36.忘れもの

 天気のいい日だった。

 久し振りに休日に外出した詩音は、ひとり公園のベンチに座り真っ青な空を見上げる。


(ライムさん……)


 まるで夢のような出来事。

 恐ろしい呪魔なる存在が現れたかと思うと、ライムが翼を広げ本物の天使だったと知る。ウラドまでその呪魔であり、新たな呪魔から自分を助けて消えてしまった。会社ではウラドの急な退職が公表されたが真相は闇の中だ。



「はあ……」


 自然とため息が出る詩音。

 一体あれからどれだけのため息を吐き、涙を流したことか。詩音が手を太陽にかざしながらつぶやく。


「幸せ、か……」


 最悪の呪魔から解放された詩音は、これまでのような不幸な出来事は嘘のように起こらなくなっていた。

 母親からの謝罪の申し出に始まり、友人朋絵の妊娠の連絡。結婚詐欺で自分を騙した男はふと目にしたニュースサイトで逮捕されたと出ていた。借金もライムのお陰でほぼすべて返済が終わり、今はタワマンを出て新たなアパートを借りてひとり暮らしをしている。



(怜奈さん、元気かな……?)


 怜奈にはライムに起こったすべてのことを隠さずすべて話した。

 驚いたことに怜奈はライムのことを本物の天使だと心のどこかで思っており、詩音が『翼を見た』と言った時もそれほど驚きはしなかった。ただ、



【翼をもがれた天使は息絶える】


 その言葉にはさすがに気の強い怜奈も涙が堪え切れなくなり、声を上げて泣いた。

 ライムが自分の翼をもぎ取って呪魔に投げつけた行動。あれは天使の命と引き換えに邪を滅するいわば禁忌の術。長寿で簡単には死ぬことがない天使が、その燃えるような生命力と引き換えに邪を滅ぼす。

 ぐったりしたライムを担ぎながら大天使ミカエルが詩音に言った言葉が忘れられない。



「こいつは人を幸せにすると言う天使の本望を遂げて逝った。お前には幸せになる義務がある」


 隣でわんわん泣くマリルと共にその神々しい大天使は、ライムを担いだまま空へと消えて行った。



 ティロリン……


 公園のベンチに座っていた詩音のスマホにメッセージが届く。


(朋絵だ……)


 エリートサラリーマンの康太と結婚した朋絵からのメッセージ。内容は少し前に詩音に紹介した康太の同僚の話。ライムを失ったと聞いた朋絵が気を利かせて康太の独身の同僚を紹介してくれたのだ。


(エリートサラリーマン……)


 康太同様のエリートサラリーマン。将来を嘱望された若手のホープでもあったが、これまで独身を貫き特定の女性を作らなかった。そんな彼が詩音の写真を見て『ぜひ会いたい』と言い、とんとん拍子に食事会へと繋がった。



【返事はどうするの? 決めた??】


 返事とはその彼からの交際の申し出である。顔立ちも良く大手企業に勤める有望株。優しく暴力を振るうことなど消してない結婚相手としても優良物件。多くの女性なら即答で了承していただろうその問いに、詩音が返事を打つ。


【ごめん。やっぱり断って】


 その後は朋絵から心配するメッセージが幾つも届き連絡を終える。詩音はスマホを鞄に片付けひとり歩き出す。






 何時間歩いたのだろう。詩音の頭の中には気を抜くとそのことで一杯となる。


 ――会いたい


 金髪でチャラい男。

 ストーカーで変質者でいつも傍に居てくれた男。

 どれだけ断っても悪く言っても『お前を幸せにする』と言って微笑んでくれた男。



「うっ、ううっ……」


 流れる涙。詩音が暗くなり始めた空を見上げる。星が瞬き始め、少し冷たくなった風が彼女を包み込む。



「不幸じゃ、不幸じゃなくなったよ……」


 ライムに会う前に抱えていた様々な不幸な要因は綺麗になくなった。仕事も順調でやりがいもある。貯金こそできないが借金がないと言うのはこれほど体が軽いのかと思うほど体調もいい。だが思う。



「不幸じゃないけど、全然幸せじゃないよ……」


 溢れ出る涙。不幸ではなくなったが決して幸せじゃない。何かが足らない。圧倒的な何か。

 詩音が無意識に歩道橋へと歩みを進める。下にはヘッドライトをつけて走る車の流れ。吹き抜ける風が黒い彼女の髪を舞い上げる。



「あなたが居ないこの世界で、どうやって幸せになれって言うの……」


 歩道橋の上でひとり立つ詩音が、両手で顔を押さえて嗚咽する。

 たくさんの心配事はなくなった。だけど幸せにしてくれると言った本人が居なくて、どうやって笑えるのだろうか。そこに幸せなどない。愛すべき人を失った悲しみだけだ。



(ここから飛び降りたら楽になれるのかな……)


 詩音が歩道橋の下に走る車を見てふと思う。

 彼がいない世界に生きる意味など見いだせない。失って初めて気付いたその存在。もっと、もっと一緒に居る時に抱きしめたかった。想いをきちんと伝えたかった。

 停止する詩音の思考。目の前に流れる車の川に身を投じようと手すりに手をかけた。その時だった。



「よお、お嬢さん!!」


(!!)


 手すりを掴んだまま固まる詩音。

 空耳か。幻聴か。その聞こえた声は既にこの世にあるはずのない声。詩音が震える体をゆっくりと声のした方へと向ける。



「あ、あっ……」


 再び溢れる涙。その男の姿を見た思考が一気に活動を始める。震え声で詩音が言う。


「ライム、さん……?」


 着崩した白のジャケット。金色の髪。チャラいオーラ。どこをどう切り取ってもそれは居ないはずのライム・ミカエルそのもの。金髪の男近付きながら言う。



「ほんと詩音ちゃんはちょっと放っておくと直ぐに……、!?」


 詩音は一直線にライムに駆け寄り抱きしめる。



「ライムさん、ライムさんなの!?」


 涙声で尋ねる詩音に男が答える。



「ああ、ライムだ。戻って来たぜ!」


 そう言ってはにかむ笑顔を見て詩音がぼろぼろと涙を流し尋ねる。


「どうして? どうして戻れたの? だってライムさんは……」


 ライムが頭を掻きながら答える。



「うーん、まあそのなんだ。翼をもいじゃったんでもう天使じゃなくなったんだけど、ミカエル様が特別にいろいろ手を回してくれて、人間として復帰できたって訳だ」


「に、人間……!?」


 驚きの言葉。天使じゃなく人間になったとすれば自分と同じ立場。詩音の体がかあっと熱くなる。ライムが言う。



「だから空を飛んだり、悪い奴をやっつけたりはもうできないけど、大切なことをし忘れちまっててね」


「ライムさん??」


 詩音を抱き寄せたライムが彼女の頬に手を添えて言う。



「お前を死ぬまで幸せにすること。これが俺の最後の仕事」


「ラ、ライムさーーーーーん!!!!」


 詩音は涙を流し何度もライムを抱きしめる。ライムもそれに応じ、星空の下ふたりは強く抱きしめ合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

軟派なイケメン堕天使は、最強不幸女子を幸せにする。 サイトウ純蒼 @junso32

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ