ヘリオンの扉

ゆつみ かける

第1章

第1話 甘い香りと森の扉

「チョコレートと、そっちのイチゴの新作、お願いします」


 カウンターの向こうの女性店員はにっこりとほほえんで、手際よくショーケースの中から俺の注文した二品を箱に詰めはじめた。今日はチョコレートケーキと、つやつやした果実にピンクのクリームが可愛らしい苺のタルト。五ヶ月前、婚約者の未来みくと同棲をしはじめてから、俺は職場の帰り道にあるこの小さなケーキ店に頻繁ひんぱんに立ち寄るようになっていた。


 甘い香りが漂う店内から、ガラス張りの向こうに目をやる。柔らかな街灯の光やカラフルな看板のネオンが照らす通りを、春の装いに身を包んだ人々がせわしなく行き交っていた。ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。画面には俺と未来みくのツーショットの写真と、その上にかぶさるように大きな白文字で19:34の表示。よかった、20時までには帰れそうだ。


「お待たせいたしましたー」


 顔をあげると、商品を詰め終わった女性店員がレジ前で俺を待っている。


「2点で860円になります」


 持っていたスマホでそのまま支払いをすませ、店のロゴの入った紙袋を受け取る。ケーキを崩さないように慎重に持ち上げ、お礼を言って店を出た。



 未来みくは俺より四つ歳下の二十三歳。同じ会社で働いている。実年齢よりもずいぶんしっかりした子で、誰にでも優しく、入社当時からみんなに可愛がられていた。彼女の心を射止め、トントン拍子に婚約まで話が進んだ俺は、さぞ男性社員に妬まれただろう。飲みの席でからかわれるのは、もう恒例行事になっていた。 


「今日は早く帰るよ」


 店から出てすぐ、メッセージアプリに短い文章を入力し、未来みくに送信する。スマホをポケットにしまって早足に歩き出した。


 まだ少しだけ肌寒い夜風は肌に心地よく、スーツのネクタイを緩める。空には満月が浮かび、街灯の少ない通りも明るく照らしていた。最近は残業続きで、日を跨いでから家に帰る日が続いていたから、足が軽い。「今日は何時に帰れそう?」と、いつも心配そうにしていた彼女の顔を思い出す。

 

 マンションのエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押して待っているあいだ、ケーキの箱が入っている紙袋を覗き込み、思わず顔がほころんだ。新作の苺のタルトは心配性な彼女を笑顔にしてくれるだろうか。







△△△






――――寒い。




 いつもの手癖てぐせで、布団をずり上げようとあたりをまさぐる。なにもない。こんなに寒いのに、なにもかぶらずに寝てしまったらしい。


……寝てしまった? いつから?



 感覚が少しずつ目覚めてくると、背中や尻にあたる冷たさと硬さも気になる。どうやらベッドやソファのような柔らかい物の上で寝ているわけではないらしい。手のひらを下にして体の周りを探ると、ひんやりと冷たく、固い砂粒のようなものが肌に張り付く不快な手触りがあった。

 

「……?」


 重なる不愉快さに思考が徐々に覚醒し、うっすら目を開ける。屋外だった。あたりは暗く、月の光を遮ってひしめくように揺れる背の高い木々が輪郭だけを浮かびあがらせている。


 森。俺はおそらくどこかの森で、地面に仰向けに倒れている。一気に背中に冷や汗が浮かんだ。


「うわっ……」


 ここが外だと悟った瞬間、いままで聞こえなかった風の音や虫の鳴き声、木の葉が擦れる音が急に耳に響く。些細ささいな自然環境音のはずなのに、無音の世界から力まかせにオーケストラ会場へ引きずり出されたような強引さだ。


「なんなんだ……」


 上半身を起こして、身体中を確認してみる。服装はシャツと黒のスラックス。靴下と革靴。ジャケットは見当たらない。腕、脚、胴体、頭。どこにも怪我はしていないようだ。冷静でいたいが、さすがに混乱してくる。


「……夢?」


 醒めにくい夢の可能性を期待して、強く頬をつねってみたらひどく痛んだ。深呼吸して立ちあがり、あたりを見回してみる。暗すぎて数メートル先もよく分からない。月明かりを頼りになんとか目を凝らす。

 

 右も左も何百もの黒い棒を突き立てたような木々が立ち並んでいる。足元は形や大きさの異なる自然石を敷き詰めた石畳の通路が前方の暗闇に向かって一直線に伸びていた。手入れされず長らく放置されいるのか、ところどころ欠け、苔むしている。この上で寝転んでいたんだ、どうりで快適な寝心地とはいかない。

 

反対側を確認するため振り返り、俺は思わず声を上げた。

 

「は……?」


 この場に相応しくない「異物」

 そう表現するしかない。地面から40センチほど上空、鈍い金色に輝く巨大な金属が浮かんでいた。


「え、何……? でか……」


 直径七、八メートルはありそうな円形。表面には漫画でしか見たことのないような魔法陣らしき幾何学模様きかがくもようが彫刻され、なんらかの動物をモチーフにした立体的なレリーフがほどこされている。磨けば鏡面のように輝きそうだが、手入れされていない古ぼけた雰囲気が不気味な重厚感をかもしだしていた。


「どうやって浮いてるんだ……?」


 側面に回り込んでみる。厚みは30センチほどしかなく、浮かせるための動力源のような物が見当たらない。ぐるりと一周してみたり、表面に触ってみたり、移動できるか押してみたり、下部に仕掛けがないか手をかざしてみたり、一通り出来そうなことをしてみたが、うんともすんとも言わない。やっぱりただの浮いているだけの金属だ。



 できるだけ全体を見渡せるよう数歩うしろに下がり眺める。


「……とびらだ」


 なぜそう思ったのかわからない。でもそう思った。思ったことがただ口をついた。俺はこれを見たことがある、それもつい最近。



「…………」

 


 自分の両手のひらを確認する。やはり傷一つついていない。数メートル先も見えない暗い夜の森を、服も靴も汚さず、かすり傷一つ付けずに歩いてこられるのか。俺は散策のプロじゃない、無理だ。疲れすら感じてないじゃないか。あまりにも不自然だ。きっと俺はこの森を歩いてなんかいない。


 でもこれが扉なのだとしたら、この状況に少しは納得できる。俺はここから「出てきた」んだ。



 なぜこの場所なのか、なぜ出てきたときのことを思い出せないのか、いくら考えても何もわからない確実なのは、俺に何かが起きたことだけだ。


 「そうだ……未来みく!」


 どうしていままで思い出さなかったんだ。彼女は無事なのか? とにかくここがどこなのか確かめなければ。


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