ってくる。小屋の中では外の大雨の轟音がすこしだけ遠のいて、ここは安全だと一瞬だけ感じられた。でも、そんなの錯覚だとわかっている。この臭い。蛇女が近くにいて、こちらを見ている。


「良くないものって、行方不明者って、あれか、あいつのせいなのか」


 険しい表情をした町の人たちや、森に近づくなと訴えていたランさんの姿を思い出す。そうだ、ランさんとシキヤ。あの二人は俺が森に向かったことを知っている。助けに来てくれるかもしれない。


 一瞬だけ希望が沸いたが、都合がよすぎる考えはすぐに暗く塗りつぶされていく。

……町の人間でもない、捜索の依頼もだされない俺の事をなぜ助けにくるんだ? もし、もしも探してくれる人がいたとして、こんな大雨の中、どうやったら俺がここにいるとわかる? 探す側の危険だってある。天気が落ち着くまで待っていたら、きっと間に合わない。



「出テおいデ……ふふふ……逃ゲラれない」


 蛇女の囁き声が再び耳に入る。黒髪を振り乱し地面を這いずる、あのおぞましい姿が脳裏に浮かび、背筋が凍る。


「そのボロ屋の男も……ワタシが喰った……ムカし……むかし……うふふふ」


 ボロ屋…この小屋のことか?むかし誰か住んでいたのだろうか。ふと、ある考えが浮かぶ。エモノに森の中を無闇に動き回られるよりは、小屋に逃げ込まれるほうがずっとラクだろうと。この蛇女、俺をここに誘導したのかもしれない。



『コンコン』


引き戸からノックの音が聞こえた。慌てて立ち上がり、できるだけ距離を取ろうと後ずさる。


「アーそビーまシょー…アーそビーまシょー」


ノックは何度も何度も繰り返され、その度に心臓が早鐘を打つ。



「い、いやだ!いやだ!」


「あはははは」




 いやだと声を上げた途端、ノックが止み、楽しげな笑い声に変わる。さきほどから、彼女はすぐに襲ってこない。俺をからかって、怖がる様子を楽しんでいるようだ。彼女の喜ぶ反応をしなくなったときが、俺の終わりの時かもしれない。



「冗談じゃない……ふざけんな……、もうやめろ! くそったれ! 消えろよ化け物!!」


 苛立ちと恐怖が混じり合い、反射的に大声で叫んでしまった。甲高い笑い声がぴたりと止み、あたりが急に静まり返る。雨と風の音だけが鈍く響いている。


 息が詰まるような沈黙の中、俺は指ひとつ動かせずにいた。額や背中に冷たい汗が伝う。次になにが起きるかわからない緊張感。外に出れば待ち受けるのは確実な死、しかし、このままここにいても衰弱していくだけ…。心臓が再び激しく脈打ち始める。


「ゴホッ、ゴホッ」


 まずい。もう体力も限界だ。どうすればいい?逃げ場がない絶望感が全身を覆い尽くし、あらがうための気力を奪っていく。この恐怖から逃れるために一体どうすればいいのか、考えがまとまらない。


『ズルッ、ズルッ、ズルッ』


 小屋のまわりから、あの何かを引きずるような音……巨大な蛇の体が地を這う音が聞こえてきた。息を呑んで耳を澄ます。


「なんだ……?なにしてる……?」


 その音は壁一枚を隔てただけのすごく近い距離から聞こえてくる。背後、右、左、前方の引き戸、すべての方向からだ。

嫌な予感がする。たのむ。もうやめてくれ。


『ズルッ、ズルッ、ズズ……』


 這いずる音が止まると、今度は小屋全体がミシミシと軋み始めた。あの蛇女がその巨大な体を使って小屋を締め上げているのだ。木材が悲鳴を上げるようにきしむ音が響き渡る。


「くそ……!」


 何もできない。膝から崩れ落ち、ただ見ているだけ。蛇女が力を込めるたびに、小屋の壁はさらにきしみ、ひび割れるような音が響く。いちかばちか引き戸に手を伸ばしたが、固まって動かない。蛇女の力はあまりにも強大で、俺なんかじゃ敵わない。


「やめろ……!やめてくれ……!」


 耳をふさぎ叫んだ。楽しげな笑い声が返ってくる。限界だった。息を激しく吸うばかりで、吐くことができない。視界がぼやけ、指先が痺れた。恐怖から身を守る方法は一つしかなかった。殺すなら殺せ。喰うなら喰えばいい。過呼吸に身を任せ、俺は意識を手放した。




***



 ……生きている。

ぼんやりと意識が浮上しては、また沈み込みそうになる。

激しい空腹と疲労が体を蝕んでいた。まぶたを持ち上げることもできず、雨音に耳を澄ませていると、外から蛇女がぶつぶつと喋る声が聞こえた。恐怖が再び胸を締めつける。俺はまだオモチャにされているのだろうか。指先まで重い、動くことができない。目覚めなければ……良かったのに……。



***




 何度か目を覚ましては、また意識が薄れていくことを繰り返している。腹の底から沸き上がる空腹感は痛みとなり、すべての気力を奪っていった。

時間がどれだけ経ったのかも分からず、意識のようなものが断続的に浮かんでは消えていく。再び暗闇に落ちる。




***




 蛇女の笑い声が遠くから聞こえ、薄く意識が戻った。やはり体は動かず、なにもできない。つぎに眠れば、もう起きることはないと直感的にわかった。この状態もようやく終わりか……と、安堵にも似た思いに胸がいっぱいになる。ふたたび、鉛のように重い眠りへと引き込まれていった。

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