うたかた

綺月 遥

うたかた

太陽が昇れば、月は沈む。そして月が昇れば、太陽は沈む。何度も何度も繰り返し、そうして世界は回っておりました。

 月は満ち、やがて欠けてゆく。しかし、太陽は不滅です。満ちもせず欠けもせず、まろい形を保って昼天に輝いております。

それが、世界のことわりだったのです。


 遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は南へ向かっていました。生まれたばかりの世界はまだ形を保ちきれずにグラグラ燃えるばかりでした。

真っ赤な地上とは真反対の藍色の空を、太陽は泳ぐように飛んでいました。フワフワ短い金の髪と燃える瞳はとても綺麗で、無邪気な少年の容姿をしています。小柄な体を包むのは真っ白な布で、右手に握った鈍色の細剣は時々金色に光ります。流れ星みたいに小さく輝きながらひらひら飛んで、彼は天の高い所へ昇っていきました。

「こんばんは、月さん。いい夜ですね」

 飛んできた太陽を見て、月はゲッと顔を顰めました。玲瓏な美女の姿を持つ彼女は太陽よりも背が高く、腰まで伸びた長い髪は銀色です。揺れると銀色に光る不思議な黒い衣を纏っていて、紺青の瞳には金色の粒が浮かんでいました。彼女は今、ちょうど天の一番高い所を通り抜けてきたのです。彼女はニコニコ笑う太陽をジロリと見下ろすと、呆れたように溜め息を吐きました。

「あらこんばんは、太陽さん。いらっしゃるには早いのではなくて?まだ満月にもなっていませんのに」

「僕が来たら迷惑ですか?」

「まあ、別によろしいですけど。いてもいなくても変わりませんもの」

「相変わらずつれないんですから」

 ヌケヌケと宣う太陽を、月は忌々しげに睨み付けました。彼女は一人が大好きで、折角の夜の時間を邪魔しに来る太陽が嫌いです。でも無視を決め込んだとしても、彼はニコニコしながらずっと後ろを着いて来るに決まっているのでした。

「で、どうされたんです?」

「僕の初仕事、もうすぐですからね。少し緊張してしまいまして」

「それでわたくしのところへ?少々悪趣味ではないかしら」

 物凄く嫌な顔をして立ち去ろうとする月に、太陽は何だか複雑そうに笑いました。心なしか瞳の炎もしゅんと小さく縮こまっています。

「ええ、僕もそう思います。でも、あなたしかいないんです。地上はただずっと燃えているだけで、僕は昼の間はひとりぼっちです。でも夜はあなたがいる。だから来ました」

「確かに、貴方と違ってわたくしは夜しか動けませんけれど。そんなに寂しいなら星にでも会いに行けばいいじゃありませんか」

「冗談でしょう?いくらなんでも無理ですって。星がどうしてあんなに屑みたいに散らばっているか知らないんですか?」

「遠いからでしょう」

「ほら、知ってるじゃないですか」

 つっけんどんに突き放すと、月はプイッと顔を背けてしまいます。

「まあ、あなたが緊張しようがしまいが、わたくしにはどうでも良いことです。お役目だけはしっかりなさってくださいな。それが世界の為なのですから」

「もちろん。世界のためですからね」

 ニコニコ笑ったまま、太陽はひらりと飛んでいきました。


 遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は西へ向かっていました。ほんの少し淡い青に移ろっていく東の空にチラチラと目を向けながら、グングン速度を上げてゆきます。夜明けまでには東の端にいないといけません。急いで、急いで、必死に昇っていった雲の上で、綺麗な銀色をユラユラ揺らす月が座っていました。

「こんばんは、月さん。今夜はいよいよ新月ですね。ご機嫌如何ですか?」

「こんばんは、太陽さん。良くはないですわね。別に悪くもないですけど、晴れやかとは言えませんわ」

「おや、どうして?」

「貴方が一番ご存じのクセに」

 月は珍しく微笑んでいました。夜色の目は太陽を見ているようで、彼の顔なんてちっとも見てはいませんでした。代わりに右手に握られた抜き身の剣をジッと見つめていたのです。

 太陽もニコニコと笑っていました。でも、燃える瞳は少しくすんでいるようにも見えます。それでも彼はニコニコしたまま、ゆっくり剣を持ち上げました。

「悪く思わないで下さいね、月さん。これが僕の仕事です」

「満ちて、欠けて、消えていく。それが月の定めですものね。別に文句は御座いませんの。ただ、死に際に見る顔も貴方なのは不満ですわね」

「仕方ないでしょう、僕しかいないんですから」

 折れそうなくらい細い剣を持ち上げながら、太陽は笑っていました。鋭い鈍色だった剣は黎明と同じ金色に光っています。月はそれを見もしないで、そっぽを向いたまま静かに声を掛けました。

「では、そろそろ時間ですわね。貴方、ヘマはなさらないで下さいな」

「分かってますよ、うるさいなあ。では、参ります」

 笑ったまま、太陽は軽々と剣を振り上げます。そして一拍後、月の体の心臓に当たる部分をブスリと貫きました。

「さようなら、月さん。またお会いしましょう」

 まだ月は空に架かっています。でもそれは、月が死んだ後の残りカスみたいなものでしかありません。世にも綺麗な屍をチラリと見て、太陽はそのままクルリと踵を返してしまいます。うっすらと明けつつある空の真ん中で、太陽は東の方へ一目散に飛び立っていきました。


 太陽が月を殺せば、月は再び満ちてゆく。そして月が欠ければ、太陽は再び月を殺す。そうして、世界が廻ってゆくのです。

 太陽は死なず。

月は何度も生まれ変わる。

それが、世界のことわりでありました。


 遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は東へ向かっていました。まだ夜の帳が降りたばかりで、月は低い所をユラユラ散歩しています。そして太陽の顔を見ると心底嫌そうな顔をして、今度はゲッと声に出しました。

「少し酷くないですか」

「いいえ、ちっともそうは思いませんわね」

 相変わらず月は太陽のことが嫌いでした。だけど太陽はいつも通りニコニコ笑って、しかめっ面の月の近くへトコトコ寄って来るのです。月は溜め息が止まりません。

「こんばんは、月さん。素敵な夜ですね」

「またかしら。まだ三日月ですわよ。貴方、本当によくいらっしゃるわね。いい加減慣れたでしょうし、緊張なんてされても困るのですけれど」

「しませんよ。もう何万年あなたを殺していると思ってるんですか」

「まだ億は行かないと思うのですけれど」

「残念、もうそろそろ三億七千万と少しです」

「何千って言ったのは貴方ではありませんか!」

 こういう所が憎たらしいのです。頭が痛いとばかりにキッと睨み付けられ、太陽はまた笑いました。そして、少しだけ眉を下げて月を見上げます。

「何故、僕は貴方を殺すんでしょうね」

「そうしませんと、世界が回ってくれませんもの。月の満ち欠けと共に季節が巡り、太陽はそれを見守り殺すだけ。それがことわりですわ」

 キッパリと言い切った月に、太陽はほんの少し俯きました。


 そうしてまた、太陽は月を殺しました。

 最期に見た月は、やっぱり何処か知らない方を向いて微笑んでして、太陽は倒れていく銀色をジッと見つめていました。そして彼女がピクリとも動かなくなると、初めて彼の笑顔がグシャリと壊れてしまったのです。いつも以上縮み上がった炎の目を細めて、太陽はポツリと呟きました。

「さようなら、月さん。今夜は会えないんですもんね。また明日なんて、待ち遠しい気もします。不思議ですね。」

 そうして何度か振り返りながら、太陽は東の空へ飛び立っていきました。


 遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は南へ向かっていました。生まれてからもう随分と経って、この世界も随分と様変わりしております。だけど彼は相変わらず月を追い回していましたし、月も相変わらず太陽を嫌っていました。

「こんばんは、月さん」

「こんばんは、太陽さん。なんですの、今忙しいのですけれど」

「僕たちはいつだって暇でしょう。じゃなくて、ちょっと聞いて欲しいんですよ」

 足早に立ち去ろうとする月の前にクルリと回り込み、太陽はフワフワ舞い降りました。舌打ちせんばかりの月にグイッと顔を近付けて、内緒話でもするように声を潜めます。

「人間っているでしょう。ちょっと前にひょっこり現れた、二本脚のみょうちきりんな雑食動物です。やたらと小賢しくて数が多いんです」

「やたらと手厳しいですわね。で、その人間がどうしたんですの」

「あそこ、見てください。ちょうど二本の河が降り注いでいるから、土地が肥沃なんですよ。だからあそこに人間が大勢住み着いているんです」

 太陽が指差した方角の大地からは、確かに大勢の人間の気配がしました。人間はどうやら昼に動いて夜に眠るそうですが、あの辺りはあちらこちらで火がユラユラ燃えているせいでちょっぴり明るく、動き回る人間の姿もチラホラ見えます。せかせか歩き回る小さな影を見る時、月のしかめっ面も少し緩んでいました。それを見てちょっぴり嬉しくなった太陽はその場でクルクル回ると、月を見上げていつも通りニコニコ笑います。

「あそこに住んでいる人間がね、暦とやら作り出したんですよ。どんなものかと思ったら、月の満ち欠けで季節を測るそうなんです。あなたが殺されるごとに新しい区切りになって、季節を進めていくんですよ」

「はあ、そんなのもありましたわね。だからどうされたのですか」

 憂鬱そうに肩を竦ませる月でしたが、表情はいつもよりずっと穏やかです。太陽は今日も今日とて笑っていましたが、燃える瞳が突然しゅんと沈んでしまいます。それに気付いて月はピクリと眦を吊り上げますが、何も言いませんでした。

「もしも、暦の中心があなたじゃなくて僕だったら。僕があなたを殺すことはなかったんじゃないかと、思ったんですが」

「貴方、もしかしなくても馬鹿ですわね」

 はあっと溜め息を吐いて、月は太陽の方へとそっと近寄りました。そして剣を持たない方の手をそっと取ると、驚く彼の額をピンと弾きます。

「わたくしは貴方と違って人間を好ましく思っておりますから、少々詳しいんですの。太陽さんの暦なんて他の場所でとっくに作られていますわ。そもそも、ちっぽけな人間なんかの尺度でことわりを曲げられる訳がないでしょう」

「やっぱり、ダメですか」

「ダメに決まっていますわ。だいたい、どうして急にそんなこと言い出したんですの」

 グイッと詰め寄られ、太陽はあたふたと戸惑いました。いつも自分がちょっかいをかけるばかりで、月から近付いてくることなんて今まで一度もなかったのです。明後日の方向を向いてモソモソゴニョゴニョ呻いたあとに、彼は肩を落としながらボソッと言いました。

「だって、嫌じゃないですか。僕ばっかりが月さんのことを殺さなきゃならないなんて。何度生まれ変わってもあなたはあなたのままなのに、何故か嫌なんです。たったひとりのあなたともっと話してみたいって思ったんですよ」

 情けなく下を向いた太陽に、月はフンと鼻を鳴らします。

「お生憎様ですわね。貴方が泣こうが喚こうが、あと三日でわたくしは死にます。それに、わたくしだって嫌ですわ、殺されるなんて」

「えっ……」

 太陽はポカンと呆けてしまいました。だって、今まで彼女が死ぬことを嫌がったことなんて一度もなかったのです。いつだって明後日の方向を見て、太陽なんて目もくれずに微笑みながら殺されていく月が、本当は悲しんでいたのでしょうか。みるみる青くなっていく太陽を一瞥すると、月は小さく舌を出しました。

「だって貴方、殺すたびに辛気臭い顔をするんですもの。気が滅入って仕方ありませんわ」

「そんな顔、してましたっけ」

「ええ。今度湖でも覗き込んでみたらよろしいわ」

 形のいい顎をわし掴んでグッと引き寄せられ、小柄な太陽はよろめいて踵を浮かせます。思わず顔を上げると、満天の星みたいな瞳がこちらをジッと見つめていました。

「貴方はわたくしの大っ嫌いな性根のまま、能天気に光っていればよろしいんですわ。殺されたって大して痛くありませんし、変に湿っぽくなられる方が不愉快ですもの」

 月はまた、プイッと顔を背けてしまいます。だけど何故だか、いつもよりずっと柔らかい声音でした。


 そうしてまた、太陽は月を殺しました。微笑んで倒れていった月は真っ赤な命を流しながら、何故だか最期までジッと太陽の方を眺めていたのです。初めてのことに首を傾げながら、太陽は息絶えた月に近寄りました。彼の瞳は風に揺られる小さな火花のように縮んで、それでも確かに光っています。反対に、月はもう瞼さえもピクリとも動きませんでした。

「さようなら、月さん。今夜はあなたに会えないなんて、当たり前のはずなんですけどね。どうしてでしょう、なんだか嫌に静かですね」

 珍しく月が自分を見て微笑んでくれたものですから、太陽も頑張って笑おうとしました。でも何故か、グシャリと崩れてしまうのです。いつからか、太陽は月の前でしか笑えなくなっていました。奇妙に歪んだ顔のまま、雨粒みたいな呟きが口から飛び出します。

「このころあなたを殺すと、何だか心臓が痛むんです。僕はどうなってしまったんでしょう。……僕は一体、あなたをどうしたいんでしょうか」

 何度頭を捻っても、ウンウン唸ってみても、答えは一向に出ませんでした。肩を落とした太陽は何拍かジッと月を眺めると、踵を返して飛び去っていきました。


遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は西へ向かっていました。何億、何十億も指折り数えてきたふたりにとっては瞬きのような時間で、世界はみるみる姿を変えていきます。ですがふたりは相変わらずで、今宵も太陽は空を飛んでいました。

「こんばんは、月さん。綺麗な夜ですね」

「……こんばんは、太陽さん。いらっしゃいませ」

「おや、もう文句は言わないんですね」

「言っても無駄でしょう。わたくし、学びましたの」

 近頃、月はあまり太陽を睨まなくなりました。だからといって微笑んでくれる訳ではありませんが、心なしか声も柔らかくなったような心地もします。反対に、太陽は常にニコニコ貼り付けていた笑顔が剥がれることが多くなりました。

「生まれたばかりのくせに。人間ってなんなんでしょうね」

「数千年なんて刹那でしかありませんのに、この世界の景色まで変えてしまうなんて。本当に面白い生き物ですわね」

「そうですか?僕は嫌いです。この世界を傷付けて、我が物顔でのさばっている。近頃は奴ら、空まで飛び出したんですよ。鉄の鳥がうようよ、嫌になりそうです」

「あら、貴方は人間がお好きかと思っていたのですが。賢さは認めていたでしょう」

「賢過ぎたんですよ。賢過ぎるが故に思い上がって、どんどん世界を壊していくんです。愚かとしか言いようがないです。もう一回世界が凍り付いてしまえばいいのに」

 口を尖らせてそっぽを向く太陽をジッと見つめ、月は静かに考えていました。瞬きのような時間で、太陽は随分変わったのです。月を殺す時だって、恐竜が滅んだ時だって、太陽はちっとも悲しんだり嫌悪したりはしませんでした。ただニコニコ笑って、彼はただ己の仕事をこなすばかりでした。毎日東から昇って西へ沈んで、時が満ちれば月を殺します。でも、いつからか彼は月を殺す時にあまり笑わなくなりました。最近はこうやって話す時だってあまり笑わなくなって、代わりに距離が近くなっているような気もします。月は、そんな太陽がどうしたって気に入りませんでした。

「貴方、本当に辛気臭くなりましたわね。不愉快だと言ったのに、スッカリ忘れてしまったのかしら」

「あなたは本当に手厳しいですね……」

「当たり前でしょう。わたくし、貴方のことが大嫌いですもの。でも、辛気臭い貴方なんて見たくありませんわ。貴方みたいなのは物思いなんてしないで、勝手気ままに生きるのがお似合いなのですから」

 ツンと澄ましている月に、太陽はなんだか奇妙な顔になりました。まるで星屑を丸ごと呑み込んで水の中に飛び込んだような、そんな顔でした。

「どうしてでしょうね。あなたにそう言われると、心臓がカッと熱くなります。あなたを殺す時はあんなに冷たいのに、何故なんでしょう」

「貴方、本当に何もご存じないのね」

 呆れたように踵を返した月をポカンと見つめながら、太陽はただ突っ立っていました。一瞬だけ振り返った月の表情は、怒りにも哀しみにもよく似ていました。

「いい気味ですわ。せいぜい苦しんでしまえばいいのよ、貴方なんて」

 月が何故怒っていたのか分からないまま、太陽は追い出されるように飛んでいきました。


そうしてまた、太陽は月を殺しました。月はいつも通り微笑んでいて、ここ何千年かずっとそうしているように太陽をジッと見つめていたのです。太陽はいつも通り剣を突き立てましたが、直前に心臓が酷く痛みました。そのせいで手が震えて手元が狂ったせいで、上手く急所を貫くことが出来なません。痛みで顔を歪める月の姿に、太陽は泣き出したくなりました。それ以上苦しめないようにグッと力を込めると、月は呆気なく落命します。いつも通り冷たくなった彼女の真っ青な右手をそっと握って、太陽はぼんやり呟きました。

「さようなら、月さん。またあなたのいない夜が来ますね。もう、嫌になってしまいそうです」

 太陽はもう、自分の心を見失っていました。月を手に掛けるたびに赤く染まる剣が憎くて堪らないのに、理由はサッパリ分からないのです。ただ心臓がシクシク痛んでいることだけは辛うじて分かって、彼は力なくホロリと笑いました。

「僕はいつまであなたを殺して、いつまで生きなきゃいけないんでしょうか。僕は一体、どうすればいいでしょうか。僕の心を、貴女は知っているんでしょうか」

 答える声はありません。太陽は僅かに白く光る天の向こうを仰ぎ、しばらく呆然と立ち尽くしていました。


 遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は東へ向かっていました。真っ暗な宵の世界はいつだって美しいのですが、ユラユラ飛ぶ太陽のすぐ脇を何かが通り過ぎるたび、ニコニコ笑おうとする彼の表情が削り取られていきます。太陽は数え切れないほど彗星と会ったことがあり、彼方から降り注いで去っていく流星と挨拶を交わすことなんてそう珍しくもありませんでした。しかし、今彼の眼前を横切ったのは流星でも彗星でも、ましてや隕石ですらなく、よく分からない鉱物や得体の知れないモノが気が遠くなるくらい混じり合った、槍のような形の塊だったのです。

 太陽がドサリと降り立った気配を悟ると、月は肩を竦めてゆっくり立ち止まりました。

「こんばんは、太陽さん。随分と不機嫌ですわね。それに、何だかお疲れのようですけれど」

「……こんばんは、月さん。もう僕はこの世界が嫌いになりそうです。みょうちきりんな槍がブンブン降ってきて、危うくぶつかりそうになりました」

「噂の核ミサイルとやらですか。確かに、少々目に余りますわね」

「少々どころか、ソレのせいでどんどん世界が壊れていくんです。それだけでも憎たらしいのに、奴らは同じ人間同士で無意味に殺し合うためにあのふざけた槍を投げ合っているんですよ。僕は、人間ほど醜い生き物を見たことがありません」

 もはや滅多に笑わなくなった太陽を真っ向から見つめながら、月は酷く穏やかな顔をしていました。紺青の瞳に浮かぶ金色の粒の一つ一つが一等星みたいに煌めいて、その全てが太陽を映しています。

「それでも、わたくしは人間を愛していますから」

 太陽の顔がグニャリと歪みました。生まれてからずっと絶えずに燃え続ける瞳の炎が、激しい緋色を宿してユラユラ揺れ始めます。

「どうしてでしょう。今何故か、人間を皆殺しにしてやりたくなりました」

「最低ですわね。本当に、仕方がないんですから」

 突然気が狂ったようなことを言い出した太陽に、月は久しぶりにプイッと顔を背けてしまいます。

「確かに、人間は愚かですわ。でも、わたくしはもっと愚かな生き物を知っています。それに、たとえ世界が終わったとしても何の問題があるのでしょう」

「あるでしょう、色々と」

「ありませんわ。だってこの世界だって、広い宇宙に浮かぶちっぽけな泡沫に過ぎないのですから」

 そう言った月の表情は見えなかったけれど、声の色はとても柔らかいように思えました。

「太陽さん。わたくし、もう少しこの泡沫を見ていたいのですわ」

「……そうですか」

「でも、貴方は好きなようになさればいいのです。何者にだって縛られる必要はありませんの。だって、貴方は太陽なのだから」

 何十億年も変わらずに万物を照らす光、それが太陽です。月は太陽の光を受けて生きる存在だったからこそ、太陽に殺される定めとなりました。だから、太陽を縛り付けるものなんてないに違いないのです。

 その言葉を聞くなり、太陽は酷く顔を歪ませました。まるで何かを噛み締めるように拳を握り込んで、太陽はクルリと踵を返しました。


 そうしてまた、太陽は月を殺しました。月はやっぱり微笑んでいて、最後の一瞬まで太陽の方を見ていました。握り締めた剣がブラリと揺れて、太陽の目から透明な雫がポタリと滴って暁に溶けていきます。

「さようなら、月さん。あなたの望みは全部叶えたいって心が叫ぶから、僕は次もあなたを殺すでしょう。でももう、沢山なんです。全部壊してやりたいんです。そうじゃなきゃ、おかしくなってしまいそうなんです」

 もう砕けてしまいそうな心を抱えて、太陽は月の亡骸を抱き締めました。自分よりも体の大きい彼女を抱き上げるのは骨が折れましたが、何故か驚くくらい軽く感じます。

「あなたとずっと、殺すことなんかなく、ただただ一緒にいたいんです。ただ、それだけなんです。でも僕、あなたの心を大切にしたいんです。僕自身の心は分からないけれど、せめてあなたの心は裏切りたくはないんです」

 月が言った通り、太陽は何ひとつ分からないのです。何者にも縛られず、不変のまま世界の光であり続けた太陽にとって、心なんて移ろうモノはよく分からない存在でしかありません。だけど、それでも彼は何かに突き動かされるように顔を上げました。

「僕、決めました。あなたが愛した人間が滅びるまでは、僕はあなたを殺し続けましょう。だけどその時が来たら、もう離してあげませんから」

 ほんの刹那のことなのに、今の太陽には酷く遠い未来のように思えました。そして彼は月を抱えたまま、東の空を目指して飛んでいきました。


「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」

「さようなら、月さん」


 太陽が月を殺し、月は何度も生まれ変わる。

 そうして、世界は息をする。

 それが、世界のことわりでありました。


 遠くの星がきらきら照らす夜空を、太陽は南へ向かっていました。紺青の空は今日も完璧に美しく、遠くには屑のような星が無限に瞬いています。しかし、地上は伽藍洞の闇がポッカリ口を開けています。夜に見ると巨大な怪物がとぐろを巻いているように映る大地が、光が当たればただの荒野でしかないことを彼は知っていました。

 飛んできた太陽を見つけると、月は何も言わずに立ち止まります。彼女は今、ちょうど天の一番高い所を通り抜けてきたところでした。

「こんばんは、月さん。あなたは本当に、本当に綺麗ですね」

「こんばんは、太陽さん。相変わらずいけ好かなくていらっしゃること」

 嫌味を言いつつも、月は首を傾げていました。今宵は珍しく太陽は剣を持っておらず、しかもニコニコ笑っていたのです。彼女が今まで彼と過ごしてきた幾星霜と比べればそうでもないのですが、何故か随分と久しぶりのことのように思えました。

「月さん、もう誰もいなくなってしまいましたね」

「ええ。草一本も残っておりませんわね。で、それがどうかしたのですか」

「もう、そろそろ充分だと思いませんか?」

「充分ですって?」

「もう泡沫は充分見たでしょう」

 月は虚を衝かれたように目を見開き、それから溜め息を吐きました。

 何日か前に、最後まで生き残っていた人間の男が死んだのです。もう地上は伽藍洞で、草も虫も動物だって生きてはいられません。

 彼女が見守り続けた泡沫が、ついに終わりを告げたのです。

 太陽は笑いながら告げました。

「嫌なんです。もうあなたを殺したくない。繰り返すあなたはいつだって綺麗だったけど、たったひとりのあなたと刹那を生きてみたかった。それが叶わないのなら、もう終わりにしたいんです」

 言葉を並べ立てながら、太陽はひっそりと自嘲しました。間違いなく全て本心だったからこそ、あまりにも勝手に聞こえたのです。もう手遅れだとしても、これ以上嫌われたくはありませんでした。

「……何も知らない、馬鹿な太陽さん。本当に、どうしようもないんですから」

 だから、太陽はギョッと目を見張りました。

 彼の目の前で、月は恐ろしいくらい綺麗な笑顔を浮かべていました。真っ白な真珠の頬は薄紅色に染まっていて、夜天を統べるよりも地上で普通の乙女として走り回る方が似合いそうな表情でした。そして月は笑ったまま太陽を見つめ、静かに勝ち誇ってみせます。

「貴方の、その心。どうせ今まで知らなかったんでしょう。だってこの世界でそれを知っていたのは、貴方が最後まで大嫌いだった人間だけですもの」

「ええ、そうですね。でも僕、ようやく分かったんです」

 まるで雫を落とすかのように、太陽は静かに呟きました。

「僕の心臓を支配する心が恋。そして、あなたを想って泣く心が愛。もっと早く気付いていればよかったんですけど」

「いい気味ですわ。四十五億年以上もずっとわたくしの心に気付かなかったくせに、貴方わたくしを殺すたびに泣きそうな顔するんですもの。愚かにもほどがありますわ」

 そして月はスルリと太陽の手を取ると、小柄な体を抱き締めます。その瞬間、初めて太陽は何もかもが満たされたような気持になったのです。

「この世で一番大嫌いで愛おしい、わたくしの光。貴方に殺されるのはちっとも嫌じゃなかったのに、貴方は勝手に苦しんでいくんですから。どうしてやろうかと思いましたけれど、ようやく答えを出してくださったのね」

 金色の髪を宝物のように撫で始めた月の横顔は、この世の幸せを全て詰め込んだように蕩けていました。

「終わらせたいのなら勝手になさればよろしいわ。勝手で一途なのが貴方でしょう。わたくしが欲しいのなら、世界くらい道連れにしてくださらないと困りますもの」

「アハハ!」

 太陽は弾けるように笑いました。砕けた心の正体も、痛みのわけも、全部全部月への恋情だったのです。幾星霜の果てにようやく手に入れた答えに、太陽の炎の瞳からポロポロ涙が零れます。だけど、彼は泣きじゃくりながら心底幸せそうに笑っていました。

「ああ、ああ、僕はこんなにもずっと、ずっとあなたを愛していたんですね。ずっとずっとあなたに焦がれて、恋しくて恋しくて堪らなかったんですね」

 自覚した途端、月への想いが溢れて止まらなくなってしまいます。昔みたいにニコニコ無垢に笑いながらワンワン咽び泣く太陽を、月はギュッと抱き締めていました。

「本当に、貴方は可愛らしいこと」

「あなたはずっと、ずっと綺麗です」

 そうして同じくらい真っ赤になって、二人は初めて笑い合いました。もうたったふたりになってしまった世界で、太陽と月はようやく幸せを知ったのです。

 細い背中をギュッと抱き締めてから、太陽は名残惜しそうに一歩後ろに下がりました。離れた体温に募る淋しさをグッと抑えて、太陽は何もない虚空に手を翳します。するとカラッポだった手のひらの中に、金色に光る剣が現れました。

 数え切れないほど月の命を吸ってきた剣を握り締めて、太陽は乱暴に涙を拭いながらふにゃりと笑います。

「月さん、最後のお願いです。僕を殺してください。そしてその後、あなたも死んでください。いいでしょう?だって僕、あなたと終わりたいんですから」

「最低ですわね」

「嫌なんですか?」

「いいえ、ちっとも」

 そう言って笑う月の夜色の瞳からも、透明な涙がボロボロと絶え間なく流れていました。そして彼女は太陽の手からスルリと剣を抜き取ります。

 剣を構える月を見て、太陽はウットリと目を閉じました。

「さようなら、月さん。ずっとずっと愛しています。勿論、これからもずっと」

 泣き笑いのまま、月は軽々と剣を振り上げます。そして一拍後、太陽の心臓をブスリと貫きました。事切れた太陽は、やっぱり満たされたように笑っていました。

 太陽の体から剣を引き抜いて、月はきらきら光る刃を自分の方に向けました。最後に動かない太陽をしっかりと腕に抱き、冷たい唇にそっと口付けます。

「さようなら、太陽さん。空の果ての何処かでまたお会いしましょう。願わくば、今度は一緒に刹那を生きられますように」

 金色の剣先が弧を描き、月の心臓を容易く喰い破ります。暁の空に金色の軌跡がきらきら浮かび上がって、ふたつの命が溶けていきました。


 そうして、泡沫がパチンと弾けて消えるように。

 世界がひとつ、静かに死んだ。

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