リリスの尊厳
綺月 遥
リリスの尊厳
夜のロンドンは冷たく湿っていて、いつだって淀んだ霧で覆われている。だけどどうした訳か、その日はいつもよりは幾分か空気が綺麗だった。天球は酷く澄んでいて、恐ろしいほど細く鋭い黄金色の三日月がニッカリ笑っているような、そんな夜だった。
「見てみろよ、アンジェ。いい月じゃないか。お前には劣るが」
腕の中の女の星空みたいな黒髪を梳きながら、男は恍惚と呟いた。茹だるような熱を孕んだ視線は天蓋の布で堰き止められているし、そもそもその先に月なんかない。それでもそんなことを言うのは、惚れた女に欲に煮え滾った顔を見られたくなかったからだ。
「意地悪を言わないでくださいな、愛しいあなた。わたしはただ、あなただけを見ていたいのです」
「相変わらず口が上手い」
「そんな、本当のことなのに」
「やめてくれ、もう俺はとっくに戻れなくなってしまったのに。これ以上お前に溺れさせないでくれ」
「アーサーさま。お慕いしております」
スジだらけの白い鎧みたいな腕に縋りながら、アンジェは蕩けるような熱を帯びた顔をジッと見つめる。ツンと尖った鼻に、神様が作った彫刻みたいなラインを描く瞼と眉毛。三日月よりも鋭く吊り上がった目尻は冷たく煌めいて、まるで氷細工の精霊のよう。そしてキラキラ光る碧い目の奥に、アンジェの翠の瞳が映り込んでいた。
「お前は本当に美しい。こんな男に捕まるのが勿体ないくらいだ。本当なら、ここから出してやるべきなんだろうが」
アーサーの視線の先の窓には、銀細工の格子に見せかけた鉄の棒が嵌め込まれている。花と宝石とレースでギッシリ埋め尽くされたこの部屋は、女を閉じ込める小さな鳥籠だった。視界の隅で揺れるレースの天蓋の向こうに積まれた、夥しい箱の山は全てアーサーからの贈り物。彼が手に入れた家具も煙草も服も化粧品も宝石も、何から何までアンジェのものだった。
捧げられたもの全てを笑顔で包み込んで、お返しに籠の鳥は飼い主に甘い視線を捧げる。真珠を削り出したような首筋には、薄紅色の小さな痕がいくつも着いていた。
「愛しています。だって、あなたはわたしの全てなんですもの。いっそ鎖に繋いでくれたって構わないって、そのくらい愛しているんです。あなたが望むなら何だって差し上げたいし、命を投げ出したって構わない。だってわたし、貰ってばかりなんですもの」
「いらない。もう充分なんだ。お前さえいれば、俺は何も望まない」
「でもわたし、あなたから奪ってばかりです。あの日路地で救われなければ、わたしは生きてすらいなかったでしょう。わたしを救って、愛して、それからずっと傍に置いてくださるあなたに、わたしも何かお返ししたいのに」
唇を噛んで俯くアンジェを、アーサーは慌てて抱き締める。アーサーは自分の欲望のために彼女を離さずに縛り付けているだけなのに、アンジェはいつだってアーサーに精一杯の愛を捧げようと鳴いている。それがいじらしくて嬉しくて、あまりにも哀れだった。
「俺は、お前と出会えた時からずっと、こんなにも救われているのに」
ほっそりとした百合のような肩がピクリと揺れたる。
アンジェとの出会いは半年前、イーストエンドの汚物塗れの路地に座り込んでいた彼女を馬車から見掛けた瞬間だった。
煤塗れの煉瓦、どす黒い水溜まり、それから薄汚れた霧。醜い道を通り過ぎる瞬間、暗い街の隅であえぐようにひっそりと息をしていた彼女を見つけたのだ。
ほんの一瞬、それだけで全てを奪われた。
つくづく星屑みたいな女なのだ。たった一目で欲しくて、欲しくて、身が張り裂けそうになった。ボロボロの身なりで、陽がとっぷり落ちた後の冷たい道の上で途方に暮れていた彼女の手を引いてやると、カラッポの虹彩にエメラルドの欠片が宿った。
アーサーに拾われた当初、彼女は酷く怯えた。聞けば不幸な物語を背負う女だったのだ。
親は食うに困って彼女を置き去りに逃げてしまい、アンジェは十歳で天涯孤独の身になったという。薄暗い街でひとりぼっちになった乙女はとある子爵家のタウンハウスにて、スカラリーメイドの見習いとして必死に働いたという。そのせいか、華奢で美しい腕からのびる指先だけは節くれだってゴツゴツとして、あかぎれのあとも目立っている。しかし彼女はそれでも健気に働き続け、その美しさはあろうことか子爵家の三男坊を射止めてしまった。アンジェという天使に魅せられた男はなりふり構わず乙女を手に入れようと画策していたそうだ。しかし貴族と下働きの恋など認められず、アンジェは女主人の折檻に晒された。しかし男はアンジェを諦めなかった。加速していく折檻、そして増していく男からの執着。全てに恐れをなし、彼女は屋敷から逃げ出した。それからイーストエンドを転々とし、身一つで放浪する生活を送っていたという。
波乱万丈な人生だ。しかしよくある話でもある。アーサーは決して彼女の境遇に同情したわけではない。だた、どれだけ世界が冷たくとも懸命に生きる星屑に惚れ込んだのは確かだった。
華奢でありながら熟れた体は魅惑的で、しかし無数の生傷が残っていた。今は綺麗サッパリとまではいかなくとも、青白かった肌は真珠のように煌めいている。
昏いロンドンの街に一生囚われて生きるアーサーにとって、アンジェはこの世の何よりも眩い星だった。
「お前に出会って、初めて真っ当に生きてみたいと思った。こんな汚れた金で拵えた屋敷に閉じ込めるのではなく、太陽の下で笑うお前が見たかった。だがあまりにも血を浴び過ぎて、引き返すことなんて出来そうもない。どうせ、行き着く先は地獄だ」
「ならば、わたしも参ります」
アーサーは目をパチパチ瞬かせる。抱き締めた腕の中で、星屑の女が凛然と微笑んでいた。
「あなたが地獄に墜ちるのなら、わたしも共に往きます。あなたのいない天国なんかよりも、あなたがいる地獄がわたしの幸せですから」
「だが、お前は神に愛されている。こんな悪魔のような男の傍よりもずっと相応しい居場所がいくらでも」
「要りません!」
アーサーは思わず目を見張った。半年間ずっと屋鳥の愛を注いできた彼さえも、アンジェの大声なんて一度だって聞いたことはない。アンジェも自らの衝動に顔を赤らめ、それから少しだけ悲しそうな顔でアーサーの碧眼を見つめる。
「ねえ、覚えていますか?あなたが初めてくださった贈り物。確か、拾われてから七日目の夜でした」
「白瑪瑙のカメオだろう。勿論覚えているが、あれは……」
アーサーの碧眼が寄る辺を失くしたようにさ迷った。一人の女に愛をぶつけたことなど一度もなかったせいで、彼女の好みも流行も考えずに渡してしまった贈り物。真っ白な瑪瑙と彫り込まれた揚羽蝶がアンジェの真珠のような肌と黒い髪に映えると思った、ただそれだけの理由で選んだものだった。しかし彼女は醜い欲望の塊のようなそれを今も大事にしているようで、アーサーを鳥籠で出迎える時も時折胸元に付けている。
アンジェは情けなく視線を逸らすアーサーの胸に頬を擦り付け、冷たく閉ざされた心の奥底に寄り添うように語りかける。
「少し流行遅れで、でもまるで雪みたいに綺麗な白瑪瑙で、蝶の意匠がとても繊細なんです。あなたは数え切れないほどの宝物をくださったけれど、あれに勝るものはありません。わたし、あのころからずっとあなたをお慕いしているんです」
降り注ぐ声はまるで慈雨のようだった。
星屑のエメラルドがキラキラ瞬いて、熱のこもった視線が己一人に注がれる。それだけでもう、この世の何を犠牲にしたっていいと思えた。
「アンジェ」
「はい、アーサーさま」
「愛している。狂おしいほどに」
自分だけの星を腕に抱き、男は陶酔しきった唇を震わせる。
「どうかずっと傍にいてくれ。地獄まで、ずっと」
アンジェはそっと微笑んだ。そして逞しい背中に腕を回し、自分の何倍も力強い体を引き寄せる。幸せそうにクシャリと緩んだ眉間に鼻先をくっつけてから、カサついた唇をそっと抱き締めるように口付けた。
一拍後、アーサーの心臓からギラリと光る切っ先が生えた。
愛しい女の顔がユラユラ揺れて、視界がグルグル回って、やがて全てが抜け落ちていく。鉄砲水のように血が噴き出した瞬間にはもう、彼の命は彼方へ放り出されていた。
この世の幸福を詰め込んだような顔のまま息絶えた男を、女は静かにジッと見つめていた。背中に巻き付いた腕がガクリと落ちると、背中に回した右手で握っていたナイフをポイっと放り投げる。そして、桜貝の唇が夢みたいに甘い弧を描いた。
「おやすみなさい、あなた。地獄でまたお会いしましょう」
転がる鈴に毒を混ぜ合わせた、阿片のような声だった。
蕩けるような仔猫の仮面は脱ぎ捨ててしまう。当然だ、彼女はアンジェなんて名前の可憐な悲劇の乙女ではないのだから。
太腿の内側に張り付けた象牙色の薄紙の縁を掴んで、そのままベリベリ剥がしてしまう。白い偽物の皮膚の下から現れたのは、絡まり合った二匹の大蛇の入れ墨だった。
血の気が引いた腕からスルリと抜け出し、飛び立つようにベッドを降りる。山のように積まれた貢物をチラリと一瞥だけして、部屋の隅に転がしてあった粗末な袋を手に取った。
色褪せた赤の飾り気のないドレスに、裾の解れた白いエプロン。靴は何年も使い古しているからボロボロだ。ドレスの襟に縫い付けられた古ぼけた手編みのレースを指先で軽く整え、波打つ黒髪は無造作に結い上げた。それから、粗末なずだ袋の中から不相応な金細工の宝石箱を取り出して、そっと慎重に蓋を開く。
真珠の耳飾りと、ガーネットのブローチ、エメラルドの首飾り、銀と水晶の髪飾り、ダイアモンドの指輪。眩い宝石たちの煌めきが目を焦がす。地味な白瑪瑙のカメオも排されることなく、豪奢な箱の中央に丁重に収められている。彼女は指先でカメオを摘まみ出すと、酷く恭しげな手付きで襟元に着けた。
鏡を覗けば、そこに映り込むのは地味で幸の薄そうな一人の女だ。しかし、エメラルドの奥は隠し切れない蜜と光で満ちていた。
星屑なんて目じゃないくらい燦然と、ギラギラと。
苛烈と蠱惑を詰め込んで、エメラルドは一等星のように煌めいていた。
それから彼女は素早くドアに駆け寄り、ドアノブのちょうど真上を一定の拍子で五回叩く。息を吐く程度の間が空いて、重厚な樫の戸がギイギイ音を立てた。
「もう入ってきていいわよ」
砂糖菓子に媚薬をひと匙投げ込んだような声が夜にさっと溶けていく。木が軋む音の残滓に聞き耳を立てる彼女の眼前に、赤い絨毯の上に頼りなく立ち尽くす少年が現れた。平静を装いながらもピクピク震える喉仏が微かに動き、掠れた声が女の名を紡いだ。
「……アブサン」
「ごきげんよう、エディ」
アーサーとは正反対の黒髪と痩せぎすの体格、骨張った両手にやつれてこけた頬。碧眼だけは鮮やかで、寒々しい空気を切り裂くように光っている。彼の名はエドモンド・オズワルド。アーサーの腹違いの弟だった。
「成功したのか?」
張り詰めた顔のエドモンドに、アブサンは薄く微笑んだ。
「仕留めたわ、ほら見てご覧なさいな。ちゃんと息の根は止まっているわよ」
「疑われもしなかったのか?」
「あなた知らないの?『アブサン』はヘマをしないのよ」
『アンジェ』の仮面を脱ぎ捨てて肩を竦めるアブサンを後目に、青年は足早にベッドに向かう。そして濁り切った碧眼を間近に見定め、呆気に取られて固まった。
「……本当に、殺したのか」
「そう言っているじゃない」
「信じられない。怪しまれもしなかったのか?」
「恋は盲目よ、御存じないの?」
「だが兄は用心深かった。いくら惚れ込んでいたとしても虚言は気付くだろうし、傍に置くなら身元だって徹底的に洗っているはずだろう。まさか本当の経歴を話したのか?」
「そんなわけないでしょう。ただ嘘を吐かなかった、それだけよ」
悲劇の物語は完璧だった。しかしそれは天使のような弱者である『アンジェ』の生い立ちとしてであり、『アブサン』の生きる道とは似ても似つかない。
動揺を露わにするエドモンドをクスリと嗤い、アブサンは胸元のカメオを指先で突いた。
「アーサーに語った身の上話はね、ドラマティックだけど別に珍しいものでもないの。イーストエンドを探せばいくらでも転がっているようなありふれた話よ。それにね、あなたちょっと私をご覧なさいよ」
言われた通りエドモンドはアブサンの頭の上からつま先までじっくりと舐め回すように観察した。しかし、まだ回転が鈍い頭は彼女の真意を汲み取れない。固まったまま考え込むエドモンドに、アブサンはもう一つヒントを出してやった。
「黒髪に翠眼の若い女。まあ多少目を引くでしょうけど、これだってそこまで希少なわけでもない。探せばいくらでも見つかる容姿よ。もうお分かりかしら?」
「まさか、あなたは……」
エドモンドはがばりと顔を上げる。碧眼が信じられない怪物でも見つけたように見開かれた。
「実在する『アンジェ』に成り代わったのか?」
アブサンはパチパチと手を叩いてニヤリと笑う。強かな女の艶然たる微笑みだった。
「正確には買い取ったのよ。黒髪に翠の目を持つ、若くて美しい子爵家の元スカラリーメイドの人生を、私がいいって言うまではロンドンに近寄らない約束付きでね。あの人の前にはもう『私』がいるのに、ばったり会ったりして整合性が取れなくなったら困るもの」
「そんなことが可能なのか?」
「現にあの子とはすぐに交渉が成立したわ。その代わり買い取り金は弾んだし、滞在先は好きな地方を選ばせてあげたの。今頃はハイランドで素敵なロマンスでも楽しんでいるんじゃないかしら」
不幸な他人の人生を買い取り、彼らにとっては莫大な額の金銭と引き換えに成り代わる。アーサーのように用心深い相手を殺す時に時折使う手だった。
アーサーに取り入るためにアブサンが見定めた『アンジェ』の人生は、夜の魔女を天使に仕立て上げるのによく役立った。当のアンジェが華やかな生活を望まずに、交換条件として遥か北方のハイランドで静かに生を謳歌することを望むような少女だったこともアブサンにとって実に都合がよかった。アブサンと同じように黒髪に翠眼を持つ可憐なアンジェは、今頃雄大なハイランドの自然に囲まれて人生の苦難を洗い清めるような美しい恋を見つけているだろう。それが出来る程度の路銀は買い取り金とは別に出している。本物のアンジェは薄幸だが心優しく純粋で無垢な少女だ。秘密裏に送られてくる手紙の内容からして、きっとこのままロンドンには戻らずにハイランドで幸福に一生を過ごすだろう。
しかしエドモンドは未だに疑念のこもった眼差しをアブサンに向けていた。
「何故そんなことを?殺してしまった方が早いだろう」
「あら、それなりに非情なことを言うのね」
じっとりと吸い付く視線を軽やかにいなし、アブサンはクスリと笑い飛ばした。
「将来依頼をくれるかもしれない人たちを殺す道理なんかないわ。それに私、無関係の子を巻き込むのは好きじゃないの」
随分と甘いことを言う。エドモンドの思考は本能的にアブサンを見下すように動いた。しかし目の前で冷たくなった恐ろしい兄を見るたびに芽生えかけた自尊心がしぼんでいくのを感じた。結局エドモンドはすんでのところで言葉を呑み込むと、陰気な顔に理性を貼り付けながらそっと目を逸らす。エメラルドの瞳はあまりにも甘美で、全てを見透かされるような漠然とした恐怖があった。
「あなたの機知はよく分かった。だがやはり腑に落ちない。この外道が、他人に心を許して殺されるなんて」
アーサー・オズワルド。ご禁制の麻薬や毒物の売買の他、ロンドンの下町で美しい娘を攫っては貴族に売り飛ばして富を築いた男だ。酷く狡猾かつ冷酷で、築き上げた屍は数知れず。一歩足を踏みしめる度に蹴散らされた骨の音が鳴るような、血も涙もない男だった。
「確かに皮肉よね。私だってあの人が踏み躙ってきたのと同じ女なのに」
「あなたのこともいずれ売るつもりだったのか?」
「あら、あなた不勉強じゃない?女は無垢なのが一番高く売れるのよ」
「そんなことは知っている!ただ、あの兄さんが商売道具に入れ込むなんてどうしても思えないんだ」
「ふうん、言ってくれるじゃない」
アブサンは口の端を吊り上げる。チラリと覗いた赤い舌が、青年の目にはとぐろを巻いた蛇のように映っていた。
「一目惚れされたのはラッキーな誤算だったけれど、あとは私の手腕よ。懐に潜り込むだけじゃ足りないわ。相手が何に飢えているかを探るのが大切なの」
氷のような美貌の圧政者を、たったの半年で陥落させてみせた一等星。人を狂わせる魔性の酒によく似た瞳をスウッと細め、美女はニッカリ笑った。
「彼の場合は愛に飢えていたわ。自分を恐れず裏切らず、名声も富も求めずに純粋に慕って縋り付いてくれる仔猫が欲しかったのよ。残念ね、本当の意味で無垢な恋人でもいれば大切にしたでしょうに」
哀れな人だった。誰も信じず愛さない。故に愛されないのに、求めてしまったのが運の尽きだったのだ。
エドモンドは僅かに俯いた。怪物のような兄を最後まで家族だと思うことは出来ず、アブサンに暗殺を依頼したのは自分だ。己の決断に後悔はなくとも、心臓の虚ろはもう埋められない。
ヒュウヒュウ冷え込む本心を抑え込み、エドモンドはアブサンに丁寧に頭を下げた。
「よくやってくれた。礼を言う」
「要らない、それより早く彼の処理をしてよ。くれぐれも丁寧にね、壊れたり腐ったりしたら気の毒じゃない」
青年は目を瞬かせる。毒蛇と呼ばれる殺し屋アブサンが、まさか容赦なく殺した相手に情けを掛けるような女とは思わなかったのだ。
「驚いた、兄はただの標的だろう」
「ええ、そうよ。でも彼、凄く大切にしてくれたの。だから成功報酬も要らない。前金だけで結構よ」
「いいのか?人生の買い取り代といい、随分と金をかけたんだろう」
「その代わり、このカメオは私にちょうだい。戦利品に貰っていくわ」
エドモンドはパチパチと目を瞬かせる。アブサンが細い指先で弄んでいるカメオは確かに美しいが、彼女が贈られた宝石の中では明らかに見劣りするものだった。アブサンは笑ってカメオを掲げると、エメラルドを蕩けさせてカメオを見つめる。
「気が向いて報酬を断る時はね、代わりに最初に贈られた宝石を貰っていくことにしてるの。不器用よね、惚れた女に貢ぐのが時代遅れのカメオなんて」
恋する乙女のような目で蝶の彫刻を撫でるアブサンに、青年はほろ苦い苦笑を漏らした。
「毒蛇アブサンは金の亡者で、殺した相手の顔は忘れる主義と聞いたが。嘘だったのか」
「あら、真実よ。大体は金だって毟り取れるだけ毟り取るし、覚えてなんかやらないわ。でもね、私を心底大切に扱った男は忘れないことにしてるの」
カラリとした勝気な笑顔に、青年の喉がゴクリと鳴った。
アブサン、それは蒸留酒の一種だ。ニガヨモギの苦みとアニスの芳香、それからほんのりとした甘みが特徴的な、美しい翠の強い薬草酒。飲めば飲むほどに幻覚作用を生じ、狂った末に死んでしまう。悪魔の酒と同じ名を持つ殺し屋は、しかし溺れるほどに眩い星だった。
「参ったな。俺もあなたに殺されたくなってしまう」
エドモンドはポツリと呟いた。
氷のような異母兄が憎くて仕方なかった。自分から母と親友を奪った兄を殺してやりたかった。憎い兄を殺して、富も名声も権力も全て奪ってやりたかった。暗殺が成し遂げられた今、彼の願いは全て叶ったはずだ。
それなのに、兄と同じ碧眼は美しいエメラルドに吸い込まれてしまう。その先には破滅しかないと知っていても、早鐘を打つ鼓動は止まらない。
「俺が全てを投げ打ってあなたを愛して、その果てに殺されたとして。俺の愛があなたに認められれば、あなたは俺を忘れないでいてくれるんだろう」
「ええ、そうね」
アブサンの瞳が強く瞬く。よくできた人形に清純と妖艶を一滴ずつ垂らしたような美貌がふっと揺れて、形のいい唇が糸に引かれるように弧を描く。
さながら夜の魔女だ。闇に紛れて男を貪る、恐ろしい女悪魔リリスの微笑。しかし、エドモンドの碧眼には芳しい花が咲き乱れているように映る。
燃え盛る心臓が酷く軋んだ。
分かっている。こんなに愚かしいことはない。
それでも、何を犠牲にしてでも一等星のエメラルドを独占したい。宝物のように彼女を愛せば、殺された後で彼女の宝物になれるのだ。それはあまりにも甘美で、抗いがたい誘惑で。
愚かな熱と衝動に浮かされるほど、アブサンという女は魔性だった。
焦がれるように蕩ける碧眼に、アブサンはそっとキスをした。目元を通り過ぎた熱にエドモンドが目を見開くと、彼女は悪戯が成功した少女のようにカラカラ笑った。
「私に殺されたいのなら、依頼が来るくらい憎まれなくっちゃ。せいぜい出世しなさいな」
アブサンは鮮やかに笑う。エドモンドの心臓がカッと燃え滾り、腹の底から溶岩のような熱情が沸々と湧き上がるのが見て取れるようだった。彼は黒檀の髪を掻きむしりながら、陶酔染みた笑みを浮かべてアブサンをじっと見つめている。俯きがちな碧眼がぐわりと焦げ付き、赤い絨毯が滴る血のように彼の熱を代わりに受け止めていた。
「あなたは、何故こんなことをしているんだ」
アブサンはパチリと目を見開いた。
エメラルドにすうっと影が落ちる。血の気が引くほど白い喉が僅かに震えて、静謐な声が流水のように飛び出した。
「私が私であるためよ」
身の毛もよだつほど美しく瞳を煌かせ、アブサンは堂々と微笑んだ。
ぞくり、ぞくり。全身の毛が逆立つ感覚をひしひしと感じる。エドモンドの背を冷たい汗が滴り落ちた。
「あなたはそれでいいのか?」
エドモンドの声は僅かに震えている。彼は自ら口に出しながら、問いかけの陳腐さに呆れ返っていた。しかしアブサンは撤回する暇も与えずにきっぱりと言い放つ。
「いいも悪いもないわ。私はただ、手を汚してでも前を向いていたいだけ」
アブサンはただ笑っている。自らを磨き上げ変幻自在に愛を演じる女は、どんな宝石よりも強い光を纏ってしゃんと立っていた。
己の心臓が半ば絶望染みた熱情に支配されていくのを、エドモンドは静かに感じ取っていた。
まるで手のひらで転がされる小さな虫にでもなった気分だ。思考さえも混乱してまともに動かせなくなるほど、心は目の前の女に囚われてしまった。実の兄を篭絡して殺した女があまりにも眩しく、大英帝国の闇の真ん中で強く煌めいているせいで、エドモンドの人生はキリキリと音を立てて壊れかけている。
夜の魔女リリスに魅せられ、蕩けた分の心はもう戻ってこないだろう。しかし、彼の前には途方もない道が開けているのだ。富も名声も重圧も脅威も憎悪も孤独も、兄から奪い取った運命は今、全てが彼の手のひらに収まっているのだから。
哀れな青年はグッと顔を上げた。いっそ泣き出してしまいそうな感情をグシャリと握り潰して、真正面から彼女に向き合う。それから、取り繕うように下手くそに微笑んでみせた。
「さよなら、アブサン。出来ればもう二度と会いたくない。これ以上一緒にいたらおかしくなってしまう」
「あなたも可愛らしいこと。じゃあね、体に気を付けて」
ヒラヒラ舞うように手を振ると、アブサンは宝石箱が入ったずだ袋だけをぶら下げてクルリと踵を返す。屍と共にポツンと一人取り残されたちっぽけな背中を、傾きかけの三日月だけがジッと見つめていた。
汚物と破落戸、時折ボロ雑巾のようになった人間。醜いもので溢れたイーストエンドを足早に進んでいく。暗い空と汚らしい霧が合わさっているせいでどろりと濁る闇の底、黄金の帝国の吹き溜まりこそが彼女の故郷であり、一生を費やすと決めた血塗られた舞台だった。
「おいそこのアンタ、なあアンタだよアンタ」
しゃがれた声には見向きもせずに、スタスタと通り過ぎようと道を急ぐ。しかし追いかけるように鳴り出した靴音に、彼女は仕方なく言葉を返した。
「……何かしら」
「一晩幾らだ?」
「生憎売っていないの。死んで出直しなさいな」
しゃがれ声の主を一瞥もせず、アブサンはさっさと通り抜けようとした。しかしグイと腕を引かれ、彼女は途端によろめいた。
「生意気なクソアマが!」
男の骨張った手が柔肌をぎゅうぎゅうと締め付ける。アブサンはぐらりと傾いて迫りくる地面に舌打ちを落とすと、ずだ袋の中に手を突っ込んだ。
ドンッ!
鉄が空気を切り裂く音と同時に血飛沫が吹き上がり、男の胸に風穴が空く。鼻を衝く硝煙の匂いが霧に紛れる刹那、アブサンは初めて正面から男の顔を見た。
ドサリと音を立てて地に転がされたザンバラ髪、煤だらけの服と泥だらけの靴。欲望と女への侮蔑でギラギラかっぴらかれたままの目を冷たく一瞥すると、アブサンはもう一度舌打ちを落とす。
「舐めないでちょうだい」
そう吐き捨てると、アブサンはそっと土の上に膝を着いた。それから男が息絶えたのを確かめ、男のボロボロの上着に手を突っ込んでまさぐり始める。べたべたと手のひらにこびり付く鮮血に眉を顰めながら、彼女はポツリと呟いた。
「分かってはいたけどロクなものがない……仕方ない、これで我慢してあげるわ」
ポタリ、ポタリ。赤い雫を垂らしながら、細い指は男の懐から煙草を一箱摘まみ上げる。ありふれた粗悪品をまじまじと舐め回すように眺めてから、アブサンは硝煙の煙を吐き出し続けるリヴォルバーと一緒にずだ袋に放り込んだ。ついでに転がっていた薬莢も忘れずに回収し、さっと立ち上がった。
「戦利品にもらっていくわね」
エドモンドは一つ思い違いをしていた。
アブサンにとって、『戦利品』は決して愛おしいものではない。それは一重に、殺した相手を忘れないためだけのものだ。だからアーサーのカメオも、この粗悪品の煙草も彼女の中での価値は大して変わらない。最もこの類いの戦利品は多すぎて、宝石箱になんて入りやしない。乱雑に袋に突っ込んだまま、煙草の箱はカラカラと音を立てていた。
血みどろのガラクタに背を向けて、アブサンは足早にその場を立ち去る。夜明けには死体が見つかるだろうが、彼女には関係のないことだった。
「弱者を踏み躙った手で愛を囁く人間と、弱者を侮って力でねじ伏せたがる人間。どちらにせよ、この世で最も嫌いな生き物だわ」
吐き捨てた言葉は霧に溶けて消えていく。それはアブサンの腹の底に隠された真実だった。
弱者はお構いなしに踏み荒らされる世界だ。
男爵家の下働きだったアブサンの母は主人の次男に手籠めにされて、娘二人を産んだまま捨てられた。その後イーストエンドに流れ着き、娘二人を食わせるために働き続けて死んだ。残された妹を養うためにアブサンは働きに出たが、その妹は見ず知らずの男に犯されて舌を噛んだ。花売りだったアブサンが仕事を終えて帰ると、妹は冷たくなっていた。
ボロボロに擦り切れて衰弱していった母の顔も、服を剥がれて体を切り裂かれて死んでいた妹の苦悶の表情も、アブサンの両の瞳に焼き付いて離れない。
全てを失った日からずっと、アブサンの心臓は烈しく燃えている。
女は弱者だ。平民は弱者だ。だからアブサンは抗った。母から贈られた名前も捨てて、身に毒蛇を飼う美しいリリスに生まれ変わったのだ。
女を食い物にして築き上げた罪で『アンジェ』を愛したアーサーも、アブサンを犯すためのモノとしか見なかったあの男も、アブサンの目には等しく醜く映る。
アブサンの殺しはあくまでも生きるため。彼女が彼女であるための手段。しかし、戦利品が増えていくたびに彼女の心は酷く踊る。己に魅せられた愚か者を殺す瞬間なんて言うまでもない。
それはきっと一つの復讐だ。己から母と妹を奪った世界を、アブサンは生涯憎み続ける。
金と権力を振りかざして囲い込む資産家は母の仇で、路傍の花を力づくで手折ろうとする貧乏人は妹の仇だ。故にアブサンは殺しても彼らの顔を忘れない。
おぞましくて残酷で、情なんてこれっぽっちもない冷たい意思。
復讐と矜持、それだけがアブサンの心臓を支配している。
数多の命を無機質に奪って、奪い尽くした心の中から最も悍ましいものだけを拾い集めて後生大事に抱え込む奇特な女。骨の髄まで支配された男は望み通り彼女のものになる。運命への復讐を誓った女が、ほら見ろ私は勝者だと天に吠えてみせるためだけの虚ろな『宝物』として。
ただ有象無象として殺されるか、彼女の復讐心を射止めて無機質な収集品の一つになるか。いずれにせよ、彼らがアブサンという女を真の意味で手にすることは決してない。
どれだけアブサンに心を奪われ全てを捧げ、死んだあとで彼女のものになったとしても。この美しい悪魔の心だけは永遠に手に入らないだろう。蕩けるような女を演じて跪いてみせることはあっても、燦然と輝くエメラルドの魂は誰にも屈さない。
男にも強者にも、運命にさえまつろわない孤高のリリス。常識が、聖書が、世界がどれだけ否定しようと決して折れやしないのだ。彼女は何処までも美しい悪魔なのだから。
古びた靴がカツカツと石畳を打つ。乾ききって小さく木霊する音は鎌を引き摺りながら歩く死神のようであり、踏み付けられまいと牙を剥く小さな蛇にもよく似ている。
「地獄の底まで覚えていてあげる。毒蛇を侮って殺された、哀れで可愛らしいあなたたち」
ニッカリ笑う三日月の下、彼女はうっそり笑って呟く。路傍の家の煤けた窓硝子に反射した光が、一等星の女をくっきりと縁取っていた。
リリスの尊厳 綺月 遥 @Harukatukiyo24
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