復習のち電話
夕飯後の皿洗いをパパッと手短に済ませたら、水を止めて、まずは一息。
「ふう、終わった終わった」
濡れた手をタオルで拭くと、次に額を手の甲で拭う。
途端に湧き上がる達成感。
ふっふっふ、この瞬間が堪りませんぜ、旦那ぁ。
よーしこれにて今日の家事は終了。ミッションコンプリート。
だがしかし、まだまだ今日は休めない。残念だけど、今夜のゲームはお預けだ。
なんせ俺はこれから勉強をしないといけない。二日の遅れをとっている、のうのうとはしてられない。
もし今日もサボったら明日にはそれが三日分の遅れになって、それがどんどん雪だるま式に膨らんでいって、最終的には……う、留年だけは絶対に避けたいぜい……。
最悪の末路を想像して、ぞわっとする背筋とメンタルと、焦燥感。
居ても立っても居られなくなった。
一刻も早く勉強するべくキッチンを出てリビングへ、そのまま何事もなく廊下にまで出ようとしたけども、そうは
まあ、そうなる気はしてたけど……。
だってリビングのソファに座っていたのが、
「あ・す・み・きゅんっ!」
他でもないあの母さんだもんね。そりゃ、すんなりと俺を通してくれるわけがない。
この人は目と目が合ったらバトルだ!とか言ってくる、ポケ◯ントレーナーと何ら変わらない。
そもそも俺がキッチンにいる時に、廊下に向かう時には必ず通らないといけないリビングに母さんがいた時点で、こうなるのは目に見えていた。
強制イベントだ。でも、負けイベントではない。
「お疲れさまっ!ほらほら青澄きゅんっ!おいでおいでっ!ママの膝が空いてるわよっ!好きに使っていいのよっ!あ、でも逆に青澄きゅんの膝をママが使うのもいいわねっ!ね、どっちがいいかしら!?」
母さんが自分の膝をぼすぼすと素早く叩きながら、嬉々とした表情でそんな頭が痛くなることを言ってくるが、何だかんだと言われたら、俺の答えはもちろん決まっている。
すうっと息を吸った。
そして、
「どっちも良くないわっ!父さんに使わせとけっ!」
ハキハキと吐き捨てるように、そう言ってやった。
言うや否や、廊下を目指して脇目も振らず、俺は鉄の行進をまた再開。
今の俺に誰かを構っている暇なんてないのだ。
後ろからブーブーと聞こえる不平不満の声。母さんがまだ何か言ってるけど、そんなのは気にしない。
こんなの断固として無視だ、徹底的に無視するだけだ。
リビングから出たら、廊下を進んで、階段を上がる。
上がってすぐの右手にある扉。この扉が俺の部屋への入り口だ。
ガチャ。バタン。ガチャリ。スタスタ。
小1の頃にハマっていた戦隊モノのデスクマットの敷かれた学習机、引いた椅子に腰をかける。
鞄からは教科書と問題集とノートと筆箱を取り出し、準備万端。
あ、そうだ。勉強を始める前に時間だけ確認しておこっと。
えーと……七時半か。風呂に入ることを考えると、十一時までには終わらせときたい。
よし、時間が無いんだ、ちゃちゃっとやっていこう。
俺は今から勉強の鬼になる。勉強界の織田信長になってやる。
じゃあ最初は信長にちなんで、日本史から────
およそ二時間後。
────ふう、我ながらかなり進んだぞ。残すはもう数学のみだ。
数学は一番の苦手科目だけど、この調子なら十時半までには終わるはず。そうなったら予定よりずっと早い。
ふふん、しめしめ。もしかしたら、ゲームをする余裕まであるかもなぁこれは。
確か、続きは夏の県大会の準々決勝からで、相手のランクはCだっけ?
我が校の戦力的に考えたら普通に勝てる相手だとは思うけど、栄◯ナインは最後まで油断のならない
一年を先発で起用するのは控えるべきか?自動失点が怖すぎるし、それに予選で敗退したら元も子もないからなぁ……。
て、あれ?何か電話が来てる?一体誰だ?
まあどうせ政道あた……り、莉奈さんっ!?これ莉奈さんだっ!?
や、やばいっ!全然気づかなかったっ!
よーく見てみれば、なんと着信履歴は三十分も前だった。
つまり俺は一躍時の人になりかけの、スターダムを駆け上がっている真っ最中の女優を、三十分も放置していたっていうことになる。
それは俺のような一般人にとっての三十分とはまるで違う、人気女優の貴重で高価な三十分を無駄遣いさせたというわけで……や、やばい、やばすぎる!
俺は即行で電話をかけ直した。
ぷるるる、ぷるるる、ではないけど、LI◯Eの発信音に耳を澄ませる。
ガチャッ、ではないけど、十秒くらいで電話は繋がった。
先手必勝!
「ごめんなさいすいません全然気付きませんでしたあぁっっっ!!!」
机に額がくっつきそうなくらい、深く頭を下げる。もしもしと言われるよりも先に、誠心誠意の謝罪をかました。
電話だから頭下げる意味ないだろ、なんてことを言う無粋な輩もいるかもしれないけど、頭を下げないと俺の気が収まらないのだ。
『あはは、大丈夫。そんなに慌てなくていいよ。むしろこっちこそごめんね。急にかけちゃって』
声のトーンを聞く限り、莉奈さんは怒っていないみたいだ。……良かった。
「い、いや全然!莉奈さんが謝る必要なんてなくてっ!好きな時にかけて貰って大丈夫です!俺、次からはワンコール以内に出てみせますっ!」
言いながら、ついつい背筋がピンとなる。
実は俺は昨日の夜に莉奈さんの出ているドラマを観たばかりなのだ。
自分で思っていたよりもずっと、それが尾を引いているらしい。
なんせ莉奈さんの声が
まるで現実には存在していないはずのアニメのキャラなどと会話しているみたいで、随分と不思議な気分だ。
緊張のせいか、喉から出てくる声がいつもと違くて、やや裏返っている気がする。
『え、本当に?じゃあここから朝までの間のどこかでまた電話をかけるから、その時はワンコール以内によろしくね』
悲報、完徹確定。
すぐさまセロテープに手を伸ばす。
『なんてね、冗談だよ。まあ、分かってると思うけど』
まっ、まあねっ!そんなの最初っから分かってましたですけどもうねっ!
べ、別にテープで目蓋を引き上げようなんて思ってないですし!そんなこと頭をよぎりもしなかったですし!
『ねえ、青澄くん。お母さん、今日も君に迷惑をかけていないかな?』
突然話題が変わった。違う、逆だ。こっちが本題なんだ。俺が話題を変えていた側だったのを思い出す。
「あー、えー……」
どうしよう、これ返答にマジで困るぞ?
あんなのでも莉奈さんとは血の繋がっている人なので、その愚痴を莉奈さんの前でこぼせるほど俺のデリカシーは欠けていない。
例え「きゃーっ!箸なんてもの私初めて見たわっ!これ一体どうやって使えばいいのぉ〜!?分からないから青澄きゅん食べさせてぇっ!」なんて、ついつい拳が出そうになることを三食毎回欠かさずに言われていたとしても、絶対に愚痴をこぼすわけには…………やっぱ、こぼそっかなぁ?こぼしたいなぁ。
『かけちゃってるみたいだね……はぁ……』
あ、察してくれたらしい。莉奈さんが電話の向こうで溜息をついた。多分眉間を指で押さえていると思われる。
『本当ごめんね……。私がまたそっちに行った時、お母さんにはボゴンと言い聞かせておくから』
ガツンは良く聞くけど、ボゴンは初めて聞いたぞ。
俺が愚痴なんてこぼさなくても、莉奈さんがぼこしてくれるらしい。
母さんや、ナンマンダブナンマンダブ、骨は拾わない。
『あ、そういえば、今って何かしてたの?邪魔しちゃってるかな?』
また話が変わった。さっきと違って、これは単なる話題の変更だ。本題から遠ざかるための。
俺も母さんの話を長引かせるのは本意では無いので、その流れに乗る。
だけど質問に答える前に、
「さ、先に言っておきます!全然邪魔とかにはなってないです!これっぽっちもなってないです!」
そうやって念は押しておいた。
だって勉強してましたと伝えたら、莉奈さんに罪悪感を与える可能性が高いと思われる。これは少しでもそれを軽減させるための布石だ。
よし、準備は整った。言おう。打った布石を信じるのだ。
「……勉強してました」
『めちゃくちゃ邪魔しちゃってるじゃんっ?!ごめんねっ?!』
布石はボーリングのピンみたいに弾け飛んでいった。哀しみのストライク。心はガター。
すぐさまフォローに移る。
「いや本当に全然邪魔になんてなってないですから!むしろ息抜きになったというか、莉奈さんみたいな綺麗な人と話せるなんて嬉しすぎますね!俺、幸せです!」
自分で言っといて何だけど、今のってフォローになってるのかな……?このご時世、セクハラの方が近いんじゃ……?
『……そ、そうなんだ……』
あ、終わった。電話の向こうで何かが途絶えた気がした。例えるならそれは希望、かな?
……ドン気味に引かれた。家族で唯一まともな莉奈さんに引かれた。
俺はもう駄目だ。明日から佐々木家に泊めて貰おう……。
気まずい静寂がしばらくの間流れて、
『……勉強って、一年生の範囲?』
ふと、電話の向こうから聞こえてきた、その言葉。
それは地獄に垂らされた糸のように、俺の心を救い出すには充分な希望だった。
すぐに返事をする。
「は、はいっ。今は数学をやっていて」
『……数学……』
また静寂が流れる。
莉奈さんは何かを考えているらしい。呼吸の音だけが耳に届く。
『良かったら、私が教えてあげようか?』
ほどなくして聞こえてきたその言葉に、またすぐに俺は返事をする。
「お、お願いしますっ!」
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