憤怒 -Ⅰ

 幸せを作るのには時間がかかる。



 途方ないほど、地道で些細なことを、こつこつ、こつこつ積み重ねて。



 ようやくお互いの気持ちが、少しだけ通じ合う。



 それはまるで、子どもが砂浜で作る砂の城。小さな粒を幾重に幾重に積み重ねた果てにようやく、形になる儚くて脆い一時の安寧。



 だけど、壊すのは簡単で。



 波が、風が。



 誰かの手が。足が。



 その意思を持って触れるだけで、ちっぽけな幸せの城は跡形もなく崩れ去る。



 そんなことずっと知ってたはずなのに。



 この幸せも、いつか消えて無くなるってわかってたはずなのに。



 どうして、私はもっと―――なんて。



 こんな幸せがいつまでも―――なんて。



 ありもしないことを、想ってしまったのかな。



 本当はもっと早くあやかから手を離さないといけなかったのに。



 どうして―――。



 君のことを、こんなになるまで、離してあげることができなかったんだろう。



 眼を塞がれて。



 耳を塞がれて。



 口も塞がれて。



 椅子に乱暴に縛り付けられて。



 何も言えず、何も聞こえず、何も見えずに。



 ただ恐怖に震える君を見て。



 そんなことを悔やんでいた。



 どうして、私は—―――――。



 君を手放せなかったんだろう



 取り返しようもない、この過ちを――。



 どうして犯してしまったんだろう。














 ※




 「そう自分を責めないであげなさい。あなたの『隠蔽』は完璧でしたから」


 「少し見ない間に随分な成長をしたと、いたく感嘆したものです。なにせ教会の手のがかかったものに、その少女は見えず、聞こえず、覚えることも、存在を認知することすらできませんでした」


 「まるで、盲点から入った光を、人は見えていないことにすら気づけないような。そもそも、『認識できていない』ということを認識できないようになっていた。しかも、教会外の人間を使っても、教会の意図が絡んだ時点で、その者もまたその少女を見失う、本当に素晴らしい奇跡です」


 「ただ、運よく私は小さな違和感を見失わずに済みました」


 「その違和感さえ辿れば、後はただ仮説を確認するだけの作業です。方法? 存外単純なことですよ。見えない、気付けない、認識できないものがいるなら、どうするか。そんなもの、?」


 「具体的にはあなたの関わった全ての人間を調査しました。あなたのクラスはもちろん、隣のクラス、関わりがあった学年、廊下ですれ違った人間から、街で少しでもかかわった人間全てを」


 「大変でしたよ? 数百人の素性、行動履歴に至るまで一人残らず調べ尽くすのは。しかしそうして、全て調査して、全て洗い出し、記録していけば。やがて不自然な空白に至りました」


 「確かジグゾーパズルは好きでしたね? あれと同じです。欠けたピースが一つだけあるというなら、それ以外の全てを埋めてしまえばいい。例えそのピースがどのような形で、どのような色かわからなくても、他全てを埋めてしまえば、おのずと最後のピースがなんなのか分かってしまうでしょう?」


 「ただ、それを踏まえてもやはり、あなたの『奇跡』の成長は感嘆してあまりあります。なにせ、我々は今なお、この少女を前にして、どこか虚空を見ているような気分なのですから。捕えたものに寄ればそこにいるはずだという確信はあるのに、虚空に目かくしをして、虚空に猿轡をかませているような、なんとも奇妙な感覚だったそうですよ。ふふ、おかしいですね」


 「対象の限定、認識の操作、違和感にすら気づけない隠匿、さらには条件の拡張性。本当に、本当に素晴らしい成長をしたのだと、いたく感心したものです。これは本心からの言葉です―――と、あなたには説明せずとも『見えて』いますね?」


 「もし私が十年、あなたのこと見続けていなければ、その少女の存在はあなたが造ったヴェールによって隠されたままだったでしょう。きっかけとなった教会外での奇跡の使用も、それ自体は明確にイレギュラーではありましたが、あなたが施した『隠蔽』はそのイレギュラーすら覆い隠すほどに完璧でした」


 「では、どうして気付いたか、違和感とは何だったのかという顔ですね。なに、とても些細なことですよ。さすがに十年もあなたのことを見ていると、その髪が『不意に黒んずんだ』ことくらい気付けるようになるものです」


 「もちろん、あなたの何重にもかけられた『隠蔽』は、それすら丁寧に隠してはいました。事実、私以外の誰もあなたのその変化に気付くものはいませんでした。同じくあなたを十年見続けた寮監や目付係も気づけなかったほどです。私がその変化に気付いたのも、運が良かったからに他ならないでしょう。ただ他より少し注意深くあなたを見ていただけのこと」


 「そして、その髪の黒ずみは、この少女に出会ってから出来たもの。ひいてはあなたの堕落の象徴です。この魔のものが、あなたを誘惑し、あなたに甘言を吐き、あなたを貶めた何よりの証。完璧たる聖女が讃えた、完全な白が、こんな痴れ者に穢されてしまったのはあまりにも痛ましいことですが」


 「でも、安心して大丈夫。主は悔い改めたものをいつでも許されます。あなたが悔い改め、再び主へ奉仕するためにその『奇跡』を用いれば、この行いも、必ずや許されることでしょう」

 

 「わかりますね? そのために、この少女の処刑は必要なのです」


 「ああ、どうしてそんなに泣いてしまうのかしら。そう悲しむことではありません。その少女もあなたの光によって浄化され、主のもとに迎えられるのですから、幸福なことでしょう? 教えではそうなっているのですから」


 「それにね、あなた。あなたはこの魔のものに騙されてやったこととはいえ、私たちを謀りました。悲しいことですが、教会内ではあなたの行いに疑念や不信を抱くものも少なからず出てしまった。これはそういったものたちに、あなたの潔白を証明するために必要なことでもあるのです」


 「わかりますね、ですから、聖女たるものそうやすやすと涙を見せるものではありません」


 「…………いいえ、でも少し酷なことをいいましたね」


 「例えがそれが魔のものによってもたらされた虚偽の記憶でも、優しいあなたが学友の形をしたものを処断することなど、そうやすやすとできるものではありませんでしたか」


 「私が至らなかったわ。どうか許して頂戴ね」


 「そうですね、ではその少女を処刑することの代替案です」





 「





 「あなたと出会った記憶、その過程で喋った奇跡の情報、それにまつわる教会の記録」


 「その全てをこの少女から消しなさい」


 「『忘却』もいいですが、それよりいいものがありますね? 『回帰』の奇跡でしたか―――使えるようになったのでしょう? 簡単なことです、その少女の記憶をあなたと出会う前に巻き戻す。ただ、それだけ」


 「そうすれば、その少女はもう二度とあなたと関わることもないでしょう。忘却と違い、不意に想い出すことすらありません。なぜなら初めからなかったことになるのですから。ただそうですね、念のため、学期が変わった時点で学校も変えてしまいましょう。いい加減、あの得体のしれない双子も目障りなことですし、次は教会本部のある街にしましょう。自然が綺麗でいいところですよ?」


 「どうしたのですか? ―――やりなさい」


 「念のため言っておきますが、その少女の首に付けてあるのは、聖別された純銀の首輪です。あなたの『奇跡』では干渉できない退魔の枷。破壊しようとしたり、あなたが不用意な行動を起こせば、瞬時にその首輪が頸椎に銀の針を打ち込み、その魔のものを即死させます」


 「『死』の克服は一度できたとのことですが、二度目は上手くいっていないようですね。もう一度、蘇生ができるか試してみますか? 我々としても、それが常用できるなら喜ばしい限りです。教会の威信はさらなるものになるでしょう。ああ、もしそうなるなら、その少女は実験体として飼ってあげるのもいいかもしれませんね」


 「どうしたのですか、手が止まっていますよ」


 「『回帰』を、そう唱えるだけです」


 「それだけで、この少女は変わらぬ日常に帰ることができます。そうでないのなら、あなたはこの少女を処刑しなければいけません」


 「どちらがよりこの少女のためか、聡明なあなたならわかっていますね」



 「さあ―――」



 「やりなさい」
















 ※



 わかってる――――。



 どっちがあやかのためになるかなんて―――。



 わかってる。



 だって、そもそも私みたいな奴と出会ってしまったこと自体が間違いで。



 あやかに怖い想いさせて、こんなふうに傷つけて。



 私と関わったこと自体が間違いで―――。



 それに、あやかを処刑するなんてありえない、できっこない。でもできなかったらきっとシスターたちは、きっと私の手なんか使わずにこの子を処刑してしまう。



 私が怖がって異端の人を、処断できなかった時、そういう姿を何度も見てきたから。



 それに警察も、教会の外の人もあてにならない。だって、教会のために私が何度も『隠蔽』を使ってその人たちを騙し続けてきたんだから。



 だから、これは自業自得で。



 だから、これは全部私が独りで蒔いた種で。



 だから、これは仕方のないことなんだ。



 それにこんな私、あやかの傍にいる資格もないんだから。



 だから。



 だから――――。



 「どうしたのですか?」




 だから―――――――。




 「やりなさい」




 ダメ、手、震えないで。




 「できないのですか?」




 早く、早く、あやかの記憶を――――消さないと――――。




 消さないと――――。




 消さないと―――――。




 消して―――――。





 消したら―――。





 忘れちゃうんだよね、あやか。



 最初に出会った時みたいに。



 私のこととか。



 私と話したこととか。



 奇跡を使った時のこととか。



 抱きしめた時のこととか。



 ちょっとすれ違った時のこととか。



 遊びに行った時のこととか。



 カフェに行ったり。



 るいやえるとの想い出も。



 泣いちゃった時のこととかも。



 全部。




 それで。




 ちゃんと好きって言えたことも――――。





 私との想い出も。




 全部。




 「消しなさい」




 あ。




 「涙を零すのをやめなさい」





 ああ。






 「あなたは『聖女』なのですよ?」








 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
























 やだ。








 やだよう。









 忘れてなんてほしくないよう。





 せっかく仲良くなれたのに。






 あんなにいっぱい喋ったのに。






 たくさん、たくさん聞いてもらったのに。





 私の心。




 私の言葉。




 私の想い。






 あんなに、あんなに。







 あんなに、幸せだったのに。









 やだよ。






 なくしたくないよう。





 忘れてほしくなんてないよう。





 「どうしました?」


 


 大事な。





 大事な。





 大事な私の―――――。







 「できないのですか?」










 ――――ごめんなさい。







 「やりなさい」







 ごめんなさい、ごめんなさい。






 「では、この少女を見殺しにしますか?」






 おねがいです。ころさないで。






 もうあやかの前に二度と姿を見せません。がっこうも言われた通りにしますから。





 なんでもします。




 教会に言われたことはなんだってします。もうウソも隠し事も何もしません。




 だからおねがいです。許してください。




 この子との記憶を消さないでください。




 私達の想い出を奪わないでください。




 なんでもします。




 なんでもしますから。





 お願いです。お願いなんです。



 




 だから、だから――――――。





















 「………………」


 「優しいあなたに酷なことを言いましたね」


 「そうですね、どのような相手であっても思いやりの深いあなたにとっては大切な記憶ですものね。ごめんなさい、思慮が足りていなかったわ」


 「でも、許して頂戴ね。私達もあなたが隠してきたものが、どのようなものかわからずとても不安だったの」


 「だって、あなたはその気になれば、人の認識も記憶も容易く書き換えてしまえるでしょう? あなたが悪意をもって動けば、私たちの誰一人だってかないません。だからこそ、少し不安になってしまったの、わかってくれるかしら」


 「そう、ありがとう。でも、だからこそ、此度のあなたの行いに不信を持ったものは多くいます。そのためにあなたはその人たちの期待に応えなければいけません。数多の人たちへ、あなたにはより教会のために奉仕する意思があると、示さなければいけません」


 「だから、あなたがずっと訓練していた『』を皆の前で執り行うことが必要です」


 「そうすれば、その子の記憶はそのままにして、あなたは用事でこの街から去ったことにできるわ。あなたたち二人の中で、淡い想い出のまま残していける」


 「だから、できるわね? そう、いい子ね」


 「では、支度をしましょう。『奇跡』は予定通り、明日、信徒たちの前、総本山で行います」


 「さ、行きましょう。皆が、あなたを待っているのですから」

















 最後に一瞬だけ触れた君の手は、ずっと小さく震えてた。



 そりゃ、そうだよね。ずっと目も耳も塞がれて、乱暴されてここが何処かもわかんなくって。



 きっと怖い想いをさせちゃった。



 だから、最後に。



 『心』に『癒し』を。



 なんて。



 私の出来損ないの奇跡じゃ、君の怖さをなくしてあげることはできないけれど。



 震えた指が少しだけ私の指に重なった。



 そしたら君の震えが、少しだけ和らいだ気がしてた。



 それからそんな君を置いて、私は背を向けて立ち上がる。



 ごめんね、あやか。



 これで最後。



 ずっと迷惑かけてきちゃった。



 でも、これでいい。



 これでいいんだよね。



 きっと、私なんか、いないほうが――――。



 きっと、いいから―――。

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