第2話 夜の森を抜けて
「はあ、やっと、抜けた……」
蒸し暑さで全身に汗がにじみ、シャツが肌に張りつく感覚が気持ち悪い。
「くそ、マジできつかった……。はあ」
いま来た道を振り返り再びため息を吐く。月明かりだけを頼りに、土地勘のない夜の森を抜けるのは想像以上に骨が折れた。石畳の通路が「通路」としての姿を留めていたのは例の扉のまわりだけで、途中からは勘だけを頼りに進むしかなかった。ゆるやかに緩急のついた地面をすべったり登ったりしながら、柔らかな土に足を取られ、どこに足を置いていいのかもわからない岩の群れにつまづいては膝をついた。
意志をもった生き物のように伸ばされた無数の枝にさんざん引っかけたせいで、肌は小さな切り傷とすり傷だらけになっている。それでも、
「……よし」
かなり距離はあるが、明かりの中に人工の建物らしきシルエットが確認できるほど近付いてはいる。木々に隠されていた月がまん丸と顔を出し、周囲を照らしてくれていた。夜目にも慣れ、森の外はこんなに明るかったのかと驚く。あたり一帯は水田地帯で、水面が月明かりを反射し銀色に輝いていた。先ほどのように、あの手この手で行く手を邪魔しようとする物はなにもない。ランプの灯火のように希望が心を温かくする。筋肉からの抗議を振り切って、一歩踏み出した。
***
「おお……!これは、想像以上だな……!」
目的の場所を目の前にし、
「いらっしゃい! いらっしゃい! おいしい焼き鳥、一本どうだい!」
「きゃー! あはは! こっちこっちー」
「やっぱ土産ってランタンが良いんだよな?」
「それでねー、あの子ったらそのまま――」
「お団子! あの屋台のお団子! 絶対食べたい!」
商人たちの威勢のいい声が響き渡り、子どもたちの笑い声があちこちから聞こえてくる。道行く人々は思い思いに買い物や屋台の食事を楽しんでいた。活気と熱気に満ちている。人の多い場所はあまり得意じゃないけれど、虫と自然のオーケストラの中で苦行を強いられた後だと、人々の奏でるこの雑音がむしろ心地いい。
「うーん……」
ただ、町に入った瞬間から気になっていたことがある。人々の服装がだいぶ奇妙だ。はじめは、コスプレ参加が許可されているイベントやお祭りでもしているのだろうと思った。都内でそういうイベントに遭遇したことがあったし、最近は地域の町おこしのためにコスイベを開催する場所もあると聞く。
「だけど、これはなんというか……」
どうしても違和感を解消したくて、さらに人々を観察する。まわりから見たら不審者か、おのぼりさんだろうが、それでも気になるものは気になるのだ。
基本的には和服姿の人が多い。着物や浴衣を着付けてくれる観光地は多いから、それは気にならない。シャツやブラウスなどの洋装を着ている人も多い。少し時代めいたデザインではあるが、奇抜という訳でもない。異常に肌を露出している女性や物理法則を無視した服装をしている人々も、かなり気合いの入った仕掛けが施された衣装だと思えば、まあ、無理やり納得することはできる。
問題は重厚な
「クオリティが高すぎる……」
そう、なにもかもがリアルすぎるのだ。あまりにも作りもの感がない。甲冑やアーマーなんて、みんな違う箇所に傷や汚れがあって、あきらかに使い込まれている。博物館に飾っていてもおかしくないレベルだった。
「いや、まてまて」
人のことばかり気にしていたが、俺だって散々な格好をしてるじゃないか。いそいで目の前にあった「
「これで通報されなかったのはラッキーだったな……」
手ぐしで直せる髪の毛や、こすり落とせる汚れはどうにかなっても、こびりついたり染み込んだものはどうにもできない。着替えを買う金も持っていないし、公園でも探して水道を借りようか……。
「ねえアンタ、冒険者なの?」
いつのまにか俺が鏡替わりにしていた窓にもたれかかり、女性がこちらを見ていた。襟元が大きく開いた着物を着ていて、両肩も胸元も惜しげもなく晒されている。黒髪を高いところで結い上げ、無数のかんざしで飾りつけていた。目を引くのは、その髪の毛のあいだから顔をだしている、ふわふわした毛に覆われた猫耳だ。黒と白のぶち模様をしたその耳は、彼女の呼吸や表情に合わせてピクピクと小さく動いている。
「違うの? 喧嘩でもした?」
首をかしげるとシャラン、チャリンとかんざしの飾りが鳴る。花魁のような華やかな姿と猫耳に
「冒険者……です」
怪しまれたくなくて、思わず嘘をついてしまった。
「そう。拭くものいる?」
「えっ……、あ! 助かります!」
俺が窓を鏡にして身なりを整えてたのをずっと見ていたのだろうか。彼女は返事を聞くと店の中に引っ込んだ。
「尻尾……」
その後ろ姿には、意思があるようになだらかに揺れる尻尾がついている。
「嘘だろ、本物なのか?」
こんなに近くで見ても、作りものの違和感がまったくない。呆然としている俺の前に、手ぬぐいを手にした彼女が戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます……。あっ、濡らしてくれたんですか! 助かります」
手ぬぐいは湿ってひんやりしており、肌にこびりついて素手では落とせなくなっていた血や汚れを綺麗にすることができた。なにより、額と首筋だけでも汗を拭けるのが嬉しい。
「それ、あげるわ」
「え、そんな申し訳――」
俺の言葉が終わる前に、彼女は店先に向かって歩いてきたお客らしい2人組に顔を向け、にっこりほほ笑む。
「いらっしゃいませ〜。ようこそ『
そうして視線だけこちらに向け、ひらひらと手を振る。いつまでも店先にいないで早く行けということかもしれない。慌ててお辞儀をしてその場を離れた。
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