第7話 エマ

「――きて」


「――きて、――いちゃん」


 誰だろ、この声。女の子……? それになんだろう、これ。暖かい、気持ちいい。



「まだ――?」


「まだ――い?」


「た――、そ――はず」


 体が軽い。不思議だ、どこも痛くない。蛇女は……? この子たち、小屋の中に入ってきちゃったのか?それとも、俺が彼女たちの住む天国にきてしまった……?




「……はっ!!」


 急激に意識が浮上し、目が覚めた。見慣れない古びた木製の天井。そして両サイドから覗き込む七、八歳くらいの色鮮やかな着物を着た女の子。二人とも綺麗な金色の巻き毛で、こぼれそうなくらい大きな青い目で俺を見下ろしている。頭には、町で見かけた女性のように、ふわふわした猫耳が生えていた。雨に降られたのか、全身びしょ濡れになっている。


「おきた!」


「おきた! お兄ちゃん!」


「良かった……。ほら、大丈夫だって言ったでしょ?」


 少女たちとは別の女の子の声が頭上から聞こえ、体を起こして確かめようとして、気付いた。痛みどころか、体中についていた傷まで無くなっている。


「……?」

 

 場所は、きっとあの小屋の中だ。確実にそうだと言えないのは、俺がこの部屋の内装を知らないからだ。さっきまで真っ暗だった。いまは小屋のなか全体が明るく照らされている、だが、光源がどこにあるのかわからない。引き戸であることと、カビ混じりの湿った木の匂いだけが同じ小屋だと判断できる材料だった。


「すごい!」


「すごい!お姉ちゃん!」


 そう呼ばれた女の子は、両手で髪の毛の水気をしぼりながら座ってこちらを見ていた。眉にかかる前髪の隙間から二本のツノが生えている。床につくほど長い黒髪をポニーテールにして、黒いシャツの上から甲冑かっちゅうをモデルにしたような赤い細身の防具を身につけていた。歳は十代なかばくらいだろうか。目の周りと、唇はほんのり朱色しゅいろに色づいていて、瞳の色も燃えるように紅い。背後に置かれているのは、刀か?

 


「ありがとう。でもいまのはみんなに秘密だからね?」


 猫耳の少女たちはキラキラした目でツノの女の子を見つめ、ツノの女の子は照れたように唇に人差し指を当てて「しーっ」と囁いた。俺が起きる前になにやら秘密にしなきゃいけない出来事があったらしい。


「あ……そうだ、あいつ……!」


 状況の把握に少し気を取られていたが、すぐにあの蛇女の姿が脳裏に蘇ってくる。そうだ、あいつはどこに行ったんだ。かすかにだが、まだあの生臭いイヤな臭いがする。近くで様子を見ているのか?この子たちも誘導されてきてしまったのかもしれない。


「君たち、どうやってここに? 外の蛇女は!? ここはすごく危ないんだ!! 早く逃げたほうがいい!!」



「死んでる」


「死んでる、外で」




「死ん……え?」



「あれなら退治したわよ。外、見てみたら?」



 女の子たちは三人とも平然としていて、うろたえて早口でまくしたてる俺を不思議そうな顔で見ている。


「外……?」


 死んでる……? 退治した……? あの巨大で恐ろしい蛇女を? 信じられない。立ち上がり、引き戸の前に立つ。あの顔を思い出すだけで、手が震えそうだった。深呼吸をして戸に手をかけ、ゆっくりと引く。引き戸はわずかな抵抗を見せながらも、静かに開いた。

 

 湿った土の匂いと、鉄のような匂いが鼻をつき、冷たい空気が部屋の中に流れ込んでくる。俺を苦しめ続けた激しい雷雨は小雨に変わっていて、視界を遮るほどの霧が立ち込めていた。朝なのか昼なのかわからないが、あたりはうっすらと明るく、徐々に凄惨せいさんな光景が浮かび上がってきた。


「っう……!」


 蛇女は無数の断片に切り刻まれ、ぬかるんだ地面に散らばっていた。断片の間には血の混ざった水たまりができており、腐臭を漂わせている。ちょうど戸を向くように転がっている首は青白く、大きな目は光を失い、口は顎が外れそうなほどに開いて二股になった舌が飛び出していた。


「死んでる……本当に……」


 蛇女の切り口は鋭利な刃物で一刀両断にされたように整っている。滑らかで、ブレのようなものが一切見られない。その正確さと力強さはとても人間業とは思えなかった。どれだけの力と技術がいるのか想像もつかない。これを、あの女の子がやったのか?



「安心した?」


 背中から声をかけられ、急いで小屋の中に戻り戸を閉めた。あんなの、ずっと見ていたいものじゃない。


「本当に……君が殺したのか?」


 ツノの女の子は小さなナイフで器用に林檎の皮を剥いている最中だった。それを見て思い出したように腹が鳴る。


「ええ。私が殺した。これ食べる?」


「あ、ありがとう!!」


 林檎を差し出され、食い気味に答えてしまった。恥ずかしい、が、体は正直だ。いまは食べられるものならなんだって食べたい。


「お腹すいてるわよね。何日ここにいたかわかる?」


「んっ、知らない。三、四日は……いた気がするけど……」


「十日よ」


「え!?」


「あなたが森に向かってから十日経ってる」


「十日も……。俺、よく生きてたな……」


「…………」


 彼女の紅い瞳が、じっと俺をとらえる。なにかを探るような、言いたいことを言えないでいるような、こちらの心が落ちつかなくなる表情だ。


「ちなみにあれは濡女。この地方の川の近くに棲息しているモンスターよ。大雨が続いたせいで活動範囲が広がったみたい」


「ぬれおんな……モンスター……」


 聞きなれない単語の連続。そうか、ここはモンスターが存在する世界なのか。


「はい、キヨちゃんとミヨちゃんのぶん」


「わーい」


「わーい、りんごー」


 キヨちゃん、ミヨちゃんと呼ばれた猫耳の少女たちが林檎に飛びつく。すごくかわいい。異世界にいて、外にはモンスターの死体が転がっているこんな状況だが、口元が緩みそうになる。


「もっと剥く?」


「い、いいのかな……俺、払えるもの、持ってなくて」


「これは善意よ。食べたいの? 食べたくないの? どっち?」


「食べたいです」


 俺の返事を聞き、また器用に新しい林檎を剥いていく。この子の名前はなんだろう。聞きたいことはたくさんあるが、まずはそれからだろう。名前……聞いてもいいのだろうか。


「あの、君の名前、聞いてもいいかな?」


「……あなたの名前を聞いたら、答えられるの?」


「えっ……」


 一瞬、林檎から俺へと視線をうつし、彼女がたずねかえしてきた。躊躇ちゅうちょしたのはこのせいだ。相手に名前を聞いても、俺は答えられない。


「ごめん。俺、自分の名前を覚えてないみたいなんだ。だから答えられないよ」


 町でランさんに聞かれた時とは違う。今度は焦らず答えられた。彼女の落ちついた雰囲気のおかげか、正直に話してみようという気になれたのだ。


「名前を覚えてない? 記憶喪失なの?」


 彼女は今度は顔を上げて、少し驚いたように聞き返してきた。赤い瞳がぱちぱちとまたたく。


「……よく、わからない」


 覚えていることと、覚えていないことと、思い出したことがある。でも、「よくわからない」というのも嘘じゃない。


「怪しいわね」


 剥き終わった林檎を俺に差し出し、彼女が言う。無理もない。逆の立場なら、俺だって同じことを思う。



「私はエマよ。エマ・リュウエン。よろしく不審者さん」



「不審者」


「不審者ー!」


 キャーとはしゃいだ声をあげてキヨちゃんとミヨちゃんが俺のまわりを飛び跳ねはじめた。エマと名乗った彼女はその様子を見てクスリと笑い、布でナイフを拭きはじめる。


「……よろしく、エマ」


 怪しまれていることは確かだけど、少なくとも嫌われているわけじゃない。受け取った林檎にかじりつきながら、そう自分を納得させることにした。



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