しっと 下
常に心は乱さないように、穏やかに慈悲深くありなさい。
はい、シスター。
感情を揺るがしてははなりません。何事にも動じず、決して余裕と微笑みを絶やさぬように。
はい、シスター。
あなたは特別なのです。その力を授かったからには、力相応の責任と義務が発生します。それは無辜の子らとは比べ物にならぬもの。数千、数億の命ですら比べるべくもないほどの責務です。それに相応しい振る舞いをゆめゆめ忘れることなきように。
はい、シスター。
数多の信徒が、そして数多の無辜なる民があなたに期待しています。もちろん私達も。予言の日、いずれ魔なるものを打ち倒す、その日のことを。そのために、常に自分を律し続けなさい。わずかでも心に緩みをつくれば、魔なるものその綻びを決して見逃しはしないでしょう。
はい、シスター。
『奇跡』の教会外での濫用は禁忌です。なぜですか? あなたも解っていたはずでしょう? まして信徒でもないもののために、むやみに奇跡を行使するなど。もし悪意あるものがあなたのことを見ていればどうなることか、わかっていたのですか? どう都合よく利用されるとも知れない。いいですか? これはあなたのためを思って言っているのですよ。
―――はい、シスター。
あなたは―――『聖女』なのですから。
はい、シスター。――――わかっています。
※
「…………みやび?」
え? と思わず返事をした瞬間に、はっとなって身体が揺れる。
「…………大丈夫?」
「…………うん、大丈夫」
眠ってた……わけじゃない、でもぼーっとして意識が一瞬ここになかった。頭の中に残響みたいにシスターの声と、るいの声と、えるの声と……それとあやかの声が木霊していた。
ふぅ――――と、長めにため息をつく。
我ながら、らしくない。この程度で心を乱すなんて。
えるに勉強を教えて欲しいと言われたのに、私の方が心配をかけてどうする。
もう誰もいない教室で、向かい合って机を寄せているえるはいつも通り、どことなく無機質な表情で金色の髪を軽く傾げた。
「……るいとあやかのこと、気になる?」
「………………」
そんなことない、あれは友達同士で遊びに行っただけだ。私がいちいち気にするようなことじゃない。
そう口にしてしまうのは簡単なはずなのに、開きかけた口が上手く動いてくれない。
「…………るいが、あやかの言葉を『書き換えた』のだけが気になるかな」
何度か言葉を探した後に、諦めてあまり聖女らしくない愚痴をわずかに零す。誤魔化してもいいはずだったけど、それが嘘だと言うのはえるには簡単にわかってしまうから。結局、小さな引っかかりをそのまま口にするしかなかった。
あの一瞬。るいがあやかに遊びの誘いをかけた一瞬。
「え」とあやかが言葉を濁した後。
『いいよ』という答えに、るいが『奇跡』を行使して書き換えていた。
どうしてそんなことをしたのかはわからない。もちろん、奇跡の濫用は好ましくはないけれど、るいは基本的に誰かに迷惑をかけるような使い方はしてこなかった。
だからこそ、当人の意思を捻じ曲げて答えさせるのは、あまりみていて気分がいいものではない。
「……確かに、あれはちょっと強引だったね」
えるは無機質な表情のままこくんと頭を縦に揺らす。私はそれを口にしてから、どうしてか自分の言葉が余計に濁っていくような気がした。
「なんで、あんなことをしたんだろう……。るいが、あんな奇跡の使い方をするの珍しいし、それに……」
どうしてか、うまくその言葉の続きが喉を震わせてくれない。
「……
そんなことはない……ないといけない、はず。
「………………」
えるはじっと私を、無機質で、でも真っすぐな眼でじっと見ていた。
それから何かを確かめるみたいに、ゆっくりと手元に持っていたノートを開いた。
「……るいがあんなことをした目的はわからないけど、動機なら私はわかるよ」
「…………え?」
言葉を口にした時、どうしてか胸が弱く震えていく気がした。
「………………」
えるは私の問いにすぐ答えはせずに、じっとこっちを見つめている。
この子はいつもこうだ。真っすぐ、どこか機械的で、なのにこっちの心を見透かしたように、淡々と痛いところをついてくる。
その言葉に問われるたびに、本当はいけないのに、私の心はすぐ揺らぎそうになってしまう。それが嫌でこの子と向き合うのは正直苦手だ。
ただ、今日その無機質でまっすぐな瞳は、なんでか少しだけ、弱く揺らいでいるように見えた。まるでの私の心と同じように。
「…………
「………………?」
えるは少し口元を隠すと、ゆっくりと一つ一つ確かめるみたいに言葉を紡ぐ。
「…………私とるいは、ずっとみやびの隣にいたでしょう? 小学校の頃に出会ってからずっと、もうそろそろ十年になる。本当はそれより前からあなたのことは知っていたけれど」
「…………える?」
「…………その間、あなたは中々心を開いてくれなかった。私達の出自もあるから、当然のことだとは思うけど。今みたいにちゃんと対等に喋ってくれるようになるまで、五年はかかった。覚えてる? 今でも正直、あなたの抱えてることのほんの一部しか私たちは聞いてあげれてないと想うけど」
「………………」
「……それなのに、あなたはつい最近出会ったあやかに、私たちにも見せたことのない顔をして、今までにないくらいに心を通わせようとしてる」
「そん…………な」
「……だから、るいほどではないけれど、私も少しだけ気持ちが解る。だって大事にしていた誰かが、他の誰かの隣で見たことないくらいに嬉しそうにしてるの。それは喜ばしいことではあるけれど。それでも、少し寂しいものでしょう?」
「………………」
「……だからあれはね、ちょっとした嫉妬のようなもの。大丈夫、満足したらすぐ帰ってくる。それに、あやかもいい子だから、きっと仲良くなって戻ってくる」
「………………そうかな」
「そう、だから心配しなくていい」
そうやってるいは持っていたノートで少し口元を隠しながら、珍しく微笑んでいた。
投げられた言葉はどこか上手く受け止めきれない。
心は揺れ動かしていけない。
いつも穏やかに、動じずに、大きな海原のような広い心を持っていないといけない……のに。
投げかけられた言葉の重みとそこに宿る積み重ねられた想いが、うまく受け止めきれない。心という器にその想いがさっぱりと入りきらない。
まるで心の器が、小さなコップほどしかないみたい。海原なんて程遠い、机の上に小さな乗せられたコップ程度しか、そんなのじゃだめなのに。
「………………」
「……それとも、仲良くなる方が困る?」
「…………え?」
るいはどことなく……嬉しそうな表情を半分ノートで隠したまま私を見ていた。
「……あやかとるいが、みやびの知らないところで仲良くなっちゃう方がいや?」
「…………そんなわけ」
……ない。だってあやかはまだ転校してきたばっかりで、友達も少なくて、いつも私とばかり昼ごはん食べたりしてるから。
私以外とも仲良くなる方がきっと良くて。そもそもあやかは明るい子だから、きっと誰とでも仲良くなれて。
だから、これは自然なことで、あやかとるいが仲良くなるのも自然なことで。友人のそういった関係の広がりは、応援してしかるべきもので。
それはもう聖女がどうとかじゃなくて、人としてそう考えないといけないもので。
「………………ふふふ」
少しのどが痛くなる私をみて、えるは何故だか笑ってた。……えるが笑うのは凄く珍しい。いっつも無機質で、感情が読めなくて、ただまっすぐと言葉を紡ぐ子ではあるけれど、何か変……。
いや、おかしいのは私の方?
だから、えるは笑ってるの?
「…………よかった、そんな顔できるように、なったんだね」
……私は今、どんな顔をしてるんだろう。
酷い顔してると思う、友人が仲良くなってるだけなのに。
どうして、胸の奥が少し痛いんだろう。なんで、素直に喜べないんだろう。
これじゃあダメなはずなのに、これじゃあよくないはずなのに。
あやかがるいの隣で笑っているところを思い浮かべるだけで。
なんで―――。
「それを人は『嫉妬』と呼ぶの」
………………。
「るいの気持ち、少しわかってあげられた?」
「…………どうだろ」
私の答えに、えるは小さく笑みを浮かべた。
「……心配しなくていい、それはとても自然なことだから」
「…………」
……自然、自然ってこんなのが?
こんなに苦しい気持ちが、こんなに醜い気持ちが自然に湧いてくることなんてあるんだろうか。
何か、私が致命的な間違いを犯しているような気がしてならない。
だってこれはあるべき姿から、あまりにもかけ離れていて、本当はこんな感情持ち合わせちゃちいけないのに。
わからない。
わからない。
何も、わからない。
私は—――『聖女』なのに。
力を持つ以上、その責任と義務があるはずなのに。
私は—―――。
「たっだいまー」
え?
振り返ったら、笑顔でいっぱいのあやかの顔がそこにはあった。
その声を、その顔を見るだけで、なんでか心が簡単にぐらついてしまう。
こんなのじゃ、ダメなのに。
でも小さなコップみたいな、小さな私の心からは。
もっと大きくないとダメなのに、もっと穏やかでい続けないといけないのに。
なのに、どうしてこんなに簡単に、零れてしまうんだろう。
胸が痛くて。
喉が痛くて。
思わずその身体を抱き寄せた。
後ろから抱き着く形になっていたあやかの肩を抱き返すみたいに。
そうしている間、私の心からはずっと何かが零れだしていた。
「あれ、みやびなんか泣きそうじゃね? どしたん、嫌なことあったん?」
「…………そうね、るいが泣かせたから」
「私のせい?! ……まあ、私のせいかあ」
「どしたん、るいちゃんイジワルしたんか。ごめんなさいしといたほうがいいよ」
「あー、ごめんてみやび。ごめん、ごめん、あんなのもうしないから」
「…………ふふ」
「あれ、えるちゃん笑ってんの、私初めて見たかもしんない」
「まあ、実際珍しいねえ。私も前見たんいつだっけ……?」
「……ふふ、そうね。それよりあやか、みやびほんとに泣きそう」
「うぉ!? まじで、どしたん。嫌なことあったん? おおうおおうよーし、よーし」
あやかに頭を撫でられるうちに、喉の奥から零れてくる熱いものが、どうしてか抑えられない。
喉の奥が痛くて、胸の奥が痛くて、なんでかどうしようもない。
こんなことダメなのに、こんなんじゃダメなのに。
こんな私じゃダメなのに。
友達が仲良くなることに嫉妬するなんて、ましてそれで泣くなんて、聖女としてあっちゃいけないことなのに。
なのにどうしてか、私の周りにいる三人は、誰も彼もがおかしそうに笑ってた。
仕方ないなあっていいながら、心配ないよって笑ってた。
その言葉の意味も、彼女たちがどうして笑っているのかもわからずに、私はただ抑えきれない雫を零し続けることしか出来なかった。
蝉の音が遠く向こうで鳴いている。
その音がうるさすぎて、声を抑えて泣く私の嗚咽なんて、全部掻き消されてしまうような。
そんな、放課後のまだ日も暮れない頃のことだった。
嫉妬に揺れた私の未熟な心が、震えて零れたころのことだった。
※
「ところで、みやび。あやか今日足怪我してるよ?」
「え!? るいちゃん、それは内緒のお約束……はしてないけど。ていうか、みやびこれは、もう治してもらってて……」
「…………傷跡が残ってる、ちゃんとみやびに治してもらった方がいい」
「うぇ……? え、えーと。…………みやび、えと、今は泣くのに忙しい……よね?」
「……………………に………………を」
「ふにゅにゅにゅ~~~~……………………ぃ」
「ほーん、これがねえ……」
「…………………………に…………を」
「あにゃにゃにゃにゃ……………………ぅんッ…………」
「…………泣きながらなのに器用ね」
それから私が泣き止んで、真っ赤な顔を上げたころには、なんであやかの顔も真っ赤になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます