24.見えない壁
「三上喜一郎め、とことんこのワシを馬鹿にしおって!!」
ライムが詩音とルーフバルコニーで会話するその数日前。高級料亭で食事をしていた三葉小次郎は怒りの形相で注がれた日本酒を一気飲みした。
喜一郎より遥かに年上の三葉。様々な事業を手掛けるが今回の都市計画の権利同様、やり手の喜一郎にいつも負けてしまう。
向かいに座ったただならぬ雰囲気を持った男が徳利を持ちながら言う。
「旦那、まあそうカッカなさらずに」
「うむ、分かっておる」
眼光鋭い五分刈りの男。一見して反社会勢力の者だと分かる風体。三葉は注がれた日本酒を見ながら怒気を露わに言う。
「あいつが泣きながら懇願する姿を見なきゃワシは死んでも死にきれん!!」
「ですなあ。それで、旦那。うちの手ですが」
五分刈りの男が下からまるで獲物を狩るような目で見上げながら三葉に話をする。それを黙って聞く三葉。徐々にその顔が笑みへと変わっていく。
「……なるほど。娘ねえ。まあその辺りは任せる。首尾よく頼むぞ」
「お任せを」
ふたりは注がれた日本酒のお猪口を、コンと軽くぶつけながら静かに笑った。
日曜の朝。目を覚まして起きて来た怜奈は、リビングの電気がつけっぱなしになっているのに気付いて目をこすりながら言う。
「もお、ちゃんと電気消してよね……、え?」
リビングのテーブルには空になったビール缶にウィスキーのボトル。食べかけのつまみが散乱している。そしてその傍に仰向けになって眠る金髪の男、ライムの姿を見て怜奈が悲鳴を上げる。
「きゃあああああ!!??」
全裸で眠るライム。股間の部分に辛うじて小さなクッションが乗っているだけの無防備な状態。それを聞いて目覚めたライムが驚いて声を上げる。
「うわっ!? な、なんだ!!??」
両手を顔に当てその場に蹲る怜奈。驚いたライムが立ち上がり怜奈に近付く。
「どうしたんだ、怜奈!? 何があった!!」
指の間から近付くライムをちらりと見る怜奈。中二の女の子が決して見てはいけない物が目に映り、再度叫び声をあげる。
「ぎゃあああ!! なんて格好してるのよ!!!」
「え? ああ、ごめんごめん」
そう言ってライムは脱ぎ捨ててあった服を着る。怜奈がよろよろと立ち上がって顔を真っ赤にして言う。
「な、なんで服を着て寝ないのよ!!」
「え? だって大人ってみんな裸で寝るんだぜ。お前は違うのか?」
「そ、そんな訳ないでしょ!!」
「ああ、そうだった。まだ子供だったもんな。ごめんごめん」
大人は全裸で寝る。そう言われた怜奈が小さな声で言い返す。
「そ、そのうち私もそうするよわ……、もうすぐ大人なんだから」
「ん? 何か言ったか?」
「な、何でもないわよ!! それよりこれ、一体何やってたのよ!!」
怜奈が散らかったテーブルの上を指差して言う。
「ああ。昨夜、ちょっと詩音と飲んでてな」
「詩音さんと……」
ふたりだけの夜のお酒。一体何を話していたのだろうか。聞きたくても聞けない怜奈がやや苛ついた顔で言う。
「私だけのけ者にして……」
「何だ一緒に飲みたかったのか?」
「ち、違うわよ!!」
「まあ、怜奈もあと数年したら俺が酒を教えてやるな」
「ふん!!」
そう顔を背けて応える怜奈にライムが言う。
「希望があれば他のことも色々教えてやるけど」
「い、いいわよ!! そんなの!!」
顔を赤くした怜奈が大きな声で言う。
「もういいから、朝食の準備をするからこのテーブル、片付けてちょうだい!!」
「は~い!!」
そう言ってほぼ半裸で立ち上がるライムを見て怜奈が再び叫び声をあげた。
(朝……、いや、もうお昼か……)
詩音は目覚めてお昼近くになっている時計を見て思った。昨夜はライムと飲んで途中から記憶がない。自分の部屋で眠っていたということは歩いて来たのか、運ばれてきたのかどちらかだろう。
「痛たたた……」
やや二日酔いの詩音。ズンズンする頭に手をやりベッド横に置いたスマホを見る。
「はあ……」
休みに関係なく届く借金返済のメールに電話。その中に母正子のメッセージを見つけ、恐る恐る開く。
「……」
スマホの画面を見つめ無言になる詩音。昨夜、体調不良で母の部屋に行けなかった旨の連絡はしてある。正子の返信はそれを気遣った優しい言葉で溢れていた。
――あとは詩音をやるだけ
「うっ、うおっ……」
二日酔いと昨日の母親の言葉を思い出し吐き気を催す詩音。アルコールで誤魔化していたが、一晩経って再びあの苦しさが詩音を襲う。
――まあ、仕事だから。
同時に思い出すピンク髪の女の言葉。耐えられなくなった詩音は部屋を出て洗面所へと走る。
「うおっ、うぉおおえぇ……」
二日酔いの頭痛と精神的不安が重なり嘔吐が止まらない。水を大量に流しながら吐き続ける詩音。濡れた顔。濡れた髪。顔を上げて鏡に映る自分の顔はまるで幽霊のよう。
「ねえ、幸せってなに……?」
その鏡の自分に問いかけたのか、他の誰かに問いかけたのか分からない。溢れる涙を水道水で洗いひとりリビングへと歩く。
「誰もいないか……」
日曜の昼。ライムも怜奈も出掛けたのか部屋に居るのか誰もいない。
豪華な部屋を用意して貰った。ご飯も無料で食べられている。だけど体の震えは止まらない。
「本当に私を幸せにしてくれるの……?」
詩音はリビングにあるクッションに顔を埋めて再び涙を流した。
「うん、うん、分かった。ありがと、おばあちゃん」
その頃、怜奈はひとり部屋の中で祖母の絹子と電話で話していた。話の内容は父喜一郎襲撃の件。祖母としてきちんと話をしてきたことを伝える電話だった。
『もう心配ないから』
「うん、本当に嬉しいよ」
怒らせると怖い父親。だがさすがに今回ばかりは絹子も黙ってはいられなかったようだ。
父親の憂いがなくなった怜奈はやや安心した顔つきになって服を着替える。駅前にできた新しいカフェに行きたいのだが、誘ったライムは用事があるようで一緒に来てくれなかった。
「ひとりで行くか」
怜奈の選択肢の中に詩音はない。
決して嫌いではないのだが、どうしても壁を感じてしまう。同じ女としてなのか。その理由は分かっている。だが素直にそれを直視する勇気がない。怜奈はスマホを握り部屋を出る。
「あっ」
「あれ、怜奈さん?」
廊下で出会う詩音と怜奈。一瞬の間を置いて詩音が尋ねる。
「お出掛け?」
「はい、ちょっと……」
詩音は頭痛に耐えながら笑顔を作って会話する。怜奈は小さく頭を下げるとそのまま玄関へと歩き出す。詩音が言う。
「気を付けてね」
「はい、ありがとうございます」
怜奈は再び会釈をしてその場を去る。
(ほんと、私って嫌な女……)
詩音ことは嫌いではないはず。なのにあの冷たい態度。玄関に座りブーツの紐を結びながら怜奈は自己嫌悪に陥る。そしてそのままドアを出て外へと向かった。
「あれ……?」
そのすぐ後、玄関の近くを通った詩音は、そこに置いたままの怜奈のスマホに気付き拾い上げる。
「忘れて行っちゃたんだ。届けてあげなきゃ」
詩音は二日酔いの頭痛を我慢し、服を着替えて怜奈の後を追った。
「はあはあ、はあ……」
駆け足で怜奈を追いかける詩音。どこへ行ったのか分からないが、とりあえず駅前への道を駆ける。そして短いスカートをはいた赤髪の少女を見つける。
(いた!!)
詩音が道を挟んだ向こう側にいる怜奈を見つけ速度を速める。
「え?」
あっという間だった。
怜奈の周りに通行人がまるで壁のように現れると、その真横に黒のミニバンが付けられる。一瞬視界から消えた怜奈。通行人が散って行った後に彼女の姿は本当に消えてなくなっていた。
(あのミニバンに怜奈さんが!!)
詩音は無我夢中で道路を渡り手を上げタクシーを止める。
「あの黒のミニバンを追ってください!!」
交差点を曲がって視界から消えそうな車を指差して口早に言う。攫われた怜奈。詩音がたったひとり、その彼女を追う。
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