たいだ 下

 「うーん、風邪ではないかな、疲れとか自律神経に近いかも」


 保健室で、熱を測られて喉を見られて、保険医の先生が告げたそんな言葉に、私は軽くうなずいた。


 じゃあ、問題ない。


 「ありがとうございました、戻ります」


 そう言って、立ち上がろうと、足に力を籠めた。


 これであやかも満足でしょ。ただ、そう想った瞬間に。


 「いや、お待ち」


 肩にぐいっと手が置かれて、強制的に着席させられていた。後ろを振り向くと渋い顔をしたあやかがこっちを見ている。


 「あやか」


 「なに」


 どこか、ぶっきらぼうな返事。


 「風邪じゃないって」


 「よかったね」


 淡々とでも、明らかに不機嫌そう。


 思わず軽くため息をつく。


 「だから、教室に戻りたいんだけど」


 「…………疲れてるんでしょ。ちょっと寝てけばいいじゃん」


 藪にらみに近い視線が、私をじっと見つめている。さて、これはどうしたものか。


 「期末も近いし、ちゃんと授業は受けときたいんだけれど」


 「そんなもん、後でるいちゃんとえるちゃんにノート見せてもらえばいいよ」


 心にもない理屈を適当にくっつけてみたけど、あやかの視線と表情は揺るがない。いい加減、困ったので保険医の先生の方を窺ってみた。細目の保険医の先生は、少し首を傾げてから手元のマグカップを素知らぬ顔で啜っている。我関せず、って感じかな……。


 「大した疲れじゃないし、どうってことないから。私は最悪、……ほら自分の疲れくらいどうとでも出来るから」


 「………………」


 保険医に見えないように、私はあやかの手についた傷跡をそっとつついた。あまり痛くならないように。


 『奇跡』のことを暗に示したわけだけれど、伝わっているかどうか。


 軽く視線を上げて、あやかの表情を窺ってみるけれど、未だ不機嫌。


 ………………いや、どっちかっていうと悪化しているようにも見える。


 「…………あやか」


 「先生、みやびベッドに寝かしていい?」


 「好きにしたまえ」


 いや、なんでそっちの意見はすんなり通るかな。


 ちょっと……って文句を言おうとしたら、脇から肩をぐいーって上に引っ張られてえっちらおっちら連行される。気が付いたら、あやかと保険医に両脇を固められて、あれよあれよというまに保健室のベッドに叩きこまれた。


 途中で若干悪ノリした二人に、結構勢いよくベッドに押し込まれて少し腰を打ったくらい。


 「ちょっと、だから私は—――」


 そう思わず起き上がって抗議したけれど。


 「ところで転校生」


 「はい、なんでしょ」


 二人は意に介した風もなく、揃って顔を見合わせていた。


 くそ、話聞いてないな。こいつら。


 「君、さっきから動き変だけど、足腰どっか痛めてない?」


 「今朝、自転車に轢かれてきました!」


 そうあやかが勢いよく、ノリのままに返事をして。


 三十秒後に腰に湿布を貼られて、私の隣のベッドに勢いよく叩きこまれた。


 さすがに腰は慮った感じでベッドインしたけど、それ以外の部位の被害は多分お構いなしだ。


 「二人揃ってしばらく寝ときなー」


 そしてそんな言葉を最後に、保健室のカーテンがシャッと閉められた。


 沈黙の中、ベッドで半分身体を起こした私と、うつ伏せのまま湿布の貼られた腰が露になったあやかのなんとも言えない姿だけが残った。


 「…………」


 「ぬぬぬ…………」


 しばらく黙ってあやかの方を見てみるけれど、枕に突っ伏したままなにやら唸っているだけだ。私はなんだか馬鹿らしくなって、さっきとは違う種類のため息をふぅと吐き出す。


 「…………」


 「………………」


 といっても、このまま寝てるのも居心地が悪いし。


 さっさと『奇跡』で治して、授業に戻ってしまおう。いつも通り。丁度今は、隣にあやかがいるだけで他には見られてないわけだし。


 目を閉じて、自分の額に手を当ててから、自分の中の脳と身体の構造をイメージする。


 不思議なことに自分に対する『奇跡』は他人に使うそれよりかなり繊細になる。


 多分、他人の認識がそこになく、私の主観しか介在しないからだろう。概念に影響を及ぼす『奇跡』にとって、私しか認識してないことを書き換えるのは難しいんだ。


 だから、自分の中の疲労や痛みのイメージを掴むために、自分の感覚をちゃんと理解する必要がある。どこが痛んで、どこが苦しいのか。


 吐く息がどれくらい息苦しくて、呼吸のたびどこが痛むのか。


 身体をゆするたびどこが軋んで、どこが強張っているのか。


 思考するたび目の奥が疼いて、頭の裏から何かを叩かれているような痛んでいるか。


 一つ一つ精査してその全てを消去する必要がある。


 正直かなりめんどくさいから、自分への奇跡はあまり多用しないのだけど。


 それでも私はこんなところで寝てる時間は―――。


 なんて想った瞬間に。


 



 暖かい。



 そして、柔らかい何かが。



 そっと私の額に当てられた手に重ねられていた。



 それだけで、自分の中の痛みへと向けられていた感覚がするりと解けていく。



 それどころか、身体のあちこちにあった軋みが、ゆっくりと解けていくような錯覚さえおこしてしまう。



 あれ。



 と、思わず声が漏れて、額を押さえたままそっと目を開けた。



 そこにあったのは揺らいだ瞳。



 少し心配そうに、私の眼を覗き込んで窺うように首を揺らしてる。



 あやかはそうやって私が眼を開けたのを見ると、こそっと耳元に口を寄せて囁くように声をかけてきた。



 「大丈夫? 痛い?」



 それが少しだけくすぐったくて、ちょっと身をよじってしまう。


 ただ何かを誤解を与えてしまったみたい。奇跡で治療をしようとしてたのが、何か苦しんでいるように見えてしまったかな。


 …………でも、丁度いいのかもしれない。


 あやかには少しだけ本当のことをいっても、きっと否定されたりはしないから。


 「……ちょっとだけ頭痛い」


 「ん、そか」


 私がそういうと、あやかはそっと手のひらをなぞっていた手を、私の頭に添えて撫で始めた。たったそれだけで、少し痛みがマシになるのが不思議なところだ。


 なんで、そっと手を添えられるだけで、人の痛みは和らいでいくんだろう。


 不思議だ。理由なんてさっぱりわからない。


 でも、これで私の痛みがあやかと私の共通の認識になった。


 これなら、少しだけ奇跡を簡単に扱える。


 『痛み』に『安らぎ』を。


 自分に向かってそう呟いた瞬間に、手のひらが一瞬ぼうっと光って、その瞬間に頭の重さが軽くなる。


 ふぅっと思わず漏れた息が、少しだけ私を安堵させる。


 そんな私をあやかは相変わらず心配そうに眺めていた。


 「他は?」


 「お腹……痛いかな、ちょっとじくじくする」


 あやかの手が頭からそっと私の手に添えられる。こっちもそれだけで不思議と痛みが引いていく。


 その暖かさに息を整えてから、もう一度、奇跡を行使する。


 そうすると、私の身体に溜まっていた痛みや強張りがまた一つ解けていく。


 吐いた息がまた少しそれに合わせて緩んでいく。


 「次は?」


 「……えっとね」


 それから、あやかと一緒に確認するみたいに、私の痛み一つ一つに奇跡を行使し続けた。


 頭。


 お腹。


 肩。


 眼。


 首。


 背中。


 足。


 全身したんじゃないかってくらい、ゆっくりとなぞるように奇跡を行使して。


 その間、あやかは空いた手で私の手を握りながら、その痛みを解いていく作業をずっと頷きながら黙って見つめていた。


 それをどれくらいやったのかはわからない。


 10分か20分か、もっとかかったのかもしれないし。もっと短かったかもしれない。


 自分の身体の重みや痛みを、一つ一つ解いていくみたいに。二人でそっと私の身体の痛む場所をなぞりながら時間を過ごす。


 そうしていると、まるで私があやかに奇跡をかけてもらっているように、錯覚する。


 純真な聖女に身体の痛みを一つ一つ解いてもらう、敬虔な信徒のような。


 傷をなぞって、痛みを慮る。散々誰かにやってはいたけれど、してもらったことはほとんどない。そんなやり取り。


 ただそれを、なぞるように。撫でるように。


 そんな静かな時間を、カーテンに仕切られて、誰も見ていないベッドの上で二人だけで過ごしていた。



 じっと、静かに。



 そっと、穏やかに。



 ずっと、離さぬように。



 そうしてようやく、感じられる痛みの全てに奇跡をかけ終えた段階で。


 私はふぅっと息を吐きながら、そのままベッドに倒れ込んだ。


 奇跡のおかげで身体は大分回復したはずだけど、根本的な疲労までは完全には抜けてない。まあ、昨日の夜は大分頑張ったわけだし、無理もないか。


 ただ、癒しの奇跡を多用したせいで、少しだけ身体が緩んで、重い眠気が少し瞼の動きを鈍くしていた。


 「……みやび」


 「………………うん」


 「………………ちょっと痛いのマシになった?」


 「………………うん、だいぶ」


 …………ホントは痛みがマシになった以上、さっさと授業に戻らないといけないんだけど。


 「ふふ、じゃ、このまま寝ちゃおっか?」


 「……………………」


 そう言ったあやかの、どこかいたずらっぽい笑みを見ている間に、戻らないとって気が少しだけ失せてくる。


 一限くらい、休んでもどうとでもなるだろうか。


 でも私は聖女だから、常に優秀で、慈愛に満ちて、勤勉で、怠惰なく、誰から見ても恥ずかしくない存在でなければならない。


 体調を不用意に崩したり、授業を休んだり、まして学業に支障をおよぼなすなんてあってはならない。


 そう期待されて生きてきた。そう望まれて生まれてきた。


 寮に帰れば、シスターに毎朝、毎夜、折り重ねるように、何度も何度も、そんな言葉を投げかけれられて生きてきた。


 それが間違いだとか、不必要なことだとか、おかしいこととは想わないけど。


 今だけは、少しだけ、その重りを忘れてもいいような気もしてくる。


 だって、今、あやかの前でだけなら。


 「………………」


 「…………うん、ちょっと眠いかも」


 どうしてだかはわからない。こんな怠惰に塗れたことしてていいわけはないんだけれど。


 今だけはその心の声に、あやかの声に、言われるがままこの重くなった瞼を閉じてしまいたかった。だって眠いし。


 義務も。


 成果も。


 清貧も。


 敬虔も。


 威光も。


 信仰も。


 今だけは。


 今だけは、全部手放していたかった。


 そうやって閉じかけた瞼の隙間で。


 あやかは優しく、言祝ぐように小さな微笑みを浮かべてた。



 ………………。



 ああ、でもその前に。


 眠りについてしまうその前に。


 一つだけしておくことがあったっけ。



 そう想って、そっと指をあやかに向ける。



 少し不思議そうに首を傾げるあやかに、私は半分閉じた瞳でどうにかその腰にそっと手を添える。


 …………それにしても、自転車に轢かれるなんて。朝あった時、真っ先に伝えて欲しいものだけど。


 今は、小言を伝える余裕もないから。


 私の意図に気付いたあやかが何か言いかけて、少し顔を赤くしてるけど、今は聞かない。


 ただ、してくれたことの、お返しにその傷を治したいだけだから。



 『傷』に『癒し』を。



 そうして、奇跡の言葉を、そっと言祝ぐ。



 「ふひぃぃぃ……………………」



 案の定、あやかはいつもどおりの何ともいえない感じの声を出している。声が少し上ずったり、顔が赤くなるのもいつも通り。


 ……これ保険医の先生に診てもらったら原因わかるのかな。まあ、今はそんな元気もないけど。


 …………それにしても、自転車に轢かれたか。いつもの擦り傷や切り傷とは少し勝手が違うかな。


 指でなぞったあやかの腰の部分は、湿布越しでもわかる程度に腫れていて、もしかしたら骨や間接にも傷がついているかもしれない。


 これは……ちょっと長めに、ちょっと強めに、奇跡を掛けておかないと。



 『痛み』に『安らぎ』を。



 「はにゃぁぁぁぁぁ……ん。…………んん」



 『疵跡』に『修復』を。



 「ふぅぅぅ………………んっ、んん…………あっ」



 もう一度、『傷』に『癒し』を。



 「み、みやびッ、それ以上は……私、い……ちゃ……」



 『痛み』に更なる『安らぎ』を。



 「あっ……うっ………………あんッ」






 後で考えると、痛みが和らいで、安心と眠気で少しぼーっとしていたんだと思う。



 だからあやかの反応を大して見ずに奇跡をかけ続けてしまったし。



 人に見つかるリスクもあまり考慮できていなかった。



 五度目の奇跡を掛けた時点で。



 「………………あんっ! ……」



 あやかの声が、なんだか聞いたことのない高さと、響きに変わってて。



 眠気で緩んだはずの私の脳が、その声に酷く揺さぶられていた。おかげで微睡んでいた意識まではっと目覚めてしまってていた。



 ただ、そのおかげで、私はようやくここが別に防音も何もされていない保健室のベッドの上だということを今更ながらに想い出した。ほんとに今更。



 …………つまり、外には、相変わらず保険医の先生がいるわけで。



 「えと…………君たち…………えっちなことするなら、先生、ちょっと席外した方がいい?」 



 要らぬ誤解を生んでしまった、そんな夏の日の朝のことだった。



 ちなみにあやかが涙目で顔を真っ赤にしていたものだから、保険医の先生の誤解を解くのに本当に時間がかかったのはまた別のお話。

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