しきよく 五


 こんなことあってはならない。


 お風呂から上がって、今日の責務をすべて終えて、私は自室に入るなりベッドの中に倒れ込んだ。本当は試験の復習や課題を前もってしなきゃいけないけれど、どうにもうまく頭が動かない。


 どうにか義務感で身体を起こそうとするけれど、疲労が私の身体の上にずしっと跨っているみたいに、さっぱり動きそうにない。しばらく抵抗を試みて、私はあえなく今日の勉強を諦めた。


 手がつかない、つけられる気もしない。それくらいに、今の私は、今日の出来事の感情が処理しきれていなかった。


 自分の手が愛に汚れていることを知って。


 その手で友達を穢していることを知って。


 たくさんの信徒を、そして何より私を大事に想ってくれている彼女の想いを裏切ってしまっている。


 その事実が耐え難いほどに苦しいのに、胸の中の熱は一向に消えてくれない。


 あやかにも、シスターにも、教会の誰にも、このことを悟らせないように黙っていたから、急に切れた緊張の糸がほつれて、絡まってどうにもならなくなってしまった。


 荒れた息でベッドに突っ伏しながら、想いだす。


 あやかの顔を。


 私が奇跡をかけると頬を上気させて、身を震わせていた彼女の姿を。


 想いだす。


 想い出しちゃいけないのに。


 想いだす。


 震えるように、涙目になりながら、笑っていた彼女のことを。


 想いだす。


 私の前でゆっくりと引き下ろされる、彼女のショーツを。


 想いだす。


 そこから雫が落ちるように垂れていた彼女の―――愛液を。


 想い―――出すな。


 気づけば身体が震えてた。


 想い出すな―――、こんなのあやかに対する冒涜だ。


 その時の表情、少し自信なさげに笑った頬を、少し頬から落ちた雫を。


 想い出しちゃ―――いけないのに。


 身体が熱い。


 考えるのが止められない。


 ああ。


 ああ。


 ああ―――。


 明日、どんな顔をして君に会ったらいいのかがわからない。


 誰よりも会いたい君なのに、明日君に触れる時にどんな顔をされるのかがわからなくて。


 その顔を見るが怖くて、たまらなかった。


 


 そして、その夜見た夢は、まるで私の理性を嘲笑うみたいに生々しい。



 そんな君の夢だった。

 




 ※



 その日のみやびはなんだか様子が変だった。


 ぼーっとしてるし、私が話しかけるだけで、なんか急にびっくりするし。るいちゃんがからかっても、えるちゃんが心配しても、上の空で返事がはっきりしない。


 授業中に何か慌ててると想ったら、教科書を忘れてきていたみたい。みやびが教科書を忘れるなんて珍しい、というか、多分初めて。私はしょっちゅう忘れるけどね。


 いつもとは逆だね、なんて言いながら、みやびの方に机を寄せて二人で肩を並べて教科書を眺めていた。ただそうしている間もみやびはどことなく落ち着いてなくて、肩が少し触れあうだけでびくっと身体を揺らしてた。


 はてさて、理由はなんでしょね、もう試験も終わって授業も半日だけだから、気が抜けちゃったかな―――なんて。


 すっとぼけるには、昨日の出来事があまりにも鮮明だった。


 まあ、どう考えても、あの一件が尾を引いている。


 なんでだろ。想像はいくらでも出来るけど、みやびに直接問いたださないことには、憶測以上のものにはなってくれない。


 私がみやびの奇跡から副作用を受けていることを知って。


 みやびはどう想ったのかな。


 嫌に想った? 戸惑ってる? それとも―――。


 わからない。考えたところで、口に出して聞かない限りわからない。でも今は授業中だから、そんなことは聞けやしない。


 肩が触れあいそうなくらいに隣にいるのに。


 この学校に来てからほとんどの時間を君と過ごしてきたはずなのに。


 今は、君の気持ちが何もわからない。


 それが少し寂しくて、でも知ってしまうのも少し怖くて。


 胸の奥で心臓がぎゅっと縮こまってしまうような、肺が小さくすぼんでしまうような、そんな名前の付けようのない想いだけを感じながら。


 私達は、二人並んでもう残り少ない授業を聞いていた。


 窓の向こうでごうっと飛行機が通り過ぎる音がした。


 誘われるままに視線を上げたら、少し小さな飛行機が青空の中をまっすぐに飛んで行ってた。


 あの飛行機は一体どこへ向かうのかな。


 私達、これから、どうなるんだろ。


















 ※



 「ね、みやび」


 帰りの準備をしていたら、ふと、そう声をかけられた。


 横を向くとあやかはにっこりといつもみたいに―――ううん、少し寂しそうな顔をしながら私の方を向いていた。


 「ちょっとだけ、話してから帰らない?」


 そう言うとあやかは、どこともなく指をさす。端から見ればそれはただの身振り手振りに見えるけど、私はその指が差す方向でなんとなくの場所を察した。


 いつもの場所。誰も来ない、少しだけ涼しい非常階段。


 昨日、奇跡の副作用を明かした場所。


 そんな誘いに、私は黙って頷いた。


 胸の奥はじんわりと緊張に震えているけれど、それでも逃げることは叶わない。というか、逃げるという選択肢がそもそもなかった。なんでだろう、わからない。


 ただ私はあやかにそんな顔で誘われたら、黙ってうなずくことしか出来ない気がした。


 何を言われるんだろう、何を伝えられるんだろう。何を伝えなきゃいけないんだろう。


 わからないけど、あやかの言葉は聞かなきゃいけない。ここで君と向き合うことから、逃げ出すことだけはしたくないから。


 少し人が帰るのを二人で待って、先に帰るるいとえるに手を振って……るいは少し意味深に私を見てニヤリと笑って、えるは黙ってあやかの頭を撫でていた。それから、それとなくタイミングを見計らって、二人で非常階段に誰にも見れないようにこっそり向かった。


 ついた非常階段はいつも通り、誰もいなくて、日の一つも差し込んでこないから少し暗い。そんな中をあやかは私より二・三歩だけ先にあるいて、子どもみたいに両手を広げて進んでた。


 程なくして、一番上の段に辿り着いたあやかが私はくるっと振り返る。


 表情は笑顔だけれど、どことなく緊張にも似た揺らぎがある。


 ……まあ、私は多分今、もっと酷い表情をしてると想うけど。


 それから少しだけ逡巡したように口を動かしてから、あやかはゆっくり口を開いた。


 「今日、その……元気?」


 私はゆっくり首を横に振る。誤魔化してもどうせバレているだろうから。


 「正直……あんまり」


 そんな私の答えに、あやかは力なくふにゃりと笑った。


 「だよね、はは……。それってやっぱり、私のせい……かな」


 違う。


 「……気にしないで、私のせいだから。昨日のことも……ううん今までのことも全部……」


 あやかは、何も悪くない。


 悪いのは―――。


 「……………………」


 こんな未熟な私が―――。


 「――――私が全部、悪いから」


 口から漏れた言葉は、重くて辛くて、なのに吐き出さないわけにはいかなくて。


 知らぬ間にごぼりごぼりと、身体の奥から零れだすみたいに溢れてくる。


 「聖女なのに、邪なこと考えて、あやかの身体に迷惑かけてた」


 「友達なのに、下心抱いて、あやかの隣にずっといてた」


 「こんなこと考えてちゃいけないのに、たくさんあやかに貰ったのに、私の独りよがりな想いばっかりぶつけてた」


 折角、仲良くなれたのに。


 折角、ほんとの気持ちを、話せる人に出会えたのに。


 折角、一緒に居てもいいって想える人と触れ合えたのに。



 「全部、私が独りで台無しにしてた」



 「ごめん」



 「ほんとはね」



 「あやかのこと好きになってた」



 「自分でも知らないうちに」



 「友達としてだけ―――じゃなくて」



 「恋とか愛とか、そういう気持ち」



 「そういう気持ちが私からあやかに流れ込んじゃってて」



 「だから奇跡があんな風に――――」



 「ごめんね」



 「ずっと迷惑ばっかりかけて」



 「でも、こんな気持ち初めてだったから」



 「自分でも上手く分かんなくて、ずっと知らない間に募ってて」



 「昨日、『副作用』を見て、初めて気づいちゃって」



 「笑っちゃうよね、なにが聖女って感じだよね」



 「ずっと」



 「ずっと」



 「あやかでよこしまなこと考えてた」



 「友達なのに、隣にいてずっと裏切ってた」



 「ごめん」



 「ごめんね」



 零れた言葉は、器から堕ちた水のよう、一度ぶちまけてしまえばもう二度と取り返しはつきはしない。



 伝えた想いは戻らない、投げかけた言葉は一生消えない。



 それが致命的であればあるほどに。



 ぼたぼたと涙で汚れたみっともない声で、あやかの顔も見ないままそうやって私は取り返しのつかない言葉を投げかけ続けた。



 それが致命的に私たちの関係に楔を打つものだと知りながら。



 でも。



 それでも。



 伝えたい。



 なんでだろう。



 君に誤魔化すという手段だけは取りたくなくて。



 だって君は私が初めて出会った、ちゃんと本音を話せる人で。



 だから。



 だから―――。



 君に嘘をつき続けるくらいなら。



 たとえ、君に嫌われてでも。



 私は君の前では、あやかの前では正直でいたかった。



 たとえ、そうしてしまうことで、君との関係が壊れてしまったとしても。



 ……。



 ………………なんて。



 …………ああ。



 覚悟してたはずなのにな。



 いざ、君に嫌われるかもって想ってしまったら、まだ私は怖いままで。



 ああ、ほんとうにどうして。



 こんな想いを、こんな愛を、心に抱いてしまったんだろ。



 そして、君は。



 今、どんな顔をしてるんだろ。



 視たくない。



 怖いから。



 知りたくないから。



 この繋がりの終わりをしってしまうのが、嫌だから。



 でも。



 でも。



 でも。



 知らないうちに顔は上がってた。



 そうしたら、私のことをまっすぐに見つめている君と目が合った。



 「おしまい?」



 君がゆっくりそう言った。



 私は黙って頷いた。




 「ねえ、みやび―――私ね、怒ってるよ?」




 それからそう、君はゆっくりと口にした。


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