14.詩音の心配
朋絵の婚約者である
大手商社に勤め、三十二歳と言う若さでありながら数十名の部下を持つ商社マン。銀縁眼鏡に七三分けと少し古風ではあったがそれなりに整った顔立ちであり、彼のステータスを考えればとうに結婚していてもおかしくなかった。
だがこれまで数名の女性と付き合うもすべて別れている。今回出会い系の飲み会で知り合った朋絵とようやく婚約までこぎつけたのだが、その原因はやはり彼にあった。
バン!!!
「どうして君は分からないんだ!!!」
詩音が朋絵の部屋にやって来て数日。朋絵とは別の部屋を使わせて貰っている詩音だが、婚約者の康太がやって来ると必ず耳を塞ぎたくなる大声が響く。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
その後聞こえて来る朋絵の嗚咽の声。最初の頃から気になっていた彼女の青あざは婚約者康太のDVによるものだった。壁を叩く音、物を投げる音、怒鳴り声に泣き声。詩音は耳を押さえながら何度も首を振った。
(終わった……)
そして毎回ある一定の時間が過ぎると静かになる。
朋絵のすすり泣く声に混じって康太が優しく慰める声が聞こえる。暴力と優しさ。康太は勝手なことをする朋絵に怒りを感じる一方、結婚を控えた彼女に優しくしたい気持ちも持ち合わせる。それがあなざえる縄の如く彼女を襲った。
「朋ちゃん、大丈夫??」
康太が帰り、キッチンに現れた朋絵を詩音が気遣う。目を赤くし、頬はぶたれたのか大きく腫れ上がっている。髪も乱れとても直視できる状態ではない。擦れた声で朋絵が答える。
「大丈夫。康太さん、優しいから」
そう答える彼女の目の焦点はどこにも合っていない。詩音は優しく彼女を抱きしめた。
だがふたりは気付いていない。先日、DVの元凶となっていた洗脳魔をライムが浄化させたのだが、不運なことに詩音と一緒に暮らし始めたことで新たな強力な呪魔を呼び寄せてしまっていた。一度ライムに懲らしめられた康太も、その呪魔に取り憑かれ再びDVを繰り返すようになる。そしてそれはエスカレートしていった。
「朋ちゃん、もうこんなの無理だよ。どこかに相談した方がいいよ」
詩音はあざを増やしていく友人の姿に耐えられなくなり、いつも声を掛ける。その度に朋絵は首を振って答える。
「大丈夫。康太さんは私がいなきゃダメなんだから。きっといつか優しい康太さんになってくれる。結婚すれば、子供ができればいつか変わるはずだから」
それは朋絵の願望に近いものであった。就職活動に失敗し、卒業後はスーパーのレジ打ちで凌いできた彼女。ろくな出会いもなく、ようやく結婚までこぎつけた相手が康太だった。
(大手商社に勤めていて、優しくて……)
最初の頃はとても優しく、紳士的だった。高級車に乗って朋絵に会いに来て、結婚の話が出た頃は幸せだった。
(だからその幸せを失いたくない)
朋絵には彼しかいなかった。詩音も心配しつつも彼女の固い決意を知り、それ以上もう何も言わないことにした。
「詩音~」
仕事を終えた詩音が駅の改札を出て歩き始めると、聞き慣れた軽い声が彼女に掛けられた。詩音は黙ってまっすぐ歩く。金髪のイケメン天使ライムがその横に来て言う。
「何か冷たいじゃ~ん。どうしたの~?? 今日は機嫌悪い日~??」
相手にしてはいけないと思いつつ頭にきた詩音が強い口調で言う。
「やっぱりあたなはストーカーなんですか!! どうして付きまとうんですか!!」
ライムがきょとんとした顔で答える。
「どうしてって、俺、お前の守護天使だし。守るって決めたし」
「そんなことお願いしていません!!」
「そうだっけ?」
「そうです!!」
詩音はカツカツを音を立て早足で歩く。ライムも早足でその横に並び尋ねる。
「機嫌悪いな~、せっかくの可愛い顔が台無しだよ~」
「ど、どうせ私は可愛くないですよ!! どうせ仕事なんでしょ!!」
未だに詩音の頭から離れない『仕事だから』と言う言葉。ライムが困った顔で言う。
「そんなに怒らないでよ~、俺は詩音の幸せそうな顔を見るのが好きなんだ。ね?」
「ね、じゃないです!! だったら今直ぐ立ち去ってください。そうすればこんな顔しませんから!!」
「酷いな~」
ライムがシュンとして悲しむ。さすがに言い過ぎたと思った詩音が少し顔を背けながら言う。
「ご、ごめんなさい。ちょっとイライラしてて……」
「イライラ? どうかしたの?」
詩音が歩きながら答える。
「今週の日曜日までに朋ちゃんの部屋を出なきゃいけないんです!! でも行き先が決まってなくて、それで苛ついてしまって……」
「え? なんで??」
「なんでって、来月、朋ちゃんは伊勢さんと結婚するんです。だから」
「なるほど」
ライムが歩きながら頷く。
「それで追い出される訳か」
「そうです!!」
詩音がむっとして言い返す。
「じゃあ、俺の所来いよ」
「はあ?」
早足だった詩音が立ち止まってライムを見つめる。
「だから、俺の所で一緒に暮らせばいいじゃん」
詩音が顔を赤くして言う。
「い、嫌よ!! あなたみたいな軽い人と一緒に住んだら、住んだら……、た、大変だわ!!」
「何が?」
詩音が更に顔を赤くして言う。
「い、言わなくても分かるでしょ!! お、大人の男女が同じ部屋で暮らすって言う意味ぐらい……」
最後は消え入りそうな声で下を向きながらそう話す詩音を見て、ライムが笑って答える。
「大丈夫。うち、結構広くて部屋もいっぱいあるから。ひとりぐらい増えて問題ないよ」
(ひとりぐらい?)
ライムの言葉を聞き少し考えた詩音が言う。
「どちらにしろあなたなんかと一緒に暮らしません!! そんな軽い女だと思わないでください!!」
「そんな風には思っていないけどなあ……」
ライムが少し困った顔をする。そんな彼に詩音が何か言おうとした時、彼女の耳に可愛らしい女性の声が響いた。
「ライく~ん!!」
振り返るライム。それはピンク髪で露出の多い服を着たマリル。大きな胸を揺らしながら走って来てそのままライムに抱き着く。
「わっ!! なんだよ、マリル!? 急に」
とにかく大天使ミカエルの娘とはあまり関わりたくない。困惑する彼をよそにマリルが甘えた声で言う。
「マリル、ずっと探していたんだよ~、会いたかったんだよ~」
「いいから離れろ!」
その様子を見た詩音がプイと顔を背けて言う。
「じゃあ、さようなら」
「あ、おい!! 待てって」
そんな言葉を無視して詩音は早足で去って行く。ライムがマリルに言う。
「なんだよ、一体??」
マリルが顔をライムに擦り付けながら答える。
「え~、マリル、ライ君に会いたかったんだよ~」
「分かったからまず離れろ」
「ちぇっ、ライ君は照れ屋さんなんだから」
そう言いながらようやくライムから離れるマリル。
「で、何の用だ?」
「さすがだね。ええっとね、この間感じた強い呪魔いたでしょ?」
「ああ」
ライムがウラドの顔を思い出す。マリルが言う。
「あれね、多分上級の『吸血魔』。相当ヤバい奴だよ」
「そうだな。確かにあれはヤバい」
あまり驚かないライムにマリルが尋ねる。
「あれれ~、もう知っていたとか??」
「ああ。あの詩音の上司でウラドって言うんだ。くっそ強ええ」
「え、あの子の上司? それって彼女が狙われてるの?」
「そうだ。不幸な女の子の絶望した時の血が飲みてえんだってよ。くそっ、反吐が出る」
ライムはウラドの言葉を思い出しぎゅっと拳を握り締める。
「あの子、大丈夫なのかな?」
心配するマリルにライムが言う。
「大丈夫だ。俺があいつに男として負けない以上、殺されることはない」
「??」
その言葉の意味が分からないマリル。首を傾げながら言う。
「うーん、よく分からないけど、とりあえず天財さんの所に報告に行って来るね」
「ああ。気を付けてな」
「ライ君も無理しちゃダメだよ~!!」
ライムはそう言って走り去るマリルに手を振って応える。地上での上級呪魔の情報は、天使の出先機関でもある天財グループによって管理されている。堕天使のライムには関係のないことだが、マリルには報告義務がある。
「じゃあ、詩音を追いかけるかな」
ライムは先に朋絵のアパートへ帰ってしまった詩音を思い出し、彼女の後を追って歩き出した。
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