週明け、昼休み
疲れた。疲れきった。疲れ倒した。疲れ果たした。疲れ尽くした。疲れ申した。疲れ参った。
…………ほんっとうにつかれたっ!!つかれたんだよぉおっっ!!!
週に五日ある学校の疲れを癒すため、土曜と日曜というものが存在しているのだと思うけど、昨日と一昨日にあったはずのそのサービスデイは、これっぽっちもその重要な役割を果たしてはくれなかった。
月曜なのに目を覚ました瞬間から満身創痍、もうくったくたのぐったぐたのぐでんぐでん。
ベッドから出るまでに十五分も費やした。
当然ながらそんな疲労困憊の状態で授業に集中出来るわけもなく、金曜日の焼き直し。今日も頭には何も入ってきていない。
この土日は勉強を一切していないので、二日分の復習を今夜にでもしないとまずい。じゃないと置いてかれる。
とりあえず弁当の量を少なめにしといて良かった。さもなかったら、これすらも金曜の二の舞になるところだった。ほんと危なかった。
空になった弁当箱に蓋をして、ぐでんと机に突っ伏す。
目はきつく閉じた。すると俺の頭の中を埋め尽くしていた感情が、より鮮明になっていく。
一昨日の土曜は、ひたすらに憂鬱だった。
嵐の前の静かさというか、ド級の災害が訪れることが分かっているのに避難することも出来ず、その場にとどまることしか許されない歯痒さは、いかんともしがたかった。
そして昨日の日曜は、ひたすらに心を消耗した。
母さんが午後に我が家にやってきてからは、もう本当に散々だった。昨日だけで5キロは痩せたと思われる。
なんせ出迎えと同時に抱き付かれるわ、あからさまな女物の服を持って瞳を輝かせながらにじり寄ってくるわ、ご飯を作っている時なんて「俺はどこの動物園の目玉だよっ?!」とツッコミを入れたくなるぐらいに一挙一動で騒ぐわ、本気で一緒に風呂に入ろうとしてくるわ、その他にも色々と数え切れないぐらいに…………。
はああああ……思い出すだけで、深い溜息が出てくる。
時間の経過とともに、どんどん落ち着いていってくれるといいんだけどなぁ……。
父さんほど寡黙になれとは言わないけど、もっとこうさ、良い塩梅になって欲しい。どっちもパラメータを極振りしすぎだ。
「はあ、あああー……」
また口から勝手に出てきた溜息と一緒に憂鬱がぶり返してきたので、すぐさま頭を抱える。
ここが教室でさえなければ、ガンガンと頭を打ち付けてやりたい気分だ。この言葉に出来ない感情をどうにかこうにか発散しないと……。
俺がぐるぐると頭を働かせながら、うんうんと唸りながら、この感情への対処法を考えていると、
「青澄……大丈夫か?朝からしんどそうだぞ?具合が悪いなら、保健室に行った方がいいぞ?」
と、不意に聞こえた声。
のそりと顔を上げたら、正面の政道と目が合った。
政道は手に持っている文庫本(かの原作小説)から目を離し、心配そうな顔でこっちを見ていた。
「見ての通り全然大丈夫じゃないけど、具合が悪いってわけじゃないんだよなぁ……」
「なら、何が悪いんだ?」
政道にそう聞かれて、俺は五秒ほど考えた。
そして、
「……家庭環境?」
俺がこう返したと同時に、政道の顔は大袈裟に曇る。
「お前の父さんの再婚相手……そんなにとんでもない人だったのか?」
「……とんでもなかった……」
ほんとにほんとに、とんでもなかった。
あんな壮絶な嵐のような人がこの世にいるとは思わなかった。
人気女優の楠木莉奈と家族になるというとんでもないインパクトが、今のところ薄れてるもん。もちろん本格的に一緒に暮らし始めたら変わるんだろうけどさ。
莉奈さんとは昨日と一昨日はリモートだったから、まだまだ実感が無い。そして誰に言う気もない。
この事実だけは厳重に隠しておかないと。政道が知ったら泣いて悔しがるかもしれないし、これぞ優しい嘘だ。
「マジか……あんまりだったら、うちに住むか?」
「え、いいのか?……って、それはおじさんとおばさんと
まずい、一瞬心が揺らぎそうになった。
俺は穏やかな日常を送りたいのだ。
「悪いだと?逆だ、むしろ大歓迎だよ。特に姉ちゃんなんてお前さえいてくれたら、あの傍若無人で弟を奴隷としか思っていない非人道的な残虐性にも……かげり……が…………」
段々と歯切れを悪く、やがて黙ったかと思ったら、政道の顔がみるみるうちに青ざめていく。
まるで幽霊でも見たような顔だ。口をぱくぱくとさせながら、政道は俺の背後を怯えた顔で見ている。
え、もしかして俺って何かに取り憑かれてるのか?
ま、まさか、母さんじゃないよな……?
ぱっと振り向くと、そこには人が立っていた。
それは良く見知った人だった。
というか、今まさに話題にしていた人だった。
長身ですらっとした、長い黒髪を一つに束ねた、凛とした印象を覚える、和風美人。
莉奈さんを大和撫子と言うなら、こっちは何たら小町というあだ名が良く似合うと思う。
そう、この人こそ何を隠そう政道の姉──真矢さんだ。
一つ上の二年生であり、先々週に行われた生徒会選挙では見事大勝利を果たした、出来たてほやほやの生徒会長でもある。
まずはぽんと優しく、頭の上に手を置かれた。
「青澄、大丈夫か?政道から聞いたが……朝から体調が優れないようじゃないか。無理をする必要は無いんだぞ」
真矢さんから向けられる慈しみの眼差しと慈愛に満ちたお言葉が、俺の荒んだ心にじんわりと染み渡る。
真矢さんはいつも優しい。政道は傍若無人だの何だの良く言うが、本当に何を言ってるんだろう?
まあ多分、人違いだ。違う方の姉じゃないかな?政道に姉が他にいるとは、見たことも聞いたこともないけども。
「ううん、大丈夫。体調が悪いってわけでは無いから」
「そうなのか?なら、何が悪いんだ?」
おお、流石は姉弟。さっきと一字一句流れが同じだ。
それはそれは華麗な所作で、空いていた隣の席に腰を下ろしていく真矢さんの姿を見ながら、俺はまた同じようにこう返す。
「家庭環境?」
瞬間、真矢さんの目に刃が宿った……気がした。
「……まさかとは思うが、何か非道な扱いを受けているのか?」
非道な扱い……うん、受けてるかも。いや、受けてる。あれは非道だ。非道でしかない。もはや道ですらないもん。
「んー、何というか説明しづらい……」
だけどもしかしたら、母親ってああいうものなのかも…………うん、それはないな、絶対に。
佐々木家は違ったし、他の友達の家だって違ったし。
「もしも家に居るのが辛いのなら、うちに来るか?ちょうど私の部屋が空いているぞ」
それ空いてないよ。
それ真矢さんの部屋だよ。
自信持っていいよ。
「居づらい、というか……」
母さんはしんどい。
しんどいけど、この先はまだ分からないけど、今のところはまだ嫌いというわけでもなくて……料理は美味そうに食べてくれるし……いや、父さんが特別まずそうに食べてるってわけじゃないけど……あんなに分かり易く喜んで貰えると、作った側としてはそりゃ嬉しいわけではあって……。
「んー……」
なんて言うべきなのか困る。答えに詰まる。
何かヒントになるものは無いかと視線を巡らせると、政道がこっち側には目もくれず、小説を読んでいる姿が見えた。
けど、これは真面目に読書をしてるわけじゃないと思う。これは会話に加わらないようにするためのカモフラージュだ。俺には分かる。
「まあ大丈夫。ちょっと愉快な人ってだけで」
「愉快な人?」
「うん」
「ほう、どんな風に?」
どんな風にって、
「顔を合わせる度に抱きつこうとしてきたり、変な服を着せようとしてきたり、一緒に風呂に入ろうとしてきたり、もうほんとに愉快な人で」
「なっ!なんてうらやま……っ!」
裏山?どこの裏山?学校?家?
この県って山だけはいっぱいあるからなぁ……。
唐突な話題の変更に俺が首を傾げていると、
「姉ちゃん、もう時間だぞ。教室戻れよ」
珍しく政道が横から……前からか。
真矢さんとの会話中に口を挟んできたので、黒板の上にある時計に目をやると、確かにもう昼休みが終わる時間帯だった。
「……ああ、そうだな。青澄、本当にうちにはいつでも来てくれていいぞ。鍵もいつでも開けておく」
それは閉めようよ。不用心だよ。
いくらここが田舎とは言っても、特急で二時間半ぐらいで東京に行けるんだから、悪い人だって簡単に来れますよ。
あの莉奈さんだって週に一回以上のペースで来る予定なんだから。
「じゃあまた、青澄」
真矢さんが立ち上がり、俺の頭をぽんぽんと叩いた後に、鮮やかな足取りで教室から出ていく。
流石は弓道部、歩き方もその姿勢も何もかもが綺麗だった。人気があるのも納得だ。政道と同じ血を引いているとは思えない。
それにしても、真矢さんは本当に俺を心配して来てくれただけだったのか。
なんか超申し訳ない。生徒会長って暇じゃないと思うし……。
そうだ、今度クッキーでも作って渡そう。感謝の気持ちは形にするのが手っ取り早い。
さて、そうと決まれば、授業の準備を始めるか。まずは弁当箱を鞄にしまって、と。
「なあ、青澄」
ん、何だ?
もう二分もしないうちに、チャイムが鳴るのに。移動教室じゃないからって、余裕こいてたら痛い目見るぞ。
仕方なく政道の方を見ると、いつになく真面目な顔をしていた。
こいつのこんな顔を見るのは三日ぶりかもしれない。
ごくり、俺の喉が音を立てた。
「お前の母親になったって人……美人だったか?何歳だ?写真とかあるのか?」
こら、俺の緊張感を返せ。
それと人の家庭環境を更にカオスにさせようとすんな。
というか出来たての人妻に興味を持つな!この馬鹿っ!
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