15.中級呪魔
詩音は朋絵のアパートのドアの前にやってきたまま固まっていた。
パアアアン!!!
「いい加減にしろっ!!!」
部屋の中から聞こえて来る婚約者康太の怒声。朋絵の嗚咽する声がその後に続く。日も沈み、暗くなった空の下、詩音はドアノブを握ったまま汗を流す。
(行かなきゃ。これ以上やったら朋ちゃんが……)
今日は特に怒鳴り声が大きい。朋絵は大丈夫と言っていたが、これ以上放置したら彼女の精神が危ない。詩音はわざと音が出るように大袈裟にドアを開けた。
「朋ちゃん!!」
ドアの先に広がるキッチン。そこの床に髪を掴まれ蹲るようにして許しを請う朋絵の姿を見て詩音は叫ばずにはいられなかった。
殴られたのか口から血が流れ、床に落ちた彼女の眼鏡はフレームが変形してしまっている。朋絵同様に、いつもはきちんと整えられている康太の七三の髪形も乱れ銀縁眼鏡がずれている。詩音が大きな声で言う。
「伊勢さん、それ以上は止めて下さい!!」
康太は朋絵の髪を掴んだままじろりと詩音を睨んで言う。
「お前なんだよ……」
「??」
意味が分からない言葉。だがその表情を見た詩音の背中に悪寒が走る。康太が言う。
「お前がここに来たからこうなったんだよ!!!」
そう言って掴んでいた朋絵の髪を引っ張り上げると、もう片方の手で彼女の頬を平手打ちする。
パアアアアン!!!
「ぎゃっ!!」
成人男性による手加減なしの平手打ち。心身ともに疲れ果て、康太のされるがままになっていた朋絵にそれを受け止める余裕はない。詩音が駆け寄り彼女の体を守るようにして言う。
「止めて下さい、止めて下さい!!」
「どけよ」
ドン!!!
「きゃあ!!」
康太は朋絵に覆いかぶさって守る詩音を足蹴りにして言う。
「だってこいつはよお、この私を不服そうな目で見たんだよ……」
詩音に抱かれたままの朋絵が悲しそうな表情をする。
「私の妻になる彼女がだよ、この私にそんな目をしていいと思うかい? ダメだよね。だからちょっと教育してるのさ。分かるだろ?」
詩音が康太をギィっと睨んで言う。
「分かる訳ないでしょ!! こんなこと犯罪よ!!」
「!!」
それを聞いた康太の表情から穏やかさが消え去る。
「私と朋絵は夫婦だ。関係ないお前に何が分かる?? ええ?? お前なんかに何が分かるんだよぉおお!!!」
ドン!!!!
「きゃっ!!」
康太がキッチンにテーブルを思いきり蹴り上げる。倒れるテーブル。乗っていた皿が音を立てて床に落ち割れる。康太がゆっくりとふたりに近付きながら言う。
「お前出て行けよ。ここは俺達の部屋だぞ。何でいるんだよ、お前……」
黙っていた朋絵が涙声で言う。
「ごめんなさい、ごめんなさい。康太さん、もう怒らせるようなことしないから……」
康太が言う。
「じゃあ、こっち来いよ。私の所に来て謝れよ。心からの謝罪をしろよ……」
「ううっ……」
朋絵はこれまでにない康太の怒りに怯え、足が震えて立てない。詩音が言う。
「止めて下さい、本当にもう、本当に……」
朋絵を強く抱きしめ涙を流す詩音。全く動かない朋絵を見た康太が怒りの表情を浮かべて強く言う。
「ああ、またお前はそうやって私を騙す。やっぱり教育が必要だ。悪い朋絵は直さなきゃな……」
抱き合って震えるふたり。詩音が言う。
「お願い、来ないで。お願い……」
康太が引きつった表情を浮かべて怒鳴る。
「黙れっ、静かにしろっ!!!!」
バン!!!
その声と同時に開かれるアパートのドア。その入り口に立った金髪の男が言う。
「何やってんだ、てめえ」
振り返る康太。そこには何かと気に食わないチャラい男の姿。その男は隅で朋絵を抱きしめて涙する詩音の姿を見て表情を変える。
(詩音……)
「ライム、さん……」
涙を流す彼女の目は真っ赤に染まり、服には康太のスリッパの跡がうっすらと付いている。ライムは地上に降りてきて以来、初めての本気の怒りに体が震える。康太がライムに言う。
「お前も目障りなんだよ。出てけよ、ここは私と朋絵の……」
「前に言ったこと、忘れたのか?」
「!!」
抑えていても溢れ出す天使の力。ライムが静かに言う。
「俺はよ、正直呪魔とかどうでもいいんだ。早く戻らなきゃっては思うけど、悪いことしねえ奴を浄化する気はねえ。だけどよ……」
意味の分からない言葉を発する金髪の男を康太が顔を歪めて見つめる。ライムが言う。
「女に手を上げる奴だけは、絶対ぇ許さねえ!!!!」
「ひぃ!?」
ライムの圧の前に康太が怯む。同時に部屋の中へ駆け上がり、蹲る詩音の手を取ってお姫様抱っこする。驚く詩音が言う。
「え!? ちょ、ちょっと何を!?」
「うるさい、少し黙って……」
そう言いながらライムが詩音をじっと見つめる。顔を赤くした詩音がライムを見つめながら思う。
(い、いきなりこんな状況で、どうしてこんな……)
「お前を愛してる」
(ひゃっ!?)
同時に漂う呪魔の気配。ライムは詩音を抱いたまま素早く指を二本立て、斜めに空を斬って言う。
「
ライムの周囲を回転するように現れる光の波。それが四方に広がって行き、時間の止まった音のない天域が形成される。ライムはゆっくり詩音を降ろしてから両手を前に突き出し、鞘から剣を抜き出す仕草をして言う。
「出て来いよ。クソッたれが」
ライムの言葉に反応するように周囲にあった黒いもやが集まり、やがて形を成して行く。
「天使? いや、堕天使か……」
やがてそのもやは黒いローブを着たような人の姿へと変わり小さくつぶやく。大きさにして子供程度。だがそこから発せられる邪の圧は下級呪魔の比較にならない。
(中級クラスの呪魔か。やはり洗脳魔の類か。詩音の奴、とんでもねえのを呼び寄せやがったな……)
ライムは一度浄化させたはずの康太達が、再び呪魔に憑かれている状況を理解した。詩音が近くにいたことでより強い呪魔を呼び寄せ、元々憑りつかれやすい体質の康太をその器に選んだようだ。
呪魔とライムふたりだけの世界。
「浄化する。てめえのやったことは看過できねえ」
微動たりしない呪魔がローブの中から静かに答える。
「堕天使ごときが生意気な。お前ではこの私には勝てないんだよ」
ライムが笑って答える。
「呪魔ごときが、何を言ってやがる!!」
そう答えたライムが周囲の異変に気付く。
(なに? これは、まさか……)
天域を張った辺り一面が光り輝き始める。明るく、無意識に畏怖するような光。ライムの視界から呪魔が消え、視線が上に向けられる。
「マジか……」
ライムの目に映ったのは屈強な肢体に赤い髪、四枚の翼をゆっくりと羽ばたかせた大天使の姿。それは自分を地上に追放した男。
「ミカエル、様……」
大天使ミカエル。その神々しさの前にライムは自然と片膝をついて頭を下げる。ライムが脂汗を流しながら思う。
(なぜ、なぜミカエル様がこんな場所へ??)
理解ができない。天界に住み、忙しい毎日を送る大天使がなぜ地上追放された堕天使の前に降り立つのか。混乱するライムにミカエルが言う。
「ここから立ち去れ、ライムよ」
ライムが顔を上げて言う。
「いや、だけどミカエル様。あいつは女の子を殴って……」
「そんなことどうでもいい」
(!!)
ミカエルが腰に付けた剣を持ってライムに言う。
「それよりこの剣で己の胸を刺せ。さすればお前の天界での罪も消え失せよう。罪は許される。私とともに天界へ帰ろうぞ」
ミカエルは無表情のまま光り輝く剣をライムに突き出す。
「あー、そう言うことか」
「なに?」
片膝をついていたライムが立ち上がり、ミカエルを見下した表情で言う。
「女の子を殴ることが『どうでもいい』だって? ふざけんな。
黙るミカエル。ライムが言う。
「てめえ、洗脳魔だったよな? 危ねえ、危ねえ。もう少しで騙されるとこだったぜ」
そう言いながら再び
「ミカエル様の偽物を作り出すとは、いい度胸じゃねえか!!!!」
ザン!!!
微動だにしないミカエルを脳天から一刀両断にするライム。ミカエルは何の反応もしないまま煙となって消える。そしてそのすぐ後に小さなローブを着た人型の呪魔も悲鳴を上げて消滅した。
ライムが時の止まった世界で動かない康太を見つめて言う。
「さて、教育の時間だ」
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