第5話 闇夜の追跡者

 エレベーターが到着したことを知らせる電子音が鳴り、扉が開くとともに中に乗りこんだ。目的地の七階のパネルを押し、スマホを取りだしてメッセージアプリを開く。


「今日は早く帰るよ」にまだ既読はついていない。



「サプライズになっちゃいそうだな」


 風呂にでも入ってるのかと特に気にせず、スマホをポケットにしまう。


「七階です。ドアが開きます」


 電子音声に促され、鞄の中の鍵を探しながらエレベーターから降りた。


 自宅のドアの前に立ち、インターホンを鳴らそうかと人差し指を持ちあげて、自分の家でもあるんだしなと思い直してやめた。未来がまだメッセージを読んでいないのなら、ちょっとしたサプライズのまま進めようと、少し楽しくなっていた。



 鍵を差し込み静かにドアを開ける。

玄関は真っ暗だ。てっきり、いつものオレンジ色の暖かな光に迎えられると思っていた俺は拍子抜けしてしまう。


「まだ20時だよな…もう寝た?」


 音を立てないようにドアを閉めて、靴を脱ぎ、玄関と同じく真っ暗なキッチンまで歩みを進める。換気扇のライトだけをつけて、ダイニングテーブルの上に鞄を置いた。

ピチョン……ピチョン……と音をたてながら、蛇口から垂れる水滴がシンクの中のグラスに溜まっている。暗い部屋に、やけに響くその音が不愉快で蛇口を強く締め直す。



(――――――耳障りな音がする)



 リビングのカーテンは閉じられておらず、月明かりが濃い影を作りながら室内を照らしていた。

テーブルの上に未来のスマホが置かれていて、着信や未読のメッセージを知らせる背面のLEDライトが点滅している。やっぱり俺からのメッセージはまだ読まれていないようだった。




(――――――耳障りな音がする)




「寝てるんだな」


 小さく呟き、寝室のドアの前に立った。

ドアの下の僅かな隙間から、ベッド横のサイドテーブルに置いてあるランプの明かりが漏れている。





(――――――耳障りな音がする)





 震える手でドアノブに手をかけて、静かに押し開いた。



△△△


 また、意識が飛んでしまったみたいだ。

森に逃げ込みどれくらいの時間が経ったのだろう。振り続ける大雨のせいで、時間と方向の感覚も、持ち物を探すというプランも、すべてが狂ってしまった。



「ゲホッ、ゲホッ」


 何度もやってくる空腹感の波から察するに、一日か二日は経っている気がする。寒い。雨の中を歩き続けたせいか、いつのまにか咳も止まらなくなっていた。


 木々の葉っぱのひとつひとつがザアザアと不規則なリズムで揺れて、森全体が激しい雨音に飲み込まれていた。大きな雨粒は枝葉を伝い滑り落ち、地面に叩きつけられては泥水が跳ね上がる。踏み入れるたびにずぶずぶと沈むぬかるみに足を取られ、片方の靴を無くしてしまった。

遠くからは荒れた水の流れのようなものが聞こえた。どこかに川があり、氾濫しているのかもしれない。濁流が迫りくるような不穏な予感に、早くこの場を離れたいと気が焦る。


「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」


 持ち物のために、例の扉がある場所を探すつもりで森に入ったが、この雨と暗さの中で辿り着くことはできなかった。深みにハマってしまったと気づいたときには、町に戻る方向さえわからなくなっていて、ただ震える体を引きずり彷徨い続けている。

すぐに町への道を見つけることができたあの日の俺は、幸運なだけだった。本当に愚かだ。それに、町でもっとうまく助けを求める方法だってあったはずなのに。後悔ばかりが心で渦をまく。


 休憩しようと木の根元に腰をおろす。一眠りしたくても、葉を突き抜けた冷たい雨粒が体中に突き刺さり、容赦なく意識を覚醒させてしまう。

ただでさえ暗く不気味な森だったけれど、雨がその陰鬱さをさらに増幅させていた。何かにずっと見られていて、圧倒的な力に支配されている。逃れられない運命の中にいるような気分だった。涙がにじみ鼻をすする。



『どおん!』


 また、近くから腹に響く雷の音が響き渡った。

体は驚いて反射的に跳ね上がるが、雷鳴にはもう慣れてきていた。むしろ雷はありがたい。稲妻が一瞬の明るさをもたらすのだ。暗い森の仲で、この一瞬だけ数十メートル先になにがあるのか確認できる。



「ああ…やった、うそだろ……」



 目の中にまで刺さる雨を両手を使い必死にガードしながら、遠くに見えた光景に信じられない思いで立ちつくす。小屋だった、まちがいなく見えた。あそこに小屋が立っていた! あたりは再び闇に包まれていたが、まさかの希望に心臓が激しく鼓動し始めるのがわかる。あの小屋に辿りつければ、安全だ。雨風をしのいで体を休めることができる。食料は期待できなくても、眠ることさえできれば十分だ。


「よし……、よし……!」


 疲れ果てた体をひきずり、小屋の見えた方向に歩きだす。その時だった。


『ズルルル……』


 何か大きなものを引きずるような音が、雨音に混ざって聞こえた気がする。


「なんだ……?」


 ずっと森の中でいろんな音を聞いていたが、こんな音は、はじめてだ。しばらく耳を澄ませてみたけれど、もう聞こえない。

気のせいかと再び歩き出した瞬間


『パキッ…ズルル』


 枝が割れる音に、何かを引きずる音。気のせいじゃない。背筋がゾッと粟立った。はっきりと視線を感じる。もう隠す気もないようで、こちらの様子を伺いながら動いている。野生動物がでてきたのだろうか。


「…っ、ゲホ、ゲホッ」


 町の人が話していた「良くないもの」の存在が頭をよぎる。いやまさか。でも、猫娘にトカゲ人間にケンタウロス、まさかの存在ならもう見ただろ。


『ズッ…ズルルル』


 まずい、あきらかに近づいてきている。何も見えない! 相手からは見えているのか? どうしたらいい?


「……っ」


 その場にしゃがみこみ、手探りで地面を探る。手頃な枝を持ち上げて構えた。


「近づくなよ! ゲホッ、容赦しないぞ!」


 精一杯に声を張り上げて威嚇してみる。野生動物なら退いてくれるかもしれない。何度か宙で枝をふりまわし、ゆっくり小屋に向かって後退する。


「チ…ち…ちかヅくなヨ…よ……うふふ」


「ひっ……!」


 なんだ!? しゃべった!? 人間なのか!?

一気に恐怖心に支配され、振り向き走った。木にぶつかり、ぬかるみに足をとられ、何度も転んで尻もちをついたが、じっとしてなんていられなかった。その間にも引きずる音はどんどん近づいてくる。この音はなんなんだ? 誰が何をひきずってるんだよ!?




「ゲホッ、ハァッ、ゴホッ、ゴホ」


「ダァぁぁあいじょウぶーー?…ふふふ…ゲホッ…うふふ」


『バキッ!ボギッ!』


 背後から木をなぎ倒すような音がして、ぬかるみを滑るように急激に相手が距離をつめてきているのがわかった。相手は俺をおちょくるように高い笑い声をあげている。こんなにおぞましい声は聞いたことがない。


「っう、なんだ、この匂い……!」


 周囲に生臭い匂いが充満してきた。腐った肉のような、鋭い酸っぱさと獣臭が混ざったような匂いだ。耐えられず腕で鼻を覆う。いよいよ命の危機を感じはじめたとき、天の恵みか、空に閃光が走った。稲光だ!小屋がすぐ目の前に見えた。よかった! 間に合うぞ!

そして、よせばいいのに俺は一瞬だけ振り向いてしまった。どうしも、自分を追い詰めているものの正体が知りたかったんだ。


「ふふふ…あはははは」


 高笑いしていたのは女だった。濡れた髪の毛が張りついた顔は生白く、口は耳元まで裂けていて、鋭利に尖った牙を見せて笑っている。首から下は……蛇だ。アンバランスな二本の細い腕が生えているのが妙にグロテスクに見えた。

木々をなぎ倒しながら、恐ろしく太く長い蛇の体をひきずる、女の顔をした化け物がそこにいた。






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