ヘリオンの扉
ゆつみかける @猫部
第1章
第1話 甘い香りと森の扉
「チョコレートと、そっちのイチゴの新作、お願いします」
カウンターの向こうの店員がにっこりとほほ笑んで、手際よくショーケースの中からケーキを取り出した。今日はチョコレートケーキと、苺のタルト。五ヶ月前、婚約者の
ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。画面には俺と
「お待たせいたしましたー」
顔をあげると、商品を箱に詰め終わった店員がレジ前で俺を待っている。
「2点で860円になります」
持っていたスマホでそのまま支払いをすませ、店のロゴの入った紙袋を受け取る。ケーキを崩さないように慎重に持ち上げ、お礼を言って店を出た。
「今日は早く帰るよ」
店から出てすぐ、メッセージアプリに短い文章を入力し、
春先のまだ少しだけ冷たい夜風が肌に心地よく、スーツのネクタイを緩める。最近は残業続きで日を跨いでから家に帰る日が多かった。「今日は何時に帰れそう?」と、いつも心配そうにしていた彼女の顔を思い出す。今夜はゆっくり二人の時間を持てそうだ。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押して待っているあいだ、ケーキの箱が入っている紙袋を覗き込み、顔がほころんだ。新作の苺のタルトは心配性な彼女を笑顔にしてくれるだろうか。
△△△
――――寒い。
いつもの
……寝てしまった? いつから?
感覚が少しずつ目覚めてくると、背中や尻にあたる固さも気になる。どうやらベッドやソファのような柔らかい物の上で寝ているわけではないらしい。両手を広げて体の周りを探ると、固い砂利のようなものが肌に張り付く不快な手触りがあった。
「……?」
思考が徐々に覚醒し、うっすら目を開ける。屋外だった。あたりは暗く、月の光を遮ってひしめくように揺れる背の高い木々が輪郭だけを浮かびあがらせている。
森。俺はおそらくどこかの森で、地面に仰向けに倒れている。一気に背中に冷や汗が浮かんだ。
「なんなんだ……」
上半身を起こして、身体中を確認してみる。服装はシャツと黒のスラックス。靴下と革靴。ジャケットは見当たらない。どこにも痛みはなく、怪我はしていないようだ。スーツで、無傷で、森に放り出されている……冷静でいたいがさすがに混乱してくる。
「……夢?」
醒めにくい夢の可能性を期待して、強く頬をつねってみた。痛い。深呼吸して立ちあがり、あたりを見回しても暗すぎて数メートル先もよく分からない。月明かりを頼りになんとか目を凝らす。
右も左も何百もの黒い棒を突き立てたような木々が立ち並んでいる。足元は形や大きさの異なる自然石を敷き詰めた石畳の通路が前方の暗闇に向かって一直線に伸びていた。手入れされず長らく放置されいるのか、ところどころ欠け、苔むしている。この上で寝転んでいたんだ、どうりで快適な寝心地とはいかない。
反対側を確認するため振り返り、俺は思わず声を上げた。
「は……?」
この場に相応しくない「異物」
そう表現するしかない。地面から40センチほど上空、鈍い金色に輝く巨大な金属が浮かんでいた。
「え、何……? でか……」
直径七、八メートルはありそうな円形。表面には漫画でしか見たことのないような魔法陣らしき
「どうやって浮いてるんだ……?」
厚みは30センチほどある。しかし浮かせるための動力源のような物が見当たらない。ぐるりと一周してみたり、表面に触ってみたり、移動できるか押してみたり、下部に仕掛けがないか手をかざしてみたり、一通り出来そうなことをしてみたが、うんともすんとも言わない。やっぱりただの浮いているだけの金属だ。
できるだけ全体を見渡せるよう数歩うしろに下がり、気付いた。
「……
どこでかは覚えていない、でも俺は前にもこれを見たことがある。それもつい最近。
「…………」
あらためて自分の体を確認してみる。やはり傷一つついていない。数メートル先も見えない暗い夜の森を、服も靴も汚さず、かすり傷一つ負わず、どうやって歩いてきた。あまりにも不自然だ。きっと俺はこの森を歩いてなんかいない。
でもこれが扉なのだとしたら、この状況に少しは納得ができる。俺はここから「出てきた」んだ。
なぜこの場所なのか、なぜ出てきたときのことを思い出せないのか、いくら考えてもわからない。確実なのは、俺に何かが起きたことだけ。
「そうだ……
どうしていままで思い出さなかったんだろう。彼女は無事なのか? とにかくここがどこなのか確かめなければ。
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